遇う
とても遅くなりました。
待っていただいていた方がおられますでしょうか?
いて下さったら嬉しいのですが。
ふう、と大きく息をつきながら忋抖は空を仰いだ。東王父の一件から百年、穏やかに里は日々を巡り母である里長悧羅の治世も盤石のものとなっている。既に七百年を超えて里を支えている母は、それとは思えないほどに儚げで美しさも留まることを知らないかのように日を追うごとにまして行く。老いなどとは無縁に思えるかのように日々側で見ている忋抖でさえも手を伸ばしたくなったのは一度や二度の事ではない。それを堪えられているのは彼女の腹から自分が生まれ落ちたのだという事実と、悧羅を何よりも慈しむ父である紳の姿をみているからだ。契りを迎えて三百年近くになろうというのに紳と悧羅の互いを尊び慈しむ心は変わらない。唯一無二の存在である互いの結びつきを日々どころか目が合うたびに確かめあっている姿は息子である忋抖だけでなく里の皆が見慣れてしまっている。そうでなければ案じることもできないというものまでいる始末だ。息子としては少しは自重して欲しいものだとも思うが、あの悧羅を傍らに置いて堪えろというのがどれほどに胆力を要するのかも理解が出来るので紳に強くは言えないのだ。その紳もまた悧羅と同じく老いなど知らぬかのように若々しいまま、ともすれば七人の子どもたちよりも若く見られてしまう。それはそれで困ったものなのだが紳がいるからこそ悧羅の姿も忋抖たちを産み落としたそのままで能力も衰えることをしらないのだろう。
ほんとうにどれだけ刻を重ねても二人は変わらない。
そう思うとふいに込み上げてくる笑いを堪えることが出来ず、小さく苦笑してしまうと傍らから若君?、と低い声がした。視線を返すと哀玥が横たえていた体躯を少し起こして忋抖を見上げている。手を伸ばして頭を撫でると心地よいのか目を細めていた。
「何でもないよ、父様と母様のことを考えてたらちょっと可笑しくなっただけだ」
『……成程、それは致し方ございませんね』
「だろう?」
小さく笑いながら忋抖は足を浸けている湯を蹴った。精気を狩りに人里に降りたはいいものの目星しい物もおらず致し方なくたまたま目に入った自然に湧き出る湯処で哀玥と共に疲れを癒していたのだが思いの他ゆっくりしすぎている。共にいる哀玥もこの湯処の雰囲気が気に入っているようだからときにはゆっくりと過ごすのも悪くはないと思いたっての寄り道だったのだが……。
頭を撫でられながら目を細めている哀玥も本当ならば主である悧羅の側に侍っていたいのだろうが、忋抖が哀玥を欲した日から悧羅の命や姚妃が幼い頃を除いて共にいてくれている。姉弟妹達がそれぞれに逑を見つけて行く中で取り残されたようにひとりのままの忋抖にすれば有難いのだが、哀玥の自由を奪ってしまっているようにも思えて申し訳なくなることもある。
とはいえよい年頃である忋抖に縁談の話がないわけではない。あまりにも一人を愉しんでいるかのような姿に老いた栄州が話をもってくることもしばしばだ。幼い頃から可愛がってくれている翁の心内を思えばこそ持ってこられた話をとりあえず受けはするが、それでも会う回数を重ねると違うと思えてきてしまい話がまとまることは無かった。栄州や父母のことを考えれば早めに身を固めて子でも抱かせたいとは思うのだけれど、どうしても悧羅のような鬼女を求めてしまうのだ。
穏やかで多彩花なのに、それでいてその身の内には確固たる芯がある。まるで母の肩や背に咲く蓮の華のように、凛として立つ姿には羨望さえ抱いてしまう。
まるで恋心のように。
父である紳に言わせれば悧羅のような鬼女を求めるのが到底無理な話だそうだ。姉である媟雅の逑である舜啓にも苦笑しながら諭された。
「……まあ悧羅が側にいたら、その他は色褪せるよね」
俺もそうだったから、と笑った義兄はそれでもいいんじゃないか、とも言ってくれた。
「いつかお前にも護りたくて支えたくて側に居たいとおもえる女が現れてくれるはずだよ。……悧羅じゃないけど同じくらい命を賭けてもいいって存在がね。どうしたって悧羅は一人しかいないんだし、それは紳が持ってっちゃってるからさ」
「そういうものかな?でもなあ……、俺が逑を持つとか自分でも考えられないんだよね」
