這う【伍】《ハウ【ゴ】》
遅くなりました。
更新致します。
西王母から与えられた漆黒の衣を纏って支度を終えた悧羅は皆に伝えた通り半刻の後に宮を後にした。どうにか付いていく方法は無いのかと、最後まで紳と妲己と哀玥が愚考していた。
「やめておいた方が良い。それで母様に良くないことが起こるかもしれないから」
姚妃に諭されたが血が混ざってるなら、と退かない紳が可笑しかった。
「確かに父様と母様は契りで血を混ぜてるけどそれでも個々で違うでしょ?私たちは半分は母様から出来てるから許された部分があるんだと思う。それに心配なのは父様だけじゃないからね?」
「それはそうだけど…。何かあったら…」
「だからそれも含められてるんだって思うの。母様に何かあったら里だけでなく妖の理も崩れかねないんだから。何かあれば疵で繋がるでしょ?」
母様が大事なら見守って、とまで末子に言われて少しばかりしゅんと肩を落とした紳に、必ず戻ると言い置いて悧羅は翔け出した。案ずるな、と口付けたい気持ちもあったが後髪を引かれる気持ちになるし、何より戻って来てからの方が良い様な気がして手を振るだけにした。宮を出る時には見送る者たちに心配をかけたくなかったので何事もないようにいつも翔ける速さで出たのだが長くは保たなかった。場を出る門を開けて瀑布と共に現世に出ると既に息が切れている。
…こうまで身体が弱っているとはな…。
疲れやすく息も乱れることはあっていたからもしや、とは思っていたが考えていた以上に身体は蝕まれていたようだ。だがまだ空を翔ける事は出来る。これまでのような速さは出せず、すぐに疲弊して呼吸が苦しくなるので足を止めることもしばしばだったが、それでも前に進むために歩きながらでも歩を進めるしかなかった。行手で見える妖達も通り過ぎたり、遠目から眺められることはあったが、まだ悧羅に手を出そうとはしなかった。それは悧羅の能力というよりは、悧羅に刻まれている鱗からの異質な念を感じ取ったからだろう。そうでなければここまで弱った悧羅を襲わないなど考えられない。
ある意味では護られている、ということなのだろうな…。
重い身体を動かすことだけに意識を集めてひたすらに翔けると歩くを繰り返す。陽が高い内に出来るだけ歩を進め、陽が沈む前には休める様な場所を見つけて夜を超える。そうしている時も夢は見るし、目が覚めるたびに鱗も増えて行った。いつもの能力が出せていたならば一日半も翔ければ着く倭の国の地が見え始めたのは宮を出て十日が過ぎていた。
倭の国に入ったからとはいえ姚妃の調べ上げてくれた場はまだ遠い先だ。悧羅達が人の子の世に居を構えていた場よりも遠いのは見せてくれた巻物に記されていた印の場所から分かってはいる。大国に比べれば場は小さいけれどそれでも縦断するとなればかなりの距離がある。その上印がついていた場は海を超えなければならないようだった。まだ長い旅になりそうだ、と苦笑せざるを得ない。それでも進むしかない。
倭の国に入ってからも翔けられるときには翔け、無理がありそうならば一歩でも前に進む様に歩き続ける。夜になれば樹々に身体を預けて休み陽が昇り出すと共に目を覚ましてまた進む。暮れていく陽の中でかつて堕とした京が活気に溢れている様子を眼下に見ながら、良いように廻ったようだとも安堵する。今日のところはこの辺りで休んだ方が良さそうだ、と何処か休める場を探そうとしてふと思い出した。そういえば晴明が妖達と夜毎宴を開いていた邸があった。彼の友が黄泉へ渡ったのは100年ほど前になるが、もしかしたらまだ邸は残っているかもしれない。活気に溢れた京から離れた、閑散とした場所にあったはずの晴明の邸を目指して進む方向を変える。晴明の縁者がいるかもしれなかったが妖達のための場だと言っていたし、子も入れてはいなかったと覚えている。もしも誰かが居たならばまた別の場を探せば良い。
その程度の気持ちで向かったのだが着いたその場は昔、紳と訪ねた時と何ら変わってはいなかった。人の子の気配はせず妖達の酒盛りをする笑い声だけが響いてくる。邸の主も居ないのによく保てているものだと思いもしたが今は有難い。すとん、と庭に降りた悧羅に酒盛りをしていた妖達の声がやんだ。楽しんでいたところに突然鬼が降りたのだから驚かないモノはいないだろう。
