縁【捌】《エニシ【ハチ】》
遅くなりました。
更新します。
朝議のために紳と悧羅の自室に現れた枉駕と栄州は悧羅の顔色を見て言葉を失った。昨日まではこうでは無かった。僅かばかり疲れが溜まっているのだろうとは思っていたが、たった一晩でここまで憔悴するものなのか、と互いが青ざめている。
「お休みくださいと申し上げてもお聞きにならなかったからですよ。私の言うことをお聞きにならないからこういったことになるのです。…というわけでございますから暫くは紳様に長を見張っていただきます。枉駕、近衛隊を私と共に預かっていただけますか?」
叱るような荊軻の言葉に紳も悧羅も苦笑するしかない。どうやら事情を知っても尚、進言を聞かなかった悧羅に相当怒っているようだ。よい案を講じてみせましょう、とは言っていたが確かに悧羅の責にした方が二人とも納得するだろう。
「それは勿論預かるが…。長、大事ないのでございますか?」
おろおろとしたような枉駕に、自業自得ですよ、と荊軻が憤慨して見せている。
「お疲れが溜まっていたのを無理なさっておいでてしたから。ついに堰を切ったのでしょう。しばらくお休みいただければお元気になられますよ。早めに御殿医殿に来て頂くように報せも出しておりますれば」
つんと顔を背けて怒りを露にしているが、咲耶に報せを出したと言うこと自体は虚言ではないのだろう。妓姣が通うと言ってくれてはいるが周りの目を誤魔化すためには咲耶も巻き込んだ方が良いのはわかる。万が一のことを考えれば妓姣だけでは荷が重すぎるだろう。
「いや、しかし…。これほどまでに弱られた長など我の知る限りではござらぬことでございますぞ?何ぞ重い病にでも罹られておられるのではないのか?」
困惑する栄州に、それも含めて御殿医殿にお任せ致しますよ、と荊軻が諭している。実際にはこれ以上に悧羅の身体が思わしくなかったことはあった。500年前に自分で子袋を潰した時だ。あの時は今よりも血の気は無かったし自分の足で歩けるようになるまでかなりの刻を要したが、それを知っているのは当時悧羅の近くにいた者だけに限られる。枉駕も栄州も悧羅が床上げが出来てからしか拝謁出来ていないので知らないのも無理はない。紳さえもその時の姿は知らないのだ。
今回のことも知られずに無事に済めばそれが一番望ましい。
「良い機会でございますよ。これで少しばかりは私共の進言にも耳を貸していただけるようになりますでしょう」
呆れ返ったような言葉に苦笑する紳と悧羅に一瞥を投げて荊軻が手短に報せを伝えてから早々に朝議は閉められた。皆が出て行くとやはり気を張っていたのだろう。悧羅が大きく嘆息しながら支えてくれている紳の胸に身体を預けた。荊軻の計らいでいつもよりはかなり短い刻の朝議、しかも紳が支えていたにも関わらず身体への負担は思っていたよりも大きかった。腹の痛みはそうでもないが何とも重苦しい。六人もの子を産み落としたがこんなことは初めてだ。
「少し横になろうか?」
真っ白になった悧羅の顔を覗き込みながらも紳は絶え間なく精気を送りこんでくれている…、にも関わらず気怠さは増していくばかりだ。幾ら大蛇の玉があるとはいえこうもずっと送り込み続けていては紳の身体も保たないのではないかとさえ心配になってしまう。
「…紳が良いならこのままで…」
ふうっと息をつくと、駄目なわけがないだろう、と抱き直しながら布団を掛けてくれる。横になった方が紳も楽になるのはわかっているが少しばかり不安の残る今は出来るだけこの体温を感じていたいのだ。
「妲己、妓姣はいつ頃って言ってた?」
姿の見えない妲己に紳が語りかけるとするりと姿を現した。普段は紳が呼んでも素直に出てきてはくれないのだが今は悧羅の身体が優先するため出てきてくれたのだろう。…呼ばずとも朝議が終わったのだから侍りに来てくれようとしていたかもしれないが…。
“出来るだけ早く、とは申しておった。…何であればすぐにでも”
「…うん。もう一度診てもらった方がいいかもしれない。悧羅の身体が保ってくれそうもない」
主、と擦り寄る柔らかな毛並みを撫でて、案ずるなと悧羅が微笑む。
「舜啓とも約束をしてしもうたしの…。必ずや良い子を産んでみせましょうと。舜啓と媟雅の慶ばしいことの前に妾が水を挿してはならぬ故…」
小さく鳴く妲己を撫でる手には力が入っていない。それどころか細かく震えていて、すぐに、と妲己が消えた。続けて哀玥を呼ぶとこれまたするりと現れて悧羅を見