這う【参】《ハウ【サン】》
こんにちは。
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瑞雨と名付けられた舜啓と媟雅の子は宮の皆に暖かに庇護されて健やかに育っていた。初めこそ紳と悧羅を奪われるのではないかと思っていたような姚妃だったが、瑞雨が大きくなるにつれ共に遊べる相手が出来たことが嬉しいようでよく手を繋いで宮の中を駆け廻っている。その後を付いていく妲己の方が疲れるのではないかと紳と悧羅は心配してしまうほどだった。
「宮の中であらば妾の護りもある故、少しばかり休んではどうじゃ?」
そう妲己に伝えてみたが当の本人はただただ嬉しそうに尾を振るばかりだ。
“まさか媟雅姫の御子まで背に乗せる事が出来るなどとは思うておりませんでしたから。倖でございますよ”
寝そべった妲己の背に六つになった姚妃と三つになった瑞雨が飛びついて楽しそうに笑い合うのを悧羅も苦笑しながら見るしかない。時折、童らしく加減が分からなくなるようなのでそこは諭すようにはしている。勢いよく飛びかかられては妲己も苦しいのだ、と言ってみるが伝えたその時は良いのだがすぐに忘れてしまうようで困ってしまう。終いには、妲己を貸してやらぬぞ、と悪戯に伝えたことで力一杯飛びつくのはどうにか止められたようだった。
“我の事など御案じなさいますな”
苦笑しながら妲己に言われたが悧羅にとって妲己はかけがえのない者なのだから案じるのは当然の事なのだ。子ども達が産まれてからはなかなか二人で共にいる事も出来なくなっているが、それでも特別な思いがあることに何ら変わりはないのだから。
「…妾の大切な妲己がくたびれ果てるのは見ておれぬ。上の子らが甘やかしておる故、加減を知らぬところがあるのでな…。子らと同じようにされておってはさすがの妲己も弱ってしまうではないか」
“なんのこれしき。大したことではございませんよ?御子方が小さき時はまだ駆け廻っておったではありませぬか”
くっくっと笑われて、それはそうなのだが、と悧羅は嘆息してしまう。六人の子を一手に引き受けて面倒を見てくれたのは妲己だ。妲己が居てくれたからこそ悧羅も安心して子を産む事ができたと言っても良い。だがその頃と今では妲己の体力も違うだろうと思うのだが、妲己の応えは否だった。
“主が老いていかれないことと関わりがあるのでしょうが我も哀玥も以前よりも能力が増しておるようなのでございます”
「…そうであったのかえ?」
首を傾げた悧羅に、是、と妲己が頷いた。実際に悧羅が年を重ねるごとに若々しさを取り戻していくと呼応するように妲己や哀玥に流れ込んでくる能力の片鱗も多くなっている。悧羅自体の能力が増したというよりは身体の全盛期であった頃に抑えていた分が華開いている、という感じを受けていた。それが老いを忘れたかのような悧羅の身体に溢れ出してきているのだが、悧羅自身には自覚はないようだ。老いが緩やかになっているとは感じているようだが、若返っているとは思っていない。その恩恵は妲己と哀玥だけに留まらず、夜毎交わる紳にも与えられていた。紳もまた、若返ってきているのだ。悧羅と共にあり続けるためなのだろうが、悧羅が意図してそうしているとは妲己には思えなかった。
きっと掛けられた呪に抗えるよう王母が悧羅を老いないようにするだけでなく、その身体に見合った、これまで抑えこまれていた能力を少しずつ解いているのだ。
