縁【拾弐】《エニシ【ジュウニ】》
おはようございます。
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妓姣からどうにか善が降りたのは腹の子が五月を超え動き始めた頃だった。既に六月目に差し掛かろうかとする頃であったので、湯浴みがやっと出来ると喜ぶ悧羅に紳は苦笑してしまう。全く臭わないと幾度伝えてもそのたびに恥じらう悧羅が可愛いらしかったのでもうしばらくは見ておいてもよかったのだ。妓姣の申し付け通り他の者の手を借りてだが悧羅も部屋の中ならば難なく動けるようになっていたし、時には距離を伸ばして部屋の外の廊下を歩き中庭を眺めることも出来るようになっている。まだ身体は疲れ易いので無理をさせないように気をつけておいてやらなければならないが、それでも懐妊が分かった初めの頃とは大違いだ。
「ですが長湯はまだなりませぬよ。湯浴みと申しても疲れますのでな。…それから旦那様。まだなりませぬぞ?」
悪戯な笑みを浮かべられて紳はますます苦笑した。湯浴みは許すが情は交わすな、ということらしい。
「分かってるよ。…もうここまで我慢したら子を産み落とした後まで堪えても変わらない。悧羅と子を護る方が大事だからね」
小さく笑いながら是を示したが、それには悧羅が淋しそうな顔をした。
「…ならぬのか?」
湯浴みができると喜んでいたばかりなのに妓姣に首を傾げて小さく息をついている。紳がどれだけ堪えているかを知っているからこそ、出来るならば情も交わしたかったのだろう。もちろん悧羅自身が紳と睦み合いたいのもあるのだが静かに妓姣に首を振られて肩を落としてしまう。
「御子を第一に考えなされ。婆の子袋の出口を縛る術も長様の御身体が上向いたからこそ解けかけておるのじゃ。まだ疲れ易い御身体ではそこまで堪えられぬ」
「なれどほんの少しであれば良いのではないか?」
どうにか、と言う悧羅に妓姣はまた首を振って、なりませぬ、と叱るように伝える。もう、と嘆息する悧羅が紳を見て、すまぬ、と詫びた。本当に申し訳なさそうな姿に紳は腕を伸ばして悧羅の頭を撫でた。
「気にしないで。楽しみはとっておくに限るんだよ。逑になるまで何百年と待ったんだから、たった数月なんて瞬きの間だから。…子を産み落として妓姣の善が出たらしばらく離せなくなると思うけどね」
笑って言う紳に、おやおや、と妓姣が笑っている。
「それではしばらく婆が意地悪を致しましょうや。旦那様が、まだかと言われるまで善と申さずにおってみようかの」
「それは勘弁してよ。何よりの拷問になっちゃうんだから」
焦る紳に、ほほほといつもの笑いを浮かべる妓姣に紳も肩を落としてしまう。妓姣の言うことは護らなければ悧羅も子も護れない今は堪えなければならないのは承知している。何より紳が無理をさせて懐妊に気づかなかったことで、ここまで悧羅と子を危うい目に合わせてしまった負い目もある。だからこそ堪えられているというのが本音だが、産み落とした後まで悧羅を取り上げられてしまっては堪らない。
「まあまあ。今はもう少し御身体の御力を付けて頂きませんとな。慶事を下されるのも今しばらく待たれよ。もしも早めに生まれ落ちてしもうた時の事も考えねばならぬでな」
確かに、と紳は大きく頷いた。一月や二月早く生まれ落ちてしまっても子が生き永らえることは珍らしくないが早くなればなるほど子の力も弱い。ようやくここまで辿りつけたのは妓姣の力があってこそだ。せめて八月を超えるまでは安心出来ない。今慶事として下ろしても万が一を考えれば不安が残る。
「どうせなら生まれてから慶事として下ろしても良いんだから、そこは慌てないよ。出来るだけ産月までは腹に居て欲しいけど、早く出たがる子かもしれないしね」
「その方が宜しかろう。元気な御子ではあるが長様の御身体もある。少しばかり早う生まれてもおかしゅうはないのでな」
「早うに生まれてしもうたら子は無事でおってくりゃるのかえ?」
妓姣と紳の会話に不安を感じたのか悧羅が焦ったように尋ねてくる。それに穏やかな笑いを浮かべて、妓姣がぽんぽんと布団を叩く。
