東王父《トウオウフ》
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雲の瀑布に包まれて雲の間を抜けると背後で轟音が聞こえた。割れた雲が元に戻ったのだろうとは思えたが、身体を包む雲の力が思ったよりも強くて身動きが取れない。抗うつもりもないのだが、妖である悧羅を、しかも西王母の化身でもある蓮を招き入れるのには如何許りかの用心も必要なのだろう。とはいえあまり強く掴まれると鱗が肌に食い込んで痛みを生じるのだが、雲の手にはそのような些末な事などどうでも良いようだ。
長い雲の隙間を抜けると今度はまた長い回廊が見える。離してもらえるのだろうかとも思ったが、雲の手は悧羅を離すことなくそのまま進み続ける。先が見えないほどであった回廊が少し進むと違う場に転じて、呪がかけられていたことを知る。悧羅でさえ宮には同じような呪を施している。害為す者が入り込めないようにするためでもあるし、何より大切な者たちを護るためには例え里内であっても気を抜く事はできないからだ。民達が皆、悧羅を好んでくれているわけではない事は分かっている。悧羅だけに降りかかるモノならば良いが宮には磐里や加嬬がいつも共に居てくれていた。元は二人を護るために始めた呪なのだ。
思い出して、最初は二人を護るだけだったのに随分と数が増えたものだ、と笑いが出てしまう。雲は依然として力も速さも緩めることはないし何処に連れて行かれているのかも分からない。掴まれている間に場の景色は幾つも変わったが、作りとしては倭の国に寄っているように見えた。流れていく景色の中で一瞬見える程度であるからはっきりとは分からないが、西王母の場とはまた異なる清浄さがある。悧羅が招かれる西王母の場などあの川のほとりの東屋だけなのだが、それでも女神であるからか包まれるような穏やかさに満ちている。
だが、ここは違う。
どちらかといえば猛々しい雰囲気だ。見える建物や部屋の造りからそう思うのではない。雲に掴まれ招きいれられた瞬間から肌を射るような視線を感じている。まるで上から下まで這うように確かめられていた夢の続きのようだった。
どれくらいの間をそうして雲の手に掴まれていたかは分からない。唐突に開けた場に出るとまるで投げ出されるかのように雲の手が消えた。かろうじて降り立つ事は出来たが何とも身体が重苦しい。首元まで上ってきていた鱗がじわじわと顔に上がってくるのが分かり不快でしかない。辺りを見廻すと靄がかった景色が広がっている。本当に夢の続きのようだ、とも思うと小さく嘆息が出る。ただこの場で間違いはないようだとも同時に思った。悧羅の考えも姚妃の考えも間違ってはいなかったようだが、さて何処に行けば良いものか。
悩んでいると靄の先にほんのりと灯が見えた。どうやら其処まで来い、という事のようだ。やれやれ、ともう一度嘆息して重い身体を引きずるようにしながら歩を進めていく。鱗が上っている感覚が不快ではあったけれど、気を抜けば倒れ込みそうな意識をかろうじて保っている悧羅には丁度よい刺激なのかもしれない。本来なら翔ければすぐに着く場なのだろうが、もうその能力は出せそうになかった。ゆっくりと歩を進めるたびに身体は疼くし呼吸も苦しくなる。もしかしたら、あの灯の元に辿り着く頃には全身が鱗に覆われて言葉も出せなくなっているかもしれない。
それでもここまで辿り着くことは出来たのだ。
もう少しだけ気力を振り絞れば愛しい者の腕が待っている。
ここに着くまで地上を旅しているだけでも二十日を要した。晴明の狐道の中では刻の進み具合は判断できないが、出ると思っていた以前の居の場よりかなり離れた場所まで導びかれている。一瞬であった外の景色も雲に覆われて陽が昇っているのか沈んでいるのかも分からなかった。悧羅が感じている刻と進み具合が異なることは西王母の場に呼ばれるたびに経験して知ってはいるので、特段どれだけの刻が経ったいようと驚きはしないが、出来れば大切な者たちと離れてしまうような刻の流れだけは避けて欲しいところだ。
ゆっくりとそれでも確実に一歩ずつ歩を進めて灯の場が目の前に現れた時には悧羅の左の顔半分は鱗に覆われて目を開けることも出来なくなっていた。そんな姿の悧羅に臆する事もなく灯の前に立っていた二人の男仙が小さく頭を下げる。
