縁【玖】《エニシ【ク】》
遅くなりました。
更新いたします。
また少し長くなってしまいました。
妓姣と咲耶の手当の甲斐があってか触られた腹の痛みは残っていたようだが、紳の送る精気は悧羅にも巡り始めてくれたようだった。連日朝一番で宮に来ては悧羅を診てくれる妓姣には有難かったが、腹の中を診られる度に耐え忍ぶ悧羅を見ているのが紳には一番辛い。それでも腹の子のためだ、と声も上げない悧羅の側にいて精気を送り続けることしか紳に出来ることはない。それを詫びると決まって悧羅は言うのだ。
「紳が側にいてくれる事ほど倖な事などない」
だがさすがに少しばかりは休ませたくて荊軻に朝議の休みを貰い受けた。朝から妓姣の診察があるため、その後の悧羅はぐったりとしてしまう。大事であれば荊軻が報せを持ってくるということで話をつけて枉駕と栄州にも納得してもらった。二人には子のことは話していないが悧羅の体調が思わしくないのは知ってくれている。朝議はなくとも顔だけは時折見せてくれ、と願われたので悧羅が眠っている時に妲己か哀玥に呼びにいかせるようにした。
悧羅と子に半分ずつ紳の精気が行き渡るようになったからか少しずつ悧羅の顔色も戻り始めたのは二月が経とうかというころだった。真っ白だった頬にはほんの少し紅みが挿してきたがそれでもまだ青白い。一人で身体を起こす事は難かしく紳の胸を借りなければ座ることもままならなかったが、悧羅は倖過ぎると言い続けた。紳が湯殿などに行く時には子ども達が必ず側に着く。妲己や哀玥も命が下りた時以外は侍り続けている。起きている時は長く子ども達と話も出来る様になり、舜啓と媟雅には申し訳ないと詫びるほどだった。
「俺たちの精気も獲ってくれたら良いのに」
気遣う舜啓がそう言ったが、子が腹にいる時はその父となる者からしか受け付けないのだ、と紳が教えると仕方ないと諦めたようだ。腹に子が居なくても紳からしか貰わぬよ、と悧羅が小さく笑うと、もう!、と少しばかり不満そうだったけれど媟雅に諭されて渋々ながら了承したようだ。媟雅にしてみれば自分以外に精気を分けると言い出す舜啓が嫌ではないのだろうかと紳が心配したが媟雅はけろりとしたものだった。
「舜啓にとって母様は特別だからね。自分を顧みずに母様を大事にしてくれてるんだから感謝しかないよ」
一度ほんの少し離れたことで舜啓と媟雅の間には硬い絆が出来たようで悧羅に寝物語として話すとくすくすと笑っている。
「それは何よりじゃ。あれらが仲良うにしておってくれねば妾も淋しゅうなるでの。一度離れてみらばどれだけ己に大事な者であったのかわかることもある」
「…俺たちみたいに?」
小さく笑って額に口付けると、そうだの、と悧羅も笑った。
「まさかまた子を授かるとは思うておらなんだが。…どちらかのう…?」
紳の手を自分の腹に当てがって尋ねる悧羅にどっちでも可愛いよ、と紳は言う。まだ触れられては痛むだろうに必ず悧羅は休む前になると紳の手を腹に当てがってくれる。
「痛むでしょう?無理しなくていいんだよ?」
手を退こうとする紳を止めて、安心するのだ、と言う。
「紳に触れられておれば妾も子も安らげる。ただでさえ情を交わすことも出来なんだ。…甘えてばかりじゃが許してたも」
胸に擦り寄る悧羅に、何言ってんの、と紳は嘆息してしまう。
「悧羅が甘えるのは俺だけでしょ?どれだけでも甘えていいの。これを機に他と情を交わすような男だって思ってるなら大間違いだからね?前にも言ったけど俺は悧羅しか抱けないの。…悧羅と一度離れてから本当誰見てもそういう気になった事ないし、悧羅を思い出すんだよね。悧羅が今、頑張ってくれてるんだから俺がそれくらい堪えないでどうするの」
「なれど、無理はしてくれるでないよ?休みなく精気を送り込んでくれるは有難く思うておるが、紳が保たぬのではないかと案じてしまうでな」
微睡み始めた悧羅の背中をぽんぽんと叩きながら、心配するな、と伝える。背中を優しく叩き続けるとまだ疲れの残る悧羅はすぐに小さな寝息を立て始める。その姿を見てから紳も眠りにつくのがこの所の決まり事のようなものだ。穏やかな寝顔を見ているとそれだけで安堵する。精気を送り込み続ける事で紳が倒れるのではないかと悧羅は案じてくれるが紳にとっては逆だ。自分が倒れようとも悧羅が少しでも楽になってくれればそれで良い。腕に乗せられた悧羅の頭を撫でていると、紳様、と哀玥が声を掛けてくる。うん?、と返すとおずおずとしたように顔を上げた。
