紡ぐ【弐】《ツムグ【ニ】》
遅くなりました。
更新いたします。
「おや?お久しゅうございますね。長、紳様」
久方振りに寝所の外に出た二人に嫌味のような荊軻の言が投げられた。それでも顔は笑っているので怒っているわけではなさそうだった。荊軻がそう言いたい気持ちは分からないでもない。悧羅と紳がこの日出てきたのは悧羅が里に戻って二月が経っていたからだ。宮の中でも子ども達や女官達、妲己や哀玥までも、久しぶりと言ってくる始末だった。だがそんな言葉も二人には特に気にはならないものだ。七月も離れていた上に悧羅が二度目の破瓜を紳と迎えられたのだ。倖に包まれながら睦み合ってしまえば刻などどれだけあっても足りたものではない。
「これで出てきただけ早いと思えよ」
小さく笑う子ども達に紳はいともなげに笑って見せた。籠ろうと思えばまだ籠れた。だがいつまでも長としての悧羅と近衛隊隊長としての紳を捨て置いておくわけにもいかず後髪を引かれる思いで寝所を出てきたのだから。
「何だったら今からまた籠るぞ?特に何にも無いんだろ?」
笑いながら座ろうとする悧羅を引き寄せて膝に乗せながら紳が舜啓を見る。近衛隊副隊長となっている舜啓が、まあ何にも無いけどねと苦笑した。何かあれば寝所であろうと飛び込んでいただろうが、それをしなくて良かったのは舜啓や他の男子達にも有難かった。寝所の中での悧羅など見てしまった日にはどうなるか自信がない。舜啓にとっても母のような悧羅を組み敷く事になるなど考えたくも無かったが、その姿を見てしまったらきっとそうしてしまう。それは悧羅が産み落とした子ども達とて同じだろう。
「母様が戻って来て嬉しいのは分かるけどさ。…加減って父様知らないの?」
呆れた様な灶絃に、そんなの忘れた、と紳は笑いながら膝の上の悧羅を抱きしめている。
「悧羅と居て加減なんて出来るわけがない。お前らも見たら分かるよ。…見せないけどね」
悪戯に笑いながら愛おしそうに膝の上の悧羅に擦り寄る紳を見て子ども達は呆れながらも笑ってしまう。磐里と加嬬に差し出された茶を受け取って飲もうとする悧羅も抱きしめられ擦り寄られては、飲めぬと苦笑するしかない。
「母様はこれで良いわけ?面倒とか思わないの?」
茶を飲む事を諦めたような悧羅に皓滓が尋ねると笑いながら、思ったことなど無いと応えてくる。
「そのように思うてしまうほどの者ならば500年も焦がれたりなどはせぬよ」
「それはそうだろうけど…。茶も飲めないくらい慈しまれたらさあ…」
苦笑する皓滓に悧羅は笑っているばかりだ。
「茶は後でも良いこと故。紳が与えてくれるものならば取りこぼさぬようにせぬと」
くすくすと笑う悧羅を紳はますます引き寄せている。どうあっても今は離したくないような姿に子ども達が、まるで恋仲のようだと笑い出す。
「当たり前だ。俺はずっと悧羅に恋慕してるんだから。そんな女と七月も離されてみろ。まだ全然足りないんだぞ?」
仕方ないから出てきただけだ、と頬を膨らませて言う紳は子ども達から見ても悧羅に溺れ切っているのが分かる。いつか自分たちにもそんな相手が出来るのだろうか、と思うが舜啓と媟雅以外まだ契りの相手を見つけられてはいなかった。どうしても悧羅ほどの鬼女を求めてしまう男子たちには情を交わす相手はそれぞれに居るが契ろうとまでは思えないのだ。
「じゃあまだ籠ってたら良かったのに。何か気になる事でもあったの?」
姚妃が首を傾げながら聞くと、蛙の衣だ、と悧羅が教えてくれた。籠る前に荊軻に頼んでいたのでそろそろ仕立て上がっている頃合だろう。
「仕立て上がってるなら早く持っていくって聞かないんだよ。世話になったからって、そう急がなくても良いと思うんだけどさ。そういうの早くしないと納得しないんだもんなあ」
「それはそうであろ?蛙の娘子たちも案じてくれておったに。蛙爺にも礼をせねばならぬと思うておるのだが、あれは酒を好む故、紳が選んではくれぬか?」
国庫にある酒の中から、と悧羅が頼むと一緒に選ぶならねと笑っている。とにかく片時も手を離したくないのだ。
「仕立て上がって無かったらまた籠るからね?上がってたら荊軻が教えてくれるよ」