「東王父様はお成りか?…妾は鬼の長で悧羅と申す」
出した声はつい先程蛙と交わしたようなはっきりとした声ではない。掠れ切り息切れも目立つ中から出来るだけの礼を取って伝えた悧羅に、お待ち申し上げておりました、と二人がもう一度頭を下げて各々左手に持っていた鈴を鳴らし始める。広く何もない場にその音はよく響き渡っていく。
一度目の鈴の音で二人の背後に大きく堅牢な門が顕れた。
二度目の鈴の音で轟音と共に両側に門が開く。
三度目の鈴の音で悧羅は意図せず中に招き入れられ、四度目の鈴の音で眼前に二人の者が現れた。
一人は悧羅も馴染みのある顔、西王母。もう一人は初めて見える顔だ。長い白髪は顔の横で一つに纏められ、たくわえられた白髭も長い。老齢であるのか顔や手には皺が見えるが眼光は鋭く射るような視線で悧羅を見ている。招き入れられた時から感じていた視線の主で間違いなさそうだった。纏っている衣は真っ白で、仙の長足るに相応しいとさえ思わせる。
この者が東王父だ、と瞬時に分かる程、神としての崇高さと気高さ、そして時折見える男神としての猛々しさがそこにある。だが頭を下げて礼を取る気にはなれなかった。悧羅を試すだけであったのだとはしても元は東王父と西王母の諍いに巻き込まれたに過ぎない。悧羅が蓮の娘として降ろされたのは悧羅の意志ではなく西王母の意志だ。其処に巻き込まれ生命を削り落としながらここまでやってきたのに、二人はただ眺めているだけだ。もちろん悧羅から話し始める事など何も無く、むしろ詫びて欲しいくらいだった。
崩れ落ちそうなほどに身体は疲れ切っていたけれど、ここで膝を折ってはならないと強く思う。このような理不尽な所業に屈するなど耐えられることではない。ふらつく身体を必死に脚に力を入れて真っ直ぐに立って眼前の二人を見つめ返す。しばらくすると上から下まで舐めるように見ていた東王父から小さな笑みが溢れた。
「其方が蓮の娘かの?」
声は低く嗄れているが温かくも感じた。そうだ、とだけ悧羅は言う。否、それしかもう言えないのだ。鱗は右の頬にまで広がり、もうすぐ視界を全て奪うだろう。言葉さえだせなくなるのも間近に迫っている。
「よくぞ参られた」
ゆっくりと大きく頷くと立っているだけが精一杯の悧羅の傍らまで歩み寄ってくる。共に寄ってきた西王母と共に悧羅の腕を両側から支えると何もなかった目の前の空間に卓と椅子が現れた。
「まずはゆるりと座られよ」
両側から支えられながら勧められた椅子に腰掛けてはみるが座っていることさえも苦痛でならない。ゆるりと、と言うのであればまずはこれを解いて欲しいものだ。残り二つの椅子に東王父と西王母が腰掛けると何処からともなく男仙が現れ茶を淹れ始めた。目の前に差し出された茶器を取ろうとするがもう腕にも力が入らないし視界も霞んで来ている。どんどんと締め付けられるような息苦しさも相まって身体の痛みがなければ意識を手放しているだろう。
「お飲みになられぬか?」
茶器に手を出さない悧羅が警戒しているとでも思ったのか、穏やかに東王父が問うてくる。一目見れば自分の施した呪がどれほど悧羅の身体を蝕んでいるかは分かっているだろうに。少しばかり頭に血が昇ったが言い返す事も愚かな事に思えた。ただ一つ大きく嘆息すると隣に座っていた西王母が手を貸して茶を飲ませてくれた。たった一口ではあったが喉を通っていく茶が身体に沁み渡ると同時に身体の痛みも幾らか和らいだようだ。霞んでいた視界もはっきりと見え始めてきて膝に置いたままの手を動かしてみると何とか動かせた。右の頬まで迫っていた鱗もそこで生えるのをやめたように静まり返る。西王母の手から茶器を受け取って注がれていた茶を飲み干すと灼けつくようだった喉も落ち着きを取り戻してくれた。
「声はだせるかの?」
卓に茶器を置いて大きく息をつく悧羅を穏やかに眺めながら真正面に座っている東王父が尋ねてくる。
「…どうにか出せるようだ…」
声を出して見るとまだ掠れて細い声だが話す事は出来そうだった。それでも身体の痛みが全て取り払われたわけではない。苦痛は十分に残っているが耐えることには慣れている。声が出せて腕が少し動くようになっただけでも悧羅にとっては十分だ。そうか、と微笑む東王父を真っ直ぐに見つめるともう一度大きく頷いている。王父、と先を促すような声は西王母からだ。悧羅の身体を案じてくれているのだろうが、承知している、と東王父は笑みを深くした。
