縁【拾伍】《エニシ【ジュウゴ】》
間が空いてしまいましたが更新します。
姚妃は本当に元気な子だった。姉や兄達に甘やかされて少しばかり我が強かったけれど、危ない事や行ってはいけない事はきちんと教えてくれている事に紳も悧羅も胸を撫で下ろすことが出来た。上の子ども達の溺愛ぶりからして全てを許してしまうのではないかと些か不安だったのだ。子ども達だけならず舜啓までも姚妃を自分の子のように可愛いがっていて、媟雅が務めの休みの前には姚妃と眠るのを許しているだけでなく、自分が休みの前にも預かるほどだった。
媟雅と舜啓の契りの日取りも決まり易者によれば一月後の新月の夜が善かろうということでその日に決まっている。宮を出るかの話は留まって良いのであればこれ以上嬉しいことはない、と舜啓が顔を輝かせたらしい。
「悧羅の側にずっと居れるって事でしょ?やったね」
鼻唄でも歌い出しそうに喜んでいた、と媟雅に聞かされて紳も悧羅も苦笑してしまった。それは媟雅としてはどうなのだろうと慮ったのだが、言ったでしょ?、と媟雅は笑うばかりだった。
「もともと舜啓は母様を嫁にしたかったって言ってたし?仕方ないから父様に譲ったって。それって本当なの?」
苦笑しながら尋ねる媟雅に、そんな事もあった、と紳と悧羅は互いに顔を見合わせて笑う。あれは舜啓が四つの頃だったろうか。紳とでなければ契るつもりもなく、かといって想いを伝えられるはずもなく一人朽ち果てるのを只ひたすらに待ち続けていた。舜啓に父母である白詠と咲耶のようになりたい者は居ないのかと問われた悧羅が、居るが叶わぬ願いだと教えた時に、自分の嫁にすると言ってくれた。幼子なりに悧羅を慮っての事だと思っていたが舜啓は本心から言ってくれていたようだ。媟雅を身籠る事が出来て紳と契りを結べることになった時に幼い舜啓が紳に言ったのだ。
「じゃあ仕方ないね。紳にあげるよ」
その時の紳が腹の底から笑っていたのを思い出す。
「そうそう。俺、譲られたんだよ。媟雅を悧羅が身籠ってくれて、悧羅が契りを結びたいけど出来ない奴がいるって教えてたからね。それが俺だって分かって仕方ないからあげるよって言われた」
その時の事を思い出して紳がまた可笑しそうに笑い出した。
「齢四つの舜啓にだぞ?もう面白いったらなかったよ」
全部媟雅のお影なんだよ、と声を上げて笑う紳に、身の程知らずだなあ、と媟雅も笑っている。
「舜啓にとって母様はその頃からの憧れだからね。今となっては笑い話にしてるけど本当に父様に譲って良かったっても言ってたよ。自分じゃあ母様を支え切れなかっただろうからってさ」
「おやまあ。そのような事を言うてくれておるのかえ?それは嬉しゅうあるのお。子同然であった舜啓がほんに妾の倅になってくれる事だけでも喜ばしいというに。…何より媟雅を伴侶として倖にすると誓うてくれたでの」
くすくすと笑う悧羅に媟雅も、うん、と微笑む。悧羅は憧れの存在で特別に大切なのは変わらないが自分の手で倖にしたいのは媟雅だけだと言ってくれた。娘である媟雅も悧羅に憧れを抱いているし舜啓の言う特別に大切なのだ、という意味も分かっている。それは恋慕とは違う。羨望なのだ。そして悧羅をそこまで大切に思ってくれている舜啓だからこそ媟雅もその腕の中に戻りたいと願った。大切な事を隠さずに伝えてくれてどんな媟雅でも受け入れると言ってくれた。その言葉がどれほど媟雅の心を溶かしてくれたのか舜啓は知る由もないだろう。契りを結んで血が混ざり合えばそれも伝わってしまうかもしれないが、それで良いとさえ思えるほどに媟雅の心は穏やかだ。
「なれど媟雅が宮に残ると言うてくれて妾も嬉しゅう思うておるよ。何より妲己が付いていくと言い出さぬか案じておったほどに」
「…妲己は私に甘すぎるんだよ」
悧羅の隣に侍っていた妲己が、なんの、と声を上げて体躯を起こして媟雅の後ろに侍った。
“姫は我がお育てしたのですぞ?お姿が見えなくなるなど淋しゅうなるではありませぬか。万が一、宮を出ると申しておられたならば毎日お顔を拝謁に行っておったことでしょう”
付いて行くとは言わないが、と小さく鳴く妲己を、分かってるよ、と媟雅が抱きしめる。
「妲己はいつだって私の味方でいてくれるもんね。母様から離れる事は出来ないから付いては来てくれないだろうけど、私も妲己と離れたくは無かったから残れるのは本当に安心したよ」
“そう申していただけるなど誉の極みでございますな。時折は我とも共に眠って下さいますか?”
