這う【肆】《ハウ【シ】》
遅くなりました。
長くなってしまいましたが更新します。
初めてとも言える紳からの叱りを受けた媟雅はその後しばらくの間は塞ぎ込んでいたが己の形振りを考えるには良い刻だったようだ。よくよく見てみれば舜啓はどんな媟雅であっても受け入れてくれていたし、腹の子を労る前には必ず媟雅を先に労っていた。当たり前のように享受されていた精気も媟雅が寝入った後、夜も更けてからほぼ毎夜のように獲りに行ってくれていた事にも気づかなかった。夜中に出て戻ってくるのは明け方近くにもなる。ほんの僅かしかない眠りを取ると、また何事も無かったかのように媟雅に精気を分けてから近衛の務めに向かう。
「今までもこうだったの?」
夜更けに戻ってきた舜啓を待っていた媟雅に寝ているものだとばかり思っていた舜啓は驚いたようだったが、たった一言、気にしなくて良いとだけ伝えてくれた。
何よりも負担をかけていたのは瑞雨だったようで媟雅が宮に居ても側に寄ろうとはせず悧羅の部屋で姚妃や妲己と過ごす。媟雅が居るのだから一緒にいようと声をかけても首を振られた。
「…かあさま、おこるもん…」
幼い顔に笑顔も見えず、かといって強引に引き寄せるわけにもいかず舜啓が戻ってくると待ちかねていたように甘えだす姿に、それほどまでの我を通していたのか、と悔やむしかなかった。これでは確かに啝珈の言う通りいつ離縁を言い出されても媟雅は受け入れるしか出来なかっただろう。
悧羅の自室の前の縁側で中で遊ぶ瑞雨を見ながら、寄ってくれた時には温かく抱き止めて過ごし、膝に乗ってくれるようになったのは産月を迎えていた。本当に悪いことばかりしてしまっていた、と呟いた媟雅に悧羅は小さく微笑んだ。
「そう思うのであらば己の在り方を変えてゆけばよい。紳とて其方を大事に思うておるからこそ厳しく諭したのだから。…まずは舜啓に詫びることじゃ。媟雅がこれから先も舜啓と共にありたいと願うのならばな」
「それは私は思ってるけど…。舜啓はどうなんだろうなぁ…。嫌な姿ばっかり見せちゃったから」
嘆息する媟雅に、ころころと鈴を転がすような笑いが届いた。あれは大事無かろうよ、と言う言葉に背中を押されてその夜戻って来た舜啓に媟雅は涙ながらに詫びた。
これまでのこと、それからこれからのこと。
泣きじゃくる媟雅を笑いながら舜啓は抱きしめてくれていた。
「契る前からどんな媟雅でも受け入れるって決めてたんだから、気にしなくていいよ?腹に子がいるんだからそんなに泣くと子が心配するだろ?」
「だけど瑞雨にまで可哀想な事をしてた…。母親として駄目だよ」
抱きしめられた背中が優しく叩かれて、それが分かったなら良いじゃないか、と言ってくれる。
「まだ幼いと思ってても瑞雨は賢いからね。色々気付いちゃう。ゆっくり取り戻していけば良いよ」
「私に出来るかなあ…」
「媟雅だけが頑張るわけじゃないから。俺と一緒にやっていけば良いんだよ。一人で背負いこみ過ぎるなって紳にも言われたでしょ?」
童をあやすように頭を撫でられて腕の中で大きく幾度も媟雅は頷くしか出来なかった。蔑ろにして良いはずの相手では無かったのに、本当に自分は愚かだという思いしかなかった。あれほど切望して戻ったはずの腕のの中なのに、手に入れた事で安心し過ぎてしまっていた。その結果がこうなってしまった事に悔やむしかできないが、それでも舜啓は媟雅が良いと言ってくれる。それがどんなに有難く倖な事であるかを契って五年経って気づく事になるなど遅すぎるではないか。
「まだまだ先は長いんだから。とにかく一人で頑張ろうとするところから少しずつ変えて頼ってくれると嬉しいかな」
うん、と頷いた媟雅が子を産み落としたのはそれから十日の後の事だった。また痛みに耐えて、さあ子の顔を見れるという時に外に出ようとした舜啓を媟雅が呼び止めて紳と悧羅のように子を産んだ。それで分かった事はこれ以上の倖などは無かったのだ、ということだ。一人で産みの苦しみに耐える事が女子としての媟雅の役割だと思っていたけれど、舜啓と共に産み落とせた生命は二人で共に生きてゆくのだ、という誓いを新たにしてくれた。心にも身体にも余裕が出来たからなのか、それとも新しい子を産み落とせたからなのか床に付いている媟雅に少しずつ瑞雨も近づいてくれるようになり、床上げの頃には新しく生まれた子と瑞雨と舜啓と共に同じ部屋で休めるようになれた。