「すまぬ、騒がせるつもりはない故。しばし休ませてたも」
動じさせないように出来るだけ穏やかに声をかけるが、小さな妖達が隠れ始めてしまう。悧羅とそれに憑いているモノに怯えでもするように呆然とされて、これでは妖達の気が休まらないと踵を返そうとした時だった。
「おやおや、これは久方ぶりのお客様ではござらんか」
邸の中から縁側にひょっこりと顔を出したのはあの蛙だった。知った顔に悧羅も安堵して大きく息をついてしまう。跳ねるように悧羅の側に寄りながら蛙が、害為す方ではない、と隠れている妖達に声をかけている。ずんぐりとした体躯が目の前で止まって、ふぉっふぉっと笑いながら目を細めた。
「…これはまた難儀なされておるようだ」
「蛙爺は変わらぬの。息災で何よりじゃ」
腰を落として視線を蛙と揃えると、長生きだけが取柄でしてな、とまた笑っている。悧羅を見ながら大きく二度三度頷くと何も聞かずに、こちらへ、と先に立って歩き出した。蛙の跳ねる後ろ姿に付いていくと縁側から邸の中に通された。
「外は酒盛りで騒がしゅうございますからな。ここでござればゆるりと休まれようて」
二つほど部屋を抜けた先の戸を開けながら蛙が笑った。戸の奥ではこれまた二匹の蛙が布団を敷いてくれている。枕元にはきちんと畳まれた寝間着まで置いてあるのを見て、まるで悧羅が来ることが分かったいたようだ、と小さく笑ってしまう。知っておったのか?、と尋ねてみたが蛙は目を細めて笑うだけだ。
「晴明がここを爺に残してくれましてのでな。長様の気配は感じておったので立ち寄っていただけるだろうと期待はしておりましたのじゃ。ほんにお変わりのない美しさであられる」
悧羅に憑いているモノの気配も感じているだろうに臆さない蛙の態度に悧羅も張り詰めていた糸が和らぐのを感じて、その場に座り込んでしまった。大きく息をつくと、ほんに有難いと蛙に頭を下げる。おやおや、と笑いを含んだ蛙の手が悧羅の手を包んだ。
「触れさせていただくなど烏滸がましいがお許し下され。爺こそ晴明が世話になった恩がありますれば。腹はすいておられぬか?湯も使えるようにしておる。お召し物はこのモノ達に預けられよ。出立までには整えさせる」
「そこまで世話をかけるわけにはゆかぬ。寝床を支度してもろうただけでも有難いのじゃ」
遠慮する悧羅に蛙はまた笑う。
「爺の孫子でございますから。いつも長様の話を聞かせておったのですが信じてもらえず難儀しておった。嘘吐き呼ばわりまでされ申してな。長様がおいでくださった故、爺の面目も潰れずに済み申した」
のう?、と振り向かれた二匹の蛙も目を輝かせて跳ねるように悧羅の側に寄ってくる。
「…恐しゅうはないかえ?無理はせずともよい」
ただでさえ鬼であり、その上ナニモノかに憑かれているのだ。蛙は旧知の仲であるし、長い歳月を生きてきているからこそ臆することをしないでいてくれるが、まだ若い二匹の蛙には刺激が強すぎるだろう。だが返ってきたのは、全然、という笑顔だけだ。
「爺様はいつも話してくれていたのです。でも見たことないし爺様の作り話だって思ってたから。お会いできて嬉しいです」
水掻きのある両の手を合わせながら喜んでいる蛙たちはどうやら女子のようだ。
「長様のお世話を致すのに男子はつけられますまい?旦那様に潰されてしまいますでな」
「確かに…、そうやもしれぬな」
くすりと笑った悧羅は宮を出てから笑っていなかったことにも気付いてしまう。それほどに心も身体も疲れてしまっていた。ここでこうして迎え入れてもらえなければ、目的の場まで辿りつけなかったかもしれなかった。悧羅を見ながら目を輝かせている二匹の蛙に湯を見てくるように蛙爺が伝えると、はあい、と楽しそうに部屋から出て行く。出て行った蛙達が戸を閉めるのを見やってから、さて、と蛙爺が悧羅の手を離した。
「なんとも難儀なさっておるの。そのお身体では先に進むのも辛かろうに」