さも当然のように言う紳に、まだ籠る気なの?と啝珈が笑う。それにも当たり前だ、と紳は声を上げて笑って見せる。
「まだ全然足りてないって言ってるじゃないか。本当に悧羅は俺を堕落させるのが上手いんだよ」
「…籠るのは良いけど務めも溜まってるからね?後で泣いても知らないよ?」
手伝わないからね、と忋抖に言われて紳はちらりと舜啓を見る。見られた舜啓は肩を竦めて大きく嘆息した。
「…わかってるよ、紳でなきゃ駄目な事以外はやってるつもり。達楊の苦労が今になって分かるなあ。悧羅ぁ、どうにかしてよ?」
先代の近衛隊副隊長を務めていた達楊の事を思い出して言う舜啓に悧羅は鈴を転がすようにころころと笑っている。
「であるから妾が務めに侍ろうかと100年ほど前から言うておるのだが、ならぬと聞かぬのじゃ」
「悧羅が来たら隊士達だって驚くよ。…それにずっと紳はそうなんでしょ?余計に務めにならないじゃない」
悧羅に擦り寄りながら頬に口付けを繰り返している紳を指さして舜啓はまた大きく嘆息した。本当に悧羅のこととなると紳は自分を見失なう。七月前まではここまでは無かったはずだが、それだけ離れていた刻が苦しかったということなのだろうとは思う。それでもこの慈しみようで近衛隊隊舎に居られては隊長としての権威も威厳もあったものではない。
「そう思うなら早く俺より強くなって隊長の務めを引き継いでくれよ。俺だって任せられるなら任せてずっとこうしていたいんだから」
ねえ?、と紳に同意を求められて悧羅も苦笑している。そう出来れば確かに喜ばしいが舜啓や忋抖達が紳に追いつくにはまだまだ永い歳月と鍛錬を要するだろう。紳が望むなら早めに近衛隊隊長の任を舜啓にでも預けて何某かあれば悧羅が動けば良いとも思うが、それを伝えたとして紳は首を縦に振らないことは分かっている。
「一応、後で顔は出すよ。でも悧羅は連れていくから隊士達には言っといてくれ」
「はあ?母様連れてくるの?皆、目のやり場に困るじゃないか」
呆れたような玳絃に、なんだよと紳は頬を膨らませてみせる。
「出てこいって言ったり、来るなって言ったり。仕方ないだろ?離れたくないんだから。さっさと済ませて戻れば良いだろ」
「…母様と一緒にいて、さっさと終わらせられるのかが心配だよ…」
肩を落とした玳絃に皆が同意を示す。だが紳は飄々としたもので、小さく笑っているばかりだった。一通り子ども達から揶揄れて荊軻の務めの場に赴いた二人に投げられた言の葉であったので紳も悧羅も特に気にはならなかった。ようやく互いを確かめられたのだから悧羅も紳と同じで籠れるものならばまだ二人の刻を過ごしていたかったのだ。どんなに荊軻や子ども達に揶揄われようとも紳と共に過ごしていられるのであればそれでいい。穏やかに笑っている荊軻に笑い返して、衣は仕立て上がっているのかと尋ねる。
「蛙の娘子らの物でございましょう?ゆっくりと刻を頂きましたので仕立て上がっておりますよ。もう少しゆるりと仕立てたほうが紳様にはよろしゅうございましたでしょうが」
苦笑されて紳が本当だよ、と苦笑すると、おやおやと荊軻が笑い始めてしまう。
「長が御無事にお戻りになられるまで紳様も虚でございましたから。まだまだお籠りになられたいのでしょう?里は安穏としておりますからお二人の刻を十分に取って頂いてもよろしゅうございますよ」
くすくすと笑いながら荊軻が言うがそれはそれで是とは言いにくい。
「蛙の娘子たちに衣を届けねば妾も安堵できぬ。なにより里を長らく空けておったに民達の暮らしぶりも気になるところじゃ。紳も近衛隊隊舎に顔を出さねばならぬようであるしの」
苦笑しながら悧羅が言うが、そんなのすぐに終わると紳は笑っている。荊軻の前にあっても悧羅を背後から抱きしめて決して離れようとはしない。その姿に荊軻は喜ばしくなってしまう。あれほどに傷付き悼ましかった600年前の悧羅が夢でもあったようにも思えた。
「ですが紳様は一時も長を手放したくないようにお見受いたしますよ?今だけは紳様を優先されてもよろしいのでは無いのですか?それだけの事を長は永い間務めてこられたのですから」
「そう申してくれるは嬉しゅう思うが妾も里を預かっておるに。長足る務めも果たさねばいつ王母に華を刈りとられるか分からぬでな」
