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遅くなりました。
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突然目の前に現れた西王母に紳は思わず目を見開いた。悧羅が里を出てから七月、その間里を護ることが自分に出来ることだと鼓舞して近衛の務めをこなしてきた。悧羅が居ないのだから西王母の姿を見ることもなく、任を下ろされることもなく只々日常を繰り返しているだけだった。夜毎腕に包んで慈しみ続けてきた者が居ないだけで大きな不安が押し寄せることもしばしばで、不意に心に迫りくる最悪の事柄を必死に押し殺して待っているのに現れたのは焦がれて止まない悧羅ではなかった。何かあったのか、と逸る心を抑えながら礼を取ろうとすると、良い、と声がかかる。
「刻が無い。手短に娘からの言伝を話す。私が下賜した華をすべからくあの湖に浮かべよ。早急に」
何かあったのか、と尋ねたい思いはあったが西王母の表情はそれを許さないようだ。同時に紳の背中をぶるりと震えと冷たい汗が流れ落ちた。何も無く西王母が現れるなど考えられない。
「…悧羅は…」
絞り出した声が震えてしまうが、今のところは、とだけ返された。弾かれたように近衛隊隊舎を飛び出して宮まで全力で翔け昇る。悧羅の居ない部屋に一人でいるのが苦しくてならなくて近頃は遅くまで隊舎にいる事が多かった。それが今日ばかりは悔やまれる。宮に居ればすぐにでも対処できたものを。唇を噛みながら宮に降りると夜であるというのに紳は声を張り上げて皆を呼んだ。初めて聞くような紳の悲痛な叫びに休んでいただろう子どもたちや磐里、加嬬、それに妲己と哀玥が中庭に飛び出してきた。出てきた皆が目にしたのは一心不乱に下賜された蓮の華をかき集めている紳の姿だ。
“何があった?!”
駆け寄った妲己に重鎮達を呼んできてくれ、とだけ伝えて紳は華を集め続けている。それだけで悧羅の身に何某かよろしくない事が起きているのだと悟って妲己は翔け出した。
「父様?」
「旦那様?」
走り寄ってくる皆に視線を返すこともせずに紳は、華を集めて湖へ、とだけ伝えた。青ざめている紳の表情に子ども達が華を集め始めると加嬬と磐里は大きな布袋を取りに走った。集めた華を袋に入れてそれを哀玥の俊足で湖に運んで浮かべる。それを三度繰り返した頃に妲己に乗せられた荊軻、枉駕、栄州が宮に着いた。
「何事でございますか?!」
池に入って華を集め続ける紳や子ども達に駆け寄りながら三人が発すると、王母様が来た、と紳が手を休めることなく呟いた。それに子ども達や女官達の手が止まる。
「まさか長によからぬことでも?!」
「わからない。ただ悧羅の言伝らしい。でも良くないことなのははわかる。尋ねる刻も惜しかった」
冷え切って濡れそぼった紳の身体が小さく震えているのが見えて皆止めていた手をまた急いで動かし始める。寒いから震えているのではない。
ただ恐しいのだ。
どのような姿で戻ってきても慈しみ続けられる自信はある。だが腕の中に抱けなくなることだけは耐えられない。
この七月、きっと戻ってきてくれると信じて待っていた。必ずや抗うてみせましょうと悧羅が言ってくれたから、それだけを信じて待ち続けた。何かあれば契りの疵から繋がるはずだが悧羅が拒んでいるのか、又は別のナニかが関わっているのか五月を過ぎた辺りから何も伝わらなくなっていた。それでも生命が尽きているようではない、それだけは何故か伝わった。
だからこそ信じて待ち続けたのだ。
頼むから奪わないでくれ。
華をかき集めながら誰に願うでもなく思ってしまう。
二度と自分から悧羅を奪わないでくれ、と乞い願うようにひたすらに手を動かして華を集め続ける。華はこの150年で池を広げなければならないほどに下賜されている。集めても集めても先が見えないがやるしかないのだ。子ども達も女官達も重鎮達さえも池に入って華を集め続けて妲己と哀玥で運ぶ。少しでも早くという思いからか妲己も哀玥も尾で華を一箇所に集め続け、ようやく全て移し終えた時には周りが白み始めていた。
