縁【拾】《エニシ【ジュウ】》
遅くなりました。
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紳に咲いた蓮の華の精気は悧羅の身体には良い影響を与えた。元々、自らと同じ精気が紳の中に一度巡ることにより紳の精気となって悧羅に送り込まれるからだ。しばらくは手首の華を見る度に泣いていた悧羅が夢を見たのは紳に華が植え付けられて一月が経った頃だった。見慣れてしまった川と水の瀑布。その中に朱色の柱を見つけて走り出した事で、それが夢だと悟る。現の悧羅の身体では起き上がることは出来る様になったけれど、まだ歩く事やまして走る事など出来ないからだ。
柱に辿り着く前にふっくらとした腕で抱き留められてすぐさま悧羅は王母を責めた。
何ということをしてくれたのだ、と。
「紳は妾と契りを結んでくれはしたが妾の良いように使って良いものではない!それを身勝手に華を植え付け、妾と同じ道、同じ苦渋を味合わせるなど望んでもおらぬ!」
包まれた腕を突き飛ばすように離れて泣き叫ぶ悧羅に王母はただ微笑んでいる。
「華を消してたも!紳を元に戻しや!」
叫びすぎて荒れる息もそのままに王母に怒りをぶつけ続けるが王母は静かに首を振った。手を伸ばして涙を拭こうとしてくれるがそれを払って、何故!、と悧羅は叫ぶ。
「何故、妾の是も無しにあのようなせんないことをしたのじゃ!華を増やすは妾だけが受け止めること。紳を巻き込んでおくれでないよ!」
叫び過ぎて膝から崩れ落ちた悧羅の肩に王母が触れた。泣くな、と静かな声がするがこれが泣かずにいられようはずもない。紳はモノでは無いのだ。ただ悧羅が愛しく想い共に居たいと願った、それを受け入れてくれた唯一無二の大切な伴侶だ。
「娘、あのままでは伴侶の生命が削られてゆくばかりであったのだ。お前の中に宿る子を抱かせることも出来ず、そうなればお前も後を追うことは私にも分かること。それを善とする事など私には出来ぬ」
「ならば!ならば妾の華を開かせればよろしかろう!さすれば妾だけで業を背負うておられたでは無いか!」
着いた床を叩くと鈍い痛みがあった。幾度も叩き続けると拳から血が流れ出す。
「今のお前の身体は華を開かせるに耐えられぬ。だから伴侶に尋ねたのだ。お前から離れる気はないのだな?、と。伴侶の応えは是であった」
「そうであったとしても!紳を妾に近しいモノに変えるなど許されぬ!」
叩き続ける拳が軋んで流れ出す血が多くなるのも分かるが何処へぶつけようも無かった怒りをようやく王母に伝えられるのだ。何処が痛もうが、何処が軋もうがどうでも良かった。叩き続ける拳をそっと包まれて悧羅が顔を上げると王母が膝を着いている。
「変えてはおらぬ」
穏やかに微笑んで悧羅の血で濡れた拳を開かせながら王母はもう一度、変えてはおらぬ、と言い聞かせるように話す。
「私はただ道を作っただけだ。お前の伴侶がこれ以上生命を削らぬように。それでお前が哀しまぬように。伴侶は伴侶のままだ。案じるな。…お前が泣くようなことは私はせぬ」
傷ついた悧羅の拳を撫でながら、案じるな、と王母の声と姿が薄くなり始める。王母!、と叫んだ悧羅はその声で目を覚ました。夢の中で叫んだはずなのに現でも声を上げてしまったようだ。頬を流れて落ちる涙でやはり夢であったのだ、と大きく息をつくと声で起こしてしまったのだろう。紳が、どうしたの?と身を起こし始めている。
「…夢を見ただけだ…、すまぬ…」
流れ落ちる涙を拭こうとした手を紳が慌てたように掴んだ。掴まれた手が少し痛んでもう片方も布団の中から出すと両の手が血で濡れていた。
「何だよ、これ?」