「少しばかり早うても婆がおりますれば。ですが出来るだけ産月近くまで腹におってもろうた方が御子には宜しい。母君の腹の中ほど安心できる場などありませぬからの。…ですから無理はなさらぬように御身体に力を付ける事を考えなされ」
諭すような言葉に、あい分かった、と悧羅が大きく頷くと、ではまた明日に、と妓姣が妲己と共に部屋を辞していった。妓姣が去るとすぐにそわそわし出す悧羅が早く湯を使いたいと思っている事が容易く分かって紳は笑ってしまう。少し待つように伝えて頬に口付けてから磐里と加嬬を呼ぶと、すぐにぱたぱたと小走りに駆けつけた二人に湯殿の支度を頼む。
「お許しが出たのですね」
顔を輝かせて支度に走った加嬬を見ながら悧羅が苦笑する。悧羅本人よりもそこまで身体が戻ってくれたことを喜んでくれている姿が嬉しかった。磐里も悧羅の支度を整えながらそれでも長湯はなりませんよ、と嗜めることを忘れない。分かっている、とは言うが久しぶりの湯にゆっくりと浸かりたい思いもあった。
「では旦那様とお入りになられますか?」
聞いた磐里に当然と紳が応えようとしたが、急いで首を振る悧羅にそれは制されてしまう。悧羅?、と不思議に思って首を傾げると、今回は加嬬に頼むと言う。
「どうして?俺で良いじゃない?」
ますます首を傾げる紳に悧羅はほんの少し顔を背けた。
「…六月近くも入っておらなんだのだえ?どれだけ汚れておるかわからぬ。…そのような姿を紳に見せられるわけがなかろうに」
顔を紅らめて両手で覆う姿に、まあまあと磐里は笑っているが紳はがっくりと項垂れてしまう。このところ本当に恋仲に戻ったような姿ばかり見せられて参らされてばかりだ。
「だからそんな事気にしないって言ってるのに。久々に俺も悧羅と湯浴みしたいんだけどなあ」
紅く火照った顔を手で包むと、顔を覆ったままで首を横に振っている。
「…明日からは共に願う故、今回ばかりは堪忍してたも…」
恥じらうように小さな声で言われてしまって仕方なく紳が是を示すと、ほっと大きく安堵する悧羅が見えた。本当に何処まで溺れさせれば気が済むのだろう、と苦笑してしまう。
「でも付いては行くからね?何かあったときに側に居ないとどうしようもないんだから」
「それは哀玥に頼む。紳はここで待っていてたもれ」
「哀玥だって悧羅が湯に沈んだらどうしてやる事もできないでしょ?湯殿の入り口で待つなら良いでしょ?」
「…まあ、それならば…」
二人の会話を聞いていた磐里が堪えきれずに声を上げて笑い出している。
「本当に仲睦まじいことで羨ましゅうございますね。私にもそのような時がありましたようなありませんでしたような…。側に居らねばならぬ哀玥も目のやり場に困りますでしょうよ」
ねえ?、と視線を返されて悧羅の横に侍っていた哀玥が小さく笑っている。
“小生は他を知りませぬのでな。主と紳様のようにいつも仲睦まじいことが当たり前だと思うておりますよ”
小さく笑い続ける哀玥を悧羅が撫でると嬉しそうに鳴いてみせる。
“主の御為であるならば湯の中にでも飛び込みましょうぞ。どうぞ、ご安心なさりませ”
「そこまでされたら俺の出番が無くなるでしょ?」
笑い合っていると加嬬が部屋に戻ってきた。紳と哀玥に支えてもらいながら湯殿まで歩くと、決して入らぬようにと紳に言い置いて悧羅は磐里と加嬬と共に湯殿の中に入った。はいはい、と苦笑しながら手を振って見送るとゆっくりと湯殿の戸が閉められる。立って待つのもなんなので哀玥の横に座ると面白そうに哀玥が笑っている。
「どうしたの?」
頭を撫でながら尋寝る紳に、可愛らしくあられる、と目を細めながら湯殿の閉められた戸を見る。中から磐里や加嬬の声がして嗜められているのが聞こえてきた。
“小生がお会いした時は高貴な方だと思うておりましたが、この所の主は何とも可愛らしゅうて娘子のようにあらせられる”