首元にちらりと見える鱗に目をやりながら言う蛙爺に悧羅は少しだけ笑って見せた。里を出てからも鱗は増え続け今では首元と両の腕まで広がっている。かろうじて衣で隠せているが、ちらりと見えてしまうのはもう隠しようがなかった。鱗が増えるたびに身体の気怠さは増して行っていたし締め付けられるような息苦しさも増している。全力で翔けられる刻も一日を通して一刻保てば良い方だ。
「…それでも行かねばならぬ故。行く途中で朽ち果てたならば妾はそれまでのモノであったというだけじゃ」
「ですが長様の目指される場はまだ遠い。…手を貸せればとも思いまするが、こればかりは長様にご迷惑がかかりそうですの」
「そう思うてくりゃるだけで有難いことじゃ」
手を伸ばして蛙の手を包みながら悧羅は微笑んだ。蛙爺の物言いから何か知っているのだろうがそれを言うことも悧羅のためにはならないということだ。
「…旦那様も身を切られる思いをなさっておいででしょうな。長様をお一人で出されるなど…」
そうだな、と冷たい手を叩きながら悧羅も嘆息する。契りを交わした後こんなにも長い間紳と離れていることなどなかった。恋しく思うのは紳だけではなく悧羅も同じだ。
「あれのためにも妾は抗わねばならぬでな。必ず戻ると誓うたほどに。…まだこのような事で黄泉に渡るわけにはゆかぬのだ」
それでも僅かに燻る不安は感じているけれど打ち消すかのようにそう悧羅は応えた。やっと100年を超えたのだから、と苦笑する悧羅にふぉっふぉっ、と蛙爺も笑ってみせた。
「爺様、よいようだったよお」
湯加減を見に行ってくれていた蛙達が戻ってくると、さあさあと促される。
「まずはゆるりと湯にでも浸かられよ。今宵は何も案じられずお休みになられませ。何かあれば、孫子に伝えていただければよいのでな」
目を細めた蛙爺に礼を言って先立って跳ねていく二匹の蛙の後を付いていくと湯殿に案内された。脱いだ衣を珍しそうに眺めている蛙たちに、小さな笑いが漏れる。
「…衣が珍しゅうあるのかえ?」
まるで幼子のような二匹に笑いかけると、うん、と頷いている。自分たちも着ておるではないか、と笑う悧羅に、違うよ?、と悧羅の衣を被って遊び始めた。
「こんなに上等なのを見たことがないの。さらさらしてるし、私たちのとは全然違う」
言われて成程、と悧羅は笑った。確かに華美ではないが悧羅の纏う衣はすべからく絹で織られている。蛙たちが身につけているのは粗末な布で織られた簡素な物だ。歳の頃はよく分からないが衣に興を持つ頃なのだろう。礼の代わりにそれを渡したくもあったけれど王母に賜ったものでもあるし、何より一枚しかない。二匹いる蛙たちが取り合ってしまう事は想像できた。
「ではこうせぬか?妾が無事に事を終え、里に戻ることが出来たならば今宵の礼に衣を贈らせてくれまいか?」
悧羅の衣を脱いだら被ったりしていた二匹が弾かれたように悧羅を見た。その姿が愛らしくて笑みを深くする悧羅に、いいの?、と声を張り上げて飛び上がった。
「もちろんだ。…なれどしばし刻がかかる故、どのような物がよいのか考えておいてたも。…もしも妾が事を為せず朽ちたとしても礼だけは何としても届けさせる」
飛び上がっていた蛙たちがその言葉に跳ねるのをやめてしまう。どうした?、と尋ねると、長様が持ってきて?、と首を傾げて見上げてきた。
「私たちどんなのが良いか考えておくから。出来たら長様が持って来て?」
「そうしたら頑張れるよね?約束するんだから守らなきゃって爺様いつもいってるから」
丸い目を更に丸くしていう背丈は二尺ほどしかない蛙の娘達に言われて悧羅は、はっとする。どうやら自分が朽ち果てるのも致し方ない、と心の何処かで思ってしまっていたようだ。身体は思うように動かず誰に頼れるわけでもなく、いつも暖かく包んでくれていた腕まで置き去りにして、必ず戻ると言ったのに。ここまでの道中でその思いを忘れていたわけではなかったけれど、ふとした言葉の中に不安が出てしまった。
__________情けなや…。
100年前までは孤独であることが当たり前だった。妲己は共にいてくれたけれど、それでも女子としての倖を諦めていた悧羅には目に映るすべてのものが色褪せて見えていた。心を凍てつかせて感情などというものは捨てて。そうしなければ生きている事さえも苦痛でならなかったのに。