それはそこまでなら王母に許された手出しとも取れるし、それ以上はしてはならないということでもある。悧羅に憑いている蛇の臭は年を重ねるごとに少しずつ強くなっている。背後に見える紅かがちのような目は時折眠っているかのように見えなくなる事もあるが気配だけは常に感じていた。悧羅はゆっくりと進むのだろうと言ってはいるがやはり側にいなければ何かあった時に対処が出来ない。妲己か哀玥のどちらかは必ず侍るようにしているのだが、姚妃と瑞雨のこともありどちらかといえば妲己が侍る事が多いのだ。事を知らない忋抖が哀玥と共に居たいと願っていることもあり、時がくるまではそのままで、と言う悧羅の言葉に従って何事もないように振る舞っているに過ぎないのだけれど。
“ともあれ御心配には及びませぬ。この通り尾も増えておりますれば”
ゆっくりと振る妲己の尾は九本にまで増えた。いつの間にやら、と気付く暇もなく増えていくのでその内に何十となりはしないかと案じているほどだ。
「妲己もかの大妖と同じ尾を持つようになってしもうたのだな」
“まだまだ敵う相手とは思うておりませぬが…。あちらは数千年前からその名を轟かせておりますれば”
振り続ける尾に姚妃と瑞雨がしがみつくままにさせながら妲己が小さく笑った。妲己を拾った時にはそうなれば良いと思って名を貰ったのだが、まさか本当に九尾の狐になろうとは悧羅も思っていなかった。
“これも我の主の御力が絶大であるということの証でございましょう。ほんにお側におることができておるというのは有難いことでございますな”
「…妾が其方を手放せなんだだけなのだがな…」
苦笑する悧羅に、手放すなど、と妲己が目を細める。
“我の主はお一人のみでございます。何があろうとお側を離れぬと制約致しましたではございませんか。その様な事をお考えであらば我は口をききませぬよ?”
笑いながらそう言ってくれる妲己の頭を悧羅が撫でると嬉しそうに小さく鳴いてくれる。姚妃と瑞雨は共にいるがこうして二人でいることも本当に少なくなっていた。妲己と二人で居ると昔に戻ったような気持ちにもなるが、倖に満ち溢れた今ではもう懐かしく思い出す程度の事でしかない。悧羅だけでなく妲己もその思いは同じのようだ。紳を名で呼ぶようになった事も今ある倖を与えてくれたことへの妲己なりの礼なのだろう。
素直に昔のように態度を改めないのは妲己らしい。
苦笑しながら柔らかな毛並みを撫で続けていると姚妃が、取らないで、と悧羅の膝に乗ってきた。
「妲己を取らないでよ、母様。遊んでくれなくなっちゃうでしょ?」
膝の上から見上げられて、おやまあ、と悧羅は微笑んだ。
「そうは申しても、妲己は母のものなのだえ?」
「ちがうよ!みんなの妲己だよ?」
小さな頬を膨らませる姚妃に、確かにそうだな、と悧羅は苦笑するしかない。言われてみれば妲己を独占することなどもう難しいことだ。悧羅と二人でいたころは当たり前のように独占出来ていたが今では子ども達も妲己を頼る。何より姚妃や瑞雨など幼子がいるとなると尚更だ。
「そうだな。妲己は皆の大切なものだ。であれば優しく扱うてやらねばの」
膝に座った姚妃の頭を撫でると、うん、と元気の良い応えが返ってくる。とことこと寄ってきた瑞雨にも空いている膝を叩くとにこにこと座り始める。小さな身体を二つも預けられてどちらの頭も撫でてやると、えへへ、と照れたような笑い声が響いてきた。釣られるように悧羅も笑っていると廊下から沢山の声が聞こえ始めた。
「兄様だ!」
膝に座ったばかりだったというのに弾かれたように立ち上がって廊下に駆け出していく姚妃に苦笑すると空いた膝を独り占めするように瑞雨が座り直している。どうやら半分では物足りなかったようで、満足そうに見上げられてしまった。小さな頬を指で撫でてやると嬉しそうににこにことしている。
本当に舜啓の幼い頃のようだ。
共に手を繋いで散歩をした日々や湯浴みをしていた頃が懐かしい。悧羅の事を名で呼ぶ者もあの頃は咲耶と舜啓だけだった。思いを馳せていると廊下から兄達を見つけたのだろう。名を呼びながら走っていく姚妃の足音で引き戻される。静かだった宮が途端に賑やかさに包まれて、どうやら思い出を懐かしむことも難しくなったのだな、と小さな笑いが出てしまった。
