贈る《オクル》
遅くなりました。
更新致します。
紳の山のように積みあげられた文書が一応の落ち着きを見せたのは夕刻が迫った頃だった。それまで悧羅を膝の上から離すことはせず、かといって目が合えば口付けを繰り返す紳に見廻りから戻ってきた啝珈が呆れ返ってしまっていた。
「母様を離せば早く終わるんじゃ無いの?」
苦笑しながら二人の前に寄ってきた啝珈に、取り上げたら全部舜啓に廻すんだって、と皓滓も呆れたように呟いた。紳と悧羅のいる卓の前に舜啓、忋抖、皓滓が椅子を持ってきて座っているのにも首を傾げる啝珈に、お前も持ってこい、と忋抖が言う。
「見張ってないとすぐに父様が母様を慈しみ始めるんだよ。手が止まるからその都度諌めないと全然進まないんだ」
「…父様らしいね」
笑いながら椅子を持ってきて座った啝珈に悧羅が疲れたであろう?、と手を伸ばして頬に触れてくる。
「全然だよ。これから鍛錬だから…、でも副隊長がこうしてなきゃならないなら今日は無理かもね」
くすくすと笑う啝珈に、では妾が鍛錬を見ようか?、と悧羅が言う。それには隊士達も浮足立ったがすぐに紳に制された。
「だから俺から離れないでってば!俺の居ないところで悧羅が何かしてるって思ったらはらはらするんだから。そうなった、これ全部焼き払うからね!」
言いながら口付けてくる紳に、おやまあ、と悧羅も苦笑せざるを得ない。舜啓に廻すまでならどうにか悧羅も手伝えるが焼き払われてしまっては後々荊軻に何と言って諫められるか分かったものではない。笑っている悧羅に口付けを繰り返す紳を、父様!、と忋抖が戒めると渋々と手と目を動かし始めるのだ。灶絃や玳絃も昼餉から戻ってくるなりその状況を目にして声を上げて笑いながら悧羅の側に椅子を持ってきて座る。哀玥までも嬉しそうに悧羅の側に侍って、終いには瑞雨と憂玘まで揃ってしまった。
「宮の中と変わらないじゃないか」
苦笑しながら手を動かす紳に皆も笑う。紳を見張ねばならないのは本当だが本音を言えば誰もが悧羅の側に居たいだけなのだ。紳が文書を片付けて悧羅が蛙の娘子たちに衣を届け、里の様子を確かめて安堵したならばまた紳が悧羅を寝所から出さないことは分かっているからだ。成人したとはいえ子ども達や舜啓、瑞雨や憂玘も悧羅の姿が見えないとやはり寂しく思えてしまう。ただそこにいるだけでも悧羅の姿があれば何故か包まれたように安らげるのだ。
悧羅が居なくなっていた七月は紳だけで無く、宮で過ごす皆にとっても寂しくて恐しくて不安でならなかったのだから。
「父様が少しでも母様を俺たちに貸してくれたらここまで見張らなくて済むんだけどね」
椅子を揺らしながら笑う玳絃に子ども達も同意する。ほんの少しでも悧羅と刻を過ごせれば子ども達も本当に無事に戻って来てくれたのだ、と安心できるのだがどうあっても紳が悧羅を離さない。朝もそうだったが朝餉を摂る刻でさえ悧羅を膝から降ろそうとはしないのだ。今も手と目は動かしてはいるが、片手は悧羅を抱きしめたままだ。
「だって俺のだもん」
くすくすと小さく笑いながら文書に目を通して言う紳にもう皆笑うしかない。本当にどこまで溺れれば紳の悧羅に対する飢えは癒されるのだろう?500年も互いに想い続けるだけでもまだ150年ほどしか生きていない子ども達には気が遠くなるような話だ。それだけの刻を想いあっていても手さえ伸ばせなかったことを思えば紳の今の姿も致し方ないとは思えるが、それでも戻ってきてからの紳の溺れ振りは目に余る。気を抜けば子ども達が居てもその場で組み敷きそうなほどなのだから、こちらとしても気が気でない。
「溺れる理由は見ればわかる」
そう紳は言うけれど見てしまったらきっと最後だろうとは男子たちや舜啓、瑞雨や憂玘でさえも同じ思いだ。宮で縁者として共に過ごしてはいるが前々から悧羅のふとした所作に心を奪われそうになることがあった。母であるから、悧羅であるからと自分たちの中で抑え込むことが出来てはいるものの紳が居なければ、縁者でなければ夜伽を命じられていれば喜んで受け入れていたと思う。特に舜啓などは媟雅と契ることで縁者となったが血の繋がりはない。幼い頃から母のようだと思っていたけれど、紳が悧羅と契っておらず、夜伽の相手としてさえ選ばれていなければ今頃声がかかっていたことだろう。