ぐったりとした皆を体躯を大きくした妲己と哀玥が湖まで運んでくれた。自分たちも疲れ切っているだろうにとは思うが甘えるしか無さそうだった。湖を見ると広いはずの場が全て蓮の華で埋め尽くされていた。白み始めた景色の中で何千もの蓮が揺蕩っている様はさすがに壮観としか言いようがない。けれどこれがどうなるのかなど紳にもわからない。とりあえずはこれで待つしかないのか、とその場に座り込むと皆も次々に座り込み始めた。身体も冷え切って衣も濡れそぼっているがどうでも良かった。頼む、と頭を抱えた紳に覚えのない気配が里の門を開いた感覚が走った。思わず空を振り仰ぐとそれは紳だけが感じたものでは無かったらしい。一本角である者たちはもちろん、妲己と哀玥もその気配が近づいて来る方を見やって低く唸り始めている。
「…ナニモノでございましょう…。易々と門を潜るなど…」
座り込んだばかりだったというのに立ち上がりながら荊軻が凄い速さで迫ってくるモノの方を見やる。ナニモノであれ悧羅の掛けた呪のある門を容易く破るなどタダモノではない。それだけは確かだ。
「…悧羅の気配にしては少し異質なモノが混じりすぎてるよね?」
訝しむ舜啓もいつでも動けるように身構え始めた。見つめ続ける先に異形の妖が見えて駆け出そうとする皆を、待て!、と紳が止めた。父様?、と振り返る視線が集まるのは分かったが見えたのだ。その異形の背で翻る漆黒の衣が。
「悧羅!!!」
叫んで翔け上がろうとしたがそれは為されなかった。
【刻が無い!邪魔だてするな!!】
低くそれでも強い異形のモノの叫びに動きを止められてしまう。ただソノモノも悧羅を救おうとしていることだけは分かった。姿が見えて叫びが聞こえた刹那、ソノモノは背に悧羅を乗せたまま華の中に飛び込んだ。勢い良く飛び込んだため大きな水飛沫が上がる。
「悧羅!!」
叫んで飛び込もうとした紳の腕を姚妃が掴んだ。離せ!、と叫んでみるが駄目よ!、と声を張り上げられる。見て!、ともう一度張り上げられた声に湖を見ると一面の蓮が溶け始めて薄紫の糸となって悧羅とナニモノかが沈んだ場に集まっている。だがそれも瞬きの間だ。全ての薄紫の糸は一点に集まり光となって消える。波紋が残る湖に、ごぽりと泡が浮いた。泡は小さくそして大きくなり、見つめる先で跳ね上がるように見えたのは紫の長い髪と青く光る鱗で覆いつくされた半身だ。遠くからでも見えるその鱗がじゃらりと崩れ落ちていく音と共に真っ白な肌が露になっていく。漆黒の衣は見えず、じゃらりとした音だけが響き続けている。白んでいた周囲が昇り始めた陽光に照らし出され始めるまでその音は続き、ようやく止んだ時に聞こえたのは大きな嘆息だった。
ふうっと大きく息をはいて悧羅は自分の身体を確かめる。腕を伸ばしたり腹や脚を見てみたりするがあれほどに身体を埋め尽くしていた鱗はなく身体の痛みも消えている。さすがに背中は見ることは出来なかったので腕を廻して触ってみたが硬い鱗は触れることは出来なかった。次いで幾度か呼吸をしてみるが締め付けられるようだった息苦しさもない。限界だと感じていた身体の力も戻り、どちらかと言えば満ち溢れているほどだ。
どうやら考えは間違っていなかったようだ。
ほうっと安堵すると目の前に竜の頭が水面から半分顔を出して悧羅を見ていた。見たことのないモノに首を傾げてみるが悧羅を見つめる眼の色は金だ。
「…もしや、睚眦か?…」
【…そのようだ…】
金の眼が少し細められて悧羅の周りを泳ぎ始める。見えた時の獣の姿ではなく湖を揺蕩うような長い身体と覆う鱗が見えた。悧羅から落ちた全ての鱗は睚眦の体躯の一部となり親に近づくことができたらしい。
「これはまた…。変わったものだな」
くすりと笑って悧羅は顔を出した睚眦の頭を抱きしめた。
