遇う【弐】
お待たせいたしました。
湯煙が立に昇る中にあってもその女の肌は透けるように白かった。姿は視界に捕らえているのだからすぐにでも魅惑を解き放って精気を狩る……、これまでがそうであったように。そうしなければならないと分かっているのに忋抖はその女から視線を外すことも身体を動かすこともできずにいた。視線の先では女もまた同じように目を見開いて忋抖を凝視している。互いに呼吸することも忘れていたのか動くことも出来ずにいると、宵闇の中から若君、と小さな低い声がして忋抖は自分を取り戻すことができた。大きく一度息を吐くと強張っていた全身から力が抜けて感覚が甦ってくる。ちらりと自分の手に視線を落として動くことを確かめてから、もう一度目の前の女を見やるとどうやら女の方も息をすることを忘れていたようで大きく吸い込まれた空気が巡るかのようにその身体は小さく震え始めた。先に自分を取り戻すことができた忋抖は女が逃げだすことがないように少しずつ魅惑を出していくが女の震えが止まることがない。鬼神の魅惑に当てられればどのようなモノであれ恍惚の表情を浮かべて膝を折る筈なのに、だ。
悧羅程の惑わしには至らなくとも一本角の魅惑であればただビトに効かぬ訳もないのに、忋抖の目の前の女は震えているばかりかその顔からも血の気が退いているのが離れていても伝わってくる。
もう一度大きく息を吐いてから忋抖は一言口にした。
「……お前……、ナニモノ?」
湯が湧きだす静かな場で忋抖の声はよく響いた。魅惑を放ちながらの声だ……、瞬く間に崩れて落ちるだろうと思ったのだがそれでも尚、女は青ざめながらも立ったままだ。
本当にナニモノなのか。
嘆息と共に忋抖が一歩足を進めると呼応するように女が退がる。この状況で動ける事実が俄かには信じ難いことであるというのに。二人の周りには忋抖が出している魅惑の程良い甘い匂いの他に凛とした華の香も漂っている。これは女の身体から沸きたっているものなのだろうか?考えても分からずに一度頭を掻いてから忋抖は湯の中に足を踏みいれた。女も踵を返そうと動いたのを見て、大丈夫だ、と声をかける。
「大丈夫だ。傷つけることはしない」
その言葉に安堵したのか、もしくは逆らえば殺されると思ったのかは分からないが青ざめた顔そのままに女は動くことをやめたようだ。
「それでいい」
女の前までゆっくりと歩み寄って忋抖はもう一度視線を合わせる。恐怖なのか揺らぐ瞳には溢れて落ちそうな程の涙が溜まって今にも堰を切りそうだ。震え続けるその姿を間近で見て、やはり似ている、と忋抖は思わざるを得ない。眼前で小さく震え続ける女はヒトであることは疑いようがない。
鬼の象徴ともいえる角がその額に無いのだから。
だが……あまりにも……。
よくよく見れば悧羅とは異なるのだとは分かる、分かるのだが余りにも似すぎているのだ。
髪は真っ直ぐに伸び決して肉付きが良いとはいえない身体に流れるように落ちているし、何よりその色は漆黒だ。怯えの色を浮かべながら忋抖を見つめているその瞳の色もまた同じく漆黒の色を呈しているし、髪の隙間から覗く耳でさえ天に向かって尖ってはいない。背丈も悧羅よりは小さいし悧羅のような儚げで手を伸ばせば手折れてしまいそうな雰囲気を持っている、という訳でもない。
それでも似ていると思ってしまう。
「お前……、術者の類?」
固まったままの女の奥底からは決っして只人では持ち得ない程の精気が見て取れる。問いかける忋抖に対して女の応えはなく、代わりに身体の震えが大きくなっていくだけだ。だがそれは恍惚ではなく恐れからくるものであることが間近で見ている忋抖に伝わってやはり驚愕するしかない。この距離で鬼神、ましてや忋抖を見ていて恐怖しか感じていないことが俄然興味を唆られる。
「話せるか?それとももしかして俺の言葉が分からない?」
少しばかり首を傾げて尋ねてみると震えたままの女の顔からますます血の気が退いていく。青白いを通り越して蒼白になっていく姿にさすがの忋抖も動じてしまうが、ふと目の前の女が薄い衣しか纏っていないことにも気付いた。幾ら足元は湯に浸かっているとはいえさすがに身体は冷えるだろう。
「悪い」