“…時にはしっかりとお休み下さい。昼も夜も休みなしでは主の申される通り御身体に障りましょう”
「俺は大丈夫だって。そう容易く倒れるような鍛え方はしてないから」
“ですが…、あまり深く眠っておられませんでしょうに…。主に何某かあれば小生や妲己殿がすぐに気付きます故。必ずやお起こししますから…”
心配してくれる哀玥に礼を言って手を伸ばして頭を撫でる。確かに精気を送り込み続けなければならないので深く寝入ることはない。寝入ってしまってもしも送り込んでいなかったらと思うと眠れないと言ったほうが正しいのだが。そうして過ごしてようやく悧羅の身体が少しばかり上向いてきたのだ。ここで紳が手を休めてしまって取り返しのつかない事になったらそれこそ紳は自分を許す事などできないだろう。
「悧羅や子が頑張ってくれてるんだから、俺だって少しくらい無茶もするさ。妓姣の言ってた五月を過ぎて悧羅が安心できるようになったらちゃんと休むよ」
小さく鳴く哀玥を撫でていると、くっくっと笑う声が妲己から聞こえる。
“無駄なことよ哀玥。紳は主のこととなれば己を見失うでな。我らが気がけておってやればよい。無理だと思うたら噛み付いてでも休ませてやることとしようや”
「…噛みつきたいだけじゃないの?それ?」
言い方は素っ気ないがどうやら妲己にまで心配をかけてしまっているらしい。名を呼んでくれるようになったのは嬉しいが体躯を大きく戻した妲己に噛みつかれては生命を取られかねないではないか。哀玥は手加減してくれるかもしれないが妲己は絶対に手心など加えてくれはしないのが分かって紳は苦笑した。
“一度くらいは噛み付いておってもよかろうよ。…とにかくヌシも眠れ。我はともかくとして哀玥の心労が絶えぬのは我も好まぬ”
ばしりと強めに尾で叩かれてどうやら妲己も本当に心配してくれているのだと悟る。分かったって、と笑いながらもう一度悧羅を見て穏やかな表情であることを確かめる。ぎゅっと引き寄せてから目を閉じるとふわりと柔らかな尾が身体を優しく叩き始めてくれた。らしくない事をしてくれるものだ、と妲己に気取られないように小さく笑いながら心地良い尾の感触に身を委ねると沈むように眠りに落ちていくのが分かる。
これは深く眠ってしまうかもしれない、とは何処かで思ったけれど疲れの溜まりきった身体は抗うことが出来なかった。
ぽんぽん、と肩を幾度か叩かれて紳は弾かれたように目を覚ました。思ったよりも深く眠ってしまっていたようだ。悧羅に何かあったのかもしれない、と急いで腕に収めていたはずの姿を探すがあるべき者がそこに無い。は?、と身体から血が退いて行くのが分かる。
「悧羅!?悧羅、どこ!?」
慌てて叫びながら周りを見渡してようやく気付く。悧羅どころか妲己も哀玥も居ない。_______寝所ではないのだ。だが見覚えのある顔がすぐ隣にあった。肩を叩いて紳を目覚めさせたのもどうやらその者だったらしい。悧羅が腕の中に居ないことに一抹の不安が過ぎるがここでは焦っても仕方がないことだけは理解できる。逸る心を抑えて紳は居住まいを正して礼を取った。
隣に座っていたのは紛れもなく、王母_________その者だった。
「私だけのお呼び出しとは…。悧羅を護れていなかった事への罰をお与えになられるのでございましょう?」
深く伏して礼を取る紳に小さな嘆息が聞こえた。やはり王母の罰が下るのだろうと覚悟を決める。遠からずそうなるだろうとは思っていた事だ。悧羅の懐妊にも気づかず自分の感情だけで組み敷き続けた挙句、その生命さえ失うところであったのだ。悧羅を娘とし化身として鬼の里に降ろした王母にとれば許し難いことだろう。
「どのような罰でもお受け致す所存にございますが、せめて悧羅が子を産み落とすことが出来るほどの身体になるまでお待ちいただけませぬか?その後であれば私のことなど切り刻んで頂きましょうが、焼き払っていただきましょうが謹んでお受けいたします故」