くっくっと笑う妲己を一層強く抱きしめて、もちろん、と媟雅が柔らかな毛並みに顔を埋める。妲己にとって媟雅が特別であるように媟雅にとっても妲己は特別なのだから、離れて淋しくないはずが無かったのだ。
“姚妃姫の後は媟雅姫様の御子と戯むれることが出来ましょう。とはいえ姚妃姫もおられますのでやはり背に籠を乗せることになりましょうや”
「そんなことしなくったって尾で包めるでしょ?」
笑うと媟雅を長い尾で抱きとめて引き寄せられると包まれなれた匂いに大きく息をついてしまう。妲己に包まれると身体は成長しても心は幼子に戻ってしまう気がした。
「…妲己がずっと側に居てくれたらいいのになあ…」
ぽつりと呟いてしまうと、おやおやと尾で叩かれた。
“我は何処にも行きませぬよ。主のお許しがあれば姫の御側に侍っておってもよろしいのですが…。我の主は無理ばかりなされますので目を離せないのでございますよ”
宥めるような妲己に、分かってるよ、と媟雅も頷く。妲己にとっても悧羅は唯一無二の主だ。媟雅が産まれる前からずっと悧羅を支えてきたのだろうから無理に離れて欲しいとは思わない。
「何じゃ、話を聞いておれば妾が悪いことをしておるような気になるのう」
くすくすと笑いながら悧羅が妲己を撫でる。
「妾の定命が尽きらば妲己の好きにしてよいのだがな。まだ妾も妲己がおらねば淋しゅうなるでの。なれど時には媟雅の側におりたいのであれはそうしてもろうてもよろしいえ?…どうにも媟雅の方が淋しゅう思うておるようであるからの」
笑う悧羅に、またそのような縁起でもないことを、と妲己が顔を上げた。まだまだ永く世に留まってもらわなければ、と叱ると、本当だよ、と紳が同意を示す。
「そんな先のことまで考えてたら今を楽しめないじゃないか。…まあでも媟雅は思ってるより揺れてるのかもしれないね」
揺れてる?、と妲己から少し身体を起こした媟雅に、うん、と紳が頭を撫でてくれる。宮を出ないとはいえ舜啓と契りを交わすことがどのような事になるのか思い描くのは難しいだろう。穏やかに過ごしてその時を待ち望んでいても小さな不安はあるものだ。それは新しく共に生きる者を見つけたは良いが、本当にこれが正しい選択だったのか、と時折う考えてしまうことにもなるだろう。悧羅でさえ夜伽の相手としての紳は受け入れたが契ると覚悟してくれるまでにはそれなりの刻を要していた。
媟雅を身籠ってくれたから覚悟を決めてくれたに過ぎない。それまでは紳がもしも子を欲しいと思った時にはすぐに手放すつもりでいたのだから。鬼の永い生だからこそ契りの相手を見つけるのは難しい。恋仲の時とは違い、何かが違うとは思っても離縁するとなれば又それなりに苦労が伴うし何より血を混ぜる事で全てを相手に知られてしまうのだから易々と離縁も出来ないのだ。
だからこそこの者だと思える者を見つけるにはそれなりに刻と覚悟がいる。
「舜啓なら大丈夫だと思ってても心の何処かに契って変わることに少し怖さを感じてるんだよ。血が混ざり合う事で今まで知らなかった相手の事や自分のことまで知られる事にもなるしね」
ふうん、と媟雅は紳を見る。自分では穏やかにその日を待ち望んでいているつもりでも周りから見ればそう見えてしまうのかもしれない。
「…あんまり考えた事なかったけど…。淋しそうに見えてた?」
首を傾げて尋ねる媟雅に、少しね、と紳が小さく笑ってみせた。頭に乗せた手で媟雅の髪をくしゃくしゃと混ぜながら、大丈夫だって、と言い聞かせる。身体を預けていた妲己も、少しばかりは、と長い尾で顔を撫でた。
「母様もそんな気持ちになったりした?」
自分が感じてもいなかった事を言われて戸惑いながら悧羅に尋ねると、うん?、と悧羅が首を傾げる。
「…淋しゅう思うた…という事はなかったの…。なれど妾の業に紳を巻き込むは少しばかり戸惑うたかの…。何より妾は紳とは契りたくとも契れぬと思うておったに」
小さく笑いながら応える悧羅に、ああそうか、と媟雅が頷いた。
「夜伽の相手としてならば側に置いておいても良かったであろうが、契るとなれば話が違うてくるでな。…媟雅が来てくれなんだら覚悟は決まらなんだままであったろうの」