産まれた子は男児であった。瑞雨は舜啓によく似ていたけれど、その子は媟雅に良く似ていた。白銀の髪に黒曜石の一本角。憂玘と名付けたその子には、媟雅のこれまでの行いを忘れてはならぬ、という思いを込めた。それは紳と悧羅の助言もあったのだが、良い名だとすとんと胸に落ちたのだ。
「紳と悧羅に名付けてもらえるなんて倖な子になるよ」
無邪気に喜ぶ舜啓がすぐ隣にいることをそれまでとはまた違った倖に感じて媟雅も笑えるようになっていた。
「これからは近衛の務めを少し離れて瑞雨と憂玘の側に出来るだけ居たいんだけど…」
憂玘が産まれて三月が経ったころにそう舜啓に伝えると、快諾してくれた。もちろん紳と悧羅にも話したが二人とも否とは言わず、むしろそれが良い、と笑っているばかりだった。
本当に頑張り過ぎていたんだな…。
ようやく皆が安心して媟雅を見守れるようになったのは瑞雨が四つ、憂玘が一つになる頃だった。
ようやっと一段落だ、と思っていた矢先から悧羅は夢を見るようになっていた。紳と情を交わした後は心地良い疲れに沈むように意識を手放してそのまま深く眠ってしまうのだが、必ずといって良いほど毎夜のようにそれは夢を見させた。何という事もない、ただ暗闇の中に悧羅が立っており遠く離れた場に薄すらと紅かがちのような光が見える。ただそれだけの夢だ。だがそれでも夢を見せられると眠りが浅くなってしまう。身体に特に変わりは無かったし、少しばかり疲れたような気にもなるがまだ遠くに見えているだけのそれをどう伝えて良いものかも分からない。それでもそういった夢を見るということだけは紳と荊軻には伝えておいた。紳には何某かあれば必ず伝えると制約していたし、伝えないことでの不安を煽りたくはないのだ。
そうして見つめられるだけの夜が続きほんの少し夢の内容が変わったのは五十年が経ってしまっていた。紅かがちの目だけでなく蛇の舌の音が加わりまるで身体に何かが巻きつくように締め付けられるようになり始めた。とはいえ苦しいなどという事はなく締め付けられるとはいっても悧羅の身体を確かめるかのように足下から這い上がってくるような感触を与えられた。それも又夢の中だけのことのようで現に戻っても身体には何の変化もない。ただ確実にその時が近付いているのだということだけが分かる。
けれど今のところは荊軻からも何の報せも上がってはこない。それだけ難儀しているという事なのだが、何も分からない状況では悧羅も夜毎の夢を思い出しながら自分で考えていくしか無かった。王母もあの時以来、この事に関わることについては何も語らない。場を護る任は変わらずに下ろされるが、どれも他愛のないものばかりだ。五十年前には手を焼いたような事柄でも姿を見せるだけで妖達は逃げるか、その場に平伏する。悧羅自身も今まで抑えられていた能力が少しずつ解き放たれていたことに気づかないでは無かったけれど、まさかこうまで変わるものだとは思っても見なかった。
身体が全盛期であった頃には生命を削って能力を使っていたので無意識下でそれ以上の能力が開花しないようにしていたようだった。紳と契り精気を受け入れるようになってから使っていた能力もまだほんの一部であったのか、と思い知らされる。蓮を降ろす事を憤った東王父の気持ちが僅かにだが分かる気がした。確かに蓮は西王母の化身であり、その能力を色濃く継いでしまうのだろう。これがそのまま降ろされたならば、現世にいる妖達も人の子もすべからく理を見失なっていたはずだ。
そう思えば悧羅が能力を開花することを抑えていたのは現世にとっても東王父にとっても善と出たことだったのではないだろうか。悧羅にとってはそうせざるを得なかっただけなのだが、それも又何かに導かれていたのかもしれない。
所詮は悧羅とて妖だ。西王母や東王父の掌の上で踊らされているに過ぎないのだから。