たった100年、愛しいと言ってくれる者の腕に抱かれ大切な者たちを授かっただけで見える景色はがらりと変わったのだ。
その者たちにも誓ったではないか。
必ずや抗うてみせましょう、と。
必ずや戻ってきてみせましょう、と。
500年間耐え忍んできた苦渋と辛酸を思えば、待ってくれている者たちがいるのだから恵まれている。
そうだ、恵まれすぎている。
だからこそ弱さが出てしまった。
護る者がいる限り何よりも誰よりも強く気高く立っていなければならなかったのに…。
長様?、と黙してしまった悧羅を案じるように小さな手が二つ悧羅の両の手を取ってくれた。冷たい手の感触なのに伝わってくる思いが温かい。その場にしゃがみ込んで蛙達と目を合わせると、分かったと悧羅は微笑んだ。
「そうだの、約束は守らねばならぬ。蛙爺の申す通りじゃ。其方達への礼は必ずや妾が届けにこよう。…ようと考えて楽しみにしておくのだえ?」
「約束だよ?」
握られた手に力が込められて悧羅はもう一度大きく頷いて笑いかけた。やった!、とまた跳ね廻りながら、じゃあ早くお湯に入って、と急かされてしまう。
「分かった分かった」
苦笑しながら立ち上がると、上がったらお部屋に戻って休んでね、と二匹が湯殿から出て行く。戸が閉められても跳ねる足音と共に、どんなのにする?、と衣の事を考えているのか楽しそうな声が聞こえていた。込み上げてくる笑いを堪えながら久方ぶりの湯を使わせてもらう。随分と汚れていたようで湯を浴びるたびに泥水のような湯が流れた。どうにか身体を清める事が出来て湯に浸かると大きな嘆息が出てしまった。
本当に助かった…。
幾度も嘆息しながらここで蛙爺に会えていなかったら、と思うとぞっと背中を悪寒が走った。ただ、思い出して来ただけのつもりだった。朽ちていても屋根があり夜露を凌げればそれで良いと思ってきたのに、こうも至れり尽くせりと世話を焼いてもらえるなど助けられた、としか思うよりない。これで蛙爺達に何某かが起こりはしないか、とも思うが蛙爺の態度からしてその可能性は低いように思える。
肩まで湯に浸かりながら両の手を湯から出して見るともうそこに悧羅の白い手は無い。見えなくなるほどの鱗で覆いつくされているが手としての役割を果たせるだけ良いと考える外ない。動かせばそれなりに痛みも感じるがまだ動かせる。足がまだ無事なのが倖だった。足が動かなければ先に進むことも出来ない。この場に辿りつくまで里を出てから二十日を要してしまっている。このままの速さで進めば東王父の場へ着く頃には身体中が鱗で埋め尽くされてしまう。無理をしてでも翔けたいが、翔ける体力が僅かにしか悧羅に残っていないのだ。
間に合わせなければならないのに思うようにならない身体がもどかしい。これも又、試されているということか。
大きく息をついてから湯から上がると支度されていた寝間着に袖を通す。清らかに洗われているそれは悧羅が持っているどんな衣よりも肌触りが良かった。泥や埃にまみれ夜露で身体に張り付いた汚れが如何に身体を重くしていたかが分かる。清らかに整えられている物が宮では当たり前だったけれど、それも磐里と加嬬が居てくれるからこそ悧羅に与えられていたものなのだ。戻ったら礼を言わねばならないな、と思いながら勧められていた部屋に戻ると枕元に水差しまで置いてあった。外ではまた妖達の宴が始まったようで遠いけれど賑やかな声が聞こえてくる。それさえも心地良いと感じながら布団に横になると久方振りに味わう柔らかな肌触りにほうっと安堵してしまった。目を閉じるとすとん、と糸が切れたように悧羅の意識が深く眠りに沈んでいくのが分かった。
鳥の鳴く声で目を覚ました悧羅は夢を見なかった事に如何許りかの不安を覚えた。もしかしたら見たのかも知れないがそれに気づかないほど深く寝入ってしまっていたのだろうか?外の宴の賑やかしさも消えて静まり返った邸に他の妖の気配はない。ただ一つ残っている気配があるが、夜明けと共に他の者たちはそれぞれの場に戻ったのだろうか?