小さく笑いながら哀玥に、確かにね、と紳も笑ってしまう。どうやら娘子のようだと思っていたのは紳だけではなかったようだ。哀玥でさえそう思うのならば妲己など余計に感じているかもしれない。そう言うと悧羅が恥ずかしそう顔を紅らめるので言わないだけで。悧羅も子も随分と安心出来るようになって来たからか妲己の機嫌が近頃良いのも悧羅のそんな姿を微笑ましく思っているからなのだろう。
「俺もあんな姿見るのは初めてだしね。長として誰かの前に立たなきゃいけないことが多かったからかもしれないけどさ」
“紳様でさえそう思われるのであれば、とても珍しいことなのでしょうな”
うん、と哀玥の頭から手を離して壁に身体を預けると楽しそうな声が湯殿の中から聞こえてくる。絶対に入るなとは言われたがこれほど嬉しそうな声を聞かされてはつい中を覗きたくなってしまう。覗いてみればきっと又娘子のような恥じらう姿を見れるだろう。けれどそんな姿を見せられては今度は紳が自分を堪えきれなくなるのも分かって、小さく苦笑してしまった。紳様?、と隣から声を掛けられて、何でもないよと哀玥に応えるが込み上げる笑いは堪えきれそうもなかった。
本当にいつになればまた自分だけのものに出来るのか。
これまで六人の子を授かったけれど一切悧羅に触れる事が出来なかったことはなかった。紳が望めば悧羅は応えてくれるだろうがそれでは妓姣の言いつけを破ってしまうことになるし、悧羅自身への負担も大きくなる。やれやれと頬杖を付いて紳は嘆息した。自分の責だと分かっているからこそ律していられるが本当に拷問に近い。毎夜毎夜腕に抱いて寝ているというのに情を交わることを自制するなど夜伽の任を預けられた後しばらくの間だった。夜伽を務めてしまえば悧羅から離れなくてはならなくなる、と思えば手を付けられなかったことが今では懐かしく思い出される。
あの頃は悧羅が自分の子を孕んでくれるなど思ってもいなかったし、契りを結び逑となって永い生を共に過ごしてくれるようになるなど考えもしなかった。紳だけの淡い願いであったと思っていたのに。
倖ばかりもらってるよなあ。
くすくすと笑い続けていると湯殿の戸が中から静かに開けられた。どうやら終わったようだ、と立ち上がると湯殿の脱衣場の椅子に腰掛けている悧羅の姿が見える。湯に入る事が出来たからか、確かに磐里や加嬬に清めてもらっていた頃よりも肌が白くなっているように見えた。脱衣場に入って手を伸ばすとその手を取って悧羅がゆっくりと立ち上がる。
「…覗いてはおらなんだであろうな?」
自室まで歩く間に聞かれて、約束だからね、と紳は苦笑してしまう。
「哀玥だって見張っててくれたんだから、大丈夫だよ。そんなに見られたく無かったの?」
「思っていたよりも汚れておったのでな…。見られたくは無かった。なれどこれで安堵して紳の横に侍ることができるようになった」
ふふ、と嬉しそうに笑う悧羅に紳が小さく息をつく。
「だから気にならないって言ってるのに。悧羅だったら何だって良いんだよ?」
自室の鏡台の前に座らせると、そういうわけにもいかぬ、と小さく頬を膨らませながら髪を整えに後を追ってきた加嬬に身を任せながら隣に侍った哀玥を撫でている。
「のう、哀玥。其方も苦しゅうあったであろ?」
鼻が効く哀玥に味方になって欲しかったのだろうが哀玥の応えは、全く、と笑いを含んだものだった。
“主は常に華のような匂いでございますれば。お側におれば包まれて護られておるのだ、と小生は思うておりまする”
おやまあ、と苦笑する悧羅に、ほらね?、と紳が座りながら言う。
「明日からは一緒に入ってよね?…俺だって悧羅と入れない刻が長かったんだから淋しいんだよ?」
手を取ってそこに口付けながら言うと悧羅は小さく笑っている。共に入って悧羅が堪えきれるかも心配ではあるが、それは紳も同じだろう。だが悧羅と腹の子を護るためであるならば妓姣に申しつけられた通り紳が堪えることは容易く分かる。元々、自制を効かせることが出来る男なのだから、子が産まれるまで待つと言ったからにはそうするのだろう。それはそれで申し訳なくも感じてしまうのだが、今は妓姣の申し付けとそれを護る紳に甘えるしか無さそうだ。
