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戻る《モドル》

遅くなりました。

更新いたします。

突然(トツゼン)目の前に現れた西王母(セイオウボ)(シン)は思わず目を見開いた。悧羅(リラ)が里を出てから七月(ナナツキ)、その間里を護ることが自分に出来ることだと鼓舞(コブ)して近衛(コノエ)(ツト)めをこなしてきた。悧羅が居ないのだから西王母(セイオウボ)の姿を見ることもなく、(ニン)()ろされることもなく只々(タダタダ)日常(ニチジョウ)を繰り返しているだけだった。夜毎(ヨゴト)(カイナ)(ツツ)んで(イツク)しみ続けてきた者が居ないだけで大きな不安が押し寄せることもしばしばで、不意(フイ)に心に(セマ)りくる最悪(サイアク)事柄(コトガラ)を必死に()(コロ)して待っているのに現れたのは()がれて()まない悧羅ではなかった。何かあったのか、と(ハヤ)る心を(オサ)えながら礼を取ろうとすると、良い、と声がかかる。


(ジカン)が無い。手短(テミジカ)(ムスメ)からの言伝(コトヅテ)を話す。(ワタクシ)下賜(カシ)した(ハナ)をすべからく()()(ミズウミ)に浮かべよ。早急(サッキュウ)に」


何かあったのか、と(タズ)ねたい思いはあったが西王母(セイオウボ)の表情はそれを(ユル)さないようだ。同時に紳の背中をぶるりと(フル)えと冷たい汗が流れ落ちた。何も無く西王母(セイオウボ)が現れるなど考えられない。


「…悧羅は…」


(シボ)り出した声が(フル)えてしまうが、今のところは、とだけ返された。(ハジ)かれたように近衛隊隊舎(コノエタイタイシャ)を飛び出して宮まで全力で()(ノボ)る。悧羅の居ない部屋に一人でいるのが苦しくてならなくて近頃(チカゴロ)は遅くまで隊舎(タイシャ)にいる事が多かった。それが今日ばかりは()やまれる。宮に居ればすぐにでも対処(タイショ)できたものを。(クチビル)()みながら宮に降りると夜であるというのに紳は声を張り上げて(ミナ)を呼んだ。初めて聞くような紳の悲痛(ヒツウ)(サケ)びに休んでいただろう子どもたちや磐里(バンリ)加嬬(カジュ)、それに妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)が中庭に飛び出してきた。出てきた(ミナ)が目にしたのは一心不乱(イッシンフラン)下賜(カシ)された(ハス)の華をかき集めている紳の姿だ。


“何があった?!”


()け寄った妲己(ダッキ)重鎮達(ジュウチンタチ)を呼んできてくれ、とだけ伝えて紳は華を集め続けている。それだけで悧羅の身に何某(ナニガシ)かよろしくない事が起きているのだと(サト)って妲己(ダッキ)()け出した。


父様(トウサマ)?」


旦那様(ダンナサマ)?」


走り寄ってくる(ミナ)視線(シセン)を返すこともせずに紳は、華を集めて(ミズウミ)へ、とだけ伝えた。青ざめている紳の表情に子ども達が華を集め始めると加嬬(カジュ)磐里(バンリ)は大きな布袋(ヌノブクロ)を取りに走った。集めた華を袋に入れてそれを哀玥(アイゲツ)俊足(シュンソク)(ミズウミ)に運んで浮かべる。それを三度(ミタビ)繰り返した頃に妲己(ダッキ)に乗せられた荊軻(ケイカツ)枉駕(オウガイ)栄州(エイシュウ)が宮に着いた。


何事(ナニゴト)でございますか?!」


池に入って華を集め続ける紳や子ども達に駆け寄りながら三人が発すると、王母様(オウボサマ)が来た、と紳が手を休めることなく(ツブヤ)いた。それに子ども達や女官達(ニョカンタチ)の手が止まる。


