追憶【陸】《ツイオク【ロク】》
のんびり、ゆったりと悧羅と紳はすすんでいます。
悧羅は縁側で空を見ていた。月は出ているが、暗い雲に覆われているので、辺りは仄暗い。いつもなら溶け切っているはずの雪も、まだ残っており暗いはずの景色が白々と見えた。小さく息を吐くと、白く凍る。一番冷える時期は脱してはいたが、それでもまだ、暖かい季節は遠いように思えた。横に侍っている妲己が、寒くないか、と尋ねてくる。大丈夫と笑って悧羅は妲己の背中を撫でた。二人が座っている縁側は、つい先日紳が作ってくれた。小さいが、三人で座るには十分だったし、何よりこうして夜涼みをすることもできる。作っている最中は、妲己に邪魔され、出来上がってみれば妲己が一番に寝そべるのを見て、何でお前が一番なんだよ、と子供のような喧嘩をしていた。思い出して、くすくすと笑いが漏れる。その背中にふわりと暖かい衣が掛けられた。見上げると、紳が後ろにいる。
湯上がりは冷える、と言うと、自分も縁側に座った。言っている紳も湯上がりで、髪はまだ濡れたままだ。紳は?、と聞くと、俺はこれ、と酒瓶と盃を見せた。
「どうしたの?それ」
「今日咲耶が持ってきてくれたものの中に入ってた」
鼻歌まじりに酒瓶を開けて、盃に注いでいる。二つの盃に注ぐと、一つを悧羅に差し出した。いける口だろ?、と笑われて悧羅は盃を受け取る。鬼なのだから、酒に負けることはない。…まあ、呑み過ぎなければ、だが。二人で、盃を鳴らしてぐい、と呑み干す。少し辛口だか、喉越しのいい酒だ。上等な酒だということはすぐにわかった。美味い、と紳は二杯目を注いでいる。だが、今の都の状態で、どこからこんな酒を手に入れたのか。紳に尋ねると、親父殿の酒蔵から失敬したらしい、と笑っている。悧羅の盃にも酒を注ぐと、自分の盃をすぐに飲み干している。
「そういえば、咲耶が言ってたんだけどさ」
三杯目を注ぎながら、紳が言う。
「次の長を探すのに、都はてんやわんやらしい。なりふり構わずって感じで、全部の衣を脱がせるんだと」
は?、と悧羅は聞き返す。長が身罷って二月が過ぎようとしていた。普通は名乗り出るのを待つはずだが、やはりその余裕は無かったようだ。危惧していた状況に背を冷たい汗が流れるのが分かる。
「都の連中も、抵抗できりゃするんだろうけど、体力もないし、疑いは晴らしたいしで仕方なく応じてるってよ」
「それって、男だけの話なの?」
悧羅の問いに紳は、いや、と答えた。
「女、子どもに至るまで全部らしい。咲耶がのとこにも来たらしいぞ。見たけりゃ見ろって脱いだらしいけど」
咲耶の行動を思い描くと、二人して笑いが出た。実に咲耶らしい。金銭を要求しなかったのが、嘘のようだ。でも、いつの間にそんな話を?、と尋ねると、夕餉の支度の間、と紳は応えた。なるほど、と悧羅も納得する。夕餉を食べていくという咲耶に振る舞うため、悧羅が炊事場にいた刻があった。月に数回は咲耶は来るので、紳とも気さくな仲になっている。注がれた酒を飲み干すと、新しく酒が注がれる。そんなにいらない、と断るが、紳はまあまあ、と言うばかりだ。
“あまり主に飲ませすぎるな”
妲己が嗜めたが紳は、はいはい、と流している。仕方なく三杯目を受け取るしかない。それを満足そうに見やって、紳は何杯目かも分からない盃を飲み干し、でさ、と溜息まじりに吐き出した。その声は、一瞬前とは裏腹に、静かな声だ。不思議に思いながら紳をみる。
「どうすんの、お前」
悧羅は目を見開いた。突然の問いに言葉が出ない。
「どうって…、何が…?」
ようやく絞り出したが、声が震えた。それに、お前だろ、と声がかかる。
「そんな事、あるわけがないじゃない」
必死に冷静を装うが、紳は笑って悧羅の左肩を指さした。
「そこにあるの、蓮の華だよな。何の華が咲くかは分からないって話だったけど、髪の色と同じ華なんだな」
言うなりまた盃をあおる。悧羅は知らぬうちに左肩を押さえていた。
いつ…、一体いつから知られていた…?
紳と共にいるときだけでなく、どこか出かける時は必ず襟元から腕まで隠れるような衣を身につけていたはずだ。知られた場面が思い浮かばない。そう聞くと、最初からと答えが返ってきた。
「最初って…」
「最初は最初だよ。でも確信は二度目にあったときだな。大会で打ち合ったときになんかおかしいなって思ってた。とにかく実力を隠してるみたいだったから。で、もう一度会いたくて見つけたとき、お前水浴びしてただろ。その時見えた。で、全部合点がいった」
見られていないと思っていた。一瞬の油断が悔やまれる。だが、それならば何故、今まで何も言わなかったのか。目の前の紳は酒をあおりつづけている。
「ああ、それな。だって別にお前が長になるからって惚れたわけでもないし。お前も触れられたくなさそうだったし。ただ、惚れた女がたまたまそうだったって事だからな。気にしない」
言われてみれば納得だが、それでも悧羅には不可思議だった。幼い頃から知られてはいけない、見られてはいけはい。もしも、知られたら全て無くすことになる、と強く言い聞かされていた。だからこそ、目立たぬように今まで生きてきたのだ。
けれど、それを紳は関係ないと言ってくれる。たまたまの事だ、と。そんな言葉をかけられたのは、咲耶以来だ。ああ、と悧羅は深く息をついた。
この男は本当に自分などのことを好いてくれているのだ。
「で、話を戻すんだけど、お前どう考えてんの?」
聞かれて悧羅は、小さく笑った。先程までは、どうにか隠れて、次の長たる者が生まれ落ちるのを待つことが出来ないか、とも考えていた。あの都の状態を見たにも関わらず、そう思ったのは、ただ紳と一緒にいたかったから。妲己も含めて三人で、もしかすれば子も授かって、温かな刻を過ごせるかもしれない、と夢見ていた。けれど、都の現状を聞いた今、どれほどその考えが身勝手であったかと恥ずかしくなる。
都で豪奢な宮を見た時、自分は長を責めなかったか。何のための長なのだ、と悔しさに心が引き裂かれそうではなかったか。
「都でそんなことが行われているなら…、逃げてる場合じゃないでしょうね…」
諦めたような悧羅の言葉に、そっか、と紳は盃を置いた。
________________ 刹那______________。
悧羅は紳の腕の中にかき抱かれた。
驚いていると、俺も、と声がする。
「俺も連れてって、悧羅。お前が居なくなったら、俺、一人になる」
抱きしめる腕に力がこもる。静かだが、願いを込めた紳の声音が掠れていく。悧羅は紳の背中に手を回して宥めるようにさすった。一緒に行けたらどんなにいいだろう。けれど、この里を立て直すのは刻がかかる。この良い男を、ずっと縛ってもいいものかとも思った。紳、と穏やかに名を呼ぶと腕の力が少し弱まる。身体を離して顔を覗き込むと、子どものように涙を流しているのが見えた。
愛しい人。
指を伸ばして紳の涙を拭きながら、その唇に軽く口付ける。驚いたように、紳の目が見開かれた。
「かならず迎えに来るから。それまでこれで我慢してて」
諭すように言うと、紳は大きく頷く。約束だぞ、というと頷く悧羅に、紳はもう一つだけ、と言う。
「その華、俺が触れるまで誰にも触れさせないで」
「…うん。私を最初に暴くのは紳に任せたいもの」
笑顔で応える悧羅に、今度は紳が深く口付けた。
家の中に嵐が上陸しました。
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