縁【拾漆】《エニシ【ジュウシチ】》
おはようございます。
遅くなりましたが更新します。
舜啓と媟雅の契りが滞りなく行われた数月後に姚妃が二つを迎えた。相変わらず姉や兄達から甘やかされてはいたが少しばかり言葉を話せるようになった姚妃が可愛い過ぎるようで取り合いにも熱が入っているようだった。その姚妃の最初の言葉は、だっき、あいげちゅ、であったので子ども達だけならず紳や舜啓までも、何でだよ!、と落胆する姿に悧羅も磐里も加嬬も笑いを隠せなかった。
「媟雅姫の時も妲己が最初でございましたね」
懐かしむように笑いながら淹れた茶を悧羅に渡しながら加嬬が言う。媟雅の時は落胆したのは紳だけであったけれど、これほどの者たちを落胆させるとは媟雅は大物なのかもしれなかった。呼ばれた妲己と哀玥は誇らしげに尾を振って、ますます姚妃の側を離れることを拒むほどだ。次に名を呼んでもらえるように懸命に姚妃に自分達の名を教えている皆を見ていると本当に倖だという思いで心が満たされる。
「哀玥は最近俺と一緒にいてくれなくなっちゃってるんだよ?眠るのも姚妃が居る部屋に行っちゃうし。俺に飽きたのかよ?」
いっかな姚妃から離れようとしない哀玥に忋抖が嘆くように言うと、とんでもない、と哀玥が首を振っている。
“若君は大切なお方でこざいます。なれど姚妃姫はまだ御自身で身を護れませぬ。妲己殿と小生のどちらかが主の命で離れなければならぬこともございますれば今は姫のお側におるのが最良かと”
「そりゃそうだけどさあ…。宮には母様もいるし、他の姉弟妹だって一人や二人居るだろう?たまには俺にも付き合ってよ」
“如何に若君の申されることとはいえ、こればかりは…”
姫君の安全が優先でございます、と困ったように言う哀玥に、もう!、と忋抖が頬を膨らませた。悧羅が姚妃を身籠ってからというもの、それまで終始共にいた哀玥が側を離れて四年だ。哀玥が悧羅の眷族になってから十五年共にいたのでさすがに忋抖も淋しくなったのだろう。
“忋抖若君もお淋しゅうあるのだろうよ”
くっくっと笑いながら妲己が尾を振った。まるで遥か昔の悧羅のようだ、と苦笑しながら見られて悧羅も小さく笑った。
「妾には妲己しかおらなんだからの。それだけ忋抖は哀玥を頼りにしておるのだろうて」
“それは有難く思うておりますが…”
笑われながら視線を向けられて哀玥が小さく嘆息する。とはいえ忋抖の言う通り宮には悧羅が居る。紳の計らいで子ども達のいずれかは必ず側に居てくれるようになっているし、今のところは大きな諍いもなく、調べさせている事柄も皆の力を借りたことで思いの外早く片付きそうだ。気になる事がないわけでは無いが、それは王母が抱えていることだ。これまでの小さな諍いを任される中で何を思っているのか片鱗でも掴めないものかと探りを入れているのだが王母は何も言わないままだ。
元から全てを話す王母ではないのだけれど。
探るだけ無駄だとは思っているけれど、どうにも厄介な事を下されるのは目に見えている。里や子ども達、果ては民達に害為すものでなければ特段構いはしない。悧羅だけが背負う業ならばどれだけでも受けようと、あの時に制約したのだから何があろうとも勤めあげるだけだ。
「忋抖も淋しゅう思うておるようだに、時には共におってやっておくれ。何かあらばすぐに呼ぶ故。陽の高い内であらばそう危ういこともあるまいよ」
“ですが主よ。それでは妲己殿の御負担が大きゅうなられます”
戸惑う哀玥に、構わぬよ?、と妲己が笑った。
“若君や姫君方がお小さくあられた時は我の背が足りぬほどであったが、今は姚妃姫お一人。主さえ紳の心を乱すようなことをならさなければ大した事ではない。忋抖若君は余程、哀玥が恋しゅうあられるようだからな”
揶揄うような妲己に、そうだよ?、と忋抖が気持ちを隠すこともなく大きく頷いている。
「俺だってずっと哀玥と居たんだからね。淋しくなるのは当たり前だろ?大分慣れたけど何だか隣が物悲しいんだよ」
