追憶【伍】《ツイオク【ゴ】》
悧羅は、久方ぶりに目にする里の中心を見て、言葉を失った。長の宮がある、この街は里の中でも一番賑やかなところで、都であるはずの場所だ。少なくとも、一年にも満たない前に、武闘大会でやむ無く訪れた時には、人々は陽気に笑い、子鬼らの楽しげな笑い声があった。軒を連ねる店からは、活気あふれる声がしていたし、妲己を見つけて寄ってくる子もいた。それなのに、今、悧羅が見ているものは何なのだろう。寒くないか、と隣から声がかかって、悧羅は我に返った。見上げると紳が心配そうに自分を見ている。大丈夫、と応えると、うん、と頷いて紳は悧羅の手を引いた。その後を妲己も静かについて歩を進める。
都に行きたい、と言った悧羅に紳は驚いたようだった。人気の多い所には行きたがらない悧羅が、都に行きたいなどと言い出すとは思ってもいなかった。何で?、と尋ねたが、行ってみたい、としか悧羅は応えない。この季節はまだ寒さが厳しい。雪深い時期は終わろうとしていたが、雪は残っているし、新しく降ることだってある。もう少し、暖かくなってからでもいいのではないか、と言ったが悧羅は退かなかった。それならば、と邸にある温かな衣をあるだけ着こませようとすると、過保護だ、と笑われた。
「寒い季節はな、流行病があるんだよ。暖かくしておいて」
言いながら、沢山の衣を着せようとする紳を悧羅がまた笑う。そんなに弱くはない、と言うがなかなか紳は納得しなかった。悧羅が紳への想いを伝えてから、日に日に紳の過保護ぶりは拍車がかかっている。床を共にすることはないが、同じ部屋に二組布団を敷いて隣で眠る。
寝てる間に居なくなったら困る、と必ず手を握って。悧羅の布団には妲己も共に入るので、寒いとは思わなかったが、繋いだ手は安心をくれた。
とにかく、と着こまされた衣を脱ぎながら暖かい衣を二つ選んで身につけて、これでいい、と伝える。紳ばかりか妲己まで不満そうだったが、あまり着込んでは身動きもとれない。雪でつくる達磨のようになってしまってはどうする、と笑うと、紳も妲己も自分が担ぐと真剣な顔をしていた。それでも、どうにか説き伏せて、3人はやっと都に降り立ったのだ。
歩きながら辺りを見ると、どこか疲れ切ったような民の顔が見える。都の住人とは思えないほどに、暗い表情で着ているものも、どこかしこと綻んでいた。店があった筈の場所は、寂れて戸も閉められている。
______________それどころか…。
畳まれた店の軒先や、悧羅達が歩いている道の脇には、痩せ細った民達が身を寄せ合って座っていた。その殆どが女、子どもだ。中には座ることも出来ず、横たわっている者までいる。吐く息は、すぐに白く凍るほどに冷たい。外で過ごすなど、死に至るようなものだ。邸もないんだ、と静かに紳が呟いた。どこからか、か弱い幼い子の泣き声も聞こえる。咳込んでいる者も少なくなかった。
「病も流行っているからな。長の荒業で食料も手に入らなくなっちまったんだろう。…男手も取られてるし」
どうしようもないんだ、と紳が溜め息をついた。そういえば、と悧羅は紳に尋ねる。紳の家族は大丈夫なのか、と。考えてみれば紳は、暑い季節から悧羅と一緒にいる。父母の話は聞いていたが、母が文官ともなれば、都に住んでいるのではないかと思った。うん、と紳は頷いたが、歩くことはやめない。訝しげに思っていると、死んだ、と静かな声がした。握る手に少しばかり力が込められたように感じる。息を呑む悧羅に、紳は微笑む。
「父は、長の共をして盾として死んだらしい。母は、長の荒業を止めようと進言して、殺された」
いつ、と尋ねたが言葉になっていたかは分からない。雪深いころだ、と応えを受けて悧羅は紳を見上げた。自分が、紳に想いを伝えた時の事を思い出したのだ。そこまで喜ぶことか、と思うほどに紳は喜んでいた。思い返してみれば、あの日だけは、いつにも増して悧羅に応えを求めていた。あの、喜びは悲しみの裏にあったのだ。
だから、あんなにも。
繋がれた手に空いた手を重ねると、大丈夫だ、と紳が笑う。
「俺には、悧羅がいるから。大丈夫だ」
重ねられたままの手を口元に運んで、紳は悧羅の手に口付ける。その姿が痛ましかった。ずっと側に居たいと思う。
_____でも…。
都がこの状態であるならば、辺境の地の荒廃は明らかだった。今、この、瞬間でさえも生命を落としているものがいるのだ。しばらく歩き続けて、紳が、ほら、と歩を止めた。目の前に長の宮が目の前に広がっている。
煌びやかなその場所も、何か物悲しい。はりぼてのようだ、と悧羅は思った。
ただ、そこにあるだけ。
民の事など知らぬ、とでもいうように厚い門扉は閉ざされている。両脇に立つはずの隊士も、疲労しているのか蹲っていた。堪らずに駆け寄ろうとする悧羅の手を紳が離さない。振り返ると、ただ首を横に振る。でも、と言うが、それにも紳は首を振った。一つ溜め息をついて、悧羅は紳に従う。いい子だ、と頭を撫でられたが、悧羅は悔しくて仕方ない。
長とはなんだ。
何のための長なんだ。
俯いて涙が溢れそうになるのを堪える。ここで、悧羅が泣いたからといって、どうなるものでもない。思わず、紳の胸に頭を預けると驚いたようだったが、紳は優しく悧羅の背を叩いた。帰ろう、と紳が温かく悧羅に伝える。それに無言で頷いて、三人は都を後にした。
一月後。
長が身罷ったと、報が流れた。
ありがとうございました。
過去編、もう少しお付き合いください。