くすくすと笑う悧羅を引き寄せながら、だろうね、と紳が苦笑している。
「俺が子を欲しがったら手を放すつもりでいたみたいだからね、悧羅は。ほんと媟雅が来てくれて良かったよ。でないと今頃こうしていられなかったんだからね」
庭で遊ぶ姚妃と上の子ども達、哀玥の姿を紳が指さした。
「俺たちの倖は全部媟雅が持って来てくれたんだよ。だから一番倖になって欲しいし、舜啓だったら大丈夫だって思ってるから任せるんだ。…まあ違ったら戻ってくればいいだけの話だ」
「…おやまあ。契りもまだというにそのようなせんないことを…。なれど宮に留まってくりゃるのだえ?何かあらば紳や妲己に言えばよい。無論、妾で良ければいつでも聞くに。媟雅は己が心のままに動けばよい」
優しく微笑んで言う悧羅に、うん、と媟雅も笑う。悧羅でさえも少し悩んだと聞いて安心したのか、確かに少し淋しい気がしてくる。契りを交わすということは生まれ育った者達から離れてしまうと思っていたのは事実だ。新しく伴侶となってくれる舜啓と二人の間に生まれて来てくれるであろう子を守っていかなければならないから。
「契りを結んだからって父様と母様の子どもじゃ無くなるわけじゃないもんね」
ぽつりと呟いた媟雅に、当たり前だ、と紳も悧羅も大きく頷いた。
「困ったことがあれば頼れば良い。一緒の宮に居るんだから遠慮もいらないだろ。媟雅は俺たちの大事な娘だってことは変わりゃしないんだからね」
「媟雅が倖であればそれが何よりじゃ」
大きく頷いて、そうだ、と思い出したように媟雅が手を叩いた。
「お願いがあるんだけど」
願い?、と問い返す悧羅に媟雅は貸して欲しい物がある、と言う。紳や悧羅が持っている物であれば何でも貸せるが媟雅が欲しがる物を二人が持っていただろうかとも思う。何かあったっけ?、と不思議そうに悧羅を見る紳に、分からぬなと微笑みを返す。
「父様と母様が契りの儀で使った小刀って貸してもらえるのかな?」
「…ああ、あれねぇ…」
苦笑しながら紳が悧羅を見る。もちろん残っているし契りの儀の後、荊軻に頼みこんで譲ってもらった。代々の長の契りで使われて来た物であるから後の長の契りでも必要なのだ、とは言われてかなり渋られたのだがこればかりは他に渡したくも使わせたくもなかった。悧羅が自分の子袋を潰す事に使った物だ。荊軻の気持ちも分からないでは無かったけれど、悧羅との契りが終わった後は紳の戒めとして持っておきたかった。
「我儘言ってるのは分かってるけど、悧羅が子袋を潰す事に使った刀だ。俺たちの契りには一番良い物だったけど、それを他の奴には使って欲しくないんだ」
かなりの我儘であったことは分かっていた。だが譲れなかった。仕方ございませんね、と溜息混じりに渡してくれたが新たに小刀を作るとは言っていなかった。荊軻としては新たに作ることで悧羅の御世が終わりを告げるような気がしていたのだろう。それからずっと紳が持っている。悧羅も知らない事なのだが、こんな場で教える事になるとは思ってもいなかった。
「…荊軻が持っておるとは思うが…。あれを使いたいのかえ?」
何も知らない悧羅が媟雅に問いかけている。
「うん。父様と母様の契りに使った物を使えれば少しでも二人みたいに仲睦まじくいれるんじゃないかなぁって…。私が勝手に思ってるだけでまだ舜啓には伝えてないんだけど」
どうかな、と尋ねてくる媟雅に悧羅は少しばかり困ったような笑顔を向けている。
「…あまり縁起の良い物ではないのだがな…」
紳と悧羅の契りを結ぶためにはこれ以上ない物であったけれど、一度はもう繋る事はないと思って自分の子袋を潰すために使ったものだ。血に塗れている物で媟雅と舜啓の慶ばしい門出を汚してしまうのではないか、とも思ってしまう。ちらり、と紳を見るとどうやら同じ思いのようで思い悩んでいるようだ。応えを出しかねている二人に、分かってるよ、と媟雅が言う。
「母様の子袋を潰すのに使った物だって。それだけ大事な物なんだってことも分かってる。でもだからこそ二人の娘としてそれを使わせてもらいたいの」
「…いやねぇ…、だけどさ…」
「それに父様と母様を繋いでくれた物だよ?縁起が悪い物なんかじゃないよ」