やれやれと思いながらもまた刻は過ぎていく。這い上がってくるだけだった感触が強く締め付けられるようになり息苦しさで目を覚ますようになったのには、またもや五十年が経っていた。より鮮明になった夢の中で紅かがちの目をした大蛇が悧羅の足下から這い上がり締めつける。それとは別の金の二つの眼が締め上げられる悧羅を見下ろすように現れ始めたのも同じ頃だった。同時に身体にも少しずつ変異が現れ始めた。
最初は右の示指と中指に。初めてあのモノに触った時に痛みと痺れを感じた場所に二つの小さな噛み痕のような疵が出来た。動かすことなどには障りはなかったが、金の眼が見えるたびに目を覚ますと身体に蛇の巻きついた跡が残るようになった。しばらくすれば消えていたのだが、それが確固たるモノとして悧羅の身体に刻みつけられたのはまた十年を要した。
巻きついて這い廻られた場所に少しずつ、本当に少しずつ鱗のようなモノが現れ始めたのだ。初めは一枚ほんの小さなモノであったので取れるものかと試してみたが悧羅の身体から生えているように無理に取ろうとすると痛みを生じる。二枚になった時に無理矢理一枚取ってみたが、かなりの痛みと出血を伴ったため、その後は取ることを諦めざるを得なかった。衣で隠れる部分であったのは倖だったが、日々増える鱗に紳の顔は青くなるばかりだ。さすがに気持ちの良いものではないだろうと変わらずに情を交わそうとしてくれる紳を拒もうともしたのだが、それには紳が異を唱えた。
「何が起こってるか分からないからこそ確かめたい。別に気持ち悪いなんて思ってもないよ?」
そうまで言われてしまっては悧羅にそれ以上拒めるわけもなく甘えてしまっていたが、腹から胸にかけて鱗が広がった頃に悧羅はこれは蛇だけではないと確信した。
蛇であるならば鱗の跡が残るだけだろうが、明らかに悧羅に生えている鱗は異質だ。光の当たり具合で白くも青くも銀にも見える。一つ一つが神々しいと思えるほどにそれは美しかった。そしてあの見え始めた金の眼。もしや、という思いが過った。だが東王父であるならば、それも容易く使役できるはずなのだ。そもそも神が悧羅を試すために与えたともいえる呪の類だ。ただの蛇だけを使うはずがない。
では、あの金の眼はナニモノなのだ?
考え続けて数年が経ってしまう。鱗は増え続け遂に痛みと呼吸が上手く出来なくなった。夜毎見える金の眼もより鮮明に見えるようになり、それまで見えて居なかったものも見え始めた。見下ろされていた眼は大きく両側に揺蕩うように二本の長い髭がある。靄がかかったかのような視界の中で一つだけ悧羅の身体に生えた鱗と同じモノが輝いていた。目を覚ます毎に増えていく鱗と息苦しさで日々疲弊していく悧羅に休むように紳が言うが休んでいる暇などない。何より子ども達には内密にしていることだ。悧羅が床に伏してしまえば、何もかもを話さなければならなくなる。
「ここまで内密に出来ておるのだ。知らぬままで良いということもあろう。子ども達の前に出るくらいであれば妾の身体もまだ無理はきかせられる」
「…そういう問題じゃないでしょ?座ってるのだって苦しいくせに」
隣で支えてくれる紳に礼を言いながら身体を預ける。無理は効くとはいったが気力で賄っているに過ぎない。本音を言えば床に就いてしまいたかったが、それではナニかに負けてしまったような気持ちになるのだ。紳もこの所は新しく近衛隊副隊長に就いた舜啓に務めを託し悧羅の側についてくれている。舜啓は悧羅がナニモノかにナニかを掛けられたことを知っている少ない者の一人だ。だがここまで悧羅が弱っていることまでは気づいてはいない…、気づかせないようにしていると言った方が良いかもしれない。
新しく見始めた夢の事も紳と荊軻には伝えている。けれど何となく応えは見えていた。紳、と名を呼ぶと、うん?、と穏やかに返しながら悧羅の身体が引き寄せられる。
「…竜かもしれぬ…」
「はあ?」
