遇う【参】
たいへん遅くなりました。
冷たい水の中に入れていた手を出して藍琳は息を吹きかけてみた。氷が張る程の水に浸けながら長い刻、山のように積み上げられた衣を洗っていたので既に両手全体が赤く染まってじんじんと痺れてしまっている。ほんの少しだけ感覚を取り戻した手でまだ洗っていない衣を取りまた氷の水の中に沈めていく。与えられている務めはこれだけではないのだから手早く済ませなければ受けたくもない罰が待っている。
食事を抜かれることも革で出来た鞭で打たれることも日差しも届かない暗い部屋に物のように置かれて眠ることも耐えることはできても慣れることはない。
与えられた務めを全てやり遂げて決して人の目に映ることなく息を潜めて過ごす。それは藍琳が七つで売られた日から決められた覆すことのできない現実だ。
藍琳の生まれた家は裕福とはいえないがそれなりに暖かい家庭だったと思う。生まれたその日によくないものと札を貼られた藍琳にも父母は優しかった。それでも少しずつ見えないモノが見えるようになった頃から祖母が藍琳をいらないモノとして扱い始めると父はそれに従い始めるようになってしまった。歳の離れた姉に身分違いな縁談が決まると二人は藍琳がいては破談になるのではないかと恐れ、そうなるくらいなら藍琳を売り払い縁談の持参金にしようと言い出した。反対した母や姉、まだ幼く抗うことも出来ない弟が殴られ蹴られ罵声を浴びさせられているのを見るのは藍琳の心を深く抉った。
自分がいることで家族という形が崩れ離散するというのであるならば、それは本当に家にとってよくないモノなのだろう。藍琳が居場所をこの家に求め続ける限り大好きな母や姉、弟は泣いて過ごすことになるのだということは幼い心でも痛いほどに分かり過ぎることだった。祖母と父のことなどどうでも良かったけれど自分を大切に思ってくれている母達がこれ以上苦しめられることは嫌だったから七つの藍琳は自ら売られることを望んだ。売られた後にどんな暮らしが待っているのかは何となく思い描けたけれど、自分が幾らで売られたのか、果たしてその金銀が姉の持参金に成り得たのかさえ分かりはしなかった。だが藍琳というモノが家からいなくなったことで家族の仲は良い方に廻ったかもしれないのだと、別れの時に泣いてくれた母と姉弟が笑えるようになったのだと信じれば、どんな苦役も耐えることができた。
売られてきたその日から人でなく家畜のように扱われただひたすらに刻が過ぎるのを息を潜まて待っている。
自らの生命が尽きるその日まで。
できることならばその日が一日でも早く来てくれるようにと祈りながら、ただひたすらに耐えることしか藍琳に許されていないから。
己が望んだこととはいえ売られたあの日から二十歳は過ぎただろう。当たり前の食事も与えられず日々酷使される身体は同じ齢の者たちに比べればあまりに貧相で、凍てつくような水にさらされた両手は女子のものとは思えないほどに皮が厚くひび割れ血が滲んでしまっている。
あの方はこの手を触ってどう思っただろう。
衣を洗う手を止めて荒れ果てたそれを見やりながら藍琳はほんの一時満ち足りた思いを過ごした夜を思い出さずにはいられなかった。
あれは藍琳にとって初めての感覚だった。
いや、藍琳だけではないだろう。
地に足を置いて日々を営む者達では凡そ考えもつかない景色がそこにはあった。いつもならば自分が日々を営んでいる場が遥か眼下に見えて、流れていく景色を取り囲むように妖である忋抖の鬼火が揺らめき天高く届かぬものであるはずの月さえも手を伸ばせば届きそうなほどだった。
「どうかしたの?藍琳?」
手を伸ばした先で静かな声がして藍琳は視線を動かした。目に見える所には人の世では見えることのできない程の麗人が、我が身を抱いてくれていた。
「いいえ……、余りにも、美しい世であることに驚いていました……」
「何だそれ」