本当に紳がいてくれて良かったよ。
言葉には出さないが舜啓はいつも思っている。紳でなければ悧羅をここまで倖にすることなど出来なかったであろうし、愛しい媟雅を手にする事も出来なかった。何より長の伴侶でありながら紳が見せる悧羅への慈しみは民達が逑を慈しむ姿と何ら変わりがない。紳にとっては悧羅は里を護る長である前に、ただ愛おしすぎる鬼女でしかないのだ。
目の前で忋抖や灶絃たちに嗜められながらも悧羅を慈しみながら務めを終わらせていく紳を呆っと見やっていると、どうした?と悧羅の声がかかった。
「なんでもないよ。本当に宮での姿と変わらないって見てただけ」
笑いながら応えると、それはちと困ったのお、と悧羅は笑っている。
「蛙の娘子たちに妾は毅然と立っておると思われておるそうだ。これでは示しがつかぬの」
くすくすと笑う悧羅に、いいんじゃないの?と啝珈が茶を差し出した。
「母様は頑張り過ぎたり、抱え込みすぎたりするから。父様といる時くらい少し肩の力を抜いても誰も何も言わないよ」
「…それは荊軻にも申されたのだが…。そう気を張っておるわけでもないのだがな」
「それは母様がそう思ってるだけ。こうしてる間も里の全体を護るように緩やかに能力を使ってるでしょ?出入りの門の呪もそうだしね。ずっとしてたことだからあんまり気にして無いのかもしれないけど、普通の鬼がずっとそういうことしてたらあっという間に精気が枯渇しちゃうんだからね」
「大したことではない。その態度で倒れるような事などない故」
茶を啜りながら笑う悧羅に、だから心配なのと啝珈が呆れながら椅子に座って自分も茶を啜り始めた。他の子らや紳に、俺たちのは?と聞かれるが、自分でどうぞと笑っている。
「頑張ってる俺にもないのかよ」
苦笑しながら紳は悧羅の手から茶を飲ませてもらっている。そのまま口付けようとする紳を、務め!、と啝珈が叱る。
「…また叱られた…」
呟きながらも悧羅に口付けてから手と目を動かし始める紳に皆、嘆息してしまう。紳の膝の上から降りることを許されない悧羅もくすくすと笑っているばかりだ。
「ほれ、頑張ってお務めやし。里のことや蛙の娘子たちのところにも行かねばならぬ故、遅うならば籠ることも遅うなるえ?」
笑いながら頬に触れられた紳が、それは困るとそれまでとは比べものにならない速さで手を動かし始めた。触れられた頬から熱が沸ってしまいそうになるが、さすがにここでは深く口付けることも組み敷くことも出来る場ではない。そんな事をしてしまえば紳だけの悧羅をこの場の全員が見てしまう事になるし、そんな悧羅を見てしまっては何処から手が伸びてくるかも分からない。何より悧羅に籠ることを促されてしまっては急がざるを得ないではないか。苦笑しながら手を動かし続ける紳を見て、本当にもう、と灶絃が笑い始める。
「父様にやる気を出させるのも堕落させるのも母様にしか出来ないんだね」
「おや?そうでもないえ?其方たちは紳と妾の宝 。其方たちに何某かあらば紳は妾が止めても動くであろうし虚にもなろうて」
小さく笑いながら言う悧羅が、のう?、と紳に触れると手は動かしたままで紳も、うん、と頷いた。
「当たり前だよ、これでも俺父親だし?瑞雨や憂玘にとれば爺さんだけどな。大事なものは全部護るさ。…でも最優先は悧羅なんであんまり心配かけないでくれ。籠れなくなると困るから」
「紳くんが爺ちゃんって…。いや、そうなんだけど…。俺たちとあんまり変わらない姿だからさ、あんまり実感として無いんだよね」
「下手すれば俺たちより若く見られるくらいだからね」
すっかり宮の中に居る気分になって普通に話す瑞雨と憂玘を舜啓が小突いたが、すでに自分も悧羅を名で呼んでしまっている。今更か、と苦笑して隊士達には見て見ぬ振りをしておくように仕草で示した。