「蓮の娘よ、一つ問いたいのだが宜しいかな?」
この状況で何を問いたいのか、と訝しむ悧羅は残った右目を細めて首を傾げた。だがその問いに応えなければ話は先に進まないのは分かる。是、とだけ言うと東王父がまた頷いている。
「其方、神になる気はないか?」
あまりにも大きな問いに悧羅はつい、は?、と声を出してしまった。神にならないか、など何を言われているのかもその目的すらも分からない。
「神になれば悠久の刻を安寧に過ごせよう。もちろん儂が男仙、王母が女仙を統べておるように、其方には妖達を統べてもらわねばならないが。どう思われるか?」
馬鹿げている、と悧羅は心の中で何かがぷつりと切れるのを感じた。大きく嘆息してから、否とだけ応える。神になれだなどと言われて是と言えようはずもないし言いたくもなかった。ほう?、と東王父が目を細めながら長い髭を撫で始めた。良いことばかりの条件を悧羅に出したつもりだったのだろう。否と言われるなど考えてもいなかったような顔だ。
「何故に拒まれる?妖の神として立つのが恐しゅうあられるか?」
それに悧羅は首を振った。別段恐しいとは思わない。それだけの重責は伴わねばならないだろうがそれは今、里を預かっている事と何ら変わりはないのだから。
「では何故に?」
もう一度問われて悧羅は肩を落とした。神ともあろうものがそれすらも分からないのだろうか、と嘆きたくもある。
「…悠久の刻を妾一人で過ごしたとて何になろうか?妾は妖。王母が造りし只の妖に過ぎぬ。妖であるからこそ鬼であるからこそ人の子よりは永い生がある。だがそれ以上は望まぬ」
「死することを受け入れる、と申されるか?」
首を傾げる東王父に悧羅は深く頷いた。
「申したであろ?妾一人永らえたとて其処に何の倖があろうか?妾には生命尽きるまで共におろうと誓った者がおる故。…あれのおらぬ今生になど倖は落ちておらぬ。それに、妾が此処で是と申せば妾が奪った者たちへ詫びることさえ許されぬではないか」
ほう?、と面白そうに東王父は悧羅を見て、それから西王母に視線を移した。
「面白い娘を降ろしたものだな、王母」
神にはならぬそうだ、と笑い出す東王父を諌めるように西王母が嘆息している。
「これは私が降ろしはしたが私の考えの及ばぬ事をする。今までの子らは私の思いの外へは出ることすらなかった。だがこの娘は違う。…そうでなければ王父の案じておったように人の子の理も妖の理も崩れておったろうが、娘が娘である以上はそのようなことは起こらぬよ」
言うただろう?、と言う王母からもう一度視線を悧羅に移した東王父は、成程のう、と目を細めたままだ。
「蓮の娘よ。其方人の子を害そうとは思わぬのか?…それだけの能力があれば人の子も妖もすべからく思うままに出来よう?」
「何故そのような無益なことをせねばならぬのじゃ?」
本当に愚かな事ばかり聞かれるものだ、と悧羅は辟易としてしまう。
「妾は預けられた里と民達、妾の愛しき者たちに害為せば無情なことも致す。なれど無益な殺生は好まぬしそのような事をすらば自らに降り掛かるであろう業も知っておる。理の上で生かされておる故、流れに逆らうなど思うたこともない」
「理、と申されるか」
「そうであろ?神である東王父や西王母、ほかの神足る者たちよりも遥かに手の届かぬ世の理が妾らを生かしておるのであろ。それに抗うことなど出来はせぬ。なれど出来ぬからこそ生きておる間はささやかな倖を手に懸命に過ごすことが出来るのだとは思わぬか?」
当然の事を言ったまでだったのだが驚くほどに東王父の細めていた目が見開かれた。
「…これは真に王母が降ろした蓮なのか?」
「だから申しておる。この娘は私の考えの及ぬ事をする、と」
悧羅の隣で満足そうな笑い声を上げる西王母に東王父は深く頷いた。確かにこの娘は神と呼ばれる東王父や西王母の考えなど気にも留めていない。神にならぬか、と問うた者は他にもいたが皆、歓喜し涙しながら是と言う者ばかりだった。何の意味がある、などと返された事など無かったし東王父がそう問えば必ず温情に感謝し膝を折るのだろうと思っていた。
だがこの娘は何だ?