まさか…、という思いが過ぎって辺りを見廻すと寝床の横にきちんと畳まれた悧羅の衣が置いてある。急いで召し替えて布団と寝間着を片付けてから気配の主の元へと足を進めた。二つ部屋を出ると縁側と中庭が見える。そこにずんぐりとした蛙が座って煙管を吹かしているのが見えて悧羅はようやくほうっと息をついた。まだ早い刻なのか陽が昇り切ってはいないようで周りは白んでいる。ゆっくりと蛙に近づきながら声をかけると、お目覚めになられたか、と振り向きながら目を細めてくれた。
「ほんに世話になってしもうた。…皆の姿が見えぬが戻ったのかえ?」
「妖の宴は朝になれば終わるものでございますからな。酒に溺れてよたよたと帰って行きましたわい。また今宵も同じことの繰り返しじゃ」
ふぉっふぉっ、と笑う蛙に孫子達は?と尋ねると、それも帰ったという。
「今頃はぐっすり眠っておるでしょう。何やら長様と約束してもろうた、と嬉しそうにはしゃいでおりましたがの」
「そうか…。礼を申したかったのだが…。爺から伝えてくりゃるかえ?必ずや約束は果たすと妾が申しておった、と」
「長様に約束させるなどほんに身の程を知らぬ子らで申し訳ございませんな」
肩を揺らしながら笑う蛙が縁側に煙管を叩きつけて灰を出すと、よいしょと立ち上がった。数歩跳ねた草むらを煙管で掻き分けると人の道ではない道が見えた。
「晴明がよう使うておりました狐道でございます。勝手に長様方が住んでおられた場にまで繋げておりました故、ここを通って行かれるとよろしかろう。人の子の国を渡るよりは…」
早く着くだろう、という言葉は蛙も出さなかった。悧羅が何処に向かおうとしているのか分かってはいるがそれを知った上で言葉に出せばきっと何かしらの罰が下る。一晩考えて晴明が作っていた道を示すくらいなら手を貸した事にはならないだろう、と思い付いたのだ。付いて来ていた悧羅が、爺、と案じたが蛙は笑うばかりだ。
「長生きだけが得意とするところと申し上げましたでな。色々と知恵が働きますのじゃ。特に裏をかくのは長生きする上で何より大事な事でございますからな」
さあ、と促されて悧羅はふわりと蛙を包んだ。
「ほんに助かった。この礼は必ずや」
抱きしめる蛙の短い手が悧羅の背中を叩く。
「このような褒美をもろうてしもうては爺の生命が終わっても悔いはありませんなあ」
旦那様に潰されてしまう、と笑う蛙から身体を離して悧羅も微笑んだ。
「必ずやまた会いにくる。爺に害為すことあらば…」
「大事ござらん。案じられずとも爺はまだまだ死なぬようじゃ。長様もどうかお気をつけて」
うん、と頷きながら蛙の手を強く握ってもう一度礼を言うと悧羅は勧められた道に入った。数歩進んで後ろを向いたがもう蛙の姿は見えない。晴明が使っていた狐道とは言われたが、まるで獣道のようで整えられた道ではない。ただ真っ直ぐに伸びる道だけが悧羅の前にあり通って来たはずの道は消えている。
これではどれくらいの刻が経っているかも分からぬな。
思い出してみれば確かに人の子の国に居を構えていた頃、晴明は京と里を容易く行き来していた。用が出来たと言っては戻り、その夜には里にいる。懇意にしている妖の能力を借りていたのだろうと思っていたが、どうやらこの道で行き来していたようだ。晴明らしいとも思えるが死して尚この道が使えることの方が驚いてしまう。それだけ稀有な者だったのだ。亡くした事を惜しいとも思えるがそれも又人であるからこそだ。悧羅がこれを乗り越えればまた永い生が待っている。
生きて戻れたならば生まれ変わりを待つのも一興だな。
誰も居ない場を進みながら小さく笑っていると遠く先の方で光がちらつき始めた。どうやら出口も近いらしい。本当に人の子にしておくには惜しかったものだ、と苦笑しながら光に向かってほんの少し翔けだしてみた。まだ僅かな刻であれば翔けられる身体も昨日よりは重く感じてしまう。召し替える時に気づいたが鱗は急激に増え、脚を覆い尽くしていた。背中にも痛みを感じるのできっと鱗が生えているのだろう。無事なのは顔だけになってしまった。一刻も速く辿りつかなければ蛙の娘子達との約束も、紳との約束も果たせなくなる。里があった場に通じているのであれば、そこから翔けられるだけ翔ければ今日の内にはどうにか近くまで行くことができるかもしれなかった。目の前に迫った光を抜けると急に足場を失って身体が堕ち始めてしまった。は?、と思いながらも身体を正してそこにに留まる。見廻してみると辺りは空が広がり悧羅たちが居を構えていた場ではない。
眼下を見下ろすが薄い雲に覆われて何も見えない。随分と高い場所に出てしまったのか?、と訝しんでいるとふいに頭上が陰った。振り仰ぐと分厚い雲が悧羅の上にあり真ん中から割れるように両側に開いた。瀑布のような白い雲が悧羅を掴むと中に引き込まれていく。
どうやら招かれたようだった。
久しぶりのカエルです。
良いとこ持っていくなぁ…。
さて、どうなりますやら?
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。