「そのような事は無いと存知ますけれど…」
笑いながら椅子から立ち上がった荊軻が、こちらへと隣にある小さな小部屋に悧羅と紳を案内する。小部屋とはいえ荊軻の務めを行う主な部屋よりも僅かに小さいはずなのだがそこには山のような文書が整然と置かれている。全てが里のこれまでを記した物でありこの600年で荊軻が纏めあげた物だ。その一角にきちんと衣紋掛けに掛けられた二着の衣があった。一つは湖で悧羅から剥がれ落ちた鱗と同じ蒼色、もう一つは悧羅の髪と同じ薄紫の衣だ。それぞれの襟元と衣の裾には蓮と梅の華が刺繍されている。二尺ほどの背丈しかなかった蛙の娘子の体躯に合わせて四尺ほどであつらえられていた。
「…なんじゃ、もう少しばかり華美な物を求めるかと思うておったに…」
笑いながら衣を触るとさらりとした絹の手触りが心地良かった。
「長を御覧になって華美でなくとも良いと思われたようでございます。衣はただ身体を覆うもの。長のように毅然としておられればそれで良いのだと申しておりました」
荊軻の言葉に悧羅はおや、と笑ってしまう。蛙の娘子たちと会った時には悧羅は疲れ切り弱ささえ見せてしまったというのに娘子たちはそのように思ってくれた事が嬉しかった。
「ならば娘子たちに恥じぬようにせねばなるまいな。あれらがそう思うてくれておるのであらば妾も長足る間は凛としておらねば」
衣を眺めながら言葉を紡ぐ悧羅に、十分でございますよ、と荊軻が微笑む。
「少しばかり力を抜いて頂いてもよろしいほどでございますから。これで宜しければ宮に届けておきましょう。ああ、それと…」
こちらを、と荊軻が文書の山の後ろに紳と悧羅を連れて行く。そこにも衣紋掛けに掛けられた衣があった。だがそれは紳も悧羅も知っている物だ。漆黒の衣に裾に一輪の蓮の華が小さく刺繍されている衣。西王母から賜り悧羅が里に戻った時に消えて無くなっていた物だ。これは?、と首を傾げた悧羅に荊軻が笑っている。
「昨日こちらに参りましたらございました。王母様も寝所には入れなかったようでございますね」
「…そのような事を気にする方ではないのだがな…」
過去幾度か情を交わした後に現れた事もあったのに、と小さく笑いながら悧羅はその衣に目を細めた。前に賜った物と同じように護りの呪が施されているようだ。飛び込んだ湖で失くしてしまったと思っていたが、どうやら西王母が一度手に戻していたようだ。これを纏ったままでは蓮の精気を悧羅の身体に入れることは叶わず東王父の呪も最期で解くことができなかったのかもしれない。
「こちらも宮にお届けしておきます。紳様の務めに共に参られるのでしょう?」
悧羅から離れようとしない紳を見て荊軻が笑っている。よく分かったね、と笑う紳に荊軻は笑うばかりだ。この姿を見て分からないほうがどうかしている。
「お連れするのは宜しいと致しましても隊士達の前で長を慈しみ過ぎることだけはお気をつけてくださいまし。粗方であれば皆慣れておりますが、今の紳様は加減をお忘れのようでございますからね」
「子ども達にも言われたよ。加減を知らないのかって。そんなの忘れたって言ってやったけど」
抱きしめたままの悧羅を引き寄せながら言う紳に、おやおやと荊軻が苦笑している。
「仕方ないだろ?悧羅が可愛いすぎるのがいけないんだから。本当は誰にも見せずに俺だけのものにしときたいんだけど…長だからね」
「…お気持ちはお察し致しますよ。長は特に紳様を堕とすのが御上手のようでございますからね」
笑い続ける荊軻に、そうなんだよ、と紳は嬉しそうだ。ようやく自分の心を分かってくれる者が現れたとますます悧羅に擦り寄っている。このままではここで情を交わされかねない、と荊軻が近衛隊隊舎に向かうように促す。
「長のお心に留めておられるものと、紳様がお抱えになられている務めが滞りなくお済みになられましたら、お気の済むまで慈しまれてようございますよ」
笑みを浮かべたままの荊軻に見送られて紳は悧羅を抱き上げて近衛隊隊舎へと翔けた。道すがら眼下の里を見る悧羅が聞こえてくる民達の笑い声に安堵している。どうやら変わりは無いようだ、と呟くように言う悧羅に、変わりはあるよ?と紳が言う。
「よからぬ事かえ?」