「まさか(オサ)によからぬことでも?!」


「わからない。ただ悧羅の言伝(コトヅテ)らしい。でも()()()()()()()()()はわかる。(タズ)ねる(ジカン)()しかった」


冷え切って()れそぼった紳の身体(カラダ)が小さく(フル)えているのが見えて(ミナ)止めていた手をまた急いで動かし始める。寒いから(フル)えているのではない。


ただ(オソロ)しいのだ。


どのような姿で(モド)ってきても(イツク)しみ続けられる自信はある。だが(ウデ)の中に(イダ)けなくなることだけは()えられない。


この七月(ナナツキ)、きっと戻ってきてくれると信じて待っていた。必ずや(アラゴ)うてみせましょうと悧羅が言ってくれたから、それだけを信じて待ち続けた。何かあれば(チギ)りの(キズ)から(ツナ)がるはずだが悧羅が(コバ)んでいるのか、又は別のナニかが(カカ)わっているのか五月(イツツキ)()ぎた辺りから何も伝わらなくなっていた。それでも生命(イノチ)()きているようではない、それだけは何故(ナゼ)か伝わった。


だからこそ信じて待ち続けたのだ。


(タノ)むから(ウバ)わないでくれ。


華をかき集めながら(ダレ)に願うでもなく思ってしまう。


二度と自分から悧羅を(ウバ)わないでくれ、と()い願うようにひたすらに手を動かして華を集め続ける。華はこの150年で池を広げなければならないほどに下賜(カシ)されている。集めても集めても先が見えないがやるしかないのだ。子ども達も女官達(ニョカンタチ)重鎮達(ジュウチンタチ)さえも池に入って華を集め続けて妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)で運ぶ。少しでも早くという思いからか妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)も尾で華を一箇所に集め続け、ようやく全て(ウツ)し終えた時には(マワ)りが(シラ)み始めていた。


ぐったりとした(ミナ)体躯(タイク)を大きくした妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)(ミズウミ)まで運んでくれた。自分たちも(ツカ)れ切っているだろうにとは思うが甘えるしか無さそうだった。(ミズウミ)を見ると広いはずの場が全て(ハス)の華で()()くされていた。(シラ)み始めた景色(ケシキ)の中で何千もの(ハス)揺蕩(タユタ)っている(サマ)はさすがに壮観(ソウカン)としか言いようがない。けれどこれがどうなるのかなど紳にもわからない。とりあえずはこれで待つしかないのか、とその場に座り()むと皆も次々に(スワ)()み始めた。身体も冷え切って(コロモ)()れそぼっているがどうでも良かった。(タノ)む、と頭を(カカ)えた紳に(オボ)えのない気配(ケハイ)が里の門を開いた感覚が走った。思わず空を振り(アオ)ぐとそれは紳だけが感じたものでは無かったらしい。一本角(イッポンヅノ)である者たちはもちろん、妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)もその気配(ケハイ)が近づいて来る方を見やって低く(ウナ)り始めている。


「…ナニモノでございましょう…。易々(ヤスヤス)と門を(クグ)るなど…」


(スワ)()んだばかりだったというのに立ち上がりながら荊軻(ケイカツ)(スゴ)い速さで(セマ)ってくるモノの方を見やる。ナニモノであれ悧羅の掛けた(マジナイ)のある門を容易(タヤス)(ヤブ)るなどタダモノではない。それだけは確かだ。


「…悧羅の気配(ケハイ)にしては少し異質(イシツ)なモノが混じりすぎてるよね?」


(イブカ)しむ舜啓(シュンケイ)もいつでも動けるように身構(ミガマ)え始めた。見つめ続ける先に異形(イギョウ)(アヤカシ)が見えて()け出そうとする(ミナ)を、待て!、と紳が止めた。父様(トウサマ)?、と振り返る視線が集まるのは分かったが()()()()()。その異形(イギョウ)の背で(ヒルガエ)漆黒(シッコク)(コロモ)が。


「悧羅!!!」


(サケ)んで()け上がろうとしたがそれは()されなかった。


ジカンが無い!邪魔(ジャマ)だてするな!!】


低くそれでも強い異形(イギョウ)のモノの(サケ)びに動きを止められてしまう。ただソノモノも悧羅を(スク)おうとしていることだけは分かった。姿が見えて(サケ)びが聞こえた刹那(セツナ)、ソノモノは背に悧羅を乗せたまま華の中に飛び込んだ。勢い良く飛び込んだため大きな水飛沫(ミズシブキ)が上がる。


