這う《ハウ》
遅くなりました。
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まずい事になるかもしれない、とはその場の皆が思った。地の底から響くような一言を残して燃え落ちた木彫りのそれは初めから悧羅だけを狙うように作られた物だったのだろう。深く考えれば分かるはずだった、と荊軻は唇を噛んだ。蛇神を信仰しているのは自分たちの宿命を嘆いての物だと思い込んでいたが、これがもしも怨恨を持つ者が作ったのだとしたら悧羅だけを狙う意味も繋がるではないか。末裔達には只、少しでも永らえるためだとでも言っておけば誰も疑うことなく祀り続けるのは当然だ。荊軻が見えた最期の二人はそうだと信じていたし荊軻もそうなのだと信じてしまった。長、と声を掛けるが悧羅はただ案ずるな、とだけ応えた。
「其方達に害が及ばねばそれで良い」
まだ痛みと痺れの残る指を動かしながら言う悧羅に、馬鹿な事言わないで!、と紳が声を荒げた。すぐ側に居たのに警戒を怠った。荊軻から蛇神を祀っていると聞いていたのに。
「悧羅を狙ってたって事だよ?それにまんまと嵌ったんだ。本当に今どうもないの?」
青くなる紳の顔に触れて悧羅は小さく微笑んで見せる。
「ほんにどうもない。…これから先どうかは分からぬがそう易々と思い通りにはならぬ。まだ舜啓と媟雅の子の顔もみておらぬのだから」
のう?、と視線を向けられた舜啓の顔も青ざめている。手を伸ばして舜啓の手を取ると、ほんに大事ないと言って聞かせる。どうにか頷いてくれたが皆の耳に最期の言葉が木霊しているのは悧羅にも分かる。
悧羅も同じように感じているからだ。
「…これはここだけの事にしておくれ。皆に要らぬ心労をかけたいものでも無い。何より何某も起こっておらぬ今では何も打つ手もないのでな。変わりがあらばすぐに伝えると制約する故」
「だけど…」
言葉を紡ごうとした紳を悧羅は静かに首を振って制する。何より今は他の者たちが害されなかったことを喜ぶべきだ。己に降りかかる業ならばどれだけでも受け入れると決めている。それに今誰よりも心労をかけたく無いのは媟雅の身だ。媟雅には舜啓との子が宿ったばかりなのだから、むしろそちらに牙を剥かれなくて良かったと思う。
「妾とて護りたいものはある。掌に乗るほどしか護れぬがそれでもこのようなモノに屈しはせぬ」
柔らかに微笑まれて紳も舜啓も荊軻も大きく嘆息するしかない。どう足掻いても悧羅に何某かが掛けられてしまったことは変えられない。であればまずはそれがどのようなモノなのか調べる必要はあるし、多くの者に知らせる事は不安を煽るだけだという悧羅の言葉にも従うしかない。倖にも蛇神が関わっていることだけは確かなのだ。様々な文献を読み漁ればそれがどのようなモノか掴めることも出来るかもしれない。
「わからないとは思いますけれど、今の長の感じられる事からしてどのようにお考えなのですか?」
逸る心を押し殺して出来るだけ冷静に荊軻が尋ねた。どう、と聞かれても本当に指先の痛みと痺れ以外身体に変わったところはない。
「右の示指と中指が少しばかり痛んで痺れておる程度じゃ。…それも少しずつ気にならないほどになってきておる。…身体はほんにどうもないのだが…」
言葉を切った悧羅に、気になることがあるんだね?、と紳が促す。こういう時の悧羅の勘は恐ろしいほどに当たるのだ。そうして里をここまで繁栄させてきたといっても良い。
「気になる…と申して良いものか…。ここまで周到に支度しておったのであらばそれなりの歳月を要したはずじゃ。何より妾が此処にくるなど考えておっただろうか?」
「それは確かにそうだよね?気づかない可能性だってあったんだ。たまたま千賀の事があったから短命の業を背負わされている者がいるんじゃ無いかって調べ始めたんだから」
同意する舜啓に、そうなのだ、と悧羅が頷く。まるで悧羅がこう動くだろうと先を読まれていたような気がしてしまう。木彫り自体は古いものであったから遥か昔に作られたものなのは間違いがないだろうが、此処に置かれたのはもう少し後ではなかったのだろうか。と、すれば考えられるのは一人だ。
「…千賀であろうな。自らが短命であると示し生命を絶たれることが分かった上で、更にもう一つの罠を仕掛けておったのだろうな…。なれど…」
言葉を切った悧羅を皆が見る。
「例え千賀であったとしてもここまで、とは思えてな…。何か異なるモノがあるのではないかと…」