「礼を言う。間に合わせてくれたのだな」
【…元は俺の責だ。それに俺はあのように慈しまれたことなどなかったし、お前は稀有な者だと分かったからな。なんとしても間に合わせたかった。だが礼を言うのは俺の方のようだ】
見よ、と言われて悧羅が抱きしめていた腕を離すと睚眦が上を向く。逆鱗と呼ばれる一つだけ逆に生えた鱗に蓮の華が刻まれているのが見えて、おや、と苦笑する悧羅に、そういうわけだ、と睚眦も笑い始めた。
【このようなわけであるから此処に住むぞ?】
「其方がよろしければ妾に異論などはない。世話になったことでもあるし…。なれど里の者たちに害為してくれるでないよ?」
【…これが刻まれて為せようものか。お前の役には立てると思うがな】
笑いながら睚眦が空高く舞い上がる。長い体躯を揺蕩わせて空を泳いでいく睚眦を見上げると先程まで自分の身体に生えていた鱗が陽に照らされて輝やいた。
また賑やかになりそうだ、と湖面から上がろうとして、悧羅!、と頭上から声が降った。振り仰ごうとしたが代わりに目の前にどぼん、と勢いよく飛び込んだのか水飛沫があがる。思わず顔を覆うと同時に強く引き寄せられた。ずっと焦がれていた声と匂いに思わず大きな嘆息が漏れる。
「紳」
名を呼ぶと抱きしめられる腕の力が強くなる。かたかたと震えている背中に腕を回して胸に擦り寄りながら、悧羅も紳を強く抱きしめた。
「…誓うた通りここに戻ったえ。…長らく待たせてすまなんだ」
「…よかった…。もう心がどうにかなりそうだった…」
震え続ける身体を、もう大事ない、と幾度もさすり続けると嗚咽が聞こえだす。
「もう何処にも行かぬ。其方の腕に戻ることだけを思うて抗うたのだから」
泣いてくれるな、と背中をさすりながらますます胸に擦り寄る悧羅を力の限り紳が抱きしめた、その刹那。
悲痛のような号泣が紳から溢れ出した。子ども達や女官達、ましてや重鎮達が居る場で泣き叫ぶなど普段の紳であれば考えられない。だが衆目など関係なかった。とにかく恐しくて怖くて不安で堪らなかったのだ。別れた時の悧羅は話すことすら息があがっていたのにそれを知っていて尚、たった一人で旅立たせなければならなかった。繋がれた手は二度と離れる事がないと思っていたのに、離さなければならなかった。もしかしたら、と不安が過らない日などなく、それでも紳には出来ることなど待つことしか許されなかった。
それがどんなに苦しかったか。
それがどんなに痛かったか。
ようやく腕の中に戻った名を幾度も呼び続ける紳に、ここにおる、と悧羅も呼ばれる毎に応える。抱きしめられる力の強さに息が苦しくなるがそれでも穏やかに紳の背中をさすり続けた。
「…恐しゅう思うてくれておったのだな…。すまなんだ。…もう其方の腕の中から出るようなことはせぬ」
嗚咽をあげ続ける紳に語りかけるように伝えるしか今の悧羅に出来る事などない。だが嬉しくも感じてしまうのは悧羅の心が浅はかだからなのか?戻ってくることをこんなにも待ち望んでいてくれた。恋焦がれていたのは悧羅だけでは無かった。その想いが嗚咽を上げる紳の全てから伝わって心を満たしてくれる。愛しい者が自分のことで泣き叫んでいるのに、こんなにも強く想われていることが倖でならない。この腕の中以外に悧羅の還る場などないのにやはり長らく包まれていないと不安に思ってしまうのは自分だけでは無かったのだ。
本当に倖ばかりもろうてしもうておるな。
つい小さく微笑んでしまいながら紳が落ち着きを取り戻すまで抱きしめ続けているとどうにか涙が止まったのかようやく耳元で大きな嘆息が聞こえた。それでも腕の力は弱まらない。
「落ち着いたかえ?」