「悧羅!!」


(サケ)んで飛び込もうとした紳の(ウデ)姚妃(ヨウヒ)(ツカ)んだ。離せ!、と叫んでみるが駄目(ダメ)よ!、と声を張り上げられる。見て!、ともう一度張り上げられた声に(ミズウミ)を見ると一面の(ハス)が溶け始めて薄紫(ウスムラサキ)の糸となって悧羅とナニモノかが(シズ)んだ場に集まっている。だがそれも(マバタ)きの間だ。全ての薄紫(ウスムラサキ)の糸は一点に集まり光となって消える。波紋(ハモン)が残る(ミズウミ)に、ごぽりと(アワ)が浮いた。(アワ)は小さくそして大きくなり、見つめる先で()ね上がるように見えたのは(ムラサキ)の長い(カミ)と青く光る(ウロコ)(オオ)いつくされた半身だ。遠くからでも見えるその(ウロコ)がじゃらりと(クズ)れ落ちていく音と共に真っ白な(ハダ)(アラワ)になっていく。漆黒(シッコク)(コロモ)は見えず、じゃらりとした音だけが響き続けている。(シラ)んでいた周囲(シュウイ)(ノボ)り始めた陽光(ヨウコウ)()らし出され始めるまでその音は続き、ようやく()んだ時に聞こえたのは大きな嘆息(タンソク)だった。


ふうっと大きく息をはいて悧羅は自分の身体を確かめる。腕を伸ばしたり腹や脚を見てみたりするがあれほどに身体を()め尽くしていた(ウロコ)はなく身体の痛みも消えている。さすがに背中は見ることは出来なかったので腕を廻して触ってみたが(カタ)(ウロコ)は触れることは出来なかった。次いで幾度(イクド)呼吸(コキュウ)をしてみるが()め付けられるようだった息苦しさもない。限界(ゲンカイ)だと感じていた身体の力も戻り、どちらかと言えば()(アフ)れているほどだ。


どうやら考えは間違(マチガ)っていなかったようだ。


ほうっと安堵(アンド)すると目の前に(リュウ)の頭が水面(スイメン)から半分顔を出して悧羅を見ていた。見たことのないモノに首を(カシ)げてみるが悧羅を見つめる(マナコ)の色は金だ。


「…もしや、睚眦(ガイシ)か?…」


【…そのようだ…】


金の(マナコ)が少し細められて悧羅の周りを泳ぎ始める。(マミ)えた時の(ケモノ)の姿ではなく(ミズウミ)揺蕩(タユタ)うような長い身体と(オオ)(ウロコ)が見えた。悧羅から落ちた全ての(ウロコ)睚眦(ガイシ)体躯(タイク)の一部となり親に近づくことができたらしい。


「これはまた…。変わったものだな」


くすりと笑って悧羅は顔を出した睚眦(ガイシ)(コウベ)を抱きしめた。


「礼を言う。間に合わせてくれたのだな」


【…(モト)は俺の(セキ)だ。それに俺はあのように(イツク)しまれたことなどなかったし、お前は稀有(ケウ)な者だと分かったからな。なんとしても間に合わせたかった。だが礼を言うのは俺の方のようだ】


見よ、と言われて悧羅が抱きしめていた腕を離すと睚眦(ガイシ)が上を向く。逆鱗(ゲキリン)と呼ばれる一つだけ逆に生えた(ウロコ)(ハス)の華が(キザ)まれているのが見えて、おや、と苦笑する悧羅に、そういうわけだ、と睚眦(ガイシ)も笑い始めた。


【このようなわけであるから此処(ココ)に住むぞ?】


其方(ソナタ)がよろしければ(ワラワ)異論(イロン)などはない。世話(セワ)になったことでもあるし…。なれど里の者たちに(ガイ)()してくれるでないよ?」


【…()()(キザ)まれて()せようものか。お前の役には立てると思うがな】


笑いながら睚眦(ガイシ)が空高く()い上がる。長い体躯(タイク)揺蕩(タユタ)わせて空を(オヨ)いでいく睚眦(ガイシ)を見上げると先程(サキホド)まで自分の身体に()えていた(ウロコ)()()らされて(カガ)やいた。