「それはまだ忋抖が出逢えてないだけだよ。それにそんなに急がなくたっていいじゃないか。俺達鬼の生命は永すぎるくらいあるんだ。300年そこそこしか生きてないのに焦る必要なんてないだろ」
「……逑も子も持ってる奴に言われたくない……」
少しだけ頬を膨らませた忋抖の姿に俺は別、と舜啓は大笑いしていた。やれやれ、とまた小さく息をついて忋抖はもう一度空を仰いだ。皆を安心させたいのは本心だけれど実を言えば少し辟易もしている。舜啓に言ったように忋抖自身が逑を持つということを、そういう存在に出逢えるということを全くもって想像出来ないのだ。
……いや、むしろ出逢わずともよいとさえ思っている。
ずっと一人のままであればこのまま悧羅の側にいる事が出来るから。
思えば昔、里を移すという大きすぎる務めを終えて深い眠りについてしまった悧羅の姿を見て幼心に護りたいと思った。闘技で負けてしまったときもこんなところで負けていてはまだまだ悧羅を護れないと悔しくて情けなくて仕方なかった。勿論、忋抖が護ると思うことすら烏滸がましいのも分かっている。長である悧羅は容姿だけでなくその御能力も絶大なのだし、何より伴侶である紳は悧羅の側近護衛を任される立場にある近衛隊隊長だ。実質里で1、2の強さを持つ二人が揃っていて収められない諍いなどないし、本当の意味で悧羅を護れるのは紳だけだ。
それでも悧羅を護ることに必要だと思えば自らの鍛錬の布石になったし修練にも身が入った。今、舜啓と共に近衛隊副隊長を務める忋抖の強さは全てあの時の思いから始まったのだ。
自分が悧羅の子でなければ、と思った事がない訳ではないと言えば偽りになる。だがどんなに紳と生き写しのようだと言われても忋抖が悧羅を1人の鬼女として慈しめる訳ではない。自分の父母は紛うことなく紳と悧羅なのだし2人がいなければ世に生まれ落ちることさえなかったのだ。忋抖が当たり前のように悧羅の側に居られるのも、しなやかな腕で抱きしめてもらえるのも、無償の愛情を注いでもらえているのも全ては悧羅の子であるという事実があるからこそ享受されているにすぎない。一介の鬼神でも里に降りる悧羅と触れ合うことは出来るけれど縁者であるからこその慈しみは望んでも得られないことだ。
「……分かってるんだけどなあ……」
心内の葛藤は大きな嘆息と共に声に出てしまう。言葉にしてしまえば益々何を当たり前のことを、と苦笑を深めるしかできなくなるというのに。
『若君?』
心配そうな声に視線を戻すと隣の哀玥がきちんと座して首を傾げている。湯に足を浸けている忋抖と同じ目線で見つめてくる哀玥に自分の思いを話してしまえばどんな応えを返すだろう。困惑するか、軽蔑するか、はたまた同情してくれるだろうか。いつ何時も忋抖の味方でいてくれている妖を悲しませることだけはしたくないのだけれど。
「…なんだかね、やっぱり身を固めないと駄目だよなあって思ってさ。近頃特に爺が力入れちゃってるから」
肩を竦める忋抖の前でますます哀玥は首を傾げた。
「俺もそれなりには考えはするんだけどさ。姉弟妹の中で逑になってくれそうなの見つけてないの俺だけだし?300超えて1人っていうのも周りが安心できないだろうしな。……早いとこ見つけないとって考えてたら口に出ちゃったみたいだ。ごめんな?」
笑みを深くして哀玥に詫びながらその頭を撫でるが困ったような視線は忋抖をみつめたままそらされることはない。
『小生には判りかねますが、逑とは必ずしも持たねばならぬものなのでしょうか?』
「まあ、ずっと1人よりは周りは安心するでしょうよ。血も繋いでいかなきゃいけないしさ」
『それであれば特に逑をもたずとも為せるのではございませんか?1人で居られるのがお淋しいのであれば異なりましょうが。若君は契りを結ぶ方をお探しになりたいのですか?』
丸い目を細めて核心に迫ることを尋ねられては忋抖も、いいやとしか応えられない。その応えに哀玥はどこか満足そうにますます目を細めてみせた。
『そうでございましょうとも。若君には永きに渡りお慕い申しあげておられる御方が既においでますのですから』
優しい声音と共に僅かに犬の頭が微笑んだように見えて、今度は忋抖が首を傾げてしまった。
「……うん?俺にそんな女居ないけど……?特別な相手が居ないことは哀玥だって知ってるだろ?」
顔の前で手を振りながら伝えてみたが目の前の哀玥は小さくくすくすと笑い始めている。