小さく笑った忋抖は落ち付いた面持で見れば見る程に麗しい者だ。周りに揺らめく白銀の鬼火と同じ色の髪は翔けていくたび風に揺れて月の光を照らし返しているのに、その光の中でさえ忋抖の姿は一際輝いていた。妖だと言われずとも紛うことなき人為らざるモノなのが分かる程、その姿は何よりも浮きだって見る事ができる。こんな妖になど、藍琳は見ええたことなど無かったから空を翔けれると知って咄嗟に共に翔けたいと願ったけれど願いのとおりに空を翔けてくれている忋抖の顔を見ながら心の奥底でそれで良かったのだと何処か安堵もした。余りに柔かく自分の身体を抱いてくれている温かさを感じるからかもしれないが、何故かこの妖は優しいものでなのではないかとも感じてしまうのだ。黒い靄の人為らざるものからは下卑た気配しか受け取ることはできなかった。だからこそ恐れ嫌悪し視界から消えてくれるように願い早く帰るように布袋を見せていたのだが、忋抖からはそんな気配は微塵も感じとれない。見えたときは人ではないことと強過ぎる存在感に畏怖してしまったけれど、それよりも話したいと言ってくれた柔らかな姿と傷付けないという制約に驚いてしまった。何より人であれ妖であれ藍琳を真っ直ぐにみてくれる者など売られてこのかた無かったことだった。これまで藍琳を目にいれたものは品定めするような視線や、邸にいる男たちの下卑た視線、女子たちの見下すような視線を向けていた。けれど忋抖が藍琳を見る視線はそのどれとも違う。灰色の眼は驚きの陰りが見えてはいたがその眼差ざしはただしっかりと藍琳という者を捉えて離さなかった。
この方は今まで自分の周りにいたどんなものとも違うと感じざるを得なかった。
そしてそれは間違いではないようだった。
自由に世を見たいと願った藍琳に応えるように忋抖は足を置ける場だけでなく、海の上や空高くまで連れていってくれた。それこそ月が手に届くのではないかと思う程に。時折身を乗り出しすぎて引き止められることもしばしばだったが、引き止めてくれるその腕は優しく温かかった。短いとも長いともいえる刻の遊泳を終えて再び地に降ろされた藍琳は、まだ続いて欲しいとさえ感じてしまった。
「……もう終わりなのですか?」
つい口にしてしまった本音に藍琳を腕の中から降ろしたばかりの忋抖は優しく微笑んだ。
「いつでも、連れていってあげるよ。でも今日はここまで。藍琳だって家に帰らないと家族が心配するだろう?」
柔らかに頭を撫でられて藍琳は口を噤んだ。帰ったところで藍琳を待っている者など居る筈もないのだが、それを口にだしていまえば目の前の優しい妖を困らせてしまうことになる。
「では御礼を。お疲れになられたでしょう?」
能力を使えばヒトの子から精気をもらわねばならないと忋抖は言っていた。当然、空を翔けることを願った藍琳はそうされるものだと思っていた。それがどういうものなのかは分からなかったけれど大した価値もない自分の生命を差し出す程度のことだろう。
「疲れることなんてしてないから礼なんていいよ」
覚悟を決めた藍琳とは裏腹に忋抖はより優しく頭を撫でてくれた。
「藍琳が楽しかったならそれでいい」
「それでは約束が守れておりません」
柔らかく微笑む忋抖に藍琳は戸惑ってしまう。これまでこんなに優しく声を掛けられたことも触れられたこともなかったから当たり前かもしれないが、そんなことは知りもしない忋抖は笑うばかりだ。
「妖様」
願うように藍琳が声を出すと、じゃあこれ、と忋抖が布袋を手に取った。
「これを貰ってもいい?代わりに俺の衣をあげるから。その衣をこれから先は御守り代わりにしてよ」
「いえ、それでは私ばかり頂いてしまうことになってしまいます。それにこのような高価な衣を頂くことなどできません」
首を振りながら藍琳は身体に掛けられている衣に触れた。肌触りのさらりとした衣は宵闇でその形はよく見えなくても絹で織られたものだと分かる。藍琳のような身分の者が纏っていては何処から盗んだか疑われるだろうし、気を抜けば奪われて売り払われてしまう。忋抖にとれば藍琳の身分など知り得ない事だし純粋に身を護る物として与えてくれようとしてくれているのは分かるのだが、手元に置いておくことさえも約束できない藍琳には素直に受けとる事ができないほどの厚意なのだ。
「まあそう言わずにさ。気にするほどの物でもないし」
「いいえ!私などが持っていてはならない物です」