また(ニギ)やかになりそうだ、と湖面(コメン)から上がろうとして、悧羅!、と頭上(ズジョウ)から声が降った。()(アオ)ごうとしたが代わりに目の前にどぼん、と勢いよく飛び込んだのか水飛沫(ミズシブキ)があがる。思わず顔を(オオ)うと同時に強く引き寄せられた。ずっと()がれていた声と(ニオ)いに思わず大きな嘆息(タンソク)()れる。


「紳」


名を呼ぶと抱きしめられる腕の力が強くなる。かたかたと(フル)えている背中に腕を回して胸に()り寄りながら、悧羅も紳を強く抱きしめた。


「…(チコ)うた通りここに(モド)ったえ。…長らく待たせてすまなんだ」


「…よかった…。もう心がどうにかなりそうだった…」


(フル)え続ける身体を、もう大事(ダイジ)ない、と幾度(イクド)もさすり続けると嗚咽(オエツ)が聞こえだす。


「もう何処(ドコ)にも()かぬ。其方(ソナタ)の腕に戻ることだけを思うて(アラゴ)うたのだから」


泣いてくれるな、と背中をさすりながらますます胸に擦り寄る悧羅を力の(カギ)り紳が抱きしめた、その刹那(セツナ)


悲痛(ヒツウ)のような号泣(ゴウキュウ)が紳から(アフ)れ出した。子ども達や女官達(ニョカンタチ)、ましてや重鎮達(ジュウチンタチ)が居る場で泣き(サケ)ぶなど普段(フダン)の紳であれば考えられない。だが衆目(シュウモク)など関係(カンケイ)なかった。とにかく(オソロ)しくて(コワ)くて不安で(タマ)らなかったのだ。別れた時の悧羅は話すことすら息があがっていたのにそれを知っていて(ナオ)、たった一人で旅立(タビダ)たせなければならなかった。(ツナ)がれた手は二度と離れる事がないと思っていたのに、離さなければならなかった。もしかしたら、と不安が(ヨギ)らない日などなく、それでも紳には出来ることなど待つことしか(ユル)されなかった。


それがどんなに苦しかったか。

それがどんなに痛かったか。


ようやく腕の中に戻った名を幾度(イクド)も呼び続ける紳に、ここにおる、と悧羅も呼ばれる(ゴト)(コタ)える。抱きしめられる力の強さに息が苦しくなるがそれでも(オダ)やかに紳の背中をさすり続けた。


「…(オソロ)しゅう思うてくれておったのだな…。すまなんだ。…もう其方(ソナタ)の腕の中から出るようなことはせぬ」


嗚咽(オエツ)をあげ続ける紳に語りかけるように伝えるしか今の悧羅に出来る事などない。だが(ウレ)しくも感じてしまうのは悧羅の心が浅はかだからなのか?戻ってくることをこんなにも待ち望んでいてくれた。恋焦(コイコ)がれていたのは悧羅だけでは無かった。その想いが嗚咽(オエツ)を上げる紳の全てから伝わって心を満たしてくれる。愛しい者が自分のことで泣き叫んでいるのに、こんなにも強く想われていることが(サイワイ)でならない。()()()()()以外に悧羅の(カエ)る場などないのにやはり長らく(ツツ)まれていないと不安に思ってしまうのは自分だけでは無かったのだ。


本当に(サイワイ)ばかりもろうてしもうておるな。


つい小さく微笑(ホホエ)んでしまいながら紳が落ち着きを取り戻すまで抱きしめ続けているとどうにか涙が止まったのかようやく耳元で大きな嘆息(タンソク)が聞こえた。それでも腕の力は弱まらない。


