縁【拾撥】《縁【ジュウハチ】》
こんばんわ。
まさかの二話投稿できました。
お話が佳境に向かいます。
荊軻と共に調べていた事柄が全て終わったのは姚妃が四つを迎えた頃だった。500年前に一掃した腐敗しきった宮内で私腹を肥やしていた官吏達の縁者はすべからく短命という宿命を背負わされていた。悧羅に対し直に害を為したのは酊紂だけであったが、王母からすれば降ろした華の子の道を正す事もせず、荒廃していく里や生命を落としていく民達に手を差し伸べる事もしなかったことは許せなかったのだと思われた。
数十万も居た民が三万にまで減らされたのだ。ともすれば先代が身罷るのがもう少し遅く、悧羅が立つのを戸惑っていたならば全ての民が生命を落としていたかもしれない。そうでなくとも、もう少しばかり数は減っていたことだろう。人の子の道を正すために降ろした鬼達が一人の鬼の暴挙で全て失われるかもしれなかった。王母としても呼び戻したい気持ちはあったのだろうが、気付きもしない者たちをこの場に戻すことは王母が下界に直に手を伸ばすことにもなる。成り行きを見守るしかなかったのであろうし、どうにかと思って蓮を降ろしたのだろう。
「蓮の娘を降ろすつもりはなかった」
初めて見えた時にそう言っていたことを思い出して、つい悧羅は嘆息してしまう。悧羅が立ったことで心置きなく先代を戒めなかった者たちへ怒りとしての呪をかけたのだ。
「…やはりあまり良い報せは上がってこなんだな…。それだけ王母も腹に据え兼ねておった、ということであろうが…」
手にした報せから視線を荊軻に移すと、そうでございますね、と小さく肩を落としている。出来ればほんの一握りでも良いので王母の呪から抜け出せた者がいないかと悧羅が願っていたことは知っている。例え500年前に腐敗していたとしても今、里にいる民達は悧羅が護るべき生命なのだと思っている事も。
「驚くべきは先代が成した御子方にまでそれが及んでおった、ということでしょうか…」
荊軻の言葉に悧羅も小さく頷く。官吏達だけだと思って調べを進めていたが終わりを迎える頃になって先代の子らも、と荊軻から進言を受けた。まだ幼い子らも居たし悧羅が立った後、里に降りた子らは荒廃した里を立て直すのに十分過ぎるほどに手を貸してくれていた。まさかそこまでは、と思っていたのだけれど甘かったようだ。結局それらも調べる事になり、終わりを迎えようとしていた調べも二年を余計に費やすことになってしまったのだ。
「嘆いて手を貸してくれた者たちもおったというに…。子らの血はもう残ってはおらぬのかえ?」
「…床に伏しておる者が二人のみ、でございます。己らの宿命を嘆いて、蛇神を祀っておりました」
そうか、と悧羅はまた嘆息した。己達にはよく分からない呪に立ち向かうには再生や子孫繁栄の象徴ともいえる蛇神を祀り、心の平穏を求めていたのだろう。…そうでもしなければ受け入れられなかったのだ。
「ですが私が見たところそう長くは保たぬかと…。身体を壊している者がいる、と聞き及んだので見に行った、という体で参りましたが衰弱しきっておりました。欲しいものはないかと尋ねてみましたが、これも宿命と笑っておりましたけれど…」
それにまた小さく息をついて悧羅はもう一度報せの文書に目を落とした。どれも残り僅かな血のようだ。これ以上繋いでいくことは難かしいだろうと思われた。特に今荊軻から教えられた二人は逑も取らずにいたようだ。それについては、これ以上縁者となる者に苦渋を与えたくは無かったらしい。自分たちで終わりに出来るのであれば、そうしたかったと述べたそうだ。
「…この者たちの邸に妾が見舞っては千賀の縁者の時のようになろうな…」
呟くように言うと、悧羅、と隣に座って黙って見守っていた紳の手が膝に置かれた。目の前で全ての生命が瞬時に終わるのを見た紳はそれを悧羅に見てほしいとは思わない。如何に悧羅がそれを背負うべきだと思っていても心の奥を深く抉る事になりかねない。返された視線を受け止めて小さく頭を振る紳にまた悧羅は嘆息してしまう。
「そこまで悧羅が背負う必要はないよ。悧羅が望んだことじゃないし、ましてや悧羅が行ったことでもない。これは俺たちの手の届かない領域の事だ」
紳の言葉に荊軻も、そうでございますねと深く頷いた。
「何かしらの手立てがあればお救いしたいと長はお考えになられるのでしょうが、こればかりは王母様の御力でございます。私共がどうにかしようと動いたところで手の届くことではございませんでしょう。…何より長にはまだ二十万を超える民達の生命がございます。ここで王母様の怒りが長に向きでもしました日には、二十万の民達がまた苦渋と辛酸を舐めることにもなりましょう」
「…分かっておるよ…。二十万の民達のほんの一部の事であるということは…。なれどそれでも妾が護らねばならぬ民の生命であることには代わりないのだがな…」
あの荒廃と辛酸を再び民達に強いることは出来ないししたくもない。王母の治める場に移って四十年が近くなってきたが、その間に十万だった民は二十万に増えてくれた。増えた分、荊軻が住処や道、水路を整然と整え暮らし振りも貧富の差なく、ささやかながらも皆穏やかで健やかに笑い合いながら暮らせているのだ。その中でこうして枯れていく生命があることさえも知らずに…。だからこそ、悧羅が覚えておかねばならない。
「荊軻、一つ頼まれてくりゃるかえ?」
報せの文書を巻きとる悧羅に、なんなりと、と荊軻が小さく頭を下げる。
「先代の縁者の血が絶えたならばそこに妾を案内してたも」
「それはよろしゅうございますが…」
何故に?、という言葉を荊軻は呑み込んだ。息のある間に悧羅が赴けば、その場で刈り取られる。だが血が絶えた後ならば悧羅が赴いても障りはないということなのだ。何より見ておきたいのだろう。長が道を踏み外した時にどのようなことが待ち受けているのかを。
荊軻の心を読んだのか悧羅が小さく笑っている。
「妾とて民達にとって良い長であり続けたいとは思うておる。なれど、何時何処で道を誤るとも限らぬ。妾には諫めてくりゃる其方達がおる故、酷いことにはなりはせぬと思うてもおるが…」
それでも、とは思う。500年前には手にする事さえ諦めていた倖を奪おうとされたならば悧羅自身の自制が効くか分からない。もしも奪われてしまったならば、きっと自我を保つことさえ出来ずに辺り一面を荒野に変えてしまうだろう。
「…倖は手にしてしまうと掌から溢れ落ちぬか案じてしまうものなのだな…」
小さく笑った悧羅に紳も荊軻も肩を落とした。それは誰しもが思う事だ。悧羅が500年知ろうとしなかっただけで、知る必要さえも無いと思っていたことなのだから今そう思うのは仕方の無い事だろう。
「そう案じられずとも長が道を誤ろうとなされば私が叱ってさしあげますよ」
「俺たちだって悧羅の重荷になるために一緒にいるんじゃ無いよ?一緒に背負うって言ったでしょ?悧羅が護りたいものは俺だって護るべきなんだから」
膝に乗せられていた手が優しく悧羅の手を握る。この温もりさえ側にあればどんな苦渋も耐えていけると悧羅は小さく笑う。
「先代の御子らの縁者が事切れましたならば長をお連れ致しましょう。あまり間を空けずに見廻った方が宜しかろうとは存じますが…」
荊軻が見た現状ではこの年は越せないだろうと思っている。
「俺が行って診ようか?」
紳の言葉に荊軻は静かに首を振った。医術の心得のある紳が行って診立ればもっと深く知る事が出来るだろうが、あまり悧羅と近しい者が邸に足を踏み入れると良くないような気もする。
「しばらくは遠目から生命があるのかどうか確かめるだけにしておくほうがよろしいかと…。それは私が承ります。長や紳様、もしくは御子方があれを見れば手を貸したくなるでしょうから…」
荊軻の目に少しだけ困ったような色が浮かんで、それほどまでか…、と悧羅が眉を寄せた。けれど荊軻の言葉通り悧羅が行って手を差し出してしまえば、きっと王母は許さない。悧羅ではなく差し出された手を取ろうとした民を。
「承知した。…なれど荊軻…」
言葉を紡ごうとした悧羅に、分かっておりますよ、と荊軻が微笑んだ。
「事切れた際には丁重に弔います。長は今までも誰であれ、その者の罪が如何に重かろうとそうしてこられたのですから。私がそれを行いましても王母様の御怒りには触れませぬでしょう」
うん、と頷く悧羅から文書を受け取って、では、と立ち上がる荊軻に、もしも、と悧羅が声を掛けた。
「もしもそれで王母の怒りが其方に向けば妾とて黙ってはおらぬ故」
「おやおや。そのようにらしからぬ事を申されて…。まだまだ私も長の手をお借りすることなどございませんよ。私がおらねば長を叱りつけられる者がおらぬようになってしまいますから。それでは里が傾く原因が長と紳様が寝所にばかり籠られて怠惰で傾いたことになってしまいますからね。それは先代よりも愚行でございますから、私が戒めさせていただきませんと」
くすくすと笑って部屋を辞していった荊軻を見送った紳が、そこまではしないよ、と悧羅に向き直った。
「寝所に籠りはするだろうけどさ。里を傾けるほどはしないと思ってるんだけどなあ」
ねえ?、と見られて悧羅はくすくすと笑う。
「いや?分からぬよ?紳がそう思うてくれておっても妾が出る事を拒むやもしれぬしな」
「それはそれで俺は嬉しいけどね。でも、そうなると俺が悧羅を叱って里が傾かないようにしなくちゃならなくなるね?」
「そうだな」
笑う悧羅に、それは無理だね、と紳も笑いながら悧羅を抱き上げた。まだ陽が高いのに荊軻が重い報せがあると紳にも伝えてくれたようで、務めを抜けて付き添ってくれていたのだが、どうやら戻る気がないらしい。
「紳、務めに戻らねばならぬのではないか?」
無駄だと分かっているけれど一応尋ねる悧羅を寝所に横たえながら紳が悪戯な笑みを浮かべた。
「ちゃんと務めに戻るよ?悧羅を補ってからになるけど」
笑いながら深く口付けられては悧羅に抗うことなど出来はしない。唇を重ねるだけで紳に酔ってしまうのだ。
「…それでは補い終わるまでは戻らぬのだろう?」
「そうだねぇ…。でももう空っぽに近いからなあ。急がないと務めが疎かだって叱られるだろうね」
衣の帯を手早く取り去りながら互いの肌を露にして重ねると細い脚を抱え上げて悧羅の中に紳が入り込む。最初の口付けだけで悧羅も沸っていたようでするりと受け入れられた事に苦笑してしまう。
「悧羅も俺を補わないと駄目だったみたいだね?」
奥まで入り込んでもう一度深く口付けながら紳が動きだすと、息を呑んだ悧羅から甘い声が上がる。
「ちゃんと満たしてね?」
額に口付けて言う紳への応えは悧羅の腕が首に廻されたことだった。そのまま満たし合って結局紳が務めに戻ったのは夕刻近くの事だ。いい加減に戻らないと駄目だよなあ、と言いながらも悧羅から出ない紳に幾度も酔わせられながら痺れきった手足でどうにか紳を受け止めて悧羅がより一層甘い喘ぎを上げて果てた。しっとりと濡れた肌に口付けるとびくりと悧羅の身体が揺れる。
「…残りはまた後でね」
言うなり突き上げる速さを上げて息を止める悧羅の最奥で欲を吐き出してからようやく悧羅の中から出ると、くったりとした身体が布団の上に投げ出されている。その姿にまたぞくりと身体が震えたが、懸命に自分を抑えこんでとろりとした悧羅の額に口付ける。
「本当はこのまま一緒に居たいんだけど。出来るだけ早く戻ってくるから待っててね?」
力の抜けたままの悧羅に手早く衣を纏わせて自分も隊服を身につける。身体に触れる度に震える悧羅に小さい笑いが溢れてしまう。
「…その姿のままで部屋の外に出ちゃ駄目だよ?そろそろ子ども達も戻ってくるだろうから、きっと当てられちゃうからね」
くすくすと笑うと、分かっておるよ、と小さな声がした。
「…まだ熱が残っておるに…。冷めるまでは立つ事さえままならぬ…。其方が戻るまではこのままやもしれぬな…」
「それだけ溺れちゃった?…俺はまだ足りてないから戻ってきたら覚悟しといてよね?」
深く口付けるとまた息が荒れ始める悧羅に目を細めていると、ならば早う戻ってたも、と潤んだ目で見つめられてしまう。
「そんな目で見つめられて可愛いい事言われたら行きたくなくなっちゃうでしょ?…もちろん早く戻るからね」
行ってくる、ともう一度額に口付けて部屋を出て行く紳が戸を閉めるのが御簾の中からでも音で分かって悧羅は大きく息を整え始めた。紳に与えられた快楽の波はまだ悧羅の中で燻り続けている。本当ならばまだ欲しいと願うところだが、先刻寝所に籠って務めを怠る事がないように、と荊軻に言われたばかりだ。求める気持ちを抑えるのも難しいものだ、と小さく笑っていると手足の痺れも少しずつ取れてくる。出ては駄目だと言われているが起き上がりでもしなければ身体の沸りは収まらない。ゆっくりと起き上がって布団の上に座ってからまだ乱れたままの衣を直す。
ふうっと大きく息をついて、さてどうしたものか、とこの先の事を思う。先代の子らの血がもうすぐ絶えるというならば、その先だ。
このままそれで全て片がつくとは到底思えないし、ただ黙って死期を待っていた者たちだけであったとも思えない。先代が身罷った後、手を貸してくれた当時の子らはもう居ないのだから語り継がれる事柄の中で千賀と同じような考えを持つ者が居なかったとも限らない。確かめる術は今生き残っている者に話を聞く事だが悧羅が尋ねたところで正直に応えてくれるかも怪しいところだ。
であれば今は待つしか無いのだろう。
その血脈が緩やかに絶えるまで。
荊軻の話振りではそう長い刻を待たなくても良いようだ。護るべき民の生命が尽きるのを待つ、というのも何とも言えない気持ちになるがこれも悧羅が負うべき業なのだ。これまでも幾度となく自らの手で護るべき民の生命を奪ってきた。多くの民達の安寧を護るには犠牲にすべき血もあると己に言い聞かせて。名も知らぬ民達であったけれど顔だけは全て覚えている。それしか悧羅に出来ることはなかったのだから。せめて屠った者たちは確かに生きていたのだ、と悧羅の心に刻みつけることでしか奪ってしまった生命に詫びることが出来ない。
ただそうする事で少しでも許されたいだけなのかもしれない。
自嘲するように笑って悧羅は自分の頬を触る。身体の中での熱はまだ冷めやらないが顔の火照りは取れたようだ。このまま自室に籠っていてはもうすぐ戻ってくるだろう子ども達が不思議に思うかもしれない。ゆっくりと立ち上がって御簾を抜け自室の戸を開けると暮れ始めた夕闇と冷たくなってきた風が身体を撫でた。熱を持ったままの身体には程良い心地良さだ。
本当ならばこのまま何事も無く穏やかに過ごしていければ良いのに…。
空を見上げて届くはずもない願いを王母に伝えながら悧羅は大きく嘆息するしかなかった。
悧羅の下に先代の縁者二人が事切れたとの報せが入ったのは、それから六月が経っていた。
「…思うたよりも長かったと言うべきかえ…?」
報せを持ってきた荊軻に呟やくように言うと、年は越さなかったとだけ返ってきた。元より荊軻はそう読んでいたので特段長いとも思えなかったけれど、二人の姿を見ていない悧羅にとっては長いと感じるのもやむを得無い事だ。報せればすぐにでも邸に向かいたがるのは分かっていたので、既に遺体の埋葬は済ませている。残っているのは暮らしていた名残のある邸だけなのだが、それでも行ってみたいという悧羅を伴って荊軻はその邸へと案内した。
里の辺境、とはいえ二十万に増える前までの辺境であるから程良く里の中心近くの特に変わったところのない邸に降り立った悧羅は少しばかり眉を寄せた。先代の子らの末裔の邸にしては寂れている、と思ったのだ。普通の民達の暮らしよりも数段苦しい暮らしをしていたのでは無いかとさえ思えてしまう。貧富の差など大きくはないと考えていたのだがどうやら悧羅の考えはまだ甘かったようだ。
「働き手がおらぬようでございましたから…。病に伏しておれば邸も住む者も寂れるものでございますよ」
表情を暗くした悧羅に荊軻が諭すように言う。
「何よりここの者たちは静かに生を終えることを望んでおりましたから…。贅も好まず慎ましくその終わりが来るのを待っておるように見えました」
荊軻が先に立って邸の戸を開けて中に入ると悧羅を招き入れる。陽は高く昇っているというのに邸の中は薄暗く陰気な印象だった。晩年は厠に行くことも出来なかったのだろう。邸の中は腐臭が漂っている。
「こんなところにいたら活気溢れる奴だって病になっちゃうよ」
大きく嘆息しながら共に付いて来た紳と舜啓が邸中の窓を開け放ち始めた。悧羅が荊軻と共に行くと伝えた時、紳はもちろん一緒に行くと言い出すのは分かっていたが舜啓も近くにいた事で付いて来てしまった。忋抖や皓滓たちは見廻りに出ていた為、ここに来る事自体を知らない。舜啓に知られたのも本当に偶然だったのだが知った舜啓が付いてこないはずもなかった。もう!、と言いながら窓を開けている二人に苦笑しながら邸の中に足を踏みいれる。草履は脱ぐべきなのだろうが、汚れ果てた邸に入るのに脱ぐ気には誰もなれないのだ。
大きくはない邸の部屋を一つ抜けて、もう一つの戸を開けると小さな祭壇が目に入った。本当にささやかな祭壇と呼ぶのも烏滸がましいほどの小さなそれが荊軻が言っていた蛇神を祀るものなのだろう。小さな膳に木彫りであろうか…、とぐろを巻いた蛇が質素な布の上に置かれている。食うにも困っていただろうに盃には酒も注がれていた。両隣には榊が飾られきちんと信仰していたのは良く分かるものだ。
「…鬼なのにね…。蛇神に縋りたいなんて…」
舜啓が肩を落として言う。そうだな、と見つめるそれは随分と古い物のように見える。
「短命であることを憂いて縋れるものには縋りたかったのであろうよ。…誰の代から始めたことかはもう分からぬが…」
どちらにせよ強い信仰の願いを託されていたのならばこのままにするには忍びない。丁重に屠らねば思いを宿した物が妖や呪、果ては神のような存在に転じることもある。
「これをこのままにするわけにはならぬだろうな…。丁重に弔わねばの。…荊軻、頼まれてくりゃるかえ?」
「承りましょう」
応えた荊軻が小さく頭を下げたのに頷いて悧羅がそれに手を伸ばした。
_________________ 刹那________________。
伸ばした指にちくりともぴりりともいえる鋭い痛みを感じて小さく息を止めた悧羅を紳が見逃さなかった。悧羅?!、と背後から駆け寄って思わず引いてしまった手を取り上げる。慌てたように荊軻も舜啓も寄ってきて覗き込むが、そこにはいつもの悧羅の白く長い指があるだけだ。
「…何かあったよね?」
手を眺めながら尋ねられて、大した事ではない、と言ってみるが紳は首を縦に振らない。
「少しばかり痛みが走っただけじゃ。妾には触れられたくないという事なのかもしれぬ。…荊軻」
訝しんだままの荊軻を呼ぶと代わりにそれを持ち上げてくれた。荊軻には特に変わりは無いようで、ただの木彫りの物に見えますが、とそれをくるくると廻しながら確かめている。だが悧羅の指示と中指の先はまだ痛みと痺れが残っている。堪えられない痛みではないし、動かしてみても特に変わりは感じない。
見誤まったか?
そう思ったが今何も変わりがないのであればどう対処すべきかも分からない。少し考えてまずは荊軻に任せたそれを片付ける方が良いだろうと思えた。何か起こればその時考えるしか無いのだし、何より悧羅以外の者にはどうということはないようだ。その証に紳や舜啓もそれを触っているが悧羅が感じたような事は起きていない。であれば良い、と思える。万が一何某か起こったとしても悧羅だけが受けるものであるならばどうとでもなるだろう。
まだ痛みの続く指を見つめながら、さてどう出るかと嘆息する。
「やっぱりどうかあるんじゃ無いの?」
「いや?少しばかり痛みと痺れがあるだけじゃ。其方たちがどうということも無いのであらばそれで良い」
心配する紳に笑って見せてとりあえずは此処を立ち去ろう、と悧羅は伝える。何と無くではあるが余り長居すべき場でないように感じたのだ。
「…そうでございますね。まずはこちらをどうにか致さないとなりませんし。焼き払いますがよろしゅうございますね?」
邸を出ながら荊軻に問われて、悧羅が是を示すと皆が出たと同時に荊軻の鬼火が邸を包んだ。燃え落ちていく邸を見つめていると、何処からともなく蛇が威嚇するような音が聞こえだす。それは悧羅だけに聞こえたわけでは無いようで紳も荊軻も舜啓も咄嗟に辺りを警戒する。威嚇するような音は少しずつ大きくなり、気が付いた時には荊軻の持っている木彫りのそれと同化した。
途端に木彫りであったものの目がかがちのように紅く染まったがほんの瞬きの間だ。邸が燃え落ちるのと同じようにまるで自らその炎を呼び込んだように次にはそれも燃え上がる。手を離した荊軻の腕から地面に落ちたそれは燃え落ちながらも一言残した。
【………覚えた………】
威嚇の音が笑いにも聞こえたのは皆同じだった。
同時に皆が悟る。
悧羅に何かが起こることになるだろうことを。
最期の試練に向けて走り出しました。
ほどよくおつきあい下さいませ。
ありがとうございました。