笑いながらも穏やかに布袋の紐を千切られて藍琳も慌てて衣を脱ごうとしたのだが、忋抖は優しくそれを留めた。
「駄目だよ?身体がこれ以上冷えたら病に罹るかもしれないだろ?それにこれはもう燃やしちゃうしね」
手に持っていた布袋を忋抖が放るとたちまち白銀の鬼火がそれを包んだ。瞬きの間に塵となって消えた布袋を見ながら忋抖は微笑むばかりだ。
「藍琳が大切にしてた物を俺が燃やしちゃったんだから責は取らないとだろ?だからその衣は藍琳のものだ。持っておくのも捨てるのも藍琳の好きにすればいい」
「それでは妖様に何の利もないではありませんか。私にはお返しできるものなどないのです。ですからせめてものお礼として私から精気というものをお獲りくださいませ。元はそうなさるおつもりだったのでしょう?」
「……まあそのつもりで来てはいたけどね。別に獲れないならそれで構わなかったし。そんなに気にしなくていいよ」
「それならば私から」
身を近付けた藍琳にも忋抖は苦笑するばかりだ。
「お願いでございます。妖様」
懇願する藍琳とますます苦笑する忋抖を収めたのは、ふいに闇から聞こえた低い声だった。
『若君、何某か申されねばその女子殿は退くことを善とはされぬでしょう。折れて差し上げなさいませ』
何処か可笑しそうな声は諭すように忋抖の背後から聞こえた。姿の見えない声に藍琳は驚いてしまったけれど忋抖は肩を竦めている。
「哀玥までそう言うなら仕方ないか。でも精気は獲らないよ?」
哀玥と呼ばれたものの闇の中からはくすくすと小さく笑う音しかしない。笑い声に後押しされるように忋抖はもう一度藍琳の頭を撫でてくれた。
「今夜はね。どうしてもって時には獲らせてもらう。だから礼ならまた俺と遇ってくれないか?」
にっこりと微笑まれても藍琳にはその程度のことが礼になるとは思えなかった。
「それではお礼にならないのでは?」
「いいや?どうしてもの時は貰うって言ってるだろ?俺がまた藍琳に遇って話をしたいって思ってるんだからそれを受け入れてくれるなら十分すぎるくらいの礼になるよ。どう?」
艶やかな顔で優しく問われて藍琳も言葉に詰まってしまう。
本当にこの妖は優しいものなのだ。
ほんの一刻を共に過ごしただけだというのに名しか互いに知ることなどないというのに、これほどまでの温かさを与えてくれたのだから。
「妖様がそう御望みであるのならば承知いたしました」
絞りだした応えに大きく頷いてもう一度藍琳の頭を撫でた忋抖は、そのまま空に翔けだして瞬く間に見えなくなってしまった。翔け始める忋抖の横にほんの少しだけ白い尾のようなものが見えた気がしたけれど地に残された藍琳にそれを確かめる術はなかった。
大きな溜息をつきながら干し終えた衣が風にたなびくのを見やりながら炊事場に向かう。逢いたいと心の何処かで思っていてもそれを為せるだけの刻は藍琳には許されていない。他者に見咎められないほんの一刻、野に湧きだす湯を使いにいくことしか自由な刻はないのだ。それも、決められた刻ではなく館の主たちが寝静まった頃を見計らって気付かれぬ内に済ますしかない。限られた刻の中で忋抖に逢えるはずもなく、湯を使いに行く度にあれは夢ではなかったのだろうかと思ってしまう。けれど部屋とも呼べない寝るだけの場の硬い床板の下に隠した衣を見る度に、それが夢では無かったのだと思い知らされるのだ。
ずっと自分を護るものだと信じて疑わなかった布袋が消えてしまっても藍琳の周りに黒い靄か現れることがないのは、あの日忋抖が与えてくれた衣のお陰なのだろう。纏っていなくともその存在のほんの少しの翳りだけで身を護れるなどどれほどの能力なのだろう。それでもそれが恐ろしいものだと感じないのはあの日貰った温かさからであることは藍琳にも分かっている。
……逢いたい……。
けれどそう上手くはいかない。
また遭ってくれと言ってもらえたけれどいつ何処で、と約束した訳でもないのだから。
ささくれてまた血が滲み始めた手で包丁を握りながら藍琳はいつとも分からないその日が来ることを願いながらも諦めの溜息を吐くことしか出来ずに務めを片付け続けて、ようやく寝るだけの部屋に戻ったのは邸の住人がいつものように酒に溺れた頃合いだった。