小さく苦笑しながら忋抖は自分の上衣を脱いで女の肌を覆う。怖がらせたままで病にまで罹けてしまっては妖とはいえ忋抖も心が傷む。目の前の女はもしかしたらまだ男を知らないかもしれないのだし、例え忋抖が人為らざるモノだとしても男なのだから長い刻、肌を露にしたくはないだろうと思ってのことだったのだがその行いに女は今までとは異なる目の開き方をした。
「……いや、冷えると身体に悪いかと思ったんだけど……。気分を害すなら捨ておいてもらってもいいよ?」
手を挙げて小さく笑った忋抖の前で少し迷ったように一度息を呑んだ女は掛けられた上衣を震える手で引き寄せている。
「……いえ……、お礼を申し上げます……」
震えた声音は俯く女から出された。意外にも低く響いたその声は悧羅とは似ても似つかないものだった。
やはり別者だ。
当たり前のことなのに何処か安堵してしまって忋抖は、ほっと肩の力を抜いた。
「気分を害したんじゃなくて良かったよ。驚かせたよな?……良ければ少し話をしたいんだけど構わないか?傷付けることはしないと制約するからさ」
岸辺りを指差さしながら笑う忋抖に一瞬女は戸惑ったようだったが、掛けられた衣を強く引き寄せながらも小さく頷いた。先に湯を掻きわけながら歩いていくと、まだ戸惑っているのだろう。数歩遅れながらも歩いて付いてきてはくれているようだ。その姿を少しばかり微笑ましく思っている自分にも驚いたけれど、とりあえずは岸辺りに腰を降ろしてから自分の隣を叩いてみる。座った忋抖の数歩先で立ち止まった女にもう一度傷付けないことを伝えてから再び自分の隣を叩いて促すと諦めたのか、おずおずと女も腰を降ろしてくれたけれどその表情は強張ったままで色も青白い。
まあ、仕方のないことだな。
唐突に目にした妖、しかも忋抖のような鬼神に声をかけられただけでなく話をするように言われたのだから。忋抖にすれば単に興をもっただけのことでも女にとればいつ生命を獲られるかわかったものではないし、申し出を受けなければどのような残虐な事になるのか考えているのかもしれない。
まさに戦々恐々といったところだろうな。
「とりあえず名を尋ねてもいいか?」
「……藍琳、と申します……」
震えた声音が静かに耳を擽ぐるが思いのほか藍琳の音は心地よいものだ。
「そっか。藍琳ね、俺は忋抖っていう。ヒトとは異なる姿だから怖がられるのは仕方ないんだけどさ、もう一度傷付けないと誓うから少し安心してもらえると有難いんだけどな」
藍琳を見ながら頬杖をついてできるだけ穏やかに忋抖は語りかけるように努める。すぐには応えはなかったけれどほんの少しずつ藍琳の震えが収まっていくのを見やりながら、その横顔からも悧羅を思わせる表情が伺えて忋抖は苦笑を隠せない。
どう見ても別者だと分かるのに何故だか視線を外すことができない。
そう、ただ似ているというだけなのに。
しばらく見つめていると震えをどうにか抑えることができたのか藍琳から大きな嘆息が漏れてでた。忋抖が掛けた上衣を引き寄せるほどには身体の強張りもとれたような姿に、うん、と満足して忋抖はどうしても気になっていることを尋ね始めることにした。
「でさ先刻も聞いたけど藍琳は術者なの?」
「術者……、とは道士様のような御方たちのことでございましょうか?」
「うん、まあそういう類のことかな。少しは違うのもいるかもしれないけどね」
術者の類と一括りに言葉にすることは容易いが、それが全てヒトであることはない。ヒトの世に静かに息を潜めて入り込み道士達の目を眩まし簡便にヒトの血肉を喰らう。その為に妖がヒトに化けてヒトの世に潜りこむことはそう珍しいことではない。その最たるものがこの大国でかつて名を轟かせた九尾狐だろう。藍琳の身体深くに感じ取れる精気の大きさから見ても妖がヒトに化けている可能性が無いわけではないのだ。
「そのように御考えでしたら違います、と申し上げます」
「じゃあ妖?」
「いいえ」
術者でないとすればもうひとつの可能性、妖がヒトに化けているのか確かめる忋抖に藍琳は首を振った。
「私はただの人です。貴方様がどうしてそのように御考えになられているのかもわかりません」