大きく嘆息する忋抖に、ほれ、と妲己が声を上げて笑い始める。やれやれと哀玥が立ち上がって忋抖の側に侍ると、やった!、と勢いよく抱きつかれてしまう。呆れたように、若君、と嗜めてはみるがふかりとした体躯に身体を預けてごろりと寝転がり始めていた。背丈は紳と変わらないほどの身体を預けられて、幼子のようでございますよ、と哀玥も笑うしか無い。
「ほんに忋抖は哀玥のことを好いておるのであろうよ。大きな子だと思うて堪えてやってくりゃるかえ?」
くすくすと笑う悧羅に小さく嘆息して見せると、何某かあればすぐに呼ぶ、と言ってくれた。悧羅の声であれば何処にいても身体に響くように届くのだし、引き寄せられるようにその場に行くことが出来る。
“主が御無理をなさらないと制約していただけるのでございますれば…”
「無理などせぬよ?このところ諍いもないでの。調べももうすぐ終わりそうじゃて。手を借りねばならぬ時には必ず呼ぶ故、忋抖をあやしてやってたも」
優美に立ち上がって流れるように哀玥の側に座ると膝をぽんぽんと叩かれた。促されるままに膝に頭を乗せると優しく撫でられ始めてつい哀玥も目を細めた。悧羅の側は安らげ過ぎてしまう。ただそこにいる只それだけなのに温かい腕に包まれているような気分になるのだ。それは哀玥が悧羅の眷族であるからではないらしく、妲己も子ども達も果ては里の民達までも同じ思いのようだった。きっとこうしているだけでも里の全てを護るために緩やかにその能力を行使しているのだろう。
“…まるでその昔の主と紳のようでございますね”
少しばかり体躯を起こして悧羅と哀玥、その身体に頭を預けて寝転んでいる忋抖を見ながら妲己が苦笑する。まだ悧羅が長として立つ前、あの小さな邸で妲己と三人穏やかに過ごしていたような光景がそこにあった。忋抖は出会った頃の紳よりも僅かに猛々しいが柔らかな印象は良く似ている。紳の方が線が細くより柔和ではあるが、出会った頃は忋抖のように少しばかり猛々しさも持っていた。でなければ見つけたばかりの悧羅に契りを申し込むなど出来ないだろう。今ある紳の柔和な印象は一度悧羅を手放したからこそのものなのかもしれない。
「その昔と妲己が申しましても、私共にはいつもの長と旦那様のお姿にしか見えませんけどね。…本当に忋抖若君は旦那様に良く似ておいででございますもの」
「本当に。啝珈姫様は長を少しばかり幼くしたような方でございますしね。お二人で並ばれますと、時折間違いそうになりますのよ」
磐里と加嬬が笑いながら妲己を見る。確かに似ておられるが、と妲己が上げていた体躯を戻してゆったりと寝そべると、部屋で遊んでいた姚妃がとことこと寄ってきてぽすりと体躯に飛びついてきた。それを尾で受け止めながら姚妃の良いようにさせると楽しそうな笑い声が響き出す。
“我の主は啝珈姫よりはおとなしゅうあられたな”
「…目立たぬようにしていただけのこと。妲己と二人の時ははしゃいでおったに」
懐かしむような妲己に悧羅が苦笑しながら伝えると、磐里と加嬬からまあ、と驚いたような声が出る。
「はしゃいでおられる長などお見かけしたことなどございませんよ?」
「それは…、この歳にならばはしゃぐ事など出来まいよ」
これでも500年は生きておる故、と小さく笑う悧羅に見たいものでございますがねぇ、と加嬬も笑いながら新しい茶を淹れて持ってきてくれた。受け取って啜っていると哀玥の上から寝息が聞こえ始めた。おや?、と皆で視線を落とすと忋抖が安堵しきった顔で眠っている。
「寝顔だけはまだ幼い頃のままじゃな」
湯呑みを置いて上衣を脱ぐと身体が冷えないように掛けてやるが余程心地良いのか深く眠ってしまっているようで気づきもしない。
「ほんに哀玥が恋しゅうあったのだな」
寝顔の頬に触れるとほんの二十年前は小さかったのに、と幼い姿が思い出された。
“これでは小生も動けませぬ。ほんに若君には敵いませぬね”