何よりほんの少し湯に浸かっただけなのに悧羅の身体は気怠さに襲れてしまっている。あれはど好んで待ち望んでいた湯であるのに疲れを溜めてしまっていては楽しむ事も出来そうにない。
「あい分かった。明日からは紳と共に入る。磐里や加嬬にばかり任せては妾が長湯をしたいと我儘を申し出すやもしれぬしな」
苦笑する悧羅に、そのようなことは許しませぬよ、と磐里が茶器を持って部屋に入ってくる。
「今日とてもう一度御身体を清めたい、と申されるのをお止め致しましたでしょう?ほんに湯が浴びれるようになっただけでも喜ばしいことですのに、ここで御無理などなされてはなりませんからね」
温かい茶を淹れて支度を整え終えた悧羅と紳に手渡しながら磐里が呆れたように肩を落としている。
「三度も清めましたのに旦那様のお近くにおりたいのだから、となかなか聞き入れて頂けなくて困りましたのよ?」
ちらりと見られて紳はくすくすと笑い出した。楽しそうな声が聞こえていた湯殿の中では磐里と加嬬が苦労していたようだ。
「しばらく前から気にし出してたからね。俺は気にしないって言ってるのに聞きやしないんだから。でもお陰で悧羅が気にしなくて良くなったみたい。でも、疲れただろ?少し休んだ方がいいね」
渡された茶を旨そうに啜りながら紳が悧羅の顔色を見る。見透かされてしまった悧羅は小さく笑うしかない。
「ほんの少しばかり疲れただけじゃて。…もう少しばかり起きておりたいのだが…」
茶を啜る悧羅に場に居た者たちが全て否と言って嗜める。哀玥まで首を振っていては悧羅の言は聞き入れてもらえそうにもなかった。仕方あるまいな、と嘆息しながら湯呑みを卓に置くと、それでいい、と紳が笑いながら悧羅の頭を撫でる。
「では旦那様も共にお休み下さいませ。妲己もそろそろ戻ってくるでしょうから哀玥と共に桃を差し上げましょうね」
湯呑身を片付けながら、代わりに卓に水差しを置いて磐里が哀玥の頭を撫でた。桃!、取って喜ぶ姿が妲己と変わらずに皆で笑っていると中庭に妲己が降り立つ音がした。噂をすれば、と笑いながら立ち上がって部屋に入ろうとする妲己の足を加嬬が拭いてくれている。されるままになっていた妲己も終えられるとすぐに悧羅の側まで駆け寄ってきた。湯浴みを終えている悧羅を見て擦り寄りながら、少しお疲れのようでございますね、と喉を鳴らした。誰も彼も同じことを言うものだ、と笑いながら妲己を撫でる。
「磐里が其方と哀玥に桃をくりゃるそうだえ。二人とも妾に付いてばかりであるからな。磐里からの褒美であろうて」
小さく笑い続ける悧羅に褒美ならいつも頂いておりますよ、と哀玥も擦り寄ってくる。
“主のお側におれることほどの褒美はございませぬのでな”
おやまあと笑みを深くする悧羅に、然り、と妲己も頷いた。
「…ほんに其方らは妾に甘すぎるのう」
二人を撫でる悧羅を見ながら磐里と加嬬が笑いながら、さあさあ、と立ち上がった。
「冷えた桃を差し上げますよ。時には旦那様とお二人でゆっくりとお休みいただきましょうね。心配であれば二人ともしばらく休んでからまた侍ればよろしいのですから」
促す磐里と加嬬と共に二人が足取りも軽く出て行ってしまって自室が急に静かさに包まれてしまう。ほんの少し淋しく思っていると、よいしょと紳が立ち上がって悧羅に手を伸ばした。差し出された手を取って立ち上がるとゆっくりと寝所に連れていかれた。
「ほら、少し休んで。あんまり顔色が良くない。久しぶりの湯だったから思ったよりも疲れてるんだよ」
布団な横になるように言われて素直に従うが紳は横に座ったままで精気を送り込もうとする。契りの疵の下に浮かび上がる小さな蓮の華を見ながら悧羅がころりと紳の方に身体を向けた。ぽんぽんと布団を叩くいて紳も横になるように願う。
「紳とて疲れが溜まっておろう?磐里が気を利かせて紳との刻を取ってくれたのじゃ。…なればこそ妾のすぐ近くにおってたも」
また恥じらうような姿で言われて紳は、本当にもう、と苦笑するしかない。ほんの些細な仕草がどれだけ紳を煽ると思っているのだろう。