ずいっと身を乗り出して、お願いと乞われて紳は悧羅を見た。困ったような顔はしているが媟雅の強い思いが伝わってきてどうやら折れるしかないと考えているようだ。小さく嘆息して紳が、分かった、と頷いた。紳、と名を呼ばれて小さく微笑む悧羅にもう一度頷いてみせる。
「ここまで決めてるならね。それに俺と悧羅を繋げてくれたのは媟雅だ。…だったら媟雅にも使ってもらった方が良いのかもしれない」
では荊軻に、と悧羅が言うがそれは必要ないと紳は笑う。
「俺が持ってるから。その日には出すよ」
その言葉に驚いたのか悧羅が、は?、と声を上げた。それに笑って引き寄せる腕に力を込めながら頬に口付ける。
「大事なものだからね。これから先誰にも使わせるつもりはなかったんだよ。…俺の戒めとしても持っておきたかったから荊軻に無理言って譲ってもらってたの」
「戒めなどとせんないことを…」
嘆息する悧羅に笑う紳が、でも媟雅ならいいよ、と目の前に座る娘に向き直った。
「そんなに大事な物なら無理は言わないんだけど?」
心配そうな媟雅に、大丈夫だよ、と笑ってみせる。
「さっきも言ったけど俺と悧羅をもう一度結びつけてくれたのは媟雅が来てくれたからだ。その媟雅の願いとくれば断り切れないよ。…でも返してくれよ?記念に取っておきたいって言われても譲れないからな?まあ、俺が死んだら形見として持っておいてくれると嬉しいけど」
「そっちの方が縁起でもないよ。まだまだ先の事なんだから今からそんな事言わないで。大体、子どもの私達より若々しくなってるんだから、長生きしてもらわないと嫌だからね?」
形見だなんて、と頬を膨らませる媟雅に紳が声を上げて笑う。元より早く死ぬつもりなどない。悧羅と共に居れるようになってまだ三十余年しか経っていないのだから。
「そんなつもりは全くないよ。悧羅と離れてた倍の年月くらいは一緒にいたいからね」
ね?、と視線を落とされた悧羅が当たり前じゃと苦笑している。
「まだまだ離れておった分は取り返せてはおらぬからの」
鈴を転がすように笑う悧羅に紳も笑う。その姿を見ながら妲己が可笑しそうに声を堪えながら笑い出している。
“主らの様に仲睦まじくおるは互いを尊びおうておられるからこそ。姫と舜啓であらば大事ございませんよ”
長い尾で身体を巻き取られて引き寄せられるとまた妲己のふわりとした毛並みに包まれた。
「確かに相手を尊べなくなったら駄目だろうね。でも喧嘩はしそうだなぁ。父様と母様は喧嘩なんてしてないけど、そこは真似出来なさそう」
小さく笑いながら言うと妲己も笑い続けている。
“その時は我が舜啓に噛み付いてやりましょうや”
「私が悪いかもしれないじゃない?」
“その様な事は良いのです。姫を傷つけたとあらば我が制裁を下すのみ。我は何があろうと姫の味方でございますれば”
笑い続ける妲己に、本当に甘すぎるよ、と媟雅は苦笑するしかなかった。
その夜、自室に戻ってしばらくして舜啓が戻ってきた。悧羅が調べていた事はまだ全て調べ終わってはおらず時折荊軻から舜啓に頼み事として願われるらしい。元より手伝うと子ども達も言っていたし、舜啓も自ら手を挙げた。だが少しばかり調べにくい場に舜啓が行くことが多いのは媟雅には心配だった。それだけ舜啓の能力を荊軻が認めているということなのだけれど、出来れば子ども達の誰かを伴なわせて欲しいものだ。
今回は休みが重なった事もあり媟雅が共に行くと行ったのだが、駄目だと言われた。あまり見せたくない事でもあるのだろうとは思ったけれど、悧羅に関わることなので媟雅は知っておきたいのだ。
「だから媟雅はそうやって抱え込み過ぎるんだよ。紳と悧羅の長子だからってあんまり肩を張る必要ないってば。これからは俺も半分背負うんだし、たまの休みくらいゆっくりしときなって」
媟雅の心を見透かしたように笑われて結局連れて行ってはもらえなかった。けれど、途中で忋抖を拾ったらしい。務めの方向が同じだったらしいのだが、まあ忋抖が共に行ったのであればと帰ってきた舜啓の話を聞きながら媟雅は安堵した。里の中で危うい場などあるはずもないのだが調べている事に関わる者たちの中に千賀のような者が居ないとも限らないのだ。媟雅自身も調べに行くことがあるからわかる事だが皆が短命であることを受け入れているわけではない。あくまで務めの見廻りを装って行くのだけれど、床に伏している者やその縁者達からは、何故自分たちばかりという声も聞かれるのだ。