里から視線を紳に移す悧羅に紳は、いいやと笑っている。隊舎に向かって翔ける速さを上げながら、数が増えてる、と微笑んだ。
「子がね、よく生まれるようになった。悧羅が平穏をくれてるから民達も安心して子を生み育てられるようになってる。…戻ってこれなかったら又それもどうなってたか分からないけど悧羅は頑張って里を支え続けてきて、それでもまだ頑張ってあんな呪に抗って戻ってきてくれた。きっとまだまだ増えるよ」
悧羅が戻った嬉しさを隠さない紳は腕に力を込める。この細い身体一つで色々な事を耐え忍んで来てくれたことへの感謝も込めて。
「…子が増えるとは…、良いことだの。なれどそれは妾だけでは為せなんだ。其方が…、紳が妾と共におってくれらばこそ。そうでなければ抗わぬこともあったであろうからの」
腕の中から手を伸ばされて頬に触れられると紳は翔ける足を止めざるを得なくなる。紳を見つめて微笑んでいる悧羅に深く口付けると冷ましていたはずの熱がまた沸り始めてしまう。空に浮いたまま深い口付けを繰り返してしまって唇を離した時には互いの息も上がってしまっていた。離した唇が触れ合うところで、もっと、と強請られてしまい紳は声をあげて笑いながら腕の中の悧羅を強く抱きしめてしまう。
「本当に駄目だなあ…。ちょっとでも我慢できなくなっちゃってるよ、俺」
倖を含んだ笑い声に悧羅もつい声を上げて笑ってしまった。同じことだ、と胸に擦り寄る悧羅の額に口付けてからまた翔け出しながら、宮に戻る?、と悪戯に尋ねてみる。
「戻りとうない、と言うは嘘になるの。…なれど先に済まさねばならぬことがある故…。それらを済ませたら…、その…、妾にまた紳をくりゃるかえ?」
僅かに恥じらいながら紳の衣を掴む悧羅の姿にすぐにでも宮に向かって踵を返したい気持ちを紳はぐっと堪えた。
本当に堕落させるのが上手い。
「全部あげてるのに。じゃあやらなきゃいけない事をさっさと終わらせよう。…でないと俺が保たなくなりそうだ」
近衛隊隊舎が見えて高度を下げ始めると隊舎から出てくる灶絃と玳絃が見えた。二人も降りてくる紳と悧羅に気づいたようで、灶絃が出てきたばかりの隊舎の戸を開けて何か言葉をかけている。悧羅が来たが気にするなとでも言ってくれているのだろう。降り立った紳が抱え上げたままの悧羅を降ろさないのに苦笑しながら、本当に連れてきたの?、と玳絃が笑っている。
「離れたく無いんだから仕方ないだろ?何処か行くところだったのか?」
「昼餉にね。なんなら母様も一緒に行く?預かろうか?」
揶揄うように悧羅の手を取る玳絃から取られないように悧羅を一層抱き寄せて、やらねえよ、と紳が苦笑する。七人いる子ども達の中でも灶絃と玳絃は特に悧羅を好いている。悧羅寄りに似ているからというのもあるだろうが、双子で生まれた時から悧羅の側を離れようとはなかなかしなかった。今は務めにも出ているし悧羅は七月もの間宮にいなかったし、戻ったら戻ったで紳が寝所に引き込んでしまったので二人が悧羅の側で過ごすことは少ないが、悧羅が旅立った後一番混乱し後を追おうとしたのも二人だった。もちろん悧羅が戻った時、紳よりも泣いていたのは言うまでも無い。
「父様ばっかり狡いんだよ。俺たちだって母様と居たいのにさ」
「本当だよ。戻ってきたら戻って来たでずっと寝所に籠られちゃってるし…。あんまり貸してくれないとその内寝所に入り込んでるかもしれないからね?」
取ったままの悧羅の手を引きながら笑う玳絃と、揶揄うような灶絃に、おやまあ、と悧羅は笑っているが紳はますます抱き寄せる腕に力を込めている。
「そんなことしたら俺よりお前たちの方が保たないぞ?」
「そうさのう。湯浴みならば宜しかろうが、寝所での妾は紳だけのもの故。入り込まれては溺れ切れぬやもしれぬな」
くすくすと笑う悧羅に、湯浴みも駄目だってば!と紳の叱る声が振る。それよりも呆れ返って苦笑したのは玳絃と灶絃だ。仮にも子の前で『溺れ切れない』などと悧羅が言うなど里に戻って加減を知らないのは紳だけだと思っていたが、どうやら悧羅も同じらしい。
「はいはい。邪魔はしないように努めるよ。だけど本当にたまには母様を貸してよね?」