自分の寝間着の袖で血を拭いながら、まさか、と紳が布団を剥いだ。子が流れ出してしまったのかと思ったのだが悧羅の寝間着は血塗られていない。ほうっと安堵して布団をかけ直すと共に起きてしまった妲己と哀玥がそれぞれ手拭いと新しい寝間着を枕元に置いている。受け取った手拭いで悧羅の拳を拭きあげるとまるで何かに幾度も叩きつけたような傷が何処彼処に見える。これくらいならば紳にも癒せる程度だ。掌をかざして治癒の術式を行使すると、いつもの白く長い指と細い手が戻った。すまぬ、と詫びる悧羅に口付けてから新しい寝間着に袖を通してまた紳は悧羅の隣に滑り込んだ。細い身体を引き寄せて抱きしめながら精気を送る。
「悪い夢だったの?」
“何やら魘されておいででございましたよ。お起こししようかと迷うたほどです”
夢、だったのだろうと思う。手の傷も知らぬ間に何処かにぶつけたのだろう。夢の中の王母にでさえ怒りをぶつけなければ紳に施されたことを許すことはできそうも無いのだ。
「悪い夢…なのであろうな。王母が出てきた」
紳の胸に擦り寄って大きく息をつきながら思い出すように夢の中の出来事を話して聞かせる。どうしても許せないのだ、と言う悧羅の頭を紳が撫でた。
「そんなに深く思い詰めなくても良いんだって。俺は嬉しいんだから。…でも夢にしては現の悧羅の手まで傷つくなんてねえ」
「知らぬ間にぶつけたのであろうよ。…妾もこればかりは腹に据えかねておるのでな」
送り込まれる精気にも本来は抗いたいほどなのだがそれは紳が許してくれない。自分のことを思うならば受け入れてくれと言われてしまっては、悧羅に否と言えるはずもなかった。
“ただの夢ではないやもしれませぬよ”
紳の胸に顔を埋めている悧羅に妲己の声が届いた。思わず顔を上げると枕元に居たはずの妲己が紳の背後に座っている。その口に咥えていたものを紳と悧羅の間にぽとりと落とした。仄かに輝きを放つそれは一輪の小さな蓮の華だった。身体の間に落ちた華を拾い上げた紳が、なるほどね、と苦笑している。悧羅の身体ごと呼び出すのは疲れさせると思ったのか、心だけ呼び出したのだろう。もしくは王母が悧羅の心の中に入ったのか…。どちらにせよ悧羅の手についた傷の意味は分かったような気がする。
「本当だ。じゃあ変えてないって言葉も信じていいんじゃない?この華は悧羅の分身から俺が精気を受け取るための唯の道なんだよ。その証に俺は本当にどうもないしね」
「では其方が子を抱けぬようになる、と言うたも真だったということかえ?」
夢が真であったなら悧羅に向けられた王母の言葉に偽りは無いということになる。不安気な目で仰ぎ見られて伝えるつもりもなかった事を紳は伝えるしか無くなってしまった。
「…まあ、少しは無理してたかもね。でも悧羅から俺が少し離れても大丈夫になったら人の子から獲りに行くつもりだったからね。そう大きな事にはなってなかったと思うけどな」
安心させるようになるべく穏やかに何でもないことのように伝えたのだが悧羅への衝撃は大きかった。そんなに無理をさせていた事が深く心を抉る。声も無く泣き出してしまうと、もう平気だよ?、と強く紳が抱きしめた。
「道が出来たからなのか王母様に呼ばれてから身体の調子は凄くいいから。削ってた分も余るほどだよ」
泣くなって、と苦笑しながら細い背中を叩く紳に、すまぬ、と悧羅が詫びる。
「何で謝るの?悧羅のためならどんな事だってするのは知ってるでしょ」
「なれど生命を削らせるのは望まぬ。…紳は妾がおらぬようになれば己もと言うてくれた。それは妾とて同じなのじゃ。其方が側におってくれねばもう妾は一人では立てぬほどに」
紳の背中に腕を回して啜り泣きながら訴える悧羅の髪に、分かってるよ、と紳が顔を埋めた。だからだったのか、とふと笑いが出た。紳だけが呼び出されたことも悧羅が夢だと思っていたことも全て王母が悧羅を失わないためのものなのだ。それだけ悧羅はまだ王母にとっても里にとっても必要だということなのだろう。
「じゃあ今度王母様に見えたらお礼を言わなきゃね。どうやら俺も助けてもらったみたいだし、道を作ってもらえたお陰で悧羅も子も護ることが出来てる。悧羅が最期を迎えるまで一緒にいれそうだからね」