「確かにそうであれば話の合点が付きますね。ですがどうなさるおつもりですか?」
うん、と悧羅は僅かに考えこむ。今、身体の変化が無いことを踏まえても蓄積された呪は弱々しいのでは無いだろうか?高度な呪の類であれば手を伸ばす前に気づくはずであるし、そうでなかったことを鑑みても作った者と祀っていた者との間に深い溝を感じる。だとすれば早急に身体の異変や生命に関わりは無いだろう。
「しばしそのままにしておくしかなかろうの」
微笑んで何事も無かったかのように言う悧羅に、そんな、と紳がまた焦り始める。悠長に刻が過ぎ去るのを待つしか出来ないなど万が一を考えれば呑み込める事ではない。
「そのままになんてしておける訳がないじゃないか!悧羅にもしもの事があったらどうなると思ってるの?」
再び青ざめて小さく震え出す手を取って悧羅は柔らかにそれを包んだ。
「何もせぬ、などとは言わぬよ?荊軻とて呪の類には通じておる。妾がそのままに、とは申しても調べ上げることはするであろうよ」
笑いながら見られて、当たり前です、と荊軻が嘆息する。悧羅をここに連れてきてしまったのは荊軻だ。遺体を埋葬する時に信仰していたそれも共に屠っていればこうはならなかったはずだ。これは荊軻の失態でもある。
「倖にも蛇神に由来するものであることは分かっております。そこから紐解けば僅かなりとも手掛かりも見つけられましょう…、見つけてみせましょうとも」
穏やかな口調とは裏腹に両の拳を強く握って自分自身に言い聞かせるように荊軻が誓う。
このような事で失ってはならない長なのだ。
うん、と笑みを深くして悧羅が包んでいた紳の手をぽんぽんと叩く。大事ない、と繰り返し伝えられて紳が大きく息をついた。どちらにせよ、今日は務めに戻れそうもない、と思っていたのに悧羅は笑って戻れと言う。
「今からそのように気を擦り減らしておってはどうにもならぬ。妾は宮に戻っておる故。…何より媟雅は出るなと言うに務めに出ておる。紳や舜啓が見張っておらねば何をしでかすか分からぬえ?」
くすくすと笑いながら手を叩かれ続けて、それはそうだけど…、と紳も舜啓も目を見合わせる。
「あれは紳と妾の長子という責を重いほどに背負うておる。故に無理をするなと申しても聞き入れぬであろ?其方達が|見守うてやらねばますます無理をするだろうて」
さあ、と促すと諦めたのか紳が軽く悧羅に口付けた。分かった、と言い残して翔けていく二人の背中を見送りながら、長と荊軻が声をかけた。
「大事ない。…なれど済まぬな荊軻。また務めを増やしてしもうた」
小さく笑う悧羅に、そのようなこと、と荊軻は肩を落とす。私の油断が、と言いかけた言葉は悧羅が手を挙げて制した。
「其方の気に病むことではない。妾とて見誤まっておったのだから。…なれど死して尚、妾に害さんとするとは…。なかなかに面白いではないか」
「面白いだなどと…」
嗜めるような荊軻に悧羅は微笑む。思えば余りにも容易く狩れたものだった。こちらも十五年気取られぬように支度をしていたとはいえ、あの場から逃げる算段もつけていただろうに、呆気ないほど抗うこともなく紳の刃を受け入れていた。それはまだ先がある、ということであったのか。だが不思議な事にこれが千賀の企みであったということだけは何故か分かる。
そしてその裏に悧羅達では思いもよらない大きな存在も感じている。
「これも500年前からの業なのであろうよ。…ならば妾が引き受けるがよろしかろうということであろ。紳と契る前であったならばこれも定と思うたであろうが…」
未だ痺れの残る指先を見ながら悧羅は思う。あの頃であればそれも倖だと思っていただろう。苦渋と辛酸と重責ばかりの長という役割から解き放たれるのが速まったのだ、と。
だが今は違う。
護るべきもの、側にいたいと切望する者が傍らにいる。
易々とその倖を奪われてなるものか。
「…抗うてみせるとも…」
痺れの残る手で拳を握った悧羅に、そうでなくては困ります、と荊軻も大きく頷いた。
身体に変わりの無かった悧羅だったのだが宮に戻るとすぐに妲己が自室まで駆けてきた。何かを感じ取られてしまったようですぐに忋抖と共にある哀玥まだ呼んでいる始末だ。二人とも悧羅を見るなり、これは?、と口を揃えて尋ねられる。どうやら獣の妖である二人には何かが見えているらしい。手短に有った事を話して聞かせると二人とも毛を逆立てていた。
“ですから共に参ると申し上げましたのに!”