「これでも600年生きてんだけどね。それも悧羅のお陰かな?いつまでも若くはないけどさ、悧羅の横に立つ以上は悧羅が恥ずかしく無いようにはしとかないとな」
「おや?ならば妾も紳の隣に侍らねばならぬ故、其方が恥じぬようにせねばならぬの。なれど妾が 老いれば其方も老いる。それで良いではないかえ?紳であらば老いても良き男であろうが」
「悧羅はそのままで大丈夫だよ?これ以上可愛いくなってもらうと一時も目を離せなくなるからね。それに悧羅は老いても可愛いいさ」
おやまあ、とくすくす笑う悧羅に笑ってまた紳が口付けようとするのを子ども達が、父様!、と諌めた。隊舎の中にいる隊士達も見たことのないほど柔らかな顔で紳に慈しまれている悧羅と慈しむことを隠そうともしない紳の姿に見て良いものかどうなのか困惑してしまう。けれどすぐそこに滅多に見えることのない悧羅の姿があってはどうしても視線を向けずにはいられない。隊舎の中にあってこうであるのならば宮の中ではどのようなものなのだろう、と誰もが苦笑してしまう。民の誰もが美しく気高いと思い憧れてやまない悧羅のことを難なく可愛いと言ってのける心情は理解し難いが、紳にとっての悧羅は長ではなく只の伴侶として見ているのだ。
口付けたいのを寸前で子ども達に諌められて、もう!と頬を膨らませながら渋々と溜まった務めを手早く片付けていく紳にもいつもの近衛達隊長としての姿は見れはしない。子ども達に囲まれ悧羅を膝に乗せて話をしている姿は何処にでもいる父の姿だ。呆れ返ったように紳の膝から悧羅を奪い取ろうとする子ども達に必死で抗う姿など見たくてもみれるものではなかっただろう。
「ちゃんと済ませるから取らないでってば!俺のなの!」
幾度諫めても一向に言う事を聞かない紳を子ども達が叱りつけ、悧羅はそれを笑って見ている。あまりに艶やかな微笑みに心を奪われそうになった隊士達が数人外へ出ていくのが見えて、舜啓は小さく笑い出した。
「ほら、あんまり長く悧羅を見せとくと隊士達が我慢できなくなるよ?」
くすくすと笑いながら紳に向かって言う舜啓に、それはまずいな、と紳も苦笑する。
「悧羅に手を出されたらその場で斬り殺しちゃうだろうから」
「だったらさっさと終わらせてくれる?悧羅がいるだけで当てられる奴だっているんだよ?俺たちみたいにいつも近くにいれてるわけじゃないんだからね」
わかったよ、とまた手を速めながら黙々と務めをこなしようやく終わった時には、やれば出来るじゃないか、とまた子ども達に叱られてしまった。
「してもしなくても叱られた…」
苦笑する紳の頬に悧羅が触れて、お疲れやし、と労うと微笑んで擦り寄っている。隊舎の窓から見える陽も大分落ち夕闇が迫ってきている。今から妲己に頼めば蛙たちの宴には間に合うが、これだけ大量の務めをこなした紳の疲れを思えば明日でも良い。
そう紳に伝えると、そこまで疲れてないけどね、と肩を竦められた。
「でも明日なら明日がいいかな?昼間の内に里を巡って早い刻から目指せば戻りも速い。それに…」
言葉を切って悧羅の耳元に顔を近づけると悧羅にだけ聞こえるように、実は限界なんだ、と囁いた。その言葉に悧羅はつい笑ってしまう。隊舎の中では子ども達に見張られ、その上隊士達の衆目もある中では紳もある程度は堪えなければならなかった。だがそれは悧羅とて同じ事だ。隊舎に入る前に交わした口付けの火種はまだ燻ったままなのだから。
「ならば今日は休むこととして明日妲己に頼むとしようかの。なれどまたこのように務めを溜めてしもうては紳の身体が心配になってしまうのう」
片付けられた文書の山を見て悧羅が嘆息すると、溜めなきゃ良いんだよ、と呆れたように忋抖が苦笑する。
「籠っても良いからせめて2日に一回は顔を出してよ。でないと舜啓が哀れになってくるんだ」
「…務めの文書を宮に持って来ればいいじゃないか」
首を傾げる紳に舜啓が笑う。
「寝所に届けろっての?勘弁してよ。第一持って帰ったって紳が寝所から出て来なかったら一緒じゃないか」