『そうでございますね、情を交わすことのみが唯一無二ではないのでしょうからそのようなお相手のことではございませんよ』
本能の一つとして他者と情を交わすのは忋抖たち鬼にとって珍しいことではない。一時の愉悦を求めるためのものであり、それは同じ妖の哀玥にとれば至極当然の事だ。只、呪物であった哀玥には要らない感情であるだけのことだが理解することは容易い。だが里の中、特に忋抖ともあればそれを求める鬼女が多いのは哀玥でなくとも誰もが知り得ていることでもある。若という立場もあるだろうがそれ以上に眉目秀麗で、流石は紳と悧羅の子だと賞賛する声も多い。その裏で紳とよく似た容姿に近付いてくるのは純粋に忋抖に恋慕している者だけではなく、紳に対して届かぬ想いを持っている者が多いこともまた事実なのだ。忋抖の背後に紳の面影でも見ているのだろうが哀玥にとれば不愉快なことこの上ない。それを求めて群がる鬼女達の喉笛を幾度噛み千切ってしまおうかと思ったことか……。里の民は哀玥の主である悧羅が庇護している、眷属である哀玥にも民を護ることは体躯に刻みこまれた命の1つだ。それさえ無ければ幾人も噛み殺していることだろう。
若君は若君であるのに、その裏に旦那様を思うなど。
確かに忋抖は紳によく似ている。容姿だけでなくその優しい心根までもしっかりと受け継いでくれている。けれど、あくまで忋抖は忋抖だ。寄ってくる鬼女の想いがそれだと分かっていて尚、それに応じる忋抖の優しさにつけこんで、それがどれほどに忋抖の心を踏み躙るかとも考えてもいないのだろう。いつも快活に笑っている忋抖が傷付かずにいるとでも思っているのだろうか。思い返せば思い返すほどに腹立たしくなってきて哀玥は小さく頭を振って渦巻いている考えを追い出した。と眼前できょとりとしたままの忋抖が首を傾げている姿が見えて、また込みあげてくる笑いを抑えることができない。
『……小生がどれほどの間、若君のお側に侍らせていただいておるとお思いでございますか?その小生が若君の御心を読めぬとでも思うておいでか?』
「いや、だって本当にそんな女いないしさ」
『おやおや、まだその様なことを申しておしまいになられますのか。ならば小生が申し上げてもよろしいのですか?』
笑いを堪える哀玥の前で忋抖は戸惑ったままの眼差しできょろきょろとし始めている。その姿が愛らしくてますます小さく笑えてきてしまう。
「……本当に居ないけど……。哀玥はそれが誰だって思ってるの?」
『……小生にとれば唯一無二、この世の全てと申しあげてもよい御方のことでございますよ。主を、悧羅様をお慕い申し上げておられるのでしょう?』
その言葉に戸惑って右往左往していた忋抖の視線がびたりと止まり哀玥を凝視した。受け止めた視線がみるみる内に絶望を顕にしていくのが感じ取れて哀玥がそっと忋抖に擦り寄ると、その身体は小さく震えていた。
『ご案じなさいますな、小生がこの事を口外することはございませぬ故』
震え続ける忋抖を安堵させる事が出来る様、その顔に擦り寄りながら哀玥が伝えると大きな嘆息が忋抖から漏れた。
「……何でそう思うの?」
少しだけ震えた声音だった。忋抖自身、気付いてはいても認めたくはなかった事だろうから出来るだけ安心してもらえるように哀玥も穏やかに話すよう努める。
『主ほどの御方でございますよ?誰であれどのような関わりの者であれ心を奪われてしまいますのは致し方のないことでございましょう?……何より小生に悟られておらぬとお思いでございましたか?』
小さく笑い続ける哀玥に、それはそうかもしれないけど、とまた忋抖の嘆息が降ってくる。
「……でも俺の母様なんだよ?可笑しいとか馬鹿みたいだとか思わないの?」
『全くもってそのようなことを思うはずもございません。そのようなことよりも何故そのように思い悩まれることがありましょうや』
「だって……」
『血縁と申しますのはほんに厄介なものでございますね。なれど若君も小生も妖でございますれば。これほどに血を強く思うておられるのは若君が鬼神であらせられるからこそ。世の妖などそのように血に囚われることなどありますまい。親であれ子であれ魅惑的な方に恋慕するなど至極当然のことにございます。それが主であれば尚のこと。惹かれぬモノがおるのであれば見えてみたいものでございます』