どうか、とますます額を床に擦り付けて願う紳の耳には流れ落ちる瀑布のような水の音しか聞こえない。悧羅の身を危うくしておいてこれ以上の願いをするなど愚か過ぎることだとはわかっているが、今悧羅の側を離れるわけにはいかないのだ。どれほどの刻をそうしていたかは分からないが、ぽんと肩を叩かれた。
「娘の伴侶よ、顔をあげよ」
穏やかな声音にゆっくりと紳が顔を上げると眼前にゆったりと座る王母の姿が目に入る。余程怒りに震えているのではないかと思っていたのだが、予想に反して王母の顔は微笑みをたたえていた。
「私がお前を呼んだのは罰を与えるためではないぞ?」
ほほほ、と柔らく微笑まれて紳はきょとりとするしかない。それ以外で紳だけがこの場に呼ばれる理など無いはずだ。悧羅であれば務めを預かるために呼ばれる事はあったが、紳が呼ばれたのはこれで二度目でしかない。しかも一度は悧羅と共に、であったのだ。首を傾げた紳に王母は扇子で口元を隠しながら微笑んでいる。
「…まあ少しばかり考えないでもなかったがな。お前に罰を与えてしまっては後々娘に何と責められるか分からぬでは無いか」
「そのような事はないと存じますが…」
あるのだよ、と王母は笑いながら紳を見やる。事は聞かずとも全て知っている。悧羅を若々しく保っていたのも王母に考えがあってのことだ。その悧羅と交わるたびに伴侶である紳にもその恩恵が流れ込んでいたようで以前見えた時よりも紳は若々しさを取り戻している。元々、齢三十ほどで身体の成長は止まっていたはずだ。能力自体の衰えがないのは紳が研鑽を積み続けているからだろう。もしかしたら無意識の内に悧羅が分け与えていたのかもしれないが、そうだとすれば本当に王母の考えの上を行くことばかりしてくれる。
それほどまでに一時でも長く共におりたいのだろう。
そう思うと自然と笑いが込み上げてくるのも仕方ない。血を絶やした者達についてもこれまでの華の主達はその後を考えることもなく気付くこともしなかっただろう。悧羅が500年前の官吏の足取りを追っていることは決して無駄ではないが、心を痛めることになることは間違いがない。それが分かるまでにはそう刻は要さないだろうし、分かった後の悧羅の心中を慮れば紳を取り上げることは悧羅を絶望に追いやることになってしまう_________それは王母の望むことではない。
「娘の身体が思わしくないのは存じておった。だがお前がここまで無理をするとは思うて無かったな。…既に大蛇の玉は底をつき始めておるだろう?お前…自らの生命を削っておるな?」
微笑みながら指をさされて紳は言葉に詰まる。確かに大蛇の玉は残り少ない。いざという時のために取っておきたくて近頃では獲る事を控えている。とはいえ紳には悧羅と契る前に溜め込んでいた500年分の余剰の精気があるので大した事はない、と思っていたのだ。ほんの少し生命を削ったとしても悧羅の体調がもう少し上向けば人の子から獲れば賄える程度のことなのだから。
「多少の無理ならば私には何のこともございません。それで悧羅と子が護れるならば安いものです」
小さく嘆息しながら微笑むと、うん、と王母も笑っている。
「お前であればそうであろうな。…娘も逆であれば同じことをしたであろうよ。だが、それでは娘が泣いてしまう。私はあれがお前を失って泣くのを見るのは堪えられぬ」
「ですが、今悧羅の側を離れるわけには参りません。今こうしておる間にも痛みに襲われておるのではないかと…」
早く悧羅の側に戻して欲しいと願うのだが、王母は、そう急くな、と扇子を閉じた。閉じた扇子の先で紳の顎を上向けると、時に、と微笑みを深くした。
「お前、娘の側で一生を終える覚悟は変わってはないのか?」
「それは私に悧羅から離れよ、という事でございましょうか?」
問い返した紳に何も応えず王母はただ微笑み続ける。その眼差しをしっかりと受け止めて、恐れながら、と紳は王母を見つめた。
「もしもそのような事を仰せであられるのであれば、この場で私の生命をお取り下さい。私は悧羅が定命を遂げるまで側を離れる事は致しませぬ。悧羅が生命を失った時には私の生命もそこで終わると決めておりますれば」
紳の言葉に、であろうな、と王母は声を上げて笑った。特段紳の生命を取ろうなどと考えていた訳ではない。ただその覚悟を確かめておきたかったのだ。紳の生命を王母が奪ったなどとなれば悧羅が後を追おうとすることは分かりきっている。互いで補いあっているからこそ悧羅も無理な務めでも異を唱えず務め上げてくれるのだ。それは紳がいる里を護りたいという思い故だということは王母にも分かる。そうでなければ500年、誰からも精気を獲らず華の主として里を支えられようはずもない。