「いや、寝所の前に置いとくとかさ」
「嫌だよ!それで当てられたらどうするのさ」
必死に首を振って舜啓が否を示すと、確かにと紳も苦笑した。中の様子は見えなくても悧羅の声など聞いてしまっては瞬く間に堕とされてしまうだろう。いつも腕の中に収めている紳でさえ毎度堕とされているのだから、聞いたことの無い者からすればどうなるかは同じ男であるからこそ分かる。
「お前が当てられたら近衛隊を任せて籠れなくなるなあ」
「だからせめて2日に一回は出てきてって言ってるじゃないか」
呆れたようにもう一度紳に言う忋抖にますます紳は苦笑するしかない。七月離れる前は毎夜抱いた後は務めに出れていたのだが悧羅が戻ってきてくれてからというもの、どうしても離れ難くてならない。子ども達に加減を知らないのかと言われてしまっても、一度腕に収めてしまえば刻などどうでも良くなってしまうのだ。自分の慈しみに応えて幾度も昇り果てそれでも求めてくれる悧羅をいつまでも見ていたいからかもしれない。
「…そう言われてもなあ…。籠るとどれだけ刻があっても足りないんだよ。…2日に一回出て来いって言われてもどれだけ刻が経ってるかも分かんないし?その間悧羅と離れなきゃいけないんだろ?…嫌だなあ…」
膝の上の悧羅を抱き寄せて擦り寄る紳の頭を撫でながら、おやおや、と悧羅は笑うばかりだ。
「ならば妾がこうして共に参れば良いでは無いかえ?」
くすくすと笑う悧羅に、それは駄目!、と子ども達から一斉に拒まれる。毎度悧羅が共に来ればこうして見張っていなければならなくなる。紳を諫められるのは子ども達や舜啓、瑞雨、憂玘に限られてしまうし、そうなれば隊の務めも疎かになってしまう。
「母様が一緒に来たら父様から目が離せなくなるんだよ?」
「…そうは申されても妾も紳と離れ難くある故…」
皓滓に嘆息されながらも擦り寄る紳の頭を抱きしめながら笑う悧羅に、もう!、と子ども達が呆れ返って肩を落とす。それが面白いのかころころと鈴を転がすように悧羅は笑う。
「じゃあ宮に持ってきて磐里と加嬬に預けとけば良いんじゃない?二人なら朝から必ず父様達のところに行くし。だけど、父様もせめて3日か4日に1回は隊舎に顔をだすこと。でないと隊士達に示しがつかないもん。こんな姿でも一応は近衛隊隊長なんだからね?」
啝珈が仕方なさそうに折衷案を出すと、こんなんでもって、と紳が苦笑してしまう。だが、確かに務めをいつまでも疎かにできないことは紳も分かってはいる。分かってはいるがどうしても今は悧羅から離れたくないのだ。
「…啝珈の言うことが一番良いかなぁ?でもなあ、3日か4日に1日は悧羅から離れなきゃならないんだろ?耐えられるか自信がないな」
「それくらい耐えてよ!何だったら一日に1回とかでも良いんだからね?」
じろりと啝珈に睨まれて、わかったよと紳も渋々承諾するしかない。頬を少しばかり膨らませながら悧羅に擦りよると真上からくすくすと笑う声が降りてくる。
「子らには敵わぬの…。なれど妾は何処にも行かず紳の戻りを待っておる故、早く戻っておくれやし」
笑いながら紳を抱きしめる悧羅を見上げて、もちろん、と紳が口付ける。また始まった、と肩を落とす子ども達に苦笑しながら、ここで組み敷かないだけいいと思えよ、と紳が笑う。
「そんなことしたら後ろから刺すからね!」
灶絃が立ち上がって椅子を片付け始めると他の子らもそれに倣う。結局鍛錬を積むことも出来なかったが、時にはこうした平穏な日があっても良かっただろう。舜啓が戻っていた隊士達に邸に上がっていい、と伝えるとそれぞれが紳と悧羅に一礼して出て行く。舜啓も荊軻への報せを手早くしたためると皆と共に宮への道を翔けだした。宮に着くと舜啓は荊軻の元へ行くと別れ、紳と悧羅はそのまま露天に向かう。明日はしなければならないことがあると言っていたので会えるとは思っているが、悧羅を抱えて露天に向かっていく紳の背中に、ちゃんと出てきてよ?、と玳絃は言わずにおれなかった。