大きく嘆息して悧羅の膝から頭を上げようとする哀玥に、そのままで良い、と悧羅が体躯を撫でた。お辛うなられます、と辞する哀玥に微笑むと諦めた様にまた頭を膝に乗せた。隣に置いていた湯呑みを取ってまた啜り始めると中庭に降り立つ音がして皆の目がそちらに向く。あれ?、と降り立つなり歩いて来ていたのは紳だった。務めのはずなのに合間を縫ってまた逢いに来てくれたらしい。
「何だよ、悧羅が休めるように子ども達を側に置いてんのに、忋抖の方が休んでるじゃないか。…しかも何?この状況?」
苦笑しながら部屋に上がり込むと頭を上げた哀玥の下から悧羅を抱き上げて自分の膝に乗せた。
「ちゃんと休めてた?無理してない?」
「無理など何もしておらぬよ。これだけの者たちに見守られおっては勝手も出来ぬ。荊軻の報せも今日はまだあがってこぬでな」
案ずるな、と笑う悧羅の頬に口付けている紳に磐里が茶を渡している。旦那様もお務めは?、と苦笑されて茶を受け取りながら、うん?、と悪戯な笑みを紳は浮かべた。
「とりあえず急く事は終わったんでね。休憩ついでに悧羅の顔見に来た」
「まあまあ、それではお務めに障りがございましょうに」
笑う磐里に、ほんに、と加嬬も頷いた。元から悧羅を溺愛しているのは知っているが、姚妃が生まれてからというもの特に強くなっている気がしてしまう。何か心配な事でもあるのかと案じてしまうが二人の様子からはそれは見てとれない。只、紳が悧羅の顔を見たくなるのを抑えられないだけなのだろう。
「二年も一緒に居たからね。少し離れると淋しくなっちゃうんだよ。悧羅を補わないと務めにも身が入らない」
膝の上に乗せた悧羅を片手で抱きしめながら笑う紳に、磐里と加嬬も笑うしか無い。
「では旦那様の昼餉はこちらで御支度しておきましょうか?さすれば昼餉の間は長の御側においでることが出来ますでしょう?」
「それ良いね。…でもそうすると子ども達も一回宮に帰って来たがるんじゃ無いかなぁ。俺ばっかり狡いって責められそうだ。悧羅もだけど姚妃に会いたくて仕方ないみたいだからね」
妲己の上に登ったり抱きついたり跳ねたりしている姚妃は紳が戻ってきたというのに妲己の側から離れようとしない。名を呼んでみるのだが、や!、と顔を背けられてしまう。俺が父親なんだけど?、と苦笑する紳に場の皆が笑ってしまう。
「姚妃姫には沢山の手がありますから。父君でなくとも代わりとなる若君方が愛しゅうされておりますれば、少しばかりこうなられるのも致し方ございませんよ」
「皆取り合うように姚妃を奪って行くのでな。妾も妲己や哀玥には敵わぬ。…で?昼餉はどうするのじゃ?」
応えなど分かりきってきるだろうに腕の中から尋ねてくる悧羅に小さく笑って、磐里達に甘える、と伝える。それが宜しいですね、と手間が増えるだろうに女官二人は満足そうに頷いた。
「決まった刻に戻ってこれないから冷えてても良いからね?」
女官二人を慮って言ったのだが、それには、まあ!、と憤慨されてしまった。
「私共がおりまして旦那様に冷えたお食餌などお出しするとでもお思いでございますか?」
「いや…。手間だろうと思っただけなんだけど…」
苦笑する紳に、手間だなどと!、とまた叱責するような加嬬の声がしてほんの僅かに頬を膨らませているのが見てとれた。
「お一人分を御支度するよりも力が入るというものでございます。元より御子方も必ずおいでになるのですから。いつ何時にお戻りになられても良いように御支度しておきますよ」
拗ねた加嬬の代わりに磐里が笑いながらその場を締めてくれる。うん、と笑うと加嬬も満足したのか大きく頷いていた。怒らせると女官二人には悧羅でさえ敵わない。それはもちろん紳も同じであったし、何よりこの広い宮の中を二人で取り仕切ってくれていることに感謝しかない。紳が安心して務めに出れるのは二人の存在が大きいのだ。ほっと息をつく紳に堪えきれなくなったのか腕の中で悧羅がくすくすと笑い始めている。
「初めから任せると言わぬからだえ?」
「…一応少しは遠慮しないと、と思ったんだけなんだけどね。俺も磐里と加嬬には甘えてばっかりだから」