例え蓮の娘だとしても理を逸している。そのような理に外れる事をし続けて尚華が枯れ落ちなかったことが王母にも不可思議でならない。理の中にいる者達の事ならば先を読み取る事など容易いが悧羅はその先を歩いていってしまうのだ。
500年前に紳と袂を分つ事になった時からそれは顕著になった。子袋を潰し精気を獲らず生命を削り続けた。降ろした鬼の子たちはもう戻らないだろうと思っていたが悧羅は気付き里をあるべき場へと戻した。初めに華を増やしてやったのはほんの戯れに過ぎなかった。蓮の娘であろうとも里を移せば全ての華が開くだろうと思っていたからこそ、移すことに必要な分だけを補ってやるつもりだったのだ。里に戻ってしばらく娘を近くで愛でれれば華として戻るだろうとも考えていた。
だがそれら全てを悧羅は超えて行くのだ。
華は残り民達を護り王母の任じることさえ自らを餌にしてまで確実に務めあげる。黙って見ていることが出来ないほどに…。王母もそう幾度も手を貸す事を善としているわけではないのだが、どうも悧羅を見ていると手を差し伸べたくなってしまう。
これも悧羅が王母の考えの先を行っているからかもしれない。王母の心さえ動かすなど今までの者たちでは考えられなかったことだろう。
「お前もなかなかに手のかかる者を伴侶としたものだな」
扇子で紳の顎を支えたまま王母が苦笑する。
「手がかかるなどと仰せになられますな。悧羅の側におれることがどれだけ私にとっての倖であるかなど存じておいででございましょう。悧羅以上に、私を倖にしてくれる者などおらぬのです」
「それでお前の生命が削られようともか?」
「悧羅の役にたてるのであらばそれもまた倖でございます」
視線を外さずに迷うことなく応える紳から扇子を外して王母は穏やかに笑った。考えてみれば紳もまた異質だ。悧羅が精気を獲らないことを知らない内から悧羅にしか分けぬと決め鬼の本能に何なく抗ってみせた。人の子からほんの僅かばかりの精気は獲っていたようだが如何にそれを溜め込もうとも500年、自己を研鑽し続けることなど容易い事ではない。
これもまた蓮の娘の歯車に必要だという事か。
ふふふ、と声を上げてしまうと腹の底から笑いが込み上げてくる。堪え切れずに高らかに声を上げて笑う王母に紳が目を見開いてしまう。いつも穏やかな姿しか見せていなかった王母が本当に可笑しいというように笑い続けているのだ。
「あいすまぬ」
ひとしきり笑うと笑い過ぎて浮かんだ涙をふっくらとした指で拭いながら王母はいつもの穏やかな顔に戻った。手を、と促されて紳はよく分からないまま両手を差し出す。左の手首に悧羅との契りの疵を見つけてそこに王母がふっくらとした手を当てた。ちくり、とした痛みが走ったが特に何を言うでもない王母に紳も言葉を出す事は出来ない…が、痛みの次に来たのは震え上がるほどの身体に流れ込む精気の波だった。大蛇の玉を噛み砕いた時とは比べものにならないほどの精気の渦に呑み込まれそうになる。
____________何だ、これ________?
呑み込まれそうになる意識を必死に保つと王母の触れている部分に少しずつだが精気が集まり始めるのを感じた。大きく息をついてそこに意識を巡らせると急速に精気が凝固していくのが分かる。同時にちくりとした痛みがずっと続いていた事にも気づいた。精気が手首に凝固してしまうと痛みも消え同時に王母の手が退かれる。手を確かめようとした紳に、娘を頼む、と王母の声と共に手を叩く音が聞こえた。瞬時に紳はいつもの寝所に戻されている。すぐに辺りを見回すと布団の中で安らかな寝息を立てている悧羅の姿が見えて大きく嘆息した。
よかった…、無事のようだ…。
安堵しながら悧羅の頬を撫でていると起きていたのだろう。妲己と哀玥が身を起こしている。寝所から突如紳が消えたのだ。そんな事を出来るのは王母だけだと分かっていたから焦りはしなかったのだろうが、戻るまでの間悧羅を護ってくれていたことに礼を言う。
“王母様からのお呼び出しですね。何やら急ぎの務めでも?”