ともすれば東王父さえも気後れさせてしまう程の雰囲気を纏ってそこにいる。最初に出した仙茶で如何許りか身体は動くだろうがそれでも刃で貫かれ続けるような痛みは伴っているはず。こうして話しているだけでも耐え難い苦痛があるはずなのだ。それなのに微塵も表情に出さず手を借りたのは最初の一口だけ。あとは真っ直ぐに右しか開いていない眼で東王父を見ているだけだ。
その上儂たちでも及ばぬ理まで考えておるとは…。
何とも…。
掌の上で動かしていたと思っていたがそれはどうやら東王父のものでも西王母のものでも無かったのかもしれない。
「…睚眦…」
小さく呼ぶと東王父の背後からするりと獣が姿を現した。夢で見ていた金の眼だが竜と呼ぶには小さい体躯だ。体躯は青い毛に覆われているが首の下に悧羅の身体に生えている鱗と同じモノが見えた。長い尾だけが竜のように伸びているが、やはり親である竜にはなれなかったのは見て取れる。ゆっくりと獲物を捉えたような目で悧羅を見ると睚眦と呼ばれた獣が近寄ってくる。やれやれ、と小さく息をついてゆっくりと椅子から立ち上がると悧羅は獣の方に向き直りその場に座った。殺生を好むとされている獣だ。獲物である悧羅をようやく目の前にしてどう出てくるかも分からない。ただ椅子に座ったままでは隣の西王母を血で汚す事にもなりかねない。
「…其方が夢の眼の主だの」
眼前に迫ってにたりと笑う獣の口から涎が垂れて落ちた。だがそこから近づこうとはしない。何やら哀玥に似たモノだ、と見ていると笑いが出てしまう。最初に出会った時の哀玥も同じように不敵な笑みで悧羅を見ていた事を思い出す。
「右目しか残っておらぬのでな。なかなかに喰らいつくには難かしかろうが…。金の眼の主の顔を見れたはよろしかったの」
笑いながら腕を伸ばすと大きく口を開けられる。それに臆すことなく頭に手を乗せるとふわりとした毛並みの感触があった。
やはり哀玥を思い出すな。
くすりと笑って頭を撫でると大きく開けられていた口がゆっくりと閉じられて立ち上がっていた脚を曲げ始める。おや、と笑う悧羅の前で撫でられながら睚眦と呼ばれる獣が体躯を伏せた。
「撫でられたことがなかったのかえ?…ならば其方が善と申すまでこうしておく故、満足したならば喰らうとよろしかろう。…あまり長くは保たぬだろうが許してたも」
伏せた睚眦の前で膝を叩くと頭を乗せてくる。その姿に東王父も西王母も息を呑んだ。抗うでもなくただ慈しみの心で接しゆっくりと睚眦を撫で続ける悧羅は己に降り掛かるものを恐れてもいない。出来ることならすぐにでも解いてやりたいのだが、呪をかけたのは東王父が睚眦の能力を借りただけだ。解けるのは睚眦だけなのだ。だが悧羅は解いてくれと言うよりも睚眦の心を汲んだ。身体の痛みはあるだろうにゆっくりと撫で続ける悧羅を見守ってどれくらいが経っただろうか。悧羅の手が震えだして止まっていたはずの右の頬の鱗がまた生え始める。それでも手を休める事をしない悧羅を膝の上から仰ぎみて睚眦はぺろりと悧羅の頬を舐めた。鱗は止まったが右目の半分は侵されてしまった。だがまだ見える。
【東王父。俺にはこの方をこれ以上害することはできぬ。お前との制約を破棄するが構わんだろう?】
低い声がしているがそれでも悧羅は睚眦を撫でることをやめはしない。満足するまで、と約束したのだから。
「もちろん構わぬ。こちらから願うところだった。この娘は世の理に不可欠な稀有な者。それがよう分かった」