肩を落とす紳に、それでよろしいのです、と磐里が穏やかに言う。
「甘えていただかねば私共が長の御側におる理を失ってしまうのですから」
「そうでございますよ。長の御身内の御世話をさせていただけるのが、どれほどの誉か旦那様も御存知かと思うておりましたのに…」
小さく嘆息しながら肩を落とす磐里と加嬬に、分かってるよと紳は苦笑した。長である悧羅のすぐ側に侍り身の回りの世話をすることは里の鬼女達の憧れともいえる務めだ。もちろん宮内でのことを口外することは許されないし大きな重責も伴うが、それでも尚宮内の女官に召し上げられることは夢のような事なのだ。慎ましやかに過ごしたい悧羅は磐里と加嬬だけを常に側に置いているがそれは二人が悧羅にとって信を置けるかけがえのない者達だからだ。
先代の頃は宮内にも大勢の女官達が居たが、その中で手が着いた者も多くいる。そうした者たちはそのまま女官として留まるか、側女になるかを選べたのだという。そのため先代には数えきれないほどの子がいた。代が悧羅に変わってからは里に降ろされているが贅沢三昧だった暮らしから一転して荒廃した里に降ろされたのだ。苦労も絶えなかったことだろうと思う。
本来なら悧羅も女官だけでなく、夜毎の伽の相手として男鬼を引き入れるべきなのだ。優れた鬼を数多く産むために。それが分かっているからこそ紳と契りを交わすときに栄州に言ってくれた。
「これから先何があろうと情を交わすのは紳のみだ」
よいか?と尋ねられたとき、舞い上がりそうなほどに嬉しく思った事を悧羅は知らないだろう。悧羅としてはこれ以上苦痛のような夜伽を交わしたくは無かったのだろうが、紳にとってはもう誰にも触れさせたくなかったのだから込み上げる喜びを抑えるのに必死だった。懐かしい思い出に浸っていると、紳?、と名を呼ばれて我に返る。どうやら懐かしむばかりでなく思い出して小さく笑っていたようだ。
「何でも無いよ。ちょっと昔を思い出してただけ」
そうか、と微笑む頬に口付けて、そろそろ戻らないとな、と膝の上から悧羅を降ろす。
「今宵も遅うなりそうかえ?」
溜まっていた務めを片付けるためにこの所紳の戻りが遅い。無理をしてくれるでないよ、と心配する悧羅に大丈夫だよと紳は笑い返した。
「もう急くようなことも少なくなったし。今日は早く戻れると思う。…何より悧羅と姚妃を任せてるのがこんなだからね」
ちらりと哀玥に身体を預けたままぐっすりと眠っている忋抖を見ながら苦笑して、行ってくるね、ともう一度悧羅に口付けてから紳は中庭に降りた。よいしょ、と二度三度脚を曲げ伸ばして、じゃあね、と言うなり翔けていく。すぐに見えなくなった背中を見送りながら、忙しない事だ、と悧羅が苦笑した。
「ほんの僅かな刻でも長のお顔をご覧になりたいのでしょうね。長を補わねば務めにならぬと仰せになられておられるのも本音でございましょう」
くすくすと笑いながら風のように去っていった紳の思いを加嬬が慮る。務めに戻った直後は一日に幾度も宮に戻って来ていた事を思えば、一日一回になったことは紳を褒めてやらなければならないだろう。
「ああであるから妾が紳の側に侍ろうかと申したこともあったのだが拒まれてしもうてな…」
困ったように笑う悧羅に、それはそうでございましょうよ、と磐里と加嬬だけでなく妲己と哀玥までが声を揃えた。
「長が共におられては旦那様だけでなく、隊士の皆様も気が落ち着かれませぬでしょう」
“然り。小生と致しましては主をそう易々と目に触れさせたいものではございませんな”
“それは我も同意だな…。主の惑わしを見た者であらば主を見ただけで思い出してしまうであろうからな”
二人の嘆息混じりの言葉に、おやまあ、と悧羅はくすくすと笑っている。
「もうそのような事はないと思うておるがのう。何より紳の側におるだけであるのに、手を着けようなどと思う者などおらぬのではないかえ?」
“なりませぬ。主は御自身のお美しさを些か軽んじておられます。主がどうしてもと仰せになられるならば小生はお側を離れませぬよ?”