「仕方ないなあ。…じゃあせっかくだから一緒に昼寝でもすることにしようか」
笑いながら悧羅の横に滑りこんで身体が冷えないように掛け布団で包んでから布団の中で細い身体を引き寄せて精気を送り始めると、ほうっと大きな安堵の息をついている。
「やっぱり疲れてたね?いつもより長く起きてる上に湯まで使ったんだから当たり前か。本当に少し眠った方がいいよ」
うん、と言いながら胸に擦り寄ってくる悧羅の背中を優しく叩くと紳の衣が掴まれる。
「寝ておる間に何処にも行っておくれでないよ?」
「悧羅を置いて?俺が何処に行くっていうのさ」
馬鹿だなあ、と笑いながら抱きしめる腕に力を込めると、淋しゅうてな、と呟くような声が胸の中から聞こえてきた。何が?、と尋ねるとまた少し恥じらうように頬を紅らめてより一層紳に抱きついてくる。
「…腹に子が来てくれてからというもの紳と情を交わせておらなんだからの。肌が触れ合う所におってくれねば何とも淋しゅうて紳が何処ぞに行ってしまうのではないかと思うてしまうのだ」
情を交わしている時はそう不安に駆かられることも無かったが肌を触れ合わせない刻が長いと何故か不安になってしまう。身体だけで繋ぎ留められている関わりではないのにそう思ってしまうのがどういうわけなのかは悧羅にもわからない。一度手に入らないと諦めていたものが掌の上にあって手を伸ばせばいつも微笑んでくれる距離にあるというのに、気を抜けば溢れて落ちそうな心持ちに襲われる。今でさえ腕の中に包まれているのに互いを確かめ合う事が出来ないことへの葛藤なのかもしれない。
「心配しなくても俺は何処にもいかないよ。たかが一年近く情を交わせないくらい何てことない。500年堪えてたんだからね。その時はこうして悧羅を抱きしめる事だって許されなかったんだから、十分だよ」
抱きついている悧羅をより一層強く抱きしめて紳が髪に顔を埋める。悧羅がそう思ってくれていることが何より嬉しく思えてしまう。
「何より俺の子を宿してくれてるんだから、そんな悧羅を置いて何処かに行こうなんて考えないよ。何処に行くのだって悧羅と一緒でなきゃ。…でも、子が無事に生まれたら本当にしばらくは離してやれないから覚悟しててよね?」
小さく笑いながら伝えると、願ってもない、と胸に顔を埋めたままで悧羅も小さく笑っている。
「むしろ今すぐにでもそうして欲しいくらいじゃ」
「…それは俺も同じだけど妓姣に怒られるからね。でもあんまりそんな風に恋仲の時でも見せなかった姿ばっかり見せられると、本当に俺が保たないから少し自重してくれる?」
嘆息する紳に、そのような事をしておるのか?、と悧羅は言う。どうやら無自覚の内に恥じらってみせたり、紳が居なくなると不安に思ったりしているようだ。
「近頃は特にね。まるで娘子のようだって哀玥とも話してるんだから。本当にどれだけ俺を溺れさせたら気が済むんだか…」
引き寄せた身体を優しく叩いて、本当に少し休もう、と悧羅を促す。しばらくそうしていると微睡み始めたのか紳の衣を掴む手の力が緩まった。そのまま静かな寝息を立て始めたのを見てようやく紳も安堵する。あのままでは妓姣の申し付けを破って組み敷いていたかもしれなかったからだ。
繋がれた縁を断つことなど紳が望むわけもないのに、時折悧羅はこうして不安に駆られることがある。肌を重ねていられた時は少なかったがこの所多くなっているようにも感じた。きっと子が腹にいることで少しばかり気持ちも揺らぐのだろう。特に今回ばかりは悧羅の身体と子を護る事に気を張り続けなければならない。言葉でどれほど伝えても、心の奥底で小さな不安の火種が燻るのは紳にも良く分かる。
「本当に悧羅しか見えてないんだけどな…」
くすくすと笑いながら子が生まれたらどう仕返してやろうか、と紳の悪戯心に火が点いた。
めっきり寒くなりましたね。
皆様ご自愛下さい。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。