そうでなくては嫌じゃ、とより一層紳に抱きついてくる悧羅を抱きとめながら、約束するから大丈夫、と紳は囁くように伝え続ける。幾度も幾度も伝え続けて泣き疲れたように眠りに落ちていく悧羅を強く抱きしめて離れるものか、と自分自身に誓いを立てた。
それから夜毎、悧羅は夢を見続けた。夢の中の王母はただ立ちすくみ悧羅を見つけると、変えてはおらぬと穏やかに繰り返す。目を覚ませば必ず寝所の何処かに華が落ちている。身体ごと呼ばれるわけではないので現の事なのだと悧羅に教えるためであろうが一月も夢を見続けると中庭の池は揺蕩うことも出来なくなるほど華で埋め尽くされてしまった。なんとまあ、と日々増える華を池に浮かべることも出来なくなって磐里が部屋に水盤の支度をする。時折、報せを持ってくる荊軻もその様に苦笑せざるを得なかった。
「王母様はどうしても長のお怒りを鎮めて欲しいのでしょう。そろそろ許して差し上げては如何でございましょうか?」
起き上がれるようになってくれた悧羅に報せを渡しながら言ってみるが応えは否だ。
「紳の身体がほんに変わっておらぬのかが分からぬ内は許す気などない」
報せを受け取って中を開きながら投げやりに言葉を出す悧羅に隣に座っている紳が困ったように笑い出す。一人で座れるようにはなったがまだ何処かには触れて精気を送り込み続けなければすぐに顔色が悪くなる。妓姣の診立では悧羅も子も共に上向いており約束の五月には善と言えそうだとのことなのだが、それも王母が取り計らってくれたからだ。
「俺は本当にどうも無いって言うんだけどね。むしろ調子が良いくらい。王母様にお礼を、って悧羅に言い聞かせてるけど聞いてくれないんだよ」
「当たり前じゃ。妾や紳の是もなくこのような事をするなど…。たとえそれが紳と妾を護るためだとしても、何も言わずではしてはならぬことじゃ。紳も妾も王母の道具ではないのだえ?」
心底呆れ返ったような物言いにまた紳は笑ってしまう。
「そのような事を申されて…。華を刈悧取られでもなさればどうなさるおつもりですか…。ここは甘んじられてよろしいところだと存じますよ?」
諭すような荊軻の言葉にも悧羅は、嫌じゃと首を振る。
「夜毎夢に出てくるというのに詫びの一つもないのはおかしかろう?華を置いてゆくのが何のためかもわからぬ。妾に夢でない事を伝えるためだけならば一度で足りること。この事ばかりは妾は折れぬ」
憤慨する悧羅など珍しい、と荊軻は小さく笑うしかない。紳を無下に扱かわれたと思えばこそなのは分かるつもりだが、そうでもしなければ悧羅も紳も子も保たなかったのだろう。それに気づかない悧羅ではないのだが、それでも許せないことなのだとその胸中を慮る。だがこれだけの事を言い放たれていながらも悧羅に対して王母の怒りが向けられないかは心配してしまうところではあった。
「どちらにせよ庭にもう一つ池を造らねばなりませんでしょうね。このままではすぐに水盤も一杯になりましょう。…それをお読みになられている間にでも私が造ってもよろしゅうございますか?」
報背に目を落としている悧羅が、好きにしや、と抑揚のない声で是を出すと、くすくすと笑いながら荊軻が中庭に出る。もともとほんの数輪の華を浮かべるだけであったから宮を構えた時に大きな池は造らなかった。宮の外にはまだ池は幾つもあるが王母の華ならば悧羅の側、すぐに見えるところに浮かべていたほうが良いような気がするのだ。
さて何処に致しましょうかね。
元からある池を広げても良いのだがそれでは景観があまりよろしくない。中庭を見渡しながら少し廊下を歩くと一本の桃の樹が見えた。悧羅が里をここに移した時に王母から賜った仙桃の樹だ。仙桃を捥ぐことは里を移して以来無かったが今こそ使うべきなのでは無かったのだろうかと荊軻は小さく笑った。樹の裾野は開けており何となく仙桃の樹だけが淋し気に立っている。
此処が良いでしょうね。
