追憶【漆】《ツイオク【シチ】》
紳にかならず迎えに来る、と約束した次の朝、悧羅は後ろ髪を引かれる思いで、過ごした邸を後にした。妲己には紳と共にいてやってほしいと願ったが、断固として拒否された。
“主の、お側を離れるなど出来ませぬ”
何度願っても折れないので、紳も、大丈夫だ、と悧羅に言う。
「ここで、ちゃんと待ってるから」
それから、と悧羅の手を取って箱を握らせる。訝しんでいると、開けて、と促された。中には、白銀に輝く絹の組紐が一つ、丁寧に束ねられて納まっている。これ、と悧羅が聞くと、母のものだと紳は笑った。母が殺されて、邸が潰される前にそれだけ持ち出せたのだと言う。そんなに大事なものを受け取るわけにはいかない、と押し戻すと、紳がもう一度悧羅の手に箱を握らせる。
「母も、俺と同じ髪色だった。俺が生まれた時に祝いとして、作ったらしい。だから、悧羅に持ってて欲しいんだ。身につけていてくれると、俺が側にいると思えるから」
微笑む紳に、礼を言って、悧羅はその場で組紐を髪に編み込んだ。薄紫の髪に白銀の組紐が映える。
「大事にする」
箱も袂に入れながら悧羅が言うと抱きしめられる。必ず迎えに来るから、と言い残して悧羅は妲己と共に愛しい胸から離れざるを得なかった。
邸を出た悧羅と妲己は、咲耶の診療所にも寄り、宮に行くと伝えた。咲耶は、別段驚きもせず普段通りだった。ただ、一言、私は変わらないわよ、と笑うだけだ。一応人前では敬う振りくらいはしてあげる、と言われて悧羅は幾ばくかの緊張が解けたのを感じていた。
都に着くと、悧羅は唖然としてしまった。二月程前に訪れた時よりも、荒廃が進んでいたのだ。街のあちらこちらでは、腐臭も漂っている。川辺では、火が焚かれていたが、周りには沢山の鬼が集まりそれぞれに嗚咽を漏らしている。遺体を火葬しているのは、すぐに分かった。人が焼ける独特の臭いがしたから。老齢から若い男女まで、様々な鬼が焚き上がる焔を見つめている。いたたまれずに、その場を足早に通り過ぎて、悧羅は先代長の宮へと急いだ。道も閑散としているため、思ったよりも早く着けそうだ。周囲の状況に、気を取られなければ、の話だが。
“主よ、大事ございませぬか”
火葬を見た後から悧羅の表情が暗いことを察して妲己が声をかける。悧羅は、うん、とだけ応えた。
これは、今の里のほんの一部分でしかないはずだから。
一度通ったことのある道を、やや急足で進んで悧羅は先代長の宮の前に立った。主を失ったというのに、その佇まいだけは豪奢で、変わりがない。門扉も閉ざされたままだ。門の両側には、前に見たときと同じように隊士が蹲っている。取りあえず、近い方で、と左側の隊士に声をかけるが返答はない。もう一度、もし、と声をかけて肩に手を置くと隊士の体が流れるように倒れた。その顔には血の気がない。手をかざして息をしているか確かめてみたが、無駄だった。小さく息をついて、右側の隊士の方へ近づく。もし、と声をかけると、こちらの方はゆっくりと顔を上げた。若い男だ。左の方は、中年といった感じだったので、こちらの方が体力があったのだろう。だが、こちらはこちらで虚な眼をしているし、まともな会話ができるかすら疑問だった。取りあえず、懐から水筒を出して男に握らせる。飲んで、と言うが、男の腕は動かない。動かすだけの力が残ってないのだ。
一度握らせた水筒を手に取って、男の身体を支えながら口にあてがった。最初は少し。わずかばかりの水を男が飲み込むのを確かめて、次もまた同じように繰り返す。数回繰り返すと、男は自分で水筒を持ち勢いよく全てを飲み干した。空になった水筒と悧羅を見比べて、ありがとう、と礼を言う。虚だった眼にも力がこもり始めている。
「助かりました。本当にありがとう」
地面に額が着くほどに伏せて礼を言う男に、悧羅は良かったと笑った。ところで、と話を切り出すと男が顔をあげる。
「この場所の、偉い方に取りついでいただきたいのです」