嘆息混じりの小さな声に目を細めながら、ふうん、と忋抖は笑みを深めた。本当に只人だとしてもどうしてそう思われるのか分からない、などということはないだろう。これだけの大きな精気を持ちながら今まで妖に狙われたことがないとは思えない。忋抖のような鬼神に見えたことはなかったのかもしれないが、その他の妖を見たことくらいはあるようにも思える。けれど藍琳が偽りを言っているようにも見えないから不思議なものだ。
「ほんとうに分からないの?」
「はい」
「でもさ、妖を見たのは俺が初めてってわけじゃないんじゃないの?」
「それは……」
言葉に詰まったような姿だけで応えをもらったようなものだったのだが、しばらくの間を置いて藍琳は是と返した。
「……私が幼いころから他の人には見えないものが見えておりましたのは事実ですが……。はっきりと見える、というものではなく黒く靄のように感じることが多かったものですから。貴方様のようにはっきりと見えたのはこれまでで初めてのことなのです……」
「あれ?そうなの?」
「……はい……、ですのでこうして言葉を交わせるなどとは思うてもおりませんでしたので……些か……」
戸惑っているとでも言いたいのか藍琳はそこで口を閉じて首を傾げて見せた。その仕草にも何処となく悧羅を感じさせられて忋抖も同じく首を傾げてしまう。
「でもさ危ないこととかなかった?その黒い靄に襲われそうになったこことかさ?」
「そのようなことは……。ただ見えていたというだけですし、私にはこれがありましたので……」
尋ねる忋抖に藍琳が上衣の中から紐に結えつけられている小さな布袋を差し出して見せた。その袋からは弱々しい呪の臭いと僅かばかりの獣の気配がする。およそ藍琳の持つ凛とした気配とは相性の良くないものであることに忋抖は眉を顰めた。
「これは?」
「私が生まれた時に近くにおられた道士様がお与え下さったと聞いております。私は我が家にとって宜しくないものだ、と仰せになられてこれを持たせるように母は申しつかったそうです」
「家に良くない?」
「はい……、災をもたらすものだ、と」
「そう言われたの?」
「そのように聞いております」
「……ふうん……」
手を伸ばすと少しばかり藍琳は身を退いたが忋抖の指が自分が差しだして見せている布袋を絡めとったのを見て目を見開いた。今まで藍琳が見えていた靄はこの袋が見えるとすぐに姿を消していた。靄が何であるのかなどは分からなかったけれど他の者が見えない何かであるならば、あまり良くないものなのだろうとは思っていたし、袋の中身も分からないが見せることで靄が拒むということは幼い頃からの経験で知っていた。はっきりとした姿は見えないけれど何処か舐めるように品定めをされているような気分にもなり靄が見えるととにかく不快で、だからこそ少しでもその不快な思いから早く放たれるように靄をみかけたら袋を取り出すようにしていたのだが目の前の妖は何の恐れを抱くこともなく布袋に触れている。
「……あの……、大丈夫なのですか?」
身体は最初に腰掛た場所から近付くことは無かったけれど布袋は藍琳の首にかけられた紐と繋がったままだ。忋抖が表裏を確かめるように布袋を触れば自然と藍琳の身体も動いてしまうし、平然と布袋に触れられてはどうしたものかとも思ってしまう。だが忋抖は何事もないように紐を長い指に絡ませ始めた。
「なんてことはないよ?たいした呪じゃないからね」
「呪、と申しますのは道士様方のお使いになられる不可思議な能力のことですか?」
きょとりとした目で藍琳に見られて忋抖も苦笑しながらもう一巻き布袋に繋がれた紐を指に絡ませた。どうやら中身が何であるのかも知らされていないまま持たされていたようだ。
「まあそんなもんかな。でもこれこそあまりよろしくない」
ますますきょとりとする藍琳に中身を知らなかったのか尋ねると首を振っている。
「私は御守りと聞かされておりましたし肌身離さず持っておくように言われておりましたが……、違うのですか?」
「そうだなあ、身を護るってとこは五分ってところかな。込められた呪も弱くなってるしこれを創った道士の能力が及ばない妖には効果はないよ。むしろこのまま身につけてるとそれこそよろしくないものを引き寄せるようになるかもね」
「ですが、御守りだと……」
「そうだね、創られたときはそれなりの効果もあったとは思うよ。でも随分と刻も経ってるようだし今はそれほど役に立つとは思えないかな」