王母から賜った樹の側であるならば、これもまた王母から授けられた悧羅の華を浮かべるのは当たり前のように思える。樹を傷つけないようにひらりと掌を動かすと荊軻の鬼火が三つ仙桃の樹の周りに現れる。思い描いている池の形に鬼火の姿を変えて地に置くと浅くもなく深くもない池の形が作られていく。周りを固める石は近く部下に命を出すこととして水を引かねばならない。有難い事に悧羅の宮は山の中腹に構えられている。中庭に降りて今作ったばかりの池の形の中に入って底に手を当てるとすぐに水の気配を感じることができた。示指でそこをとん、と叩くとじわじわと水が溢れてくる。これでしばらく待てば水が溜まり良い池となるはずだ。
それにしても、と荊軻は廊下に戻りながら苦笑する。悧羅があのように感情を表に出すのは何百年振りだろうか。紳が側に居るようになってから耐え忍んでいた頃からは考えられないほど表情は豊かにはなっていたけれど、表立って怒りを露にしそれを荊軻に見せるなど500年前に出会った頃にしか無かったように思う。それだけ昔を取り戻しているということが荊軻は嬉しくてならない。紳が側に居る事を望んでくれなければ、今もずっと耐え忍び凍りついた心のままであっただろう。だからこそ失った時の事を考えると悧羅が容易く壊れることも想像することが出来た。子ども達に恵まれているとはいえ悧羅にとって紳はなくてはならないものだ。悧羅自身を保つためでもあるし、紳が側に居ない間も里の何処かで倖であることを願い、そのためだけに苦渋を受け入れていたのだから。
きっと王母様も気づいておられるのだ。
悧羅という里の民達にも王母自身にもかけがえのない者を失うことが無いように紳に道を授けたのだ。腹に宿ったまだ見ぬ子を護るために紳がどれだけ無理をしていたかは荊軻から見ても明らかだった。以前悧羅がしていたように自らの生命を削り落としながら精気を送り込んでいるのは顔と疲れをみれば一目瞭然であったのだから。
「せめて人の子から獲りに行かれてくださいまし」
幾度悧羅が休んでいる時に勧めたか分からない。けれど決まって紳の応えは否だった。
「今、悧羅の側を離れるわけにはいかないんだ。もう少し落ち着いたらちゃんと獲りに行くから」
そう笑ってはいたけれどそこまで保つのか荊軻は不安でならなかった。そこに王母が華を植え付けたと知り怒る悧羅には申し訳なかったけれど、内心では安堵したのだ。紳が無事でいるということは悧羅も無事であるということなのだから。今でも悧羅は王母を許すつもりは無いようだが、あのままでは間違いなく紳の精気も生命も枯れ果てていた。悧羅が気付ける時には既に取り返しのつかない所であったはずなのだ。知っていたからこそ荊軻も動かないでは無かった。民達に大蛇の玉が残っている者がいないか密かに隊士に調べさせたのだが、悧羅が下して三十余年を過ぎた今では持っている者は少なく、中には病に罹っている者もいた。そのような者たちから取り上げるわけにはいかず、せめて荊軻の持っていた分は紳に渡したのだがそれも数粒でしかなかった。
「心配いらないよ。俺は悧羅を置いて先に逝くなんてことは許されないんだから」
「そうでなければ私も困りますよ。紳様を超える鬼が居ない以上、まだ近衛隊隊長の任も返されては里も長の護りも疎かになってしまうのですから」
嘆息してみせたが本当に心配していたのだ。紳に華が植え付けられ道が出来た事を知る者は悧羅と荊軻以外にはいない。どうやら悧羅に精気を送り込む時にだけ浮かび上がるようでそれ以外は何も無かったかのように消えてなくなるからだ。そんな事を容易く出来るのも王母であるからこそなのは分かっている。
本当に感謝してもしきれないのですよ。
心の中で王母に礼を述べながら来た道を戻って悧羅の自室に声を掛けながら入ると持ってきていた文書を巻き取っている所だった。
「…やはり思うた通りであったの…。これでは他の官吏であった者たちの縁者達も同じであろうな」