「落ち着いたかえ?」


抱きしめたままの背中を優しく(タタ)くと返事の代わりに小さく頭が動いた。そうか、と胸に()り寄ると、ざぶりと(ミズウミ)の中に引き込まれた。浮かぶことをやめた紳が悧羅を抱きしめたまま身体を水の中に(シズ)めたからだ。上に見える湖面(コメン)に気を取られていると深く、とても深く口付けられた。冷たい水の中にあって()()だけが(アタタ)かい。思わず湖面(コメン)に向けて伸ばしていた腕を紳の首に廻すと、ようやく悧羅にも()()()()()()()という実感(ジッカン)()き上がってくる。今度は悧羅が泣き出しそうになるのを必死に(コラ)えて(カサ)ねられ確かめられるように(ツイバ)んでくる(クチビル)を受け入れた。とはいえ水の中だ。(タガ)いの呼吸が()つまでの短い(ジカン)ではあったけれど(クチビル)(ハナ)されて湖面(コメン)から顔を出した時には息が上がってしまって身体も火照(ホテ)(ウズ)きだしていた。もっと、と()うと水の(シタタ)る髪の間から紳の目が(ワラ)ったのが見えた。


「もちろん俺もそうしたいんだけど…。ここじゃまずいんだ」


泣いていた目も冷たい水で冷やされたからか少し赤みが残っている程度だ。その目を見つめて首を(カシ)げる悧羅に紳が(ミズウミ)(ホト)りを指さした。視線を返すと悧羅の目にその場に(クズ)れるようにして泣いている子ども達や女官達(ニョカンタチ)重鎮達(ジュウチンタチ)の姿が見えた。紳の事しか見えていなかったが確かにこのままでは紳の腕の中で過ごすことは(ムズカ)しそうだ。


栄州(エイシュウ)枉駕(オウガイ)磐里(バンリ)加嬬(カジュ)まで…。話してしもうたのか?」


「さすがに悧羅が数ヶ月も居ないと可笑(オカ)しいでしょ?」


話さざるを()なかった、と言われては確かにそうだと悧羅も(ウナズ)くしかない。里の(カナメ)である(オサ)が何らかの(マジナイ)にかけられているなど心配させてしまうだけだと思っていたので悧羅は出立(シュッタツ)するまで内密(ナイミツ)にしていたのだが、話さねばならないと紳が判断(ハンダン)したのであれば悧羅に何も言う事などない。


妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)の姿が見えぬが?」


「え?さっきまで一緒にいたんだけど…。ああ、ほら」


指を指された方を見ると二人が悧羅の(コロモ)手拭(テヌグ)いをそれぞれに(クワ)えて()けてくるのが見えた。そういえば(マト)っていたはずの漆黒(シッコク)(コロモ)は見当たらない。よくよく見てみれば何も(マト)っていないことにようやく気づいて悧羅はまた首を(カシ)げてしまう。


「これでは上がることも出来なんだな」


「それが分かってるから二人が走ったんだろうね。本当に有難(アリガタ)いよ。俺の(コロモ)を使おうにも()れちゃってるから、余計(ヨケイ)に身体を冷やすところだった」


くすくすと二人で笑い合いながら(ホト)りに向かって紳が悧羅を抱きしめたまま泳ぎ出す。自分で泳げる、と言うが首を振られた。


「今は絶対に離したくないだけだから。我慢(ガマン)して」


「…それは(ワラワ)とて同じことなれど、泳ぎにくかろうて」


「離れてたことを思えば何てことない。しばらく離せなくなるけど良いよね?」


「…それも(ユル)しを与えねばならぬことなのかえ?」


「…いらないねぇ?…まあ、許してもらえなくても無理だけど」


であろう?、と腕の中に(トラ)われたまま(ホト)りに着くと、(アルジ)!、と()えながら妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)が走りよって体躯(タイク)を大きくする。何も(マト)っていない悧羅の身体を皆から(カク)すためだろうが水から上がるとそのまま()り寄られてしまう。


(アルジ)よ、よくぞ御無事(ゴブジ)で…”


(クワ)えていた手拭(テヌグ)いも(コロモ)も落として鳴きながら体躯(タイク)を寄せてくる妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)にも心労(シンロウ)を掛けたことを()びる悧羅に二人はますます体躯(タイク)を寄せる。


“またこうして(ハベ)らせて(イタダ)けるのです。それが何よりの褒美(ホウビ)にございますれば、もう決してお(ソバ)を離れることなどなきように”


(アン)ずるな。離せと申されても(ワラワ)其方(ソナタ)達を手放(テバナ)せはせぬ。それと新たな者も()いてきてしもうた。其方(ソナタ)たちで色々と教えてやってたも」


二人を()でながら上を見ると睚眦(ガイシ)が長い体躯(タイク)悠々(ユウユウ)と空を泳いでいる。まるで初めて水を知った(ウオ)のようだ。あれは?、と哀玥(アイゲツ)(タズ)ねられて、睚眦(ガイシ)だと(コタ)える悧羅に二人が毛を逆立(サカダ)てた。


(アルジ)を苦しめた元凶(ゲンキョウ)ではございませぬか!”