哀玥に叱られてしまったが苦笑するよりない。何より今はどうということもないのだ、と応えたが二人が首を振った。一体何が見えているのかと尋ねてみると、蛇の目だと教えてくれた。
“紅かがちのような蛇の目でございます。主の背に張りつくように…。今はそれしかみえませぬが…、少しばかり臭いも致します”
「なるほど」
生きている蛇でさえ目は見えにくいと聞く。代わりに臭いや熱で獲物を捉えるのだ。【覚えた】というのは悧羅の匂いや体温の事なのだろう。加えて自分の臭いを混ぜる事でより捉え易くしたという事か。
「…どう思う?」
卓の前に座りながら二人に笑いかけると、臆しもせずに寄ってきて両側に侍ってくれた。二人が寄れるということはやはり呪としての能力はまだ弱いのだろうとも思えたが、妲己と哀玥であれば無理をしてでも侍ることも分かっていた。無理はせずとも良い、と伝えてみたがそうではないと二人とも首を振る。
“我にはまだ弱々しいモノであるとしか…。ただ狩ろうとしましても気配が小さすぎますもので…。哀玥?”
同じような呪から作られた哀玥であれば、と妲己が悧羅から覗きこむように反対に侍る哀玥を見るが小さく首を振っている。
“…小生も呪から作られ申しましたが、あまりにも気配が朧気で…。小生の思うところによりますれば、今どうという事ではなく…。能力を蓄え緩やかに後々…という感触を受けまする”
「…であろうの」
小さく笑いながら二人を撫でると、お護り出来ず、と項垂れてしまう。二人の責ではない、と慰めてみるのだがどうにも二人は納得してくれない。
「二人が気に病む事など何も無いでは無いか。それよりもこれは他の者たちに流れ出すようなものではないかえ?」
“…それは大事ないかと。今は、としか申し上げられませぬが主のみを狙うておるようでございますれば…”
哀玥の応えに悧羅も安堵する。そうであろうとは思ってはいたけれど確かめようも無かったのだが、哀玥がそう言うのであれば間違いないだろう。
「それが分かれば十分じゃて。どちらにせよ少しばかり出方を見らねばどうにもならぬと思うておる。妾の宝に手を出さるるとならば急かねばなるまいとは思うておったが…、何がどうということも分からぬまま手を出してみたとて祓えはせぬだろうからの」
ほうっと息をついた悧羅により一層擦り寄ってくる二人に苦笑しながら他言しないように願う。
「紳と舜啓、荊軻しか知らぬ。妾も何某か転じることがあらば伝える故、それまでは静かに待つしかないのだからな」
悠長な、と荊軻と同じように責められてしまったが嘆息している二人にもそれ以外の道がない事は分かっているようだ。待っている間はいつも通りに、と言う悧羅の命に、御意のままに、とだけ言葉を残して妲己は姚妃の元へ、哀玥は忋抖の元へと姿を消した。出来れば二人にも隠しておきたかったのだけれど隠せるものでは無かったらしい。それは二人が獣だからなのかは分からない。けれどその目には悧羅の背後に目が見えると言った。であればこれから先、ずっとそれが付いて廻るのだろう。
やれやれ、と悧羅も自分の背後を振り向いてみるけれど何も見えはしない。いつのまにか痺れも痛みも無くなった手で頬杖を付いて大きく嘆息するしか無い。考えなければならない事は山の様にある。けれどこれが悧羅に与えられる最期の試練ではないか、とふと思った。悧羅の身体が老いていかないのも、王母が現れる度に華を落としていくのも、こうなる事を分かっていたのでは無いだろうか。そうであればこれを乗り切れば後は王母から下される任を粛々と務めながら残りの生をゆるりと過ごしていけるだろう。
ただ、そこに至るまでの道が険しいという事だ。
けれど始まってしまったものは止める事など出来はしない。どう対処していくにしても悧羅以外に害を為さなければそれで良い。
そうだ、それで良いのだ。