人の目に入るなと言い付けられているから邸で暮らす者たちが動く刻には誰が何処にいて何をしているのか考えて移動しなければならないし、宵の食事の刻には酔って無謀な命も与えられるのがしばしばだ。今宵もそうだった。この時期に手に入らないモノを突如調理しろと言われても材料さえない。それでも申し付けられたなら藍琳に否と言うことなどできはしない。あるかもわからないモノを探しに冷える野に出てようやく見つけ出したモノを望まれる通りに調理してだしながら次々に命じられる用をこなし続けた。倒れるように薄い布団に横たえていた身体を起こして、今まで身体を預けていた布団を床からゆっくりと剥がす。歩けば軋む床板の浮いた一部を剥がすと藍琳が持っている中で一番上等な衣で丁寧に包んで隠したモノをそっと取り出して膝に置いた。ゆっくりと包みを開けると灯もない中であってもぼんやりと仄かに輝く衣が現れる。壊れものでも扱うかのようにそれを手にとるとゆっくりと顔を沈めてみると仄かに安らぐ香がする。
住処に香でも炊いてるのか。
それともあの麗しい妖そのものからの香であるのか。
どちらかは藍琳に知る術などはいが疲れきった身体と心を優しく包み込んで癒すには充分過ぎるものだ。
この二十年というもの誰からも労いの言葉などかけてもらえてもおらず、そこに居るにも関わらず人の目に触れることのないように息を潜めて過ごしてきた。そんな自分には有り余る程の時間と癒しを与えてくれた。あの夜以来遭えていなくともこの香だけで冷えきった心が満たされる思いがする。手にした衣をぎゅうっと推し抱いて今夜は多少無理をしてでもあの湯の沸く場に行ってみようと思う。
行ったとして遭える訳ではないことも充分に分かっている。
いつと約束を交わした訳でもないのだし、もしかしたらあの時はそう言うことで藍琳を納得させたかっただけなのかもしれない。だがそれでも良いと思えてもいる。例えあの妖がどう思っていようとも藍凛は揺らぐことのない思い出も貰っているのだから。
ただ藍琳が遭いたいだけだ。
ほうっと息を大きく吐いて衣から顔を離すと邸の音に耳を傾けてみたが、まだ宴は続いているようで喧騒の声が聞こえてきた。どうやらまだ今宵の騒ぎは収まりそうにない。湯の場所へ行けるのはもう少し後になりそうだった。仕方なく床と変わりのない薄い布団に衣を抱いて身体を横にして目を閉じた時だった。誰も開けることのない筈の扉が勢いよく開け放たれて藍琳は飛び跳ねるように半身を起こす。
暗い部屋に廊下から差しこむ灯に紛れてたっていたのは藍琳がよく知っている男だ。開けた扉にもたれかかった手には酒瓶が握られ、目も虚、余程酒を煽ったのか顔も紅潮している。
「……若様如何なさいましたか。何か御入り用のものでもございますか?」
部屋に踏み入ってくる男に問いかけながら何でもないことのように藍凛は抱いていた衣を布団の中に押し込める。気付かれてしまっては必ず奪れてしまうのがわかっているからだ。だが男は扉を閉めるとふらふらとした足取で布団まで来るなりにやりと笑った。その表情に得も知れぬ感覚が背中を這ったときには遅かった。投げやられた酒瓶が空虚な音を立てて転がるのと藍凛の衣が破かれて肌が露にされたのは同時だったからだ。
息が止まったと感じた瞬間には両手を押しつけられて男ごと床に叩きつけられていた。目の前に赤く染まった男の顔があって初めて藍琳はこれから起こるかもしれないことを知って恐怖に全身が震えだすのを抑えきれない。
「若様、何を…」
ようやく絞りだした言葉も震えてしまっている。
「女が欲しくなってな。呼びだすのも面倒だと思ったんだが丁度いいところにお前がいるじゃないか。喜べ、一晩の慰みにしてやる」
にやりと下卑た笑いを浮かべると青ざめていく藍凛を面白いとでも言うように見やって男は藍琳の身体に舌を這わせはじめている。
ざらりとした感覚にますます震えが激しくなり声を出すことも藍琳にはできない。
「いや…、嫌です…、お許しください…」