姚妃の声と兄達の声に導かれるように磐里と加嬬も務めの手を止めて出迎えにやってきた。
「おかえりなさいまし」
二人の声に、ただいま、と言う声と幾つもの足音が近づいてきた。瑞雨と共に待っていると、ひょっこりと自室の戸の前に子ども達の姿が見え始める。
「お戻りやし」
笑って出迎えるが既に姚妃は皓滓に抱き上げられていた。その日誰が選ばれるかは姚妃次第なのだが、選ばれた者は勝ち誇ったように満面の笑みで戻ってくるのだから、姚妃が大きくなるまで逑を見つけるつもりは無いと言っていたのは本気なのかも知れなかった。子ども達が戻ると必ず悧羅の部屋に一度集まるのも当たり前のようになっている。部屋に入りながら瑞雨が悧羅の膝に座っていることに笑いながら子ども達も腰を降ろした。
「何?妲己じゃないんだ?」
悧羅の横に侍って体躯を伸ばしている妲己を撫でながら灶絃が笑うと、先程まで、と気持ち良さそうに目を細めている。戻って来たのは男子ばかりであったので、媟雅と啝珈、舜啓の事を悧羅が尋ねると、もうすぐだよ、と教えてくれる。
「何ぞ忙しゅうあったのかえ?」
「ううん。姉様が饅頭食べたいって言ってたから。それに付いていってるだけだよ」
玳絃が言うと、お饅頭?、と姚妃が嬉しそうな声を上げた。子ども達も好物だが例にもれず姚妃も瑞雨も好んで食べる。兄達が務めの休みの時など強請って一緒に買いに行くほどだ。
「ならば良いが…。哀玥もおらぬではないか」
忋抖と共にあるはずの哀玥の姿が見えないことにも悧羅が首を傾げると、姉様についていった、と言う。
「無理ばっかりするから哀玥が背に乗せてった。父様みたいに何処に行くにも母様を抱え上げれば心配しないんだろうけど。姉様が恥ずかしいから良いって舜啓を叱るんだよ。だったらせめてって」
おや、と悧羅は苦笑するしかない。確かに紳は何処に行くにも悧羅を抱えて動くし、里の民達もそれが当たり前だと思ってくれている。契る前からそうであったから悧羅も気にしたことなど無かったけれど、普通に考えればあまり無い事なのだろう。
「舜啓も心配しておるのだろうに。ほんに甘え方を知らぬ子じゃ」
嘆息する悧羅を子ども達が、違うって、と笑い始める。
「父様と母様だから出来ることなの。俺たちだってもしも逑が出来てもそうはしないよ?」
「…そういうものなのかえ?」
「そうだよ?大衆の面前で堂々と逑を慈しむとか、それを隠さないとか父様だから出来るんだって。母様を見ると箍が外れちゃうみたいだから」
くすくすと笑われて妲己を見ると大きく頷いている。
“紳は少しばかりおかしいところがございますので。特に主に関わりますと…”
嘆息しながら言ってはいるが、それが彼奴でございますから、と半ば諦めたように続けている。そうか?、とますます首を傾げる悧羅に、そうなの、と子ども達がますます笑い出してしまう。
「なれど媟雅も今くらい甘えても良いのでは無いか?」
悧羅がここまで心配する理由は皆分かっている。媟雅の腹には二人目の子が宿っており、しかももうすぐ八月を迎えるのだ。大きくせり出した腹を抱えていては近衛の務めも休めというのに聞いてはくれない。さすがに八月を超えたら休ませるつもりではいるのだが、頑固な媟雅がそれに是というのも刻を要した。
「姉様だよ?そう容易く甘えたり出来るもんか。今度は産み場に入るって言う舜啓にまだ駄目だって言ってるらしいから。また入らせてもらえなかったらどうしようって舜啓が慌ててたよ」
「何じゃ?まだそのような事を言っておるのかえ?」
ほんにもう、と肩を落とす悧羅にまた子ども達が笑い出す。