調べに加わることが決まった時に紳と悧羅から王母の怒りについては聞き及んでいたけれど何も知らずに血を繋いで来た者達にとっては何故という思いが湧くのも当然のことだろう。そこまでして王母が悧羅に拘る理は分からないけれど悧羅が里にとっても民達にとっても必要であることくらいは分かる。何より手の届かない場に住まう王母は神の一人だ。その胸中や考えを媟雅に分かろうはずも無かった。
「とりあえず無事に戻ってくれて良かったよ。…またあんまり聞きたくないような事も聞いたんでしょ?」
自室に入る時に舜啓が持ってきた酒を注いでやりながら尋ねると、まあね、と苦笑している。
「荊軻さんには報せてるから問題ないよ。だけどなかなか進まないね。血を追うっていうのも難しいよ。って言っても荊軻さんが調べた縁者のことについて調べるだけだから一番大変なのは荊軻さんなんだけどさ」
「確かにね。一体どうやって調べてるのか…。500年前の事だよ?記憶も朧だろうにねえ」
うん、と酒を煽りながら舜啓は苦笑する。報せを持っていった荊軻は古い巻物を幾つも手元に置いていた。随分と古い物のようだったから、そこから紐解きながら調べあげているのだろう。
「まあ荊軻さんを文官長に任じた悧羅の目は間違いなかったって事だろうね」
空になった盃にまた酒を注いでくれる媟雅に笑って言うと、それはそうね、と同意してくれた。
「荊軻さんが居ないと母様が立ち行かないって言ってたし。沢山助けてもらってきたんだろうね」
500年も前からと思うとその永い歳月に溜息が出る。その500年、悧羅が一人で里の要として立ってきたのを側で支え続けてきてくれたのだ。本当に有難いと思ってしまう。
「そうだ、舜啓。契りの儀で使う小刀の事なんだけど…」
昼間、紳と悧羅に願った事を舜啓に伝えると、構わないよ?、と当たり前のように是を示してくれた。媟雅の事だから何かしら紳と悧羅になぞられた事を願うだろうとは思っていたので特段驚くようなことでもないし、むしろ媟雅の願いであれば全て叶えてやりたい。そう思ったからこそ媟雅の全てを受け入れるし、契った後でも媟雅が望むなら他の男と情を交わすことがあったとしても責めることはしないと決めている。
媟雅に限ってそういう事は無いと思っているから、そんな余裕な事が思えるのかもしれないが…。
「でもそれって代々の長が使ってきてた物なんでしょ?荊軻さんに言って貸してもらえるもんなの?」
首を傾げる舜啓に、それは大丈夫みたい、と媟雅が笑う。
「記念だって言って父様が無理言って譲ってもらってたらしいから。今は父様が持ってるみたいだよ」
記念って…、と苦笑する舜啓にとりあえず媟雅も笑っておいた。さすがに舜啓であろうと紳と悧羅の間にあったことは知らないはずだ。幼い頃は共に湯浴みをしていたらしいが疵痕は隠していただろう。媟雅達にさえ隠し通していたのだから舜啓にも見せてはいないはずだと思う。
「まあ、願掛けみたいなものなんだけど…。父様と母様が使ったもので舜啓と契りを結べたら、あの二人みたいに最期まで仲睦まじくいられるかなぁ…って」
空になった酒瓶を卓に置いて次も?、と尋ねると舜啓が笑いながら首を振った。注いであった酒を一気に呑み干すと盃を媟雅が受け取って卓に置いている。その手を取って引き寄せると、大丈夫だよ、と額に口付けた。
「紳と悧羅に負けないくらい倖にしてみせるから。同じくらい子どもも欲しいけど七人は無理かなぁ。媟雅は何人欲しい?」
「持てるなら持てるだけ。でもあの様子じゃあ、まだまだ下に増えそうだから、もしかしたら弟妹と同じ歳の子になっちゃうかもしれないね」
確かに、と笑いながら舜啓が媟雅を抱え上げて寝所に運ぶ。そっと横にしながら、じゃあ急がないといけないかな?、と口付けた。
遅くなりました。
日常回ですね。
お楽しみいただけましたら幸いです。
ありがとうございました。