元は本当に藍琳を護るために創られたものかもしれないがこの程度の呪を弾けないのは姿も顕すことも出来ないような小さな妖くらいだろう。呪の効力が弱まればより強くより禍々しいものを集めるものに転じていたかもしれないし、どちらかといえばそういうふうになるように創られたような思惑も感じる。これまで藍琳が無事であったことが不可思議に思えるほどだが藍琳自身は何も知らされてはいないようだ。
家に良くないものとされる藍琳をどうにか片付けようとしたのかもしれないが、良くないものとされる理がよくわからない。どちらかといえば良いものであるようにも思えるのだけれど妖を引き寄せるような精気を持っていては血族にも害を及ぼすと考えられてもおかしくはないのかもしれない。
「これよりも俺の衣を着てるほうがまだ護りの効力は高いと思うよ」
穏やかに伝える忋抖の前で藍琳が着せられた上衣に視線を落としたのが見えた。
「まあ遭ったばっかりの俺の言うことなんて信じられないかもしれないけどさ」
肩を竦めてから忋抖が指に絡めていた紐を解いていくと緩んだ紐と共に布袋が藍琳の胸元に戻った。それに一度視線を落とした藍琳だったけれどまたすぐにきょとりとした目で忋抖を見た。
「貴方様は妖ではないのですか?」
あまりに真っ直ぐな視線を受け止めて忋抖も小さく笑ってしまう。
「妖だよ?藍琳には無いものを持ってるだろ?」
自分の額にある角や尖った耳を指し示しながら笑いを深めていると上衣をしっかりと抑える藍琳の腕に力が込められたのが見てとれた。
「黒い靄みたいにしか妖を見たことがなかったなら俺たちには会ったことがないんだろうね。俺は鬼なんだ」
「……鬼とはなんですか?妖にもいろいろなものがいることは道士様方の教えで知ってはいますが、鬼というものは初めて聞きました」
「ああ、そうだろうねえ」
くすくすと笑っていると上衣の間から白い腕がおずおずと忋抖の額へ伸びてくるのが見えた。戸惑ったように角の前で止まった手を見て忋抖はますます笑いを深めるしかない。
「どうぞ?」
笑いながらほんの少しだけ額を伸ばされた腕に寄せると迷ったような指先がゆっくりと動いて角に触れた。触れられた先から冷えた藍琳の体温と少し荒れた皮膚の感触が伝わってくる。恐る恐る確かめるように角に触れる姿が幼子のようにも思えてきて忋抖はますます笑ってしまった。気心の知れた者同士でも角を触られることは余り心地の良いものではないのだが驚きを隠せずに目を丸くしている藍琳には好きにさせても構わない気持ちになってしまう。
「妖は数多に居るんだけど俺たち鬼はあんまりヒトの子に関わらないから知らなくても仕方ないかな。ヒトの子はヒトの子、俺たちは俺たちっていうのが長の考えだしね。ヒトに関わるのはほんの少しの精気を分けてもらう時くらいなんだよ」
「精気、ですか?」
「うん、生命力っていうのかな?身体の奥の奥にある精気。それをほんの少しだけ分けてもらうんだ。俺たちにはそれが糧になる」
「……食事ということですか?」
角から耳に滑るように指先を移しながら問う声に、いや、と忋抖は応えた。
「別に肉を裂いて喰らうってことじゃない。そういう妖も居るけど俺たち鬼は無駄に殺めることはしない。仇為す者じゃないならの話だけど。人為らざる者だからそういった能力があるんだ。それを使えば精気が減る、枯渇しちゃ大変だからヒトの子から少しだけ分けてもらうだけ。例えば、」
言葉が切れたと同時に二人を囲むように白銀の鬼火が幾つも揺らめいた。耳に触れた指はそのままに藍琳の身体がまた強張ったけれどすぐに興に変わったようで揺らめく鬼火に身体を寄せた。
「鬼火だ。熱さは抑えてるけど怪我しないようにね」
鬼火に触れたいような姿が可愛いらしくて忋抖はまた笑ってしまう。掌で一つの鬼火を包む藍琳が傷付かないように見ていると小さな嘆息が赤い唇から漏れて出た。
「……美しいものですね……、それにとても温かい……」
吐き出された嘆息が安堵の表情に変わっていくのが見えて忋抖は微笑んだ。
「気にいったの?」
「とても」
問いに返されたのは柔らかな微笑みだ。包んだ鬼火の灯に照らしだされたその顔に忋抖は身体の中で何かが跳ねるのを感じてしまう。けれどここで魅惑を出したところで藍琳に通じはしないだろうし押し倒すのは忋抖の趣味ではない。何より藍琳はヒトだ。忋抖たち鬼の本能でどうにかしていいものではない。どんなに似ていてもヒトである藍琳に悧羅を重ねて凌辱してはならないのだ。