そう。悧羅に魅せられないモノなど此の岸でも彼の岸でも居る筈などない。それを縁者というだけで気づかぬように蓋をしてきた忋抖の胆力こそ賞賛に値するものだ。
「でも、届かないんだよ……。どんなに想っても母様は父様のものだし、俺の腕の中には絶対に収ってはくれない。……どんなに俺が父様に似てても父様にはなれないんだ」
胸の内を暴かれて一気に苦悩が漏れ出したのだろう。抑えていた想いを言葉として紡ぐ姿もまた愛らしくて哀玥は忋抖の膝に頭を乗せた。少しでも揺らぐ気持ちを落ち着かせて欲しかったのだ。
『そうでございますね……、若君は旦那様には成りえませぬ。若君が望まれておられるようには主を慈しむことは出来かねますでしょう。ですがそれが何だというのです?若君は誰に許しを乞うこともなく主に触れることがおできになりましょう?また逆も然り。主が如何に若君を慈しまれようが誰に咎められることもないのです。焦がれてやまない方に思う通りに触れることが出来ぬのはお辛いでしょうが、若君が主を慕うておられても何人も若君を非難することなどできぬのです』
「だけど父様と母様がそれを知っちゃったら?子どもとしても見てもらえなくなるんじゃないかな……」
三度の嘆息と共に出た忋抖の言葉を哀玥は、そんなことはございません、と一笑に伏してみせた。
『小生の主はそのような御方ではございませぬ。元は呪物の小生をお側近くに置いてくださるほどの器をお持ちでございます故。旦那様もまた同じ。むしろ御自分の苦労を若君も知っておいでになるとお喜びになりますことでしょう』
「そうかなぁ?」
『無論にございます。ですから若君、御心を押し殺しておしまいになりますな。手に入らぬと思わばこそ里の女子たちのように情を交わされる御相手を主と思うてもよろしいでしょう。……若君がそれを善となさるのならば、でございますが』
「……そんな事まで分かってたんだ?」
小さく苦笑しながら忋抖は膝に置かれた犬の頭に手を乗せた。足は湯に浸けているのにいつのまにか冷えて震えている指先に哀玥の体温が伝わってじんわりと温められる。哀玥の全てで包まれているように感じて、ゆっくりと手を動かして柔らかい毛並みを撫でると小さく鼻を鳴らし始めた。
『浅慮な女子方の心内など小生に見透かせぬ筈がございませんでしょう?……そうとお分かりの上で応じておられる若君の御心がいつ壊れてしまわれるかと、そればかりを案じておりました故』
「そっか……、でもさ俺がこれから先情を交わしていく相手を母様だと思っていたら、それは里の鬼女達と変わらなくなるってことにならないか?」
浅慮だと言われた鬼女達と同じでは忋抖への信を失うだけでなく、そのような事を許していると見られて長である悧羅への信頼が失墜するかもしれない。自分の責で悧羅を苦しませることだけはしてはならないことだ。けれど、哀玥は悩む事などない、と笑い始めている。
『宜しゅうございますか、若君。里の女子方と若君ではその想いの深さが異なりましょう?女子方が若君に群がられるのは旦那様への思慕でございます。なれど、若君は恋慕、情愛でございましょう?咎められることなど断じてございません』
「それは哀玥の欲目じゃないの?」
『そうでございますねぇ』
鼻で笑う哀玥に釣られるように忋抖が小さく笑いだすと頭を上げて哀玥が忋抖を見上げた。
『それでも良いではございませんか。小生が良いと申し上げておるのです。何者よりも御側近くで若君を見て参った小生が、でございますよ』
「……嫌いになったりしない?軽蔑したりとかさ……」
困ったような笑いの中でその眼の奥に不安の色が揺らぐのを見抜いて、やれやれと哀玥は体躯を起こして真っ直ぐに忋抖を見た。
『……小生が主を嘆きの底に堕とし申した元は呪物である、とお知りになられた時のことを覚えておいででございますか?』
唐突な問いに忋抖がまたきょとりとし始める。
「えっ……と……。うん……、覚えてるけど……。え?それがどうかした?」
『小生は出来得ることであれば許されるのであれば若君方や姫君方には知られることなく御仕え致したいと思うておりました。主は良いと申して下さりましたが、やはり元を辿れば只の呪物、その上妲己殿とは異なる異形の姿。真をお知りになれば如何に若君方とはいえ小生を嫌悪なさるだろうと』