大きく溜息をついた悧羅から文書を受け取って荊軻は座しながら、そうでございますね、と頷いた。渡た文書の中身は500年前悧羅が一掃した官吏達の縁者の事がしるされている。まだ全てを調べ終わったわけでは無いが、当時腐敗に関わっていた者達の半数はどうにか足取りが追えた。中にはもう血が絶えていた者もいたけれど、まだどうにか血を繋いでいる者も少なくない。残り半数がどうであるかはまだ掴めていないが、子ども達や舜啓の手が増えたことで悧羅と荊軻だけで調べていた時よりも早く報せを上げる事が出来た。
「その者達には直に見えたのかえ?」
「いいえ。見えたとして全てを伝えてしまえば千賀の縁者のようにそこで絶えることも考えられますもので…。どのように暮らしておるのかだけを確かめるようにはしております」
荊軻の応えに、悧羅は深く頷いた。大昔にどのような事があったにせよ、今この里に暮らしている者たちは悧羅が護って行くべき民達であることに変わりはない。許されぬ罪を背負わされていようとも限りある刻であるならばよりそれを噛み締めて余生を過ごして欲しい。
「…知らぬこととはいえ王母の怒りは消えぬであろ。妾が許すというても、であろう。知らずとも良いこともあろうからそれでよい。…残りの者たちの調べも進めてくりゃれ」
ふうっと大きく息をついた悧羅の身体を紳が引き寄せた。
「少し無理しすぎだよ?いつもより長く起き過ぎてる」
触れた腕から精気を送り始めると悧羅の頬に紅みが挿し始めるのは少し離れた場に座している荊軻にも見てとれた。体調が上向いてきてからというもの少しばかり務めを始めた悧羅はすぐに根を詰めるのだ。寝込んでいた間にも気になっていたのだろうから致し方ないことではあるのだが、まだ長い刻座っていると身体に気怠さが襲いかかる。
「起き上がれるようになったのだから長としての務めも少しは果たさねば荊軻に叱られてしまうでの」
紳に寄りかかりながらくすくすと笑う悧羅に言われて荊軻はやれやれと肩を落としてみせる。
「私が叱るのは長が無理ばかりなさる事ですよ。本来ならまだ休んでおいていただいてもよろしいのですが…。こればかりはと仰せになられるではないですか」
まあそうだの、と苦笑する悧羅に荊軻も紳も苦笑するしかない。
「そういえば枉駕や栄州殿も長の具合がよろしいのであれば起きておられる時にお目にかかりたいと申しておりましたよ。…とはいえまだ御子の事は内密でございますから、もう少し芳しくなられてからの方が、とは申し上げておきましたけれど」
おや、と笑う悧羅がそろそろ良いのではないか?、と見上げるがそこでは静かに首を振っている紳がいる。
「妓姣が言ってるでしょ?五月を過ぎるまでは安心出来ないって。それまでは駄目。起きれるようになったっていってもまだすぐ疲れるし、自分で歩くことも出来ないでしょう?」
「それはそうだが…。顔を見せるくらいは…」
「駄目って言ったら駄目。荊軻には話してあるから俺も隠さず精気を送ってやれるけど二人はまだ知らないんだから。それに二人に会ったら悧羅は余計な心配をかけないように振る舞うだろ?無理はしないで」
「…だそうだ。すまぬが荊軻、今しばらくは誤魔化しておいてたも」
くすくすと笑いながら見られて荊軻も笑ってしまう。本当に仲睦まじいのが見て取れてやはりそれを嬉しく思ってしまう。
「承わりましょう。此度の一件で私も随分と嘘を申すのが上手くなりましたから。案じられるようになられてから見えた方が驚きと慶びも大きいことでしょう」
では、と二人に礼をとって部屋を後にすると背後で早く横になるように、と紳の声が聞こえた。まだ起きていたいという悧羅の声も聞こえてきたがどうやら聞いてはもらえなかったようで布団に横たえられる音もした。二人の声があまりに倖に満ち溢れていて込み上げる笑いを堪えながら荊軻は自分の務めの場に戻っていった。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。