苦しい思いをさせたことを詫びられているようだが身体の鱗はそのままだ。だが睚眦の呪が失われたのであればどうすれば良いのかは自然と心に湧いた。後は里に愛しい者の腕に飛び込むためにまた来た道を戻るだけだ。だが一つ気になることがあった。睚眦を撫でながら、王母と声をかけると弾かれたように椅子から立ち上がる音がする。普段、穏やかな王母が慌てるなど珍しい、と笑っていると隣に膝をついてくれた。
「妾が狐道からここに誘なわれておる刻は下界ではどれほどじゃ?」
気になるのは紳がもう居なくなっているのではないかという不安だ。蛙と出会う前までは人の子の国を進んでいたので刻は分かる。だが狐道に入ってからはわからない。もしかすれば想像以上の刻が経っていても可笑しくないのだ。
「案ずるな。六月ほどだ。里もお前の大切な者たちも何ら変わらず過ごしておる」
そうか、と笑うとぐらりと視界が揺れる。と言うことはほぼ七月もの間、里を離れてしまっているということか。しかしまだ倒れてはならない。睚眦との約束も果たしてはいないし、何よりこれから里に戻らなければならないのだから。生える鱗が止まってくれただけでも十分だ。この身体で年の間に里に辿りつけるかは心配だが晴明の狐道までいければ少しは近づく事が出来るはず。考えながらも睚眦を撫で続けていると小さな鳴き声が耳に届いた。どうした?、と見やって微笑む悧羅には鳴き声さえも哀玥のようで愛らしい。
【俺の背に乗るが良い。せめてもの詫びと礼を兼ねて里まで最速で翔けてやる】
おや、と苦笑する悧羅に、それが良いと王母も同意した。悧羅の身体はどう見ても一人で里に戻せるものではない。とはいえ王母が手を貸すわけにはいかなかったが、睚眦が言い出さなければ理に触れようとも連れ帰る気ではいた。
「王父、よろしかろうな?」
尋ねる西王母の声に被さるように無論だ、と東王父の声がする。
この娘を失えばそれこそ世の理が崩れさる。その元凶を作ってしまった東王父もどうなるか分からないほどに。遠いところで話が行われているような気持ちになるがそれは悧羅の耳がよく聞こえなくなっているからだろう。耳が聞こえる内に、と悧羅は西王母を呼ぶ。もう一つ頼み事をしなければならない。
「すまぬが宮に王母から賜った蓮がある。それをあの湖にすべて運ぶように…、皆に…」
声が出せたのはそこまでだった。だが伝えたいことは言えたようだ。柔らかな手が頬を包んだようにも思ったが鱗が生えているだけでも体力を奪われていくようだ。また乱れ始める呼吸を大きく整えていると身体がふわりと浮いて柔らかな毛並みの上に横たえられる。掴まる力もない悧羅を長い尾が出来るだけ痛みが無いように支えてくれているのが伝わってくる。
【猶予がない。行くぞ】
一言睚眦は残る二人に言い残して走り出した。痛みで熱を持った身体に当たる風が心地良いと思いながらも意識が遠のくのを止められない。
まだ駄目だ。
戻るまでは目を開けていなければ…。
必死に自分を焚き付ける悧羅の頭の中に直接睚眦が語りかけた。
【案ずるな。眠っていても俺は生命など取らん】
それを案じているわけではない、と念じると、そうかと笑うような声が響く。ただ悧羅自身の体力が保つかを案じているのだ、と思うとそれも伝わったようだ。
【必ずや間に合わせる。飛び込むが構わぬな?】
目が覚めて良いものだろう、と思うと小さく笑いが出てしまう。
【それはそうだな。…真に済まなかった…】
詫びる声が届いたが応えることはもう出来そうにない。駄目だ、と思いながらも裏腹に悧羅の意識はぷつりと途切れてしまった。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。