小声で尋ねる哀玥に、いや、と首を振る。
「何だか確かめられただけのような…。よく分からないけど笑われた」
笑われた?、と首を傾げる哀玥と妲己に頷いて悧羅の横にそっと滑りこむ。起こさないように静かにしたつもりだったのだが衣擦れで顔が擦れてしまったらしい。小さく声を上げて目を開けてしまった悧羅が擦り寄ってくる。
「…何処ぞに行っておったのか…?」
離れていた事など知る由もないのにそう聞いてくる悧羅に、どうして?と尋ねると寝間着が冷えている、と身体に腕が廻された。そんなに長く離れていたのか、と妲己を見ると半刻だ、と鼻を鳴らしながら一言応えがあった。
「…王母様からのお呼び出しだよ。何でもない事だった」
悧羅を抱きしめながら額に口付けると、王母?、と悧羅が紳を見上げる。悧羅を置いて紳だけを呼び出すなど何でもない事のはずがない。
「何ぞされなかったかえ?何処か痛む、欠けているなどということはあるまいな?!」
焦って起きあがろうとする悧羅を慌てたように妲己と哀玥が留める。紳も身体が起き上がらないように抱きしめようとしたのだがするりと抜けて悧羅が半身を起こしてしまった。
「こら!無理するな」
腕を着いて身体を起こしているがあまりに慌てているようで紳の身体をどうにか確かめようとしている。着いている腕を離すとぐらりと傾く悧羅の身体を両側から妲己と哀玥が支えた。
“主よ、お休みください”
二人が嗜めているが紳の身体がどうにかなってしまったのではないかと焦る悧羅は言う事を聞いてはくれない。どうにか紳の身体を確かめようとする悧羅に紳が近寄って抱きしめると手や足がある事をひらひらと振って見せる。胸の中から両手を伸ばして紳の顔にひとしきり触れるとようやく何処も欠けていない事がわかったようだ。
「…よかった…」
大きく息をついてぐったりと紳の胸に寄りかかった悧羅に、大丈夫だって、ともう一度伝えて背中を叩く。かたかたと小さく震えている身体でどれだけ紳を心配してくれていたのかが伝わってくる。起き上がれないはずの身体を叩き起こしてまで紳を案じてくれる想いの強さは嬉しかったけれど、無理をするなととりあえず諫めておく。
「ほら、横になるよ」
背中をさすりながら言ってみるのだが悧羅は首を振るばかりだ。やれやれと紳が嘆息すると哀玥と妲己が、せめて、と掛け布団を悧羅の身体に纏わせる。
“お身体をお冷やしになられてはなりませぬ”
“…今は紳から離れたくないのであろうからな…。致し方あるまい。ヌシが悪いのだぞ?”
責めるような目で妲己に見られて紳は苦笑するしかない。自分の意思で王母の元に行ったわけではないのだが、悧羅にそれを伝えてしまったのは確かに紳の失態だ。ゆっくりと落ち着けてから話せばここまで焦らせることはなかっただろう。掛けられた布団で悧羅を包みながら本当に大丈夫だから、ともう一度伝えてみる。言葉はないが何度も胸の中で頷く悧羅に精気を送り始めると、驚いたように顔を上げた。
「…どうかした?」
きょとりとして首を傾げながら悧羅に精気を送り込み続けるのだが、悧羅の目は見開かれていくばかりだ。ようやく収まってきていた悧羅の身体が再び細かく震えだして、紳、と絞りだすように出された声もまた震えている。なあに?、と穏やかに返すが悧羅の顔がどんどん青ざめていくのは仄暗い部屋の中でも見てとれた。
「…紳…、其方何をされた…?」
胸の寝間着を掴む悧羅の震えが強くなって、何も?、と応えながらとりあえず落ち着くように背中をさする。けれど頭を振りながら何があった?と食い下がってくる悧羅に紳はますます首を傾げるしかない。
「ただ確かめられただけだよ?この先もずっと悧羅の側から離れる気はないのかって。当たり前だって応えたけど。そんなの聞かなくても分かるのにね?」
くすくすと笑って見せるが悧羅は青ざめた顔のままだ。妲己も哀玥も、主?、と擦り寄ってくるが震える声は、他には?、と繰り返し尋ねてくる。
「他って言われてもなぁ…。ああ、手を出せって言われたから出したけど…」
「手?」