唐突過ぎる悧羅の言葉に紳の顔が曇った。竜など王母の治めるこの地でも見た事はない。数回その姿の一部を見たのは悧羅と共に王母の任で降りた時くらいだ。それも何をするでもなく、ただ雲と雲の間を泳ぐように流れていくだけ。あまりにも大きく長いその体躯と月明かりに照らされて光る鱗から、あれが竜と呼ばれるモノか、と眺めたことがあるくらいだ。倭の国では見かけなかった妖達もこの大国の地では見かけることが多い。竜もそのひとつだ。
「どうしてそう思うのさ?」
「…いや、考えてはおったのだ。蛇だけでここまで鱗など生えはせんだろう?金の眼に長い二本の髭…、それと妾の身体に生えた鱗と同じようなものが見える。であらば考えられるのは竜だ…」
少し話すだけで息が上がる悧羅に休むように紳が言うが首を振るばかりだ。ここまでくるのに随分と刻を要してしまった。ゆっくりと進むのだろうとは思っていたし王母もそう言っていたので覚悟はしていたが百年以上のも刻を無益に過ごす事になるなど思いもよらなかった。
きっと残された刻は少ない。動ける間に終わらせなければ紳の腕の中から離れてしまうことになる。それだけは悧羅にとって避けたいことであるのに変わりはない。妲己と呼ぶとするりと姿を現して擦り寄ってくる。柔らかな毛並みを撫でながら、荊軻を呼んでくるように命じると、御意とまたするりと姿を消す。
「荊軻を呼ぶなんて、悧羅はそれが間違いないって思ってるって事だね?」
「…そうさな…、妾をここまで弱らせられるは東王父の手によるものであろうが、そこに関わってあるモノがそうであれば良い、とは思うておる」
何で?、と問い返す紳に分かっているだろうに、と思うと小さく笑いが出た。
「さすがにそう長くは保たぬだろうて。ここらで此方からも抗わねばこの腕の中から離れることも覚悟せねばならぬようになってしまう故」
「…それは絶対しないって約束したでしょ?」
引き寄せられる腕に力が込められて、もちろん、と悧羅がその手を包む。
「であらばこそ抗わねば…。身体がまだ動く内に…」
紳の顔を見上げて微笑むと空いた手が悧羅の頬を包んでくれる。大きくて優しく触れてくれるその手に顔を擦りよせると確かめるように頬を撫でられた。子ども達も成長した今、本来であるならば紳と二人穏やかに刻を重ねているはずだった。媟雅以外まだ誰も逑を決めてはいないので皆、宮に残ってくれている。だがそれぞれに鍛錬と研鑽を積み、舜啓は近衛隊副隊長に、忋抖、啝珈、皓滓、玳絃、灶絃もそれぞれに近衛隊の一部隊を任されている。媟雅は憂玘を産み落とした後から隊を離れ子と共に過ごしながら悧羅の務めを手伝っている。末子の姚妃は武よりも文に秀出たようで荊軻の下で文官として務めるようになっていた。
その姚妃が何やら一番色々なことを気取るのが上手いので共にいるときには悧羅も気を張り続けていなければ容易く気取られてしまうだろう。…もしかしたら気取ってはいるが紳も悧羅も何も言わない事で口をだしてはならないとさえ思っているかもしれない。それほどに他の者の心の有り様を読むのが上手い娘なのだ。姉や兄達に甘やかされて育ったので、どうなることやらと心配したが無用な心配だったようで一安心している。
廊下から妲己の足音と共に衣擦れの音が聞こえ始めて悧羅は哀玥を呼ぶ。妲己と同じようにするりと現れた哀玥が悧羅の横に侍るのと戸を妲己が開けて荊軻と共に入ってきたのはほぼ同時だった。悧羅の衰弱振りに目を細めながら三尺ほど離れた場に座った荊軻に呼び出した事を悧羅が詫びていると、妲己が悧羅の背後に侍る。
「いえ。何かお気になられることがございましたか?」
調べている事が一向に進展しない間に悧羅の身体は衰弱していく。出来るだけ落ち着いて調べを進めようとしても気ばかりが逸ってしまい有益な報せをあげられていない。必ずや朗報を、と誓っていたはずなのに役に立てない事が荊軻には苦しかった。
「そのように気を落とすでないよ?妾もまだ動ける。まだ終わったわけではないのじゃて」
荊軻が寝る間も惜しんで調べを進めてくれていることは悧羅も知っている。
「あまり根を詰めるなと言うたに其方この百年、特に妾がこうなってからというものあまり眠っておらぬのであろう?」