低く(ウナ)りだす哀玥(アイゲツ)を、大事(ダイジ)ないと笑って止める。


「あれの懸命(ケンメイ)な走りで(ワラワ)は救われた。共に(ハス)の中に飛び込んだ(ユエ)、あれにも(ワラワ)能力(チカラ)が流れ込んでしもうたようだ。哀玥(アイゲツ)のように(シルシ)(キザ)まれてしもうての」


小さく笑い続ける悧羅に、なんと、と二人が大きな目を見開いた。


「とは申してもまだ(ワラベ)のようなもの。手を()くやもしれぬが世話(セワ)(タノ)まれてくりゃれ」


“…(アルジ)(メイ)とあらば…。ですが(マコト)大事(ダイジ)ないのでございましょうな?”


(イブカ)しむ妲己(ダッキ)に笑っていると背中から(コロモ)が掛けられた。二人に()り寄られたためかすっかり悧羅の身体は(カワ)いてしまっている。それでも何も(マト)っていない姿では待っている(ミナ)の前に顔は出せない。


「とりあえずお前たちの気持ちも分かるけどさ。俺に返してよ」


自分は落とされていた手拭(テヌグ)いを頭に掛けて悧羅の(コロモ)を整えると紳が苦笑する。


「みんなも待ってるし、はやいとこ済ませないと一人占(ヒトリジ)め出来ないんだ」


手拭(テヌグ)いで頭を()き始める紳に(ウナガ)されて渋々(シブシブ)妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)が横に体躯(タイク)をずらしたが悧羅の(ソバ)から離れる気は無いようで両隣(リョウドナリ)にぴったりと(ハベ)っている。ようやく悧羅の顔が見えて子ども達が母様(カアサマ)!、と飛びついてくる。磐里(バンリ)加嬬(カジュ)は一歩下がったが悧羅が手招(テマネ)きするとその手を()(イダ)いて泣き(クズ)れた。細い身体に七人もの大きな子らが抱きついて、(ツブ)れちゃうだろ!、と紳が子ども達を(タシナ)める。良い、と笑う悧羅から子ども達を紳が一人引き()がすと次の子がまた抱きついてしまう。どの子も舜啓(シュンケイ)瑞雨(ズイウ)憂玘(ウイキ)も泣きながら悧羅の無事(ブジ)を確かめて本当に良かったとその場に座り込んでしまった。


ようやく子ども達から(ハナ)たれて悧羅は重鎮達(ジュウチンタチ)に目を向ける。立ってはいるが三人も(アフ)れる涙を止められないようで(コロモ)(カク)そうとはしているがどうにもならないようだ。


「長らく里を()けてすまなんだ。(ワラワ)のおらぬ間、里を護ってくれておったこと、まずは礼を言う」


座り込んだ子ども達から重鎮達(ジュウチンタチ)の方へ()を進めてすぐ前で止まるの頭を下げる悧羅に、(オサ)!、と(アワ)ててように枉駕(オウガイ)が頭を上げてくれと哀願(アイガン)する。それに苦笑しながら頭を上げると、ほんにもう、と栄州(エイシュウ)が微笑んでいる。


栄州(エイシュウ)枉駕(オウガイ)には何も申さずに出たこと(ユル)してたも。()らぬ心労(シンロウ)を掛けたくは無かったのだが…。余計(ヨケイ)心労(シンロウ)をかけてしもうたようじゃ」