翌朝になって紳と悧羅は里の隅々まで廻り民達の暮らしに変わりがないかを確かめて行った。何処でも悧羅が降り立てば童達に囲まれ、紳と悧羅が睦まじく立っている姿に民達が一様に安堵した。悧羅にとって気掛かりであったのは先代の縁者が暮らしていたような貧しさやひもじさを抱えている者がいるのではないか、ということだったのだがこの150年で荊軻を筆頭に調べさせ、その差が無いようにと命じていたので誰も不自由なく暮らせているようだった。
「何かあらばすぐに隊士達に申すのだえ?民達が安穏と日々を営ねば妾のおる理など無いのだからの」
「長様がこうしてお姿をお見せ下さるだけで、私共の心は潤いまする。そう何もかも背負われずともよろしいのですよ?」
民達に逆に心配されてしまって悧羅は苦笑するしかなかった。余程無理をしていると思われているようでもあったし、そのようなことはない、と悧羅が言っても時折はお休み下さいと言われてしまう始末だった。妲己に頼んで晴明の邸に向かう道すがらそれを思い出して小さく笑う悧羅に紳も妲己も民達が言うことが正しいと言って諭す。
“主は何もかもをその細肩に背負うておしまいになられる。我らがお側におることもお忘れになられたように。…もう少しばかり頼っていただかねば淋しゅうあるのでございますぞ?”
背に久方振りに悧羅を乗せて翔けるのが余程嬉しいのか妲己の翔ける速さは以前とは比べものにならないほど速い。尾が増えたことも関わっているのだろうが、晴明の邸に二刻半で着いてしまった。妲己が降り立つ音に酒宴をしていた妖達が隠れ始めたが、その中からずんぐりした蛙が跳ねるように現れて、大事ないと伝えてくれている。妲己の背から先に紳が降りて悧羅をふわりと抱え上げて地に降ろす。目を細めながら近づいてきた蛙に柔らかな微笑みを浮かべると流れるようにその腕に蛙を包んだ。
「爺…。何事ものうて安堵したえ?爺の力添えの賜物でまたこうして見えることができた。礼を言う」
ぎゅうっと悧羅に抱きしめられて蛙はふぉっふぉっ、と笑いながら短い手で悧羅の背中を優しく叩く。
「このような褒美を二度ももろうてしもうては爺の定命が短くなりまするぞ?久方ぶりに旦那様にも見えることができ申したというに踏み潰されてしまいそうじゃ」
御無事で何より、と笑う蛙から身体を離すともう一度悧羅は爺のお陰じゃと微笑んだ。
「真、爺に会えなんだなら妾はこうしておらなんだろう。危うき事などなかったかえ?」
しゃがんだまま心配そうに尋ねられて蛙はまたふぉっふぉっ、と笑って見せる。
「長生きだけが得意だと申したでございましょう?何のことはございませんよ」
小さな水掻きの着いた手に持った煙管を吹かしながら蛙は紳に頭を下げる。
「旦那様も御壮健のようで何より。長様に触れてしもうた事にまずはお詫びを」
いや、と苦笑しながら紳も悧羅の横にしゃがみ込んで蛙の肩を叩いた。
「悧羅から良くしてもらったと聞いてる。爺が手を貸してくれなかったら俺は二度と悧羅を手にすることは出来なかったって。俺からも心からの礼を。本当にありがとう」
頭を上げた蛙の代わりに今度は紳が頭を下げると妲己も伏せて礼を取っている。おやおや、とその様に目を細めて蛙が笑った。長生きはするものでございますなあ、と笑う蛙が背後を振り向いて手招きすると妖達の中からそっと悧羅たちを見ていた二匹の蛙が跳ねてきた。長様!、と喜んだような声音で近づいてくる蛙達を受け止めた悧羅に、良かった!と嬉々とした声が上がる。
「心配してたんだよ?」
「でも荊軻さんって鬼様が御無事だって言ってたから」
もう何処も痛くない?、と首を傾げる蛙達に悧羅が頷くとほっと胸を撫で降ろしている。二尺ほどしかない体躯を大きく揺らして安堵する姿に、礼も言わずに出立したことを詫びると、ううん、と首を振った。
「眠かったの。私たちもお見送りできなくてごめんなさい」
いいや、と笑ってそれぞれの頭を撫でる悧羅から視線を紳に移して蛙達が丸い目をますます丸くした。