苦笑する悧羅に、私の事など良いのです、と荊軻が肩を落とした。別に生命を取られる事になる訳ではない。悧羅に降りかかったいることを紐解く方が今は優先すべき事なのだから。
「して、私をお呼びになるとは又なにか夢が変わりましたか?」
「いや、そうではない。少しばかり気になる事ができた」
気になる事?、と問い返す荊軻の前で悧羅が深く紳に身体を預けている。座っているのも話すのも辛いのだ。
「…妾の身体に生えた鱗、夢に見る金の眼の主は竜ではないかと思うてな…」
「竜…、と申されましたか?」
「そう申した。蛇だけではこうはならぬであろ?しばらく前から考えてはおったのだが夢に出てくる金の眼の主も妾と同じような鱗を持っておる。…それで思い出したのだ。大国には竜が住もうておるし、竜生九子の話をの…」
悧羅から出されたその名に妲己と哀玥が顔を弾かれたように顔を上げた。まさか、という声は哀玥からだ。同じように目を見開いた荊軻も又息を呑む。竜生九子?、と首を傾げた紳に、恐れながら、と哀玥が声を上げた。
“この大国でも伝承とされるモノ達でございます。竜が産んだ九匹の子のことでございますが、親と同じ竜にはなれずにあるモノ達。竜生九子不生竜と申すのですがそれぞれに姿、形、性格までも異なるモノ達でございますれば”
小生も見えたことはございません、と続ける哀玥に妲己も大きく頷く。
“我ら獣の姿をした妖ならば一度は名を聞くことはあるが…。それが本当におるのかどうかも分からぬモノ達だ。おったとしても竜に成れずの子らとならば見えたいものでもない”
そうであろうな、と悧羅も小さく笑いながら同意を示す。かといってこれほどまでに永い刻をかけ悧羅の体力を奪い果ては身体に鱗を生えさせるなど並の妖では為し得ない。この150年で悧羅の能力は全てが華開き身体も若い頃のままなのだ。大抵の事であれば弾き返す事ができる、と自負できる。背中の華は蕾のままだが、このまま悧羅の身体が蝕まれていけば近いうちに開くのは間違いないだろう。
「…ただそう考えれば全ての点が線になる。神である東王父であればそれを使役するか能力を貸してもらうかはできそうなものじゃ。妾も随分と古くに読んだ書物のこと故はっきりとは覚えてはおらぬのだが…、たしか竜に似た姿のモノがおったと記憶しておる…」
“… 睚眦…でございますね?”
「そのような名であったかの?」
息の切れてきた悧羅の身体を包むように紳が支え直した。哀玥は小さく頷いて、七番目の子でございます、と応える。
「確かにそうであったならば、殺す事を好むモノであったはずでございますね?」
だとすれば悧羅がここまで弱る理も見えてくる。神が竜の子と結託しているのならば神と神同士の能力が悧羅にかかっている事になるからだ。
「…そうであれば良い、という妾の甘さかもしれぬ。なれどそろそろ動かねば抗う能力さえ出せぬ様になるのも近しかろう」
そんな、と息を呑む場の皆に悧羅は穏やかに笑って見せた。
「大事ない。まだ動ける。なれどそうだとして考えても刻はあまり無いであろ。まずは東王父に会わねば妾もどうすることも出来ぬ。その睚眦とやらが共におってくれたならば良いが、そうでないことも考えねばならぬであろ?」
「だけど会ってどうするの?解いてくれるとも思えないけど…」
「それは分からぬな。王母の話では蓮ならば、と言うておったということだに。会えば何かが変わるやもしれぬ。であればこそ、急ぎ東王父の場を見つけねばならぬのだが…」
ふうっと大きく息をついた悧羅に、本当に刻が無いと皆が悟る。けれど西王母の場を見つけ出すのにも枉駕が三年の刻を要した。今からまた別の神の場を見つけるなど、その間に悧羅の抗いも出来なくなるかもしれなかった。迷っている暇など無いことも分かっている。それが微かな可能性であっても縋るしかないことも。だが、動ける者が限られているのだ。この事を知っているものはここにいる者たちの他には舜啓しかいない。仮に近衛隊や武官隊、いや里中の民達の力を借りたとしても間に合うのかさえ分からない。