言い聞かせる様に心で強く思うと背後でさらりと衣摺れの音がした。やはり来たか、と思いながらゆっくりと身体を振り向かせると穏やかな微笑みを浮かべた王母が凛として立っている。
「気づいたようだな」
ゆっくりと近づいてくる王母に笑みを返しながら、気付かぬ方がおかしかろう、と言うとゆったりと悧羅の前に王母が座った。そのままふっくらとした手が伸びて悧羅の手を取る。痛みと痺れが走った方の手を取られて、やはり何もかも知っているのだと苦笑するよりない。
「華を落として行く事で少しばかり考えねばならなかったのだろうが…。妾の油断じゃな」
取られた手を包む王母に小さく息をつきながら悧羅が言うと、いいや、と首を振られる。
「こうなる事は決められておった。例えお前が気づいていたとしても、別の方法でこれはお前に憑いただろう」
「…なるほどの…。世の理の流れからは抜け出せぬ、というわけであるの」
そうだ、と頷く王母にそれならばどう足掻いたところで悧羅には受け入れるしか無かったのだ、とすとんと心の奥にそれが落ちた。
「因果だの。妾が里を護るために非道な事をしてきたことへの…。なれど後悔などはせぬ。せねばならなかったことじゃ」
包まれた手を握り返して悧羅がまっすぐに王母を見ると、王母もまた頷いている。
「お前を地に降ろす時からこれは決められた定であった。私とて手が出せぬこと。少しでもお前の手助けにならばと思うて行っておることもあるが、どれほどの助けになるかは分かりかねる」
ふむ、と王母の言葉に少しばかりの違和感を感じて悧羅は考えこんだ。地に降ろす前から決められていた、ということは悧羅を…、というよりは蓮の娘を地に降ろすことを反対していた者がいるということだ。鬼を生み出し地に降ろしたのは王母の独断だと思っていたが、どうやらそこも違っている様な気がする。
「妾を降ろすこと…と申すよりは鬼を地に降ろすことを余り良く思うておらなんだ者がおる、ということか…」
「…察しが良いな…」
くすくすと笑いながら手を撫で続けられながら再び思慮を深める悧羅を王母は見つめ続ける。何処まで気づくのか知りたいのだ。こればかりは王母が教えてやれるものでもないし、もしも教えたならば悧羅に災厄が降りかかる。そういう制約だ。だが悧羅が気付いたならば、降ろす事になった由来は話して聞かせても良い事になっている。
「…東王父か…」
ぽつりと呟いた悧羅の手を撫でていた王母の手が一瞬止まったけれど、何事もなかったかの様にまた撫で続ける。
「何故そう思うのだ?」
問う王母に悧羅が首を傾げてみせる。
「王母は陰の気の者であろ?故に女仙を統べながらも妖達の行く末も見守っておる。だが東王父は逆だ。陽の気を統べ現世の仙界である蓬莱などの三神山を統べる。ここは人の子にとれば来世の場。そこから鬼を降ろし現世に関わらせるは憤ったのではないかと思うただけじゃ。それほどの大きな者であらば千賀を動かしてこうなるように手を出したとしてもおかしくはなかろう?」
大きく頷いた王母だったが、まさかここまで考えが及ぶ娘だとは思ってはいなかった。どうやら王母自身も蓮の娘というものの能力をまだ十二分には分かっていなかったようだ、と苦笑する。
東王父まで辿りつけはしただろうが、その間にあったことまで思慮するとは、やはりこの娘は面白い。
小さく笑いながら、そうだ、と王母が口を開く。どうやら少しばかりの話をしてやる事は許されるようだ。
「私と東王父は対極にある。数千年前に私が人の子の道を正すために鬼を降ろしたい、と申した時強く憤っておった。あちらにとれば妖が現世に、しかも私の意志を持って降りるなど、それが人の子を乱すことだ、と」
遥か昔の思い出を語っているつもりなのだが、その時の東王父の憤って紅く染まった顔は鮮明に蘇る。元来そう近しくもしていないのだから王母の考えで手前勝手に降ろすことも出来たのだが、一応は現世を統べる者なので|理を解いてからと考えたのが甘かった。
「幾度も話し合いを重ねてどうにか鬼を降ろすことには是を得たが、それでも私の化身とも言える蓮を降ろすはならぬ、と強く申しておった。…だが…」
言葉を切った王母の心内は悧羅にも読めた。先代の暴挙と荒廃していく里。そのまま捨て置いてしまっては子ともいえる鬼達を全て失う事になっていたのだろう。それも世の理と割り切れば良かったのだろうが王母とて女子だ。自分が手ずから生み出した者たちが消えゆくのを見過ごせなかったのだ。
「…お前を降ろすと決めた時、それ以外に道は残されていなかった。速すぎる、と東王父にも責められた。何より化身を降ろすは現世におる数多の妖や人の子の世まで崩れることになりかねぬ、と」
「それはそう思うも致し方なかろうよ?東王父が統べる場に王母の手がつくはそれだけで流れも変わろうというものだ」
小さく嘆息する悧羅に、そうだな、と王母も小さく苦笑した。それでも降ろすしかなかった。
「どうしても蓮を降ろすというのであらば、それなりの業も背負わせよ、と申した。どのような業かと問うたが、その者が真の蓮の子ならば越えねばならぬことを与える、と。それがこれだ」
すまぬ、と頭を下げる王母にくすくすと悧羅は笑ってしまう。頭を下げられるなど紳に道を作り悧羅が責め立てた以来のことだ。だがそれで合点が行った。あまりに周到過ぎると思っていた千賀の動きも、あの時あまりにも容易く刈り取られた千賀の行動も、すべからく東王父の掌の上での事であったのだ。
東王父と西王母。
二人の神の掌の上での事であるならば、どう抗ったとしても避けられなかったということだ。
何より蓮の子に向けた業であるならば、周りの者に害はない。悧羅だけが受け入れればよいのだ。それが確信できただけでも大きな進展なのは間違いがない。王母が言える事もこれ以上はないだろう。この先どのような事が待ち受けているのかは分からないが、越えねばならぬ事と言われては出来ぬとは言えないではないか。
「一つ尋ねても良いか?応えられぬならばそれでも良い故」
笑いながら包まれた手を叩くと王母が顔を上げた。やはり少しばかり心配しているのか顔色はあまり良いとは言えず、現れた時の穏やかな笑みも消えていた。
「妾が請け負うた業は少なからず緩やかにその能力を溜めていくように感じておる。今すぐ、という訳ではなく刻をそれなりに要するものだと。それは違うてはおらぬだろうか?」
特段応えを望んでいたわけではないのだが、意外な事に王母は深く頷いてくれた。どうやらこの辺りまでは話しても悧羅に災厄は降りかからぬようだ。
「お前の感じている通りだ。それは緩やかに、ほんに緩やかに能力を蓄えてゆく。蓄えた時にどのような事が起こるかは私にも教えてはくれておらぬ」
そうか、と悧羅は大きく頷いた。それだけ分かれば良い。刻を与えてくれたのは東王父の慈悲だろうと思えた。同時に悧羅であれば越えるのだろうという淡い思いも感じる事ができる。王母と対極にあるとはいえ神だ。業を与えるのみならず慈悲まで与えてくれたことには感謝すべきだ。承知した、とたおやかに微笑んで悧羅は、越えてみせようではないか、と王母に伝える。
「妾とて降ろされたからにはただの一介の鬼でしかない。王母の化身と言われようとも妾は妾じゃ。それに課された業であるならば、里を護る長として東王父の思い通りにはならぬ。…護らねばならぬものも手にしてしまっておるのでな」
そうだ。
例え神に与えられた業であるとしても悧羅は抗わねばならない。試されているとなれば尚の事だ。
「…王母…。任されよ」
手を包み返して大きく頷いた悧羅に王母もようやく穏やかな笑みを取り戻した。
「お前ならば、きっと」
それだけを残して王母が消える。残ったのは包まれていた手の温もりと、一輪の蓮だけだった。
最期の山に向かって駆け出しております。
長くなっておりますが、お付き合いいただけると嬉しいです。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。