「長様の旦那様なの?」
聞かれた紳が、そうだよ?、と笑うと、うわあ!とまた跳ね始める。
「長様の逑だからきっと良い殿方だって思ってたけど、長様!すっごく格好良い方だね!」
「長様と一緒にいたらみんな呆けちゃうね!」
ただでさえ美しいとされる鬼のそれも一本角。しかも紳ともあれば里の中でもその眉目秀麗さは際立っているのは悧羅も知っていたけれど、他の妖から見れば飛び跳ねるほどであるとは思っていなかった。
やはり娘子なのだな、と苦笑する悧羅に褒められた紳も僅かばかり気恥ずかしそうにしている。面と向かってこれほどはしゃがれる事など無かったし、里においては皆がそれぞれに美しい。特別なのは悧羅だけだと思っていたのだから。くすくすと笑う悧羅が紳の頬に触れる。
「こうであるから妾も気が抜けぬのだえ?」
「…俺が悧羅以外見えてないの知ってるくせに」
笑い合いながら飛び跳ねている蛙達に声をかけて、それぞれに包みを渡す。
「約束を守りにきた故。受け取ってたも」
受け取るなりその場で包みを開けた蛙達は中に収められていたそれぞれの衣に目を輝やかせた。うわあ!、と喜んで袖を通した蛙達の衣を整えてやると照れたように自分の体躯を眺めている。鏡で見てくるねえ、と跳ねていった蛙達を見送って悧羅は袂から細長い木箱を取り出した。娘子達を見送っている蛙の翁の前にしゃがみ込むと、爺に、と差し出した。
「おや?爺にまでこれ以上の褒美を下さるのか?」
目を細めながら受け取った木箱を開けると蛙はますます目を細めた。納められていたのは漆塗りの優美な蓮が描かれた一本の煙管だ。蓮の華は悧羅の印でもある。このような大層な物、と顔を上げた蛙に悧羅は微笑むばかりだ。
「…爺であるからこそじゃ。其方に何某かあらば妾は必ずや力になる。その制約として受け取ってはくれまいか?」
「爺などのために長様をお動しするなど、それこそ生命が幾つあっても足りませぬぞ?」
ふぉっふぉっ、と笑う蛙が有難く、と木箱を押し抱くと、もう一つあるよ?、と紳が妲己の背中から布袋を降ろした。
「爺はこっちの方が良いだろうけどね」
くすくすと笑いながら袋を開けると中には酒が幾本も入っている。
「爺が好みそうなものを選んだつもりだけど。でもあんまり呑みすぎるなよ?まだ長生きしてもらわないと礼もしたりないんだからね」
「…確かに爺には何よりですな。酔いどれて長様をお呼びすることがないようにせねば」
これもまた有難く、と蛙が頭を下げると紳が縁側に布袋を運んだ。さすがに蛙が担ぐには重すぎるだろう。
「特に好むものがあったなら今度来た時に教えてくれ。また持ってくるから」
「それはまたとない褒美ですな。この麗しき方々に見えることが約束されてしまいましたぞ」
「それだけの事をしてくれたからね。俺たちも恩に報いないと。本当は悧羅は里に入れたがってるんだけど爺が遠慮するだろ?」
なんと!、と蛙が驚きのあまりにその場で飛び跳ねた。鬼の里に入れる、ましてや今は神の領域に住まう里に一介の妖をいれるなどとんでもないことだ。それが悧羅にとってどのような災いを引き起こすか分かったものではない。
「とんでもない!爺はここで十分でございますれば。晴明の残してくれた邸も護らねばなりませぬしの」
慌てて手を振る蛙の姿に、ほらね?、と紳が笑っている。残念そうな悧羅の手を蛙が小さな手で包んだ。
「この良縁だけでどれほどの誉か。長様の御世がつつがなくとだけ願いまする」
包まれた手に空いた手を重ねて悧羅は大きく頷いた。それに安堵したような蛙が手を離すと紳が悧羅を妲己の背に乗せてから自分もひらりと乗り込んだ。
「また近いうちに」
それだけ言い残して翔けあがった妲己の背を見えなくなるまで蛙は見送って、ふと思う。
悧羅の御世はつつがなく、そして永くつづいていくだろう、と。
色々と立て込んでおりまして更新出来ませんでした。
申し訳ありません。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。