目を見開いて紳の胸から離れた悧羅が傾いて擦り寄っていた妲己と哀玥が慌てて支える。こら、と引き戻そうとした紳の手を悧羅は掴むと自分の前に引き寄せて確かめる。
「…何ということを…」
ぽつりと呟いた刹那、悧羅の身体が崩れ落ちてそのまま声を上げて泣き始めた。唐突な慟哭に急いで紳が悧羅を抱き上げて胸に抱く。
「どうしたの?ほら、落ち着いて、身体に障るだろ?」
送り込もうとした精気を悧羅が拒む。ますます訝しみながら名を呼ぶと泣きじゃくりながら手を見るように言われてしまう。何が何やらと思いながら悧羅を胸に預かって両手を見ると契りの傷痕の下に小さく光るモノが見えた。確か王母が触れた所だ。目の前に持ってきて確かめるとそこにあったのは哀玥の目の下にあるモノと同じ小さな蓮の華だった。あれ?、と首を傾げてしまうと悧羅はますます泣きじゃくって紳にしがみついた。
「何ということを…。其方、妾と同じになってしもうた…。哀玥のように望んだものではあるまいに…、どうしたら良いのだ…」
「悧羅と同じ?哀玥?どういうこと?」
聞いてみるが悧羅は胸の中でどうすれば、と泣きじゃくるばかりだ。哀玥、と呼ぶと少しばかり背筋を伸ばして哀玥が紳に寄ってくる。手首の華を確かめると、なるほど、と頷いた。
“紳様は小生と同じく主の精気に等しい者となられたのです。小生は望んで眷族となりましたが、紳様は王母様に植え付けられたのでしょう。身体の精気が変わり始めておるのです。そこから王母様の場にある蓮の華から精気を取り込む事が出来るようになるのですが…、これは主の眷族となった者にしか与えられぬモノですので…”
「…俺も悧羅の眷族になったってことか?」
“…いえ、小生とは異なる華の咲き方でございますれば、何と申し上げましょう…。主の一部となられたと申し上げた方がよろしいでしょうか…”
なるほど、と笑う紳に笑い事ではない!、と悧羅が声を張り上げる。
「このような事…、許されることではない。紳は妾のものじゃがこのような事を望んでなどおらぬ!」
泣き叫ぶ悧羅は今にも王母の場を目指して翔けて行きそうな勢いだ。何処にあるか分からない王母の場などどれだけ翔けたとて迎えいれられなければ辿り付けるはずもない。三人掛かりで抑えて紳の胸の中に留めながら、とにかく落ち着け、と紳が悧羅に口付ける。泣き叫んでいた口を塞がれてしばらくするとどうにか声が小さくなった。唇を離すと、どうすれば、と小さく呟いている。それに笑って紳は、良いじゃないか、と悧羅の涙を拭いた。
「何を言う…。何も良い事などない」
首を振る悧羅に紳は、いいよ?と笑みを深くした。
「俺が悧羅の者って印なんだろ?それ以外は何にも変わらない。悧羅の一部になれたんなら何より嬉しいことなんてないじゃないか。これで少しでも悧羅を助けろって王母様の優しさだよ。本来なら悧羅を傷つけたんだから罰を与えられるところだ。…悧羅の一部になる事が罰なんだったらどれだけでも植え付けてもらって構わないさ」
なれど、とぽろぽろと泣く悧羅の涙を拭きながら紳は続ける。
「悧羅と全てを共にするって印だ。死ぬ時だって一緒だよ?どちらか先に見送るなんて心配もしなくていいんだ。哀玥だって華を持ってるけど、ちゃんと哀玥としての自我で動いてる。悧羅を助けるために精気を譲り受けていいってことなんだろう?」
“…そういうことであるかと…”
是を示した哀玥に、ほらね?、とまた紳は笑いながら悧羅を抱きしめて精気を送り始める。抗おうとした悧羅に、駄目だよ?、と伝えると諦らめたのか受け入れ始めてくれた。
「俺の精気であることには違いないんだから。今度王母様に見えた時に悧羅が怒りたいなら怒ればいい。でも俺はこれでいいからね?」
小さく笑い続けながら伝える紳の胸の中で悧羅は泣き続ける。すまぬ、すまぬと幾度も繰り返しながら泣く悧羅に、本当に俺は倖なんだ、と紳は伝え続けた。
王母様は優しいのかイジワルなのか…。
分からない人だなあと筆者も思います。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。