それだけ言葉にするのが精一杯だが、男には届かない。押さえつけていた藍琳の腕を片手で拘束すると空いた手で身体を触り始めている。ひゅっと息を呑んだ藍琳が拒絶の叫びをあげた途端、左頬に衝撃と鈍い痛みが走った。
――――――――――――――――
「今夜もこないのかなあ」
静かな宵闇の中で忋抖は足を浸けていた湯を蹴った。最初に遭った夜から後少々忙しくしていたので次に来れたのが半月を過ぎてしまったのは仕方がないにしても、それからは三日と空けずに降りるようにしている。とはいえ、待つのもせいぜい一刻が限度だ。落ち着いているとはいえ里での務めもあるし、何よりあまり長いこと待ち続けると身体に障ると哀玥に叱れてしまう。そんなに容易く倒れるような身体ではない、とは伝えてみるのだか哀玥にはどこ吹く風のようだ。
『小生にとりましては若君の御身が第一と申し上げておりましょう。あまりにも聞き分けのない童のようなことばかり申されるのであれば咥えてでも里に戻りますよ』
隣で大きな体躯を寝そべらせて嘆息混じりに言われては忋抖も苦笑するしかできない。
「わかってるって。一刻でしょ?でもなあ、何だかそれですれ違ってる気もしないでもないんだよねえ」
『またそのようなことを……。若君がこうも幾度と降られておられることを誰も案じておられぬとでもお思いでございますか?』
体躯はそのままにちらりと見やられて、ますます忋抖は苦笑を深めた。確かにこの所刻を意図して作ってはいる。人の子の里に降りれば匂いも僅からながらに身体に付いてしまう。それがこうも幾度ともなればただでさえ匂いに聡い鬼の中にあっては疑念を持たれたとしても仕方のないことだろう。ましてや宮には悧羅や紳、それに妲己までいるのだから懸念に思われている筈だ。それでも誰も何もいわないでいてくれるのは忋抖を慮っていてくれるからだ。
「……せっかく貰ってきたんだから、これだけでも渡したいんだけどねえ」
再び大きな嘆息を吐いて忋抖は袂から白磁の薬杯を取り出した。あの日触れた手は年若い女子の手とはまるで違っていた。皮は暑く擦り切れて幾度もそれが繰り返されて成された手だった。それだけで藍琳があまりよろしくないところで生きているのが感じ取れる程に。宮で身の周りのことを全て担ってくれている磐里や加嬬であってもあれほどまでに荒れて傷ましい手はしていなかった。
「何か手当でもしてんの?」
ほんの興味本位で尋ねたのだが二人は笑いながら応えてくれた。
「長が折をみて塗り薬を下賜して下さるのです。咲耶様が調合して長に、と下さいますのですが私共の長はいつも宮のために務めてくれているのだから、とお使いにもならずに」
話す二人の顔には穏やかな笑みがあった。それだけで二人が悧羅に対してどれほどの思いで仕えてくれているのが分かる。
「母様らしいよねえ。自分で使わずに二人の為をおもって渡すなんてさ。咲耶が知ったら自分で使えって怒りだしそうだけど」
「咲耶のことなら案じることなどないえ?」
さらりとした衣擦れの後で振り向くとくすくすと笑う悧羅が立っていた。忋抖の傍らで寝そべっていた哀玥が悧羅を見て体躯を起こそうとして手で止められている。
「よい、哀玥。して、忋抖。薬が欲しゅうあるのかえ?」
ふわりと忋抖の隣に座った悧羅は笑みを絶やすことなく哀玥を撫でながら問うてきた。空いている手で忋抖の手を取りながら首を傾げている。
「傷は負うておらぬようじゃが……」
しげしげと見つめられて忋抖は笑うしかない。何気なく触れてくれる手や仕草に胸を高鳴らせていることなど、この母は知る由もないのだから仕方ない。いつのまにか上手くなった子としての顔を作って忋抖は悧羅の手を握り返す。
「母様、俺じゃないよ。そもそも俺の手が少し傷んだくらい大したことでもないじゃない」
「せんないことを言うておくれでない。忋抖が傷つかば妾の心など容易く崩れておちるというに」
「幼子じゃないんだから大丈夫だよ」
くすくすと笑いながら応える忋抖に悧羅は、やれやれ、と肩を落として見せた。
「幼子とは思うておらぬがな。何ぞ薬が要るのかえ?」
「ちょっとした知り合いに譲ろうかと思っただけ。大したことじゃないからあればってだけだけど」