抱きしめたままの背中を優しく叩くと返事の代わりに小さく頭が動いた。そうか、と胸に擦り寄ると、ざぶりと湖の中に引き込まれた。浮かぶことをやめた紳が悧羅を抱きしめたまま身体を水の中に沈めたからだ。上に見える湖面に気を取られていると深く、とても深く口付けられた。冷たい水の中にあってそこだけが温かい。思わず湖面に向けて伸ばしていた腕を紳の首に廻すと、ようやく悧羅にも戻ってきたのだという実感が湧き上がってくる。今度は悧羅が泣き出しそうになるのを必死に堪えて重ねられ確かめられるように啄んでくる唇を受け入れた。とはいえ水の中だ。互いの呼吸が保つまでの短い刻ではあったけれど唇が離されて湖面から顔を出した時には息が上がってしまって身体も火照り疼きだしていた。もっと、と乞うと水の滴る髪の間から紳の目が笑ったのが見えた。
「もちろん俺もそうしたいんだけど…。ここじゃまずいんだ」
泣いていた目も冷たい水で冷やされたからか少し赤みが残っている程度だ。その目を見つめて首を傾げる悧羅に紳が湖の辺りを指さした。視線を返すと悧羅の目にその場に崩れるようにして泣いている子ども達や女官達、重鎮達の姿が見えた。紳の事しか見えていなかったが確かにこのままでは紳の腕の中で過ごすことは難しそうだ。
「栄州と枉駕、磐里に加嬬まで…。話してしもうたのか?」
「さすがに悧羅が数ヶ月も居ないと可笑しいでしょ?」
話さざるを得なかった、と言われては確かにそうだと悧羅も頷くしかない。里の要である長が何らかの呪にかけられているなど心配させてしまうだけだと思っていたので悧羅は出立するまで内密にしていたのだが、話さねばならないと紳が判断したのであれば悧羅に何も言う事などない。
「妲己と哀玥の姿が見えぬが?」
「え?さっきまで一緒にいたんだけど…。ああ、ほら」
指を指された方を見ると二人が悧羅の衣と手拭いをそれぞれに咥えて翔けてくるのが見えた。そういえば纏っていたはずの漆黒の衣は見当たらない。よくよく見てみれば何も纏っていないことにようやく気づいて悧羅はまた首を傾げてしまう。
「これでは上がることも出来なんだな」
「それが分かってるから二人が走ったんだろうね。本当に有難いよ。俺の衣を使おうにも濡れちゃってるから、余計に身体を冷やすところだった」
くすくすと二人で笑い合いながら辺りに向かって紳が悧羅を抱きしめたまま泳ぎ出す。自分で泳げる、と言うが首を振られた。
「今は絶対に離したくないだけだから。我慢して」
「…それは妾とて同じことなれど、泳ぎにくかろうて」
「離れてたことを思えば何てことない。しばらく離せなくなるけど良いよね?」
「…それも許しを与えねばならぬことなのかえ?」
「…いらないねぇ?…まあ、許してもらえなくても無理だけど」
であろう?、と腕の中に囚われたまま辺りに着くと、主!、と吠えながら妲己と哀玥が走りよって体躯を大きくする。何も纏っていない悧羅の身体を皆から隠すためだろうが水から上がるとそのまま擦り寄られてしまう。
“主よ、よくぞ御無事で…”
咥えていた手拭いも衣も落として鳴きながら体躯を寄せてくる妲己と哀玥にも心労を掛けたことを詫びる悧羅に二人はますます体躯を寄せる。
“またこうして侍らせて頂けるのです。それが何よりの褒美にございますれば、もう決してお側を離れることなどなきように”
「案ずるな。離せと申されても妾が其方達を手放せはせぬ。それと新たな者も着いてきてしもうた。其方たちで色々と教えてやってたも」
二人を撫でながら上を見ると睚眦が長い体躯で悠々と空を泳いでいる。まるで初めて水を知った魚のようだ。あれは?、と哀玥に尋ねられて、睚眦だと応える悧羅に二人が毛を逆立てた。
“主を苦しめた元凶ではございませぬか!”
低く唸りだす哀玥を、大事ないと笑って止める。
「あれの懸命な走りで妾は救われた。共に蓮の中に飛び込んだ故、あれにも妾の能力が流れ込んでしもうたようだ。哀玥のように印が刻まれてしもうての」
小さく笑い続ける悧羅に、なんと、と二人が大きな目を見開いた。
「とは申してもまだ童のようなもの。手を焼くやもしれぬが世話を頼まれてくりゃれ」
“…主の命とあらば…。ですが真大事ないのでございましょうな?”