肩を竦めながら悧羅の手を離した玳絃は灶絃と笑いながら昼餉を摂りに歩き出してしまった。ほっと安堵の嘆息をつく紳を見上げると、ほんとにもう、と笑いながら隊舎の中に入る。悧羅を抱え上げたまま入ってきた紳に隊士達が膝を着こうとするが、そのままでいいよ、と別の方から声が振った。紳や悧羅が言う前にそんな事を言えるのは忋抖しかいない。
「さっき灶絃も言ってたろ?居ないものと思ってくれていい。どうせ父…、隊長は母様の事しか見えてないから」
笑いながら言う忋抖に、ですがという戸惑った声が彼方此方から上がるが、いいって、と後押ししたのは舜啓だ。
「本当に連れてくるとは思ってなかったけどね。…本当にもう…。卓の上に置いてますよ」
一応は隊舎の中なので紳に対しての言葉遣いには気をつけながら舜啓が卓を指し示した。卓の横に椅子を持って行こうとした皓滓も、いらないか、と笑いながら思い留まったようだ。どうせ紳は悧羅を離すことはない。椅子など持っていったところで悧羅をそこに座らせるとは思えなかった。案の定、卓に積まれた文書の数に肩を落としながら椅子に座った紳はそのまま悧羅を膝の上に乗せている。文書を開きながら筆を走らせ始める紳に、邪魔であろ?と悧羅が降りようとするが、全くと笑いながら口付けている始末だ。
「本当にもう…。近衛隊隊長の威厳も何もあったものじゃないよ」
苦笑する忋抖の横から哀玥が顔を出して悧羅に擦り寄ってくる。その体躯を撫でながら悧羅が啝珈は?と尋ねると見廻りに出てる、と忋抖が教えてくれた。
「忙がしゅうにしておる刻に来てしもうたのだな。其方たちの務め振りも見れるやも、と思うて参ったのだが」
「これが忙がしそうに見える?諍いもないし鍛錬と見廻りくらいちゃんとしないとね。まあ忙しいのは隊長の代わりに色々としなきゃいけない副隊長くらいのもんだよ」
ねえ?、と皓滓に見られて舜啓は苦笑するしかない。紳のようにとまではいかないが隊士達の質を下げないように鍛錬は厳しくしているつもりだ。だが紳と悧羅が寝所に籠っていたため朝議も無く、荊軻や枉駕とは直に会うか文書で報せを交わしている。まだ舜啓でも事足りる事ではあるので困ってはいないが、それでも紳でなければならない事は出て来てしまう。それが卓の上に積まれた文書の山だった。
宮に持ち帰っても紳が出てこないのであれば持ち帰る意味もない。仕方なく隊舎の卓の上に置いていたのだが紳の顔が見えないほどに積まれてしまっていた。
「何でこんなに溜まってるんだよ。さっさとやらなきゃいけない事終わらせないと悧羅と籠れないじゃないか」
ぶつぶつと言いながらも手と目は動かし続ける紳を、だから籠るからそうなるの、と皓滓が諫めた。
「加減を知らないからこうなるんだよ」
嘆息する皓滓の言葉に紳が顔を上げて悧羅を見る。
「…叱られた」
苦笑しながら悧羅に口付ける紳に、だから!と皓滓が悧羅の手を取った。
「加減を知ってってば!隊士達の前でそんなんばっかりしてたら母様取り上げるよ?」
引かれる手を柔らかく握り返す悧羅を見て、紳が慌てたように筆を置いて離れようとした細い身体を引き寄せる。
「取り上げてくれるなよ。隊士達なら大丈夫だ。お前が生まれる前から俺はこんな感じだから」
「…その頃いなかった隊士達もいるんだけど?」
「それは慣れてもらわないと困る。隊長命令だな。最優先で慣れろ。それに言ったろ?加減なんて忘れたんだ。取り上げられたらこれ全部舜啓に廻すからな?」
「それは俺が困る!皓滓、悧羅の手、離してやって!」
まるで宮の中でのような姿を見せられて周りにいた隊士達の誰からともなく笑いが起き始めた。このような姿を見れるなど誉でもあったし、何より紳に慈しまれて最愛の子らに囲まれている悧羅の顔が見たことのないほど柔らかく穏やかに微笑んでいたからだ。
このお二人が共にあられるならば平穏な里の暮らしは揺らぐことがないだろう。
誰もがそう思い誰もが倖に包まれた。
前のものを読み返しながら訂正も加えております。
我ながら誤字脱字の多いこと…。
それをしていましたら間が空いてしまいました。
前々のものも少しずつ訂正見直ししながら進めて参ります。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。