「まったくですな。紳様や荊軻(ケイカツ)殿から聞かされた時には(ワレ)らの生命(イノチ)が尽きたかと思いましたぞ?」


大きな嘆息(タンソク)と共に涙を()いている栄州(エイシュウ)が、のう?、と枉駕(オウガイ)を見る。


(ワレ)らばかりが何も(シラ)されておらぬなど…。勢い余って荊軻(ケイカツ)(ナグ)るところでございました。(ワレ)らには(シン)()らぬのか、と」


(ナグ)るところ、ではなく(ナグ)ったではないですか…」


ちらりと枉駕(オウガイ)を見やる荊軻(ケイカツ)に、おや、と悧羅が笑う。


「あんなもの(ナグ)った内には入らぬ。ですがほんにようございました。何も(シラ)されておらなんだ分、色々とお(タズ)ねしたいことがございますが…。(アラタ)めた方が紳様にはよろしゅうございますか?」


ようやく止まった涙がまだ(カワ)いてもいないのに悧羅を(イサ)めるように枉駕(オウガイ)が言う。それには悧羅も笑うしか無いが、心の底から心配してくれていたからこそ本当に怒っていたのだろう。


「…いや。紳には申し訳なく思うが先に其方(ソナタ)達に話さねばねるまいよ。(タノ)み事もある(ユエ)


くすくすと笑っていると(トナリ)で紳が、え?、と声を上げた。すぐにでも寝所(シンジョ)に飛び込みたいのは悧羅も同じではあるのだが、まずは(ミナ)に話しておかねばならないことばかりだ。


「では支度(シタク)を整えましてから朝議(チョウギ)の場でよろしいですね」


(カマ)わぬ、と微笑む悧羅の手を紳が(ニギ)る。考え直してよ?、と()われてしまうが笑うしか出来ない。


「紳がこうである(ユエ)。先に話しておかねばいつ出てこれるか分からぬでの。聞き分けてたも?」


くすくすと笑いながら紳の(ホオ)に触れる悧羅に荊軻(ケイカツ)も大きく(ウナズ)いた。


「確かに先にお(ウカガ)いしておかねば、また寝所(シンジョ)に飛び込むことになりかねませんね」


「そういうことだ。それから朝議(チョウギ)にはこの場の全ての者を(マネ)く。どれも(ワラワ)にとってはかけがえのない者たちであるからの」


(ウケタマワ)ります、と(ウヤウヤ)しく頭を下げた荊軻(ケイカツ)とは別に悧羅の背後から、私共(ワタクシドモ)もでございますか?、と(オドロ)いたような磐里(バンリ)加嬬(カジュ)の声がする。振り向いて、(タノ)む、と笑う悧羅にまた二人が泣き出しながら立ち上がる。


「では早速宮に戻りまして湯殿(ユドノ)支度(シタク)しておきませんと」


「そう(アワ)てずとも良いぞ?」


急いで宮に向かおうとする二人を悧羅が止めるが、いいえ、と強く言い返された。


私共(ワタクシドモ)の大切な(オサ)のお身体をいつまでも冷やしてはなりません。御前(ゴゼン)を失礼いたします」


小さく礼を取って()け出した二人はもういつもの磐里(バンリ)加嬬(カジュ)だ。背中を見送りながら苦笑してしまう悧羅を紳が抱き上げた。


「じゃあ俺たちも一旦戻ろう。子ども達も荊軻(ケイカツ)達も()れてしまってる。温まって着替えてからの朝議(チョウギ)にしないと(ヤマイ)にでも(カカ)られちゃ、今度は俺が枉駕(オウガイ)(ナグ)られるからね」


“紳!ヌシが抱き上げてはまた(アルジ)()れておしまいになるではないか!”


(ウナ)妲己(ダッキ)を見て、こっちに()みつかれるのが先かなぁ、と言いながらも紳は悧羅を離すことなく宮へと()け進む。子ども達も一緒になって()け出して妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)(アキラ)めたように紳の後に続いた。紳の腕の中から悧羅は久方(ヒサカタ)振りに見る里の景色(ケシキ)(ナガ)めてから視線を宮に(ウツ)した。


里を見下ろす山の中腹(チュウフク)にある宮が(ナツ)かしくも思えた。

何とか間に合ったようです。

後は何も起こらなければ…。


お楽しみいただけましたか?

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