あの時、話の核心を突くには哀玥の生り立ちを現にしなければならなかった。それはこれまで与えられていた温もりを手放すことになるだろうとも悧羅の膝の上で覚悟した。その時どんなに労りの言葉をかけてもらえても優しく頭を撫出てくれるのは、己が何者であれ慈しんでくれるのはやはり悧羅だけなのだろうと思えば少しばかり寂しくなったのも事実ではある。
だがそれは覆された。
忋抖によって。
『あの時、若君は小生を認めて受け入れて下さいましたな。いつでも若君の味方で家族なのだと。あの場で腕に包んで離れるなと申して下さいました。あの時小生がどれほどに救われたことか……』
「……哀玥」
見つめてくる灰色の眼差しを受け止めて哀玥はしっかりと背筋を伸ばした。
あの時、密かに誓ったのだ。心優しい忋抖を己の手が届く事であるならば護り抜く、何があろうと己だけは忋抖を信じていく、と。
『若君が小生に下さったものを小生もお返しせねばねりませんね。……若君がどのような方であれ、ましてや万が一どのように周りが若君を咎める日が来ようともこの哀玥、決して若君を疑うことも、あろうことか軽蔑などするようなことも無いと申し上げておきましょう。ですからこれより先も若君の御側に侍ることを御赦し頂けませぬか?……時には隠れ蓑にもなれます故』
穏やかに微笑んで伝えた哀玥の体躯は次の間にはふわりとした腕に包まれた。おやおや、と笑いを深める哀玥をぎゅうっと抱きしめて忋抖から大きな嘆息が漏れ出した。
「ありがとう、哀玥。お前にまで軽蔑されたらどうしようって本当は怖かった」
『そのようなことありうることがございましょうか。小生にとりまして若君は救いの手を伸ばして下さった尊き御方なのですから。……ですから若君、小生の前では御心を殺さぬと申して下さいませ。小生では聞き手にしか成れぬのが心苦しくはございますが』
蛇の尾で忋抖の背を撫でると少しずつ強張っていた身体から力が抜けていくのが哀玥にも伝わってくる。自分に忋抖のような腕があればこの優しい鬼神を抱きしめて案じさせることが出来るのに、異形の姿の哀玥には尾で慰さめることしかできないのが辛いところだ。
「何だか哀玥が味方でいてくれてるって分かったら心が軽くなったよ」
身体を離して笑う忋抖の眼には薄らと涙が滲んでいる。それを舐め取りながら哀玥は小さく笑いながら蛇の尾を振った。
容易く呑み込めることでもないだろうに哀玥をこれ以上不安にさせないようにする忋抖の姿が愛らしくて堪らなかった。
『若君の御心のままに』
伝えた哀玥の視線がそこで返されたが、それは忋抖も同じだった。忋抖が足を浸けている湯処の先から人の気配がしたからだ。
しかも、これは……。
凛とした華の気配を感じて哀玥は即座に身構えたが、離された手が頭を撫でたことで落ち着きを取り戻す。
「……大丈夫、ヒトだよ。……哀玥」
『ですが若君……』
お気づきか、という言葉は出すことなく呑みこむしかなかった。忋抖の瞳に揺らぐものが見えたから。
「……大丈夫……」
頭を優しく撫でられて、御意と哀玥は闇に溶けるように姿を消した。闇に溶けた哀玥とは逆に忋抖は湯煙の先にある気配に身体中のなにかが逆立つ思いを感じていた。
ヒトであることには間違いはない。だが何とも言えぬ高揚感がある。余程の能力を持つ術者だろうか?そうだとしたら精気を穫りにきた忋抖にとれば僥倖だ。これだけの気配であればほんのすこし貰うだけでしばらくは人里に降りることもしなくてよくなるだろう。湯に浸けていた足をしっかりと地に置いて湯煙の先から少しずつ近づいてくるモノに意識を集めていく。
見えたら最期、相手を魅了する為に自らの能力を解き放つのだ。どんな妖であれヒトであれ鬼神の魅惑に当てられてしまえば夢現の間に精気を狩りとれるのだからどうということもない。
だがそんな忋抖の思いは次には打ち砕かれた。
ぱしゃり、と小さく水が弾ける音と共に湯煙の先から見えた姿に一瞬刻が止まったと思った。
「え……、」
驚いたような声はそのヒトからのものか、はたまた忋抖のものであったのか。
見えたのは白い肌を持つ女だ。
ただ、その姿は忋抖が焦がれて止まない姿によく似ていた。
明けまして御めでとうございます。
皆様にとってよい一年となりますように。
しばらくゆっくりペースで更新になりそうです。
もうしばらく御付き合い下さいませ。