視線を同じくして悧羅は男に、取りつぎを頼む。男はきょとんとした顔で、悧羅を見つめている。出来そうですか?、と尋ねられて男はゆっくりと立ち上がった。長いこと蹲っていたせいで膝が震えたがなんとか立つことはできた。腰に携えていた刀を支えにすれば、どうにか歩けそうだ。よくわからないが、目の前の女は恩人だ。しかも、嫌とは言えない雰囲気もあった。門扉に向かって、開門!と叫んだが返事がない。だんだん、と門扉を打ち付けても返事はなかった。多分、中で事切れているのだろう。大きく溜め息をつく男に、悧羅は、開けてもよろしいかしら、と尋ねる。
中の者が務めを遂行できない状況ならば、男に異論はなかった。どうぞ、と伝えると巨大な門を片手で空気でも押すかのように悧羅は押し開いた。開けたそばから、どうぞ、と言われて男も中に入る。悧羅には案内役が必要だったから、男に先導してもらわなければならなかった。男が入ると、背後で轟音を立てて門扉が閉じる。案の定、中の隊士も門扉の脇で倒れ込んでいた。息があるのかどうかも分からなかったが、とりあえずは男は道を進む。宮の中庭まで行けば、上官の一人や二人、残っているはずだ。
男が先導し、悧羅と妲己が後をついてくる。進む道すがらにも倒れたり、蹲ったりしている隊士が沢山見えた。長すぎる道を進んで、やっと中庭までたどり着いた時には、男の体力は限界に近かった。それを見ていた悧羅は、男の腕を支えて長く続く縁側に男を座らせた。その背後に戸がある。こんなところには座れない、と男は言ったが、悧羅には意味が分からなかった。休むべき場所があるのだから、休めばいい。
男の背後に視線を移して、ここにおられるの?、と尋ねる。そのはずです、と男は項垂れた。妲己、と悧羅が呼ぶと軽々と跳躍し、妲己が尾で戸を叩いた。一度、二度では返事がない。三度叩こうとして、戸が開いた。出てきたのは老齢の男鬼だ。
「何ぞ?」
名乗りもせずに男は悧羅と妲己を見る。ぐるりと一瞥して、縁側に座っている男を見つけ、何をしている!と叫んだ。
「ここをどこだと思うておる!其方などが、腰掛けて良い場所ではない!」
言うや否や、男の襟首を掴もうとした、瞬間。老齢の男の手が紫の炎に包まれた。思わず、出していた手を引くと、炎が消える。一瞬だったが、鮮やかな紫色の鬼火だった。
「生命をかけて門を守っていたものに対しての振る舞いとは思えませぬ」
声をかけられて、男は視線を戻した。その声は穏やかだが、冷たい。軽蔑されているのだ、と男は悟った。
「何を申すか!ここがどなたの宮であるか存じておらぬわけではあるまい。一介の門番如き隊士が腰を降ろして良い場所ではないのだ!」
顔を紅潮させて、叫ぶが悧羅は全く動じない。
「滑稽です。主などとうにいないこの場所は、誰がどこにいても構わないはず。それよりも貴方は知っているのですか?この宮の中でも倒れている者が沢山おりましたよ」
「知っている。だが、それがどうしたというのだ。今は、そんな事よりも大事な事がある」
そんな事、と悧羅は男を睨みつけた。
「貴方のほかに、その戸の向こうにいる方は居ないのですか?」
「居るにはいるが、皆忙しいのだ」
お前などに構っている暇はない、とでも言うように男は手を振って見せた。悧羅の中で、軽蔑の色が濃くなっていく。妲己、と再度声をかけると妲己の体が突如巨大になる。巨大な尾で、一打ちすると、戸だけでなく屋根までも吹き飛んだ。老齢の男が唖然としている前で、煙撒く中から喧騒が聞こえ、次々に鬼神が姿を現した。男、女、合わせて20といったところだ。縁側に出てきた鬼たちは、一様に妲己の姿に息を呑み、その後悧羅に視線を向けた。辺りは静まりかえっている。さて、と悧羅が発した。
「残っている官吏の皆様はこれだけですか?」
その問いにはだれも応えない。悧羅も別段応えを期待してはいなかった。するり、と衣を肩までずらして官吏達に背を向ける。その場のもの、全てが息を呑む音が聞こえた。
「言わずとも十分ですよね」
衣を正して視線を伸ばした悧羅の前には、地面に移動し伏している官吏達の姿があった。
実は、妲己は大きくなれるのです。
ありがとうございました。