冷えていく指先を拳を握って隠した荊軻の背後に衣擦れの音がした。皆の視線が返されるとそこに立っていたのは姚妃だ。慌てたように紳から身を起こそうとする悧羅に、そのままで、と姚妃が部屋に入りながら、まったく、と嘆息している。
「そんなになるまで隠しておけると思った?」
座る姚妃の後に続く様に務めに出ているはずの子ども達の姿が現れ始める。なんで…?、と呟く紳に姚妃が笑った。
「私、目が良いの。武の才は姉様、兄様たちには到底及ばないんだけど、隠そうとすることほど見えるみたい」
自分の目を指で示しながら言う姚妃の周りに子ども達が座り始めた。あと耳もいい、と笑う姚妃に悧羅は苦笑するしかない。いつからだ?、と尋ねると四十年位前から、と笑われた。悧羅の身体に鱗が生え始めた頃からどうやら筒抜けであったようだ。
「で、色々考えてて母様と同じ応えに行き着いたの。だから姉様、兄様にお願いして出来るところまでで良いから手伝ってもらってた」
「手伝う?」
紳が首を傾げると、うんと頷きながら袂から巻物を取り出して床に広げている。
「東王父様は東を統べておられるから、西王母様の場から東方にかけて。で、ここ」
白い指で示された所には赤い印が三つ付けられている。
「東王父様は現世の仙界を統べておられるでしょう?でもそれは三つあるの。蓬莱、方丈、瀛洲の三神山。どれも倭の国に近い。この三つは繋がってると私は考えてる。だから…」
「ここに行けば東王父に会えるかもしれぬ、ということだな?」
笑いながら悧羅が言うと、うん、と姚妃が笑っている。それと、と巻物を荊軻に渡しながら姚妃は続けた。
「これは私の勝手な考えなんだけど、母様は試されてるだけだと思う。これに気づくか気づかないかでも違ったと思うし、その場に行けるか行けないかでも」
「それって悧羅が一人で行かなくちゃいけないってことか?」
この状態で?、と焦る紳に姚妃は、だからだよ、と諭すように肩を落とした。
「私たちが手伝えたのは母様の子だからだと思う。違う血の者たちが手伝えないようにしてたんだよ。だから荊軻さんでも気づかないようにナニかが携わってたと思う。でないと荊軻さんが気づかないなんてあり得ないことでしょう?それは父様も妲己も同じ。眷族の哀玥ならもしかしたらっても思うけど危ういからやめておいた方が良いと思う」
なんと…、と言う声は妲己と哀玥からだ。自分たちの背に乗せれば半日もあればつく場であるのに、今の悧羅の身体では全力で翔けることが出来るかどうかも怪しいのだ。
「なるほどの。姚妃は妾たちが思うておったよりも思慮深くあったということだな」
くすくすと笑い始める悧羅に子ども達から呆れた声が上がり始める。
「大体そうなるまで黙ってるなんてどういうつもりだったの?」
「姚妃から聞いた時には血の気が引いたんだからね」
「ここまでなら大丈夫だって姚妃が言うから信じて手伝ったけど、どうやら当たってたみたい。ほんと良かったよ。手伝うことで何かまた新たに現れるんじゃ無いかって心配してたから」
心労をかけたくなかっただけだ、と笑う悧羅に、逆に心配する、と子ども達が声を揃えた。
本当に優しい子に育ってくれた、と包んでくれている紳の手を叩くと腕に力が込められた。
「ならばその場に行かねばなるまいな」
包まれていた腕から身体を起こすと、今から?、と紳が慌て始める。だが一刻も早い方が良いだろう。少しでも身体が動く内が良い。いつ動けなくなるかなど悧羅にも分からないのだから。せめて明日でも、と止めようとする紳に悧羅は首を振った。
「大事ない。試されておるというは妾も姚妃と同じように思うておったに。ならば、東王父の思う通りに試されてやろうではないか。…それに子らがここまでしてくれたのじゃ。あとは妾が気張らねばなるまいよ」
薄く笑うが支度もある。半刻の後に出ることを伝えると、わかった、と紳の大きな嘆息が響いた。
さて何やら動きがありそうです。
そろそろお話の終わりも見えて来ました。
もう少しお付き合いくださいませ。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。