「忋抖に案じてもらえるなど少しばかり妬けてしまうではないか。妲己」
握られた手の力がほんの僅かに強められて忋抖は心の臓がひとつ大きく打つのを必死で隠した。この母はいつもこうなのだ。東王父の一件から先、大きな諍いもない里にあって能力を行使することがないからなのかは分からないが700年を超えて尚、その美しさと儚さは衰えることを知らない。しかも無自覚にこうしたことを容易く言ってのけるのだから側に居る者たちのほうが気が気でない。紳など未だに悧羅に邪な考えを持つものが出ないように牽制しているほどなのだ。
まさか父様も俺がそうだとは思ってないんだろうなあ。
今頃隊士達に鍛錬を施しているであろう父にほんの少しばかり申し訳なく思っている忋抖をよそに磐里と加嬬の笑いが届く。
「ほんにそうしておられると旦那様であるのか若君であるのか分からなくなりますね」
手を握り合ったままの悧羅と忋抖を見てのことなのだろうがこれにもまた忋抖は苦笑するしかない。
「心配しなくても俺の1番は母様だよ」
半ば諦めたように言ってみたのだが当の悧羅は、おや嬉しいことを、と笑いながら妲己が咥えてきた小袋を受け取って忋抖の懐に忍ばせた。その妲己も繋がれたままの2人の手を見てゆらゆらと尾を振っている始末だ。
『紳の奴めが烈火の如く妬きましょうて』
「やめてよ!俺もまだ生命が惜しいんだからね!」
くっくっと悪戯に笑う妲己に忋抖は哀願するしかできなかったのだが、帰ってきた紳は女官達からの話に何故か胸を張って笑っていた。
「忋抖は特別だからね」
あれはどういった意味だったのだろう?
考えてもわからないな、と忋抖はもう一度湯を蹴ってから薬杯を袂に仕舞う。
「ごちゃごちゃ考えても仕方ないか」
ぽつりと呟いたのだが隣の哀玥がきょとりとした目で見てくる。その頭をくしゃりと撫でて、よし、と忋抖は立ち上がった。
「哀玥、追える?」
すこしばかり伸びをしながら問うと、やれやれ、とでも言うように哀玥も立ち上がる。いつかは言い出すと思っていたのだろうが、その背から今なのか、とでも聞こえてきそうだ。
『御意、若君の衣の匂いを追うことなど小生にとりますれば赤子と戯れることよりも容易うございますよ。……なれど少しばかり急くといたしましょう。約定の一刻が迫っておりますれば』
「また、そうやって甘やかすんだから。哀玥、忘れてるかもしれないけど俺ももう300近いんだよ?」
『小生にとりますれば若君はいつ如何なるときにおかれましても愛らしゅうておいでにございますので』
言うなり翔け出した哀玥を追って忋抖も翔ける。
歳の頃300に迫る男鬼を捕まえておいて、しかも里では近衛隊副隊長まで務めている忋抖に対して愛らしいなどと言ってくれるのは気恥ずかしくもあるが、それだけ哀玥が自分のことを大切に思ってくれていることも伝わって嬉しくもある。
先の言葉通り何を置いても忋抖の味方であろうとしてくれていることもひしひしと伝わってきて、先を走る哀玥の姿に本当に有難いと感じた。宮でのやりとりにも思うところはあったのだろうが、決して言葉を挟まずに忋抖が必要以上に揺れることがないように側にいてくれた。
ほんとうに嬉しいんだよ、哀玥。
言葉に出すことをせずに前を翔ける哀玥の背中に勢いよく抱きついてみるが、哀玥の翔ける速さは落ちることがない。
『何を戯れておいでですか』
呆れたような声音の中に包みこんでくれる穏やかさも含んだままの背に掴まったまま半ば引きずられるように宵闇を翔けていたのだが、思いの外に目指す場所は近かった。哀玥に抱きついたまま邸の上から、ここ?、と尋ねていると2人の耳にか細くも悲痛な声が届いた。
「哀玥!!」
『御意!!』
声を上げる前には2人とも翔けだしていた。声のした場所は忋抖にはわからなくとも哀玥には藍琳に渡した衣の匂いを追わせている。迷うことなく邸の壁を砕き抜いた哀玥に続いて部屋へ踏み込んだ2人の目に映ったのは、離れていても分かる藍琳の涙と恐怖に震える姿だった。
気がつけば一年近く更新しておりませんでした。
構想はあるのに言葉が出てこず。
またちょこちょこ更新して行きます。
お読みくださってありがとうございました。