「ほかにも何かお出来になるのですか?」
静かな声に呼び戻されて忋抖は小さく笑った。
「そんなに大したことは出来ないよ。ヒトよりも呪や術なんかには秀でてるし長くも生きるけど、どれも当たり前のことだしなあ」
「妖様の一族ではこのような不思議な御能力を皆様が持っておられるのですね」
感嘆ともとれる大きな嘆息がまた藍琳の唇から漏れた。
「そりゃ鬼だからそれくらいは出来なくちゃね。ああ、あとは空を翔けるとかも皆できちゃうよ?」
「空を翔ける?それは鳥のように飛べるということですか?」
弾かれたように藍琳は鬼火から顔を上げて忋抖を見た。驚いているのか目を丸くしながら身を乗り出してくる藍琳との間に忋抖は思わず両手を挙げて壁を作ってしまう。少しばかり沸ったところに上衣一枚と薄い肌着のみの女人の肌が触れればさすがの忋抖も本能に従うしかなくなるというものだ。
「羽があるわけじゃないから鳥みたいってわけじゃないよ。翔けるんだ」
前のめりになった藍琳は掛けた上衣がはだけて白い肌が見え隠れしているのにも気付いていない。思わず顔を背けた忋抖に構うことなく藍琳は距離を詰めてくる。
「ヒトが土の上を走るように俺たちは空を翔けるんだ」
「……翔ける……」
ぽつりと呟いて動きを止めた藍琳にちらりとだけ視線を返すと余程驚いたのかはだけた上衣を気にも止めずに目の前に座りこんでいた。先刻までの怯えは何処にいったのかしっかりと忋抖を見据えた眼差しに今度は忋抖のほうがたじろいでしまいそうになる。やれやれ、と諦めて藍琳を見やってから壁にしていた腕を伸ばして露になりかけている肌を閉まい始めた忋抖の腕は藍琳の手に掴まれた。若い女の肌なのに指先よりも硬くて荒れた手であることに多少驚いたけれど、それよりも藍琳から飛び出した言葉に忋抖は息を呑んだ。
「妖様、私を食べれば今見せていただいた御能力の糧にはなりますか?」
「……いや、何言ってんの?食べるとかじゃないって!俺たちは減った分をほんの少しだけ分けてもらってるだけなんだから食べたりしないの!」
慌てて否を示しながら藍琳の衣を直す忋抖の腕は掴まれたままだ。
「そんな食べたりする必要なんてないんだよ。そもそもこれくらいの能力を見せたところで大したことでもないんだし。なんでそんなこと言い出すんだ?」
空いた手で頭を掻き始めると藍琳もほんの少し落ち着きを取り戻したのか忋抖の腕を掴んでいた力も緩んでくる。
「……お願いをお伝えしたくて……。ですが私にはお返し出来るものがないので、それであればと……」
「願い?なに?」
頭を掻く手を止めて尋ねるとまた腕を掴む力が強まった。
「私も空を翔けるというものに連れていって下さいませんか?」
「は?そんなこと?何でまた……」
意外な願いにきょとりとした忋抖の前でまた藍琳は身を乗り出し始めた。
「……一度で良いので自由に世を見てみたいのです。私に差し出せるものであれば何でも妖様のお好きなようにしていただいても構いませんから」
「一度って……。何かに縛られてんの?」
「……お願いでございます……」
忋抖の問いに対する藍琳の応えはなかった。代わりに切実な哀愁を宿した眼で見つめてくる。何か口に出したくない事なのだろう。眼差しから、これ以上聞いてくれるなという思いも伝わってくる。別に忋抖も特段聞かなくても良いことだし、聞いたところで何かしてやれるわけでもないのだから。
「別に構わないけどさ、女が容易く何でもするなんて口に出しちゃ危ういよ?それも俺みたいな妖相手に。口約束にしても全部獲られることになりかねないんだから」
藍琳の頭に手を乗せて優しく撫でて伝えてから忋抖は、よいしょと立ち上がった。追うような視線を感じながらも掴まれたままの腕に苦笑してしまう。見下ろすと淋しそうにも見える表情で藍琳は忋抖を見つめている。
「じゃあ幾つか頼みを聞いてもらおうかな」
微笑みながら身を屈めて藍琳を抱え上げてから、それでいい?と尋ねると腕の中の藍琳が破顔した。その笑顔があまりにも可愛いらしくて忋抖もつられて笑いながら地を蹴った。
ゆっくり更新で申し訳ございません。
気長にお付き合いください。