訝しむ妲己に笑っていると背中から衣が掛けられた。二人に擦り寄られたためかすっかり悧羅の身体は乾いてしまっている。それでも何も纏っていない姿では待っている皆の前に顔は出せない。
「とりあえずお前たちの気持ちも分かるけどさ。俺に返してよ」
自分は落とされていた手拭いを頭に掛けて悧羅の衣を整えると紳が苦笑する。
「みんなも待ってるし、はやいとこ済ませないと一人占め出来ないんだ」
手拭いで頭を拭き始める紳に促されて渋々と妲己と哀玥が横に体躯をずらしたが悧羅の側から離れる気は無いようで両隣にぴったりと侍っている。ようやく悧羅の顔が見えて子ども達が母様!、と飛びついてくる。磐里と加嬬は一歩下がったが悧羅が手招きするとその手を推し抱いて泣き崩れた。細い身体に七人もの大きな子らが抱きついて、潰れちゃうだろ!、と紳が子ども達を嗜める。良い、と笑う悧羅から子ども達を紳が一人引き剥がすと次の子がまた抱きついてしまう。どの子も舜啓瑞雨も憂玘も泣きながら悧羅の無事を確かめて本当に良かったとその場に座り込んでしまった。
ようやく子ども達から放たれて悧羅は重鎮達に目を向ける。立ってはいるが三人も溢れる涙を止められないようで衣で隠そうとはしているがどうにもならないようだ。
「長らく里を空けてすまなんだ。妾のおらぬ間、里を護ってくれておったこと、まずは礼を言う」
座り込んだ子ども達から重鎮達の方へ歩を進めてすぐ前で止まるの頭を下げる悧羅に、長!、と慌ててように枉駕が頭を上げてくれと哀願する。それに苦笑しながら頭を上げると、ほんにもう、と栄州が微笑んでいる。
「栄州や枉駕には何も申さずに出たこと許してたも。要らぬ心労を掛けたくは無かったのだが…。余計に心労をかけてしもうたようじゃ」
「まったくですな。紳様や荊軻殿から聞かされた時には我らの生命が尽きたかと思いましたぞ?」
大きな嘆息と共に涙を拭いている栄州が、のう?、と枉駕を見る。
「我らばかりが何も報されておらぬなど…。勢い余って荊軻を殴るところでございました。我らには信が足らぬのか、と」
「殴るところ、ではなく殴ったではないですか…」
ちらりと枉駕を見やる荊軻に、おや、と悧羅が笑う。
「あんなもの殴った内には入らぬ。ですがほんにようございました。何も報されておらなんだ分、色々とお尋ねしたいことがございますが…。改めた方が紳様にはよろしゅうございますか?」
ようやく止まった涙がまだ乾いてもいないのに悧羅を諫めるように枉駕が言う。それには悧羅も笑うしか無いが、心の底から心配してくれていたからこそ本当に怒っていたのだろう。
「…いや。紳には申し訳なく思うが先に其方達に話さねばねるまいよ。頼み事もある故」
くすくすと笑っていると隣で紳が、え?、と声を上げた。すぐにでも寝所に飛び込みたいのは悧羅も同じではあるのだが、まずは皆に話しておかねばならないことばかりだ。
「では支度を整えましてから朝議の場でよろしいですね」
構わぬ、と微笑む悧羅の手を紳が握る。考え直してよ?、と乞われてしまうが笑うしか出来ない。
「紳がこうである故。先に話しておかねばいつ出てこれるか分からぬでの。聞き分けてたも?」
くすくすと笑いながら紳の頬に触れる悧羅に荊軻も大きく頷いた。
「確かに先にお伺いしておかねば、また寝所に飛び込むことになりかねませんね」
「そういうことだ。それから朝議にはこの場の全ての者を招く。どれも妾にとってはかけがえのない者たちであるからの」
承ります、と恭しく頭を下げた荊軻とは別に悧羅の背後から、私共もでございますか?、と驚いたような磐里と加嬬の声がする。振り向いて、頼む、と笑う悧羅にまた二人が泣き出しながら立ち上がる。
「では早速宮に戻りまして湯殿を支度しておきませんと」
「そう慌てずとも良いぞ?」
急いで宮に向かおうとする二人を悧羅が止めるが、いいえ、と強く言い返された。
「私共の大切な長のお身体をいつまでも冷やしてはなりません。御前を失礼いたします」
小さく礼を取って翔け出した二人はもういつもの磐里と加嬬だ。背中を見送りながら苦笑してしまう悧羅を紳が抱き上げた。
「じゃあ俺たちも一旦戻ろう。子ども達も荊軻達も濡れてしまってる。温まって着替えてからの朝議にしないと病にでも罹られちゃ、今度は俺が枉駕に殴られるからね」
“紳!ヌシが抱き上げてはまた主が濡れておしまいになるではないか!”
唸る妲己を見て、こっちに噛みつかれるのが先かなぁ、と言いながらも紳は悧羅を離すことなく宮へと翔け進む。子ども達も一緒になって翔け出して妲己も哀玥も諦めたように紳の後に続いた。紳の腕の中から悧羅は久方振りに見る里の景色を眺めてから視線を宮に移した。
里を見下ろす山の中腹にある宮が懐かしくも思えた。
何とか間に合ったようです。
後は何も起こらなければ…。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。