「産み場に伴侶がおってくれる事がどれほどの倖か…。すべて分けおうてくれるというに…」
やれやれ、と嘆息しながら瑞雨の頭を撫でると、そりゃあ母様たちはね、と忋抖が妲己に身体を預けながら苦笑している。
「其方たちとて姚妃の時は共におってくれたではないか」
「それだよ。だから姉様は入れたくないんだって」
苦笑し続ける忋抖に瑞雨を撫でる手を休めると身体を預けられた妲己が、重うございます、と僅かに体躯を大きくしている。
「あんなに苦しむところを舜啓に見せたくないんだって。それ父様の前で言ってたら姉様の方が小突かれてたけどね。だからこそ一緒に居たいって思う舜啓の気持ちを汲んでやれって」
「まあ…、産みの苦しみは見せたくは無いものだが…。それでも紳は共におると言うてきかなんだからの。舜啓の気持ちが痛いほどにわかるのだろうよ」
確かに初めての時は悧羅も力綱を付けるなと言った紳に戸惑った。痛みを耐えぬく間は良いが産み落とす時には部屋の外に出ていて欲しかった気持ちはわかる。それでも紳は自分の子なのだから蚊帳の外に出すような事はしてくれるな、と言ってくれたし妓姣も紳に見えぬように取り上げると言ってくれたからこそ残る事を受け入れた。今となってはそれで良かったと思えている。悧羅一人で産んだのではなく、紳と二人で産む事が出来たのだと感じているから。そうでなければ七人も子を産むことなど出来なかっただろう。
「其方たちはどうなのだ?逑が出来、子を授かることが出来たとしたら?」
尋ねた悧羅に返ってきた応えは、入る、という迷いのない言葉だ。
「多分契る前からそれは言うと思うな。嫌だっていうなら契る相手じゃないって見限るかも」
「それはまたせんないことではないか。何某かあってのことかもしれぬであろ?」
皓滓の応えに小さく笑うと、それでもねえ、と肩を落とされる、
「目の前で見てるからね。父様と母様の姿。そういった逑になれないならごめんだね。…だけどまだまだ先だよ?姚妃が大きくなるまではそうしないって俺たち決めちゃってるから」
ね?、と兄弟たちを見ると皆一様に笑っている。どうも男子たちにとって姚妃は特別過ぎる。このまま大きくなって情を交わす相手でも見つけた日には、兄達はどうするのだろうと悧羅は少しばかり心配になってしまった。逆を言えばその間は宮に残ってくれるのだろうから嬉しいことこの上ない。身体の成長も終わり日々、紳に近付こうと鍛錬している姿は頼もしくもあるし、何より宮に男手があるということは何とも安心出来るのだ。磐里や加嬬が重いものを持っているとさりげなく受け取って運んだくれたりもするし、小さな気遣いが出来る子達だ。その優しさは紳から受け継いだものであり紳と過ごす内により育まれていったものなのだろう。もちろん媟雅や啝珈もその傾向はあるが、どちらかといえば男子達に強く現れている。
紳の良いところを受け継いでくれているのは悧羅もとても誉に思う。これほどの男子たちであるならば里の鬼女たちが放っておかないだろうと思っているのだが、浮いた話一つ持ってきてはくれない。そうと決めた者が現れたならば会わせてくれるだろうが、そうでないのであれば気恥ずかしいのかもしれなかった。紳にも悧羅にも既に父母はなかったから契りを結ぶ時にもそういった報せを上げることなどなかった。だから媟雅の時に舜啓が礼を取って許しを乞う姿に紳も感嘆していたのだ。本来なら紳もそうやって悧羅を娶らなければならなかったはずだと思ったようだ。
「本当はああしなきゃいけなかったんだねぇ」
媟雅との契りを許した後に悧羅にだけ聞こえるように言っていたのは皆には内緒だ。くすくすと子ども達の姿を見ながら笑っていると、中庭に哀玥が降り立った。背に媟雅を乗せてくれていたようでその背から媟雅か降り始めている。少し遅れて降り立った舜啓が手を貸そうとするが、大丈夫だってば!、と呆れたような声がする。あまり丁重に扱われることに半ば苛立っているようにも見えた。哀玥から降りてさっさと歩き始める媟雅に舜啓も諦めたのか、降り立ってきた啝珈の腕の中から饅頭を取って口に放りこんでいる。磐里と加嬬の出迎えにも肩を竦めて見せると、大分お疲れのようでございますね、と笑われていた。
部屋の中に上がれるように加嬬が哀玥の足を拭きとっている間に媟雅はもう部屋に入って、よいしょ、と大きな腹を支えながら座り始めている。けれど瑞雨は悧羅の膝から動かない。腹が大きい母を慮ってもあるのだろうが二人目を腹に宿してからの媟雅は感情の起伏が激しいのだ。悧羅にも少しは覚えがあるが媟雅ほどではなかったし、磐里に言わせればその者で違いますから、と笑ってくれるほどのことだと思っている。それでも幼心に気を遣うようで、入ってきた舜啓を見ると飛びついて行った。
「悧羅、ありがとう。瑞雨、利口にしてたか?」
抱き上げながら瑞雨は、うん、と元気に返している。
「ようひちゃんといっしょに、だっきとあそんだよ。りらちゃんもいっしょ」
そうか、と笑いながら座って瑞雨を膝に乗せている舜啓の隣に啝珈が座ると次々と腕が伸びて腕の中の饅頭を取っていく。母様も、と持ってきてくれた饅頭を灶絃から受け取っていると、大変だったんだからね、と啝珈が嘆くように呟いた。大きな嘆息と共に悧羅の横に侍った哀玥に、ねえ?、と同意を求めているようだが応えはなく代わりに悧羅の膝に頭を乗せてきた。
「何ぞあったのかえ?啝珈が憤るなど珍しいのう」
哀玥の頭を撫でながら言う悧羅に、珍しくはないでしょ、と忋抖が横槍を入れた。それに一瞥を投げてまた大きく嘆息すると、姉様だよ?、と啝珈が媟雅を見た。思い当たる事があるのか媟雅は黙って少し頬を膨らませている。
「良いんだって」
瑞雨を腕で包みながらなんでもない事のように舜啓が言っているが、良くない!、と啝珈の方が火が着いているようだ。何だ?、と哀玥に視線を落とすと、大きくこちらも嘆息している。哀玥までこうであるなら余程の事だったのだろうとは分かる。
「姉様、舜啓に酷過ぎるんだよ!抱えるのが嫌なら手を引くって言っても怒る。哀玥の背に乗る時も降りる時も手を貸そうとすれば怒る。終いには饅頭屋のおばちゃんに、こうだああだって気に食わない事全部話してさ。おばちゃんは笑ってたけど周りで聞いてたら本当に舜啓がそんな男だって思われちゃうじゃん」
本当に怒っているようで啝珈の顔が真っ赤に染まっていく。だから良いんだって、と舜啓が再び宥めるが、それにも、良くないって!、と声を張り上げた。手にしていた饅頭の袋が握り潰されそうになって慌てたように皓滓が啝珈の手から袋を取り上げて中を確かめる。何とか饅頭は無事だ、と安堵している皓滓の横で啝珈は止まらない。
「大事にしてもらってるんだからお礼言うべきなのに逆に責めるなんてあり得ないでしょ?あんな風に扱われてたらいつか離縁を言われたっておかしくないよ?!腹に子がいて大変なのは分かるけどそれでもあんな風に舜啓を扱ったら絶対駄目!舜啓は姉様と契ってるけどまだ鬼女達に人気あるんだから、取られちゃうよ?!」
それでも良いの?、と声を荒げる啝珈を、まあ落ち着きや、と悧羅が苦笑してどうにか止めた。腰を上げて媟雅を責め立てていた啝珈も顔は真っ赤にしたままで、もうっと座ってくれた。声はかなり大きかったようで磐里や加嬬たちまでも部屋の中に入ってきた。何事ですか?、と心配そうな磐里と加嬬が座ると同時に、何の騒ぎ?、と中庭に紳が降り立った。
「宮の外まで聞こえてたよ、啝珈の声」
笑いながら部屋に入ってくる紳を、お戻りやし、と悧羅が迎えると、ただいま、と抱き上げながら口付けてそのまま膝に乗せて座ってくれる。また啝珈が顔を真っ赤にしながら話して聞かせている。苦笑しながら聞いていた紳も話が終わると、それは媟雅が悪い、とぴしゃりと言った。紳がそういう言葉で諭すのは珍しい。いつも穏やかで子ども達にも悧羅にも声を荒げた事のない紳が言うのだ。さすがに媟雅も膨ませていた頬を戻した。
「媟雅の大変さはみんな分かってる。特に舜啓は自分の子を宿してくれてるんだから心配して当たり前だ。幾ら舜啓が優しくて何も言わないからってそれに甘えすぎて胡座をかいてちゃ駄目だ。お前がそんなだから瑞雨だって寄りつかないだろ?気持ちを落ち着けて舜啓にした事を考えて省みれるようになるまでは近衛の務めにも出なくていい」
え?、と目を見開いた媟雅を見て舜啓が紳を止めるが紳は駄目だ、と言って退かない。助けを求めるように悧羅を媟雅が見たが、紳がそこまで言うことに口を挟むつもりは悧羅にはなかった。初めて見るような紳の姿と言葉に他の子ども達も饅頭を食べる手をとめてしまっている。それほどに少し怒っているのが伝わるからだ。
「契りを結ぶ、子を成していくっていうのは一人で出来る事じゃない。お前は何でも背負って一人で何でも出来る気になってるかもしれないけど、そんな事なんて一つもない。契りを結んだ以上、舜啓の事を尊ぶのは当たり前のことだし、自分の体調や気分が優れなくても相手を労る気持ちがないなら永い刻を一緒に過ごす意味なんてないんだ。それが出来ないならさっさと離縁して舜啓を楽にしてやれ」
「ちょっと、紳!俺は離縁なんて考えたこともないって!」
焦った舜啓が腰を上げるが、それにも紳は首を振った。
「それくらいの事をしてるってことだ。互いを思いやれないで我を通し過ぎるとそうなるって考えてもないんだろ?媟雅と腹の子を護るために舜啓がどれだけ無理して人の子から精気を獲りに行ってるのかも分かってないんだよ。されて当たり前だって思ってるからそんな態度が取れるんだ」
とにかく明日から務めには出るな、ともう一度言い置くと何か言いたそうな媟雅に部屋に下がるようにも紳は言っている。
「今は一人で考えてみろ」
手を振ると泣き出しそうになりながら媟雅が部屋を出て行った。後を追おうとする女官達と舜啓にも、そのままにするように伝えている。
「…少しばかり言いすぎたのではないかえ?」
仰ぎ見ながら悧羅も言ってはみるが、今度ばかりは紳が正しい。契りを交わし親となった今では抱えるものの大きさも違う。いつまでも娘子の気持ちでいるなと言いたいのは良くわかった。
「たまには俺だって父親らしい言葉を投げないと。近頃は目にあまる事が多かったからね。これで少し考えてくれれば良いんだけど」
「それで本当に離縁されちゃったらどうしてくれるのさ!?紳の馬鹿!」
舜啓に責められて紳は苦笑するしかない。肩を持ったら馬鹿呼ばわりされるとは思ってもいなかった。
「その時は舜啓と子ども達が残ればいいさ。大丈夫。俺と悧羅の自慢の子なんだからちゃんと考えて心を入れ替えてくれるって」
笑いながら言う紳はいつもの穏やかな顔に戻っている。
「さあ、湯でも使って夕餉にしよう。俺腹が減って腹が減って…。さっきから饅頭の匂いで堪らなかったんだよ」
皓滓に手を伸ばして饅頭を強請る姿に先程までの紳の雰囲気はない。呆気に取られながらも子ども達も湯を使うことにして立ち上がりはじめる。
“本当に此奴ばかりは読めませぬな”
忋抖の身体が離れた体躯を元に戻しながら言う妲己に悧羅も、そうだな、と苦笑した。
紳が怒りました。
めったに…というかほとんど無いですね。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。