諫める哀玥に悧羅はやれやれと肩を落とした。
「それでは忋抖に叱られてしまうではないか。ようやっと哀玥が共におってくれると喜んでおるというに…」
“ですから自重なさって下さいまし”
上げていた頭を下ろして寝そべりながら、これだから目が離せないのです、と哀玥が小さく呟やいた。おやまあ、と笑う悧羅に妲己が声を上げて笑う声が届く。
“哀玥も我の気苦労がよう分かったとみえる。ほんに我らの主は目が離せぬのだ”
笑う妲己の背から姚妃が滑り落ちて、もう!、と言わんばかりに妲己の体躯を小さな手で叩いた。どうやら哀玥だけでなく妲己も自由に動くことは許されないらしい。
「なれどこの所、里にも降りておらぬでな。少しばかり見に行きたいものなのだが…」
調べさせていることの他にも民達の暮らしが変わりないのかは気になるところだ。姚妃を身籠る前に降りたのが最後であったから悧羅も里の状況を目にしたいのだが、皆が許してくれない。身体はもうどうもないと言うのに先の妲己の言葉のように惑わしを目にした隊士達がいるのだから危ういという理で重鎮達にまで止められている。紳が共におれば危ういことなど無いし、悧羅も自分の身は自分で護れるというのだが聞いてもらえない。
「子どもの俺たちだって駄目だったんだから、言うこと聞いて」
子ども達にまでそのように言われてしまっては悧羅に否と言えるはずもなく仕方なく言う通りにしているのだが、里に降りなくなって四年の歳月が経ってしまった。
“全てを調べ上げてからでもよろしいでしょう。何某かあらば紳や荊軻殿から報せが入りますでしょうから。主の下に何も入らないということであらば民達も穏やかに過ごしておるはずでございましょうや”
「…それはそうであるのだがな…」
“何より今は姚妃姫がおられます故。御子らが必ず主の御側に控えられておるのは、まずは主と姚妃姫につつがなくと紳が思うておるからでございましょう。彼奴に余り心労をかけらば、ほんに主の御側から離れぬようになりまするよ”
諭すような妲己に、やれやれと悧羅はまた嘆息するしかない。紳が側を離れなくなるのは願っても無いことだが、そうすると寝所に籠ってばかりになりそうな気もする。悧羅としても皆に要らぬ心労を掛けてまで…、とは思っているのだが見ておかねばならない事もあるのでは無いかとも思ってしまうのだ。見廻りとして武官隊や近衛隊の隊士達が日々里の隅々まで廻ってくれてはいるが、悧羅が見ることでまた違った景色や気づくこともあるかもしれないのだから。
“とにかく、今は今。手につけておられる務めを終わらせてからに致しましょう。…そこから何かしら掴めるやもしれませぬので…”
言葉は濁したが王母が悧羅に何かさせようとしていることは妲己も哀玥と気づいている。それは子ども達も同じことで、もちろん重鎮達とて同じことだ。現れるたびに悧羅の分身ともいえる蓮の華を置いていくのだから。
「その内分かる」
その一言だけ悧羅に伝えられているが何が起こるのかまではわからない。分からないからこそ悧羅を支えていくべき者たちが十二分に気をつけておかねばならないのだ。王母の考えは神の領域なのだから一介の妖である自分たちに分かるはずもない。王母の任に紳が必ず同行するのもそこで何かあるかもしれないからだ。紳が側に居れない時に悧羅を宮の外に出さないのもきっとらそういう思いがあるのだろう。
どちらにせよ、いま悧羅が手を付けている務めも終わりが見えている。長くかかったけれど、結果は全てが悧羅の望むものではなかった。報せを受け取って目を通すたびに同じような内容に心を沈めてしまう悧羅を見るのは幾度みても気が落ち込んでしまうものだ。慰めるのは紳が寄り添ってくれているので、そこは妲己も安心している。だからこそ姚妃を自分が預かる必要性があるのだ。
「何事も一度に行おうとすればお疲れも知らず知らずのうちに溜まってしまうものですよ。妲己の申す通り、まずは一つお片付けになられてから、ゆっくりと民達の暮らし振りを見にゆかれるとよろしいでしょう」
新しく淹れた茶を悧羅に手渡しながら磐里が微笑んでいる。
「まあ…そうなのだがな…。ほんに皆妾に甘すぎるのだよ」
受け取った茶を啜りながら肩を落とす悧羅に、当然でございます、と場の全員がまた声を揃えた。
「長はこの里、ここで暮らす民達にとりまして唯一無二のお方なのですから。なによりもまずは御自身を大切になさって下さいまし」
「…そう容易く倒れたりはせぬよ。…子らが安堵して過ごせるのを確かめるまでは…の」
くすりと笑いながら忋抖を見るとまだ深い眠りに入っている。静かになった姚妃にも目を向けるといつのまにか妲己に掴まるように小さな寝息を立てていた。おやおやと思っていると身体が冷えないように妲己が尾で姚妃を包んだ。
ほんとうにこの子らが安心して暮らせる里でなければ次には渡す事はできまいな。
幼い寝顔を見ながらもう少し頑張らねばならないな、と悧羅は心の奥で小さな誓いを立てた。
日常回が続いておりますが、嵐の前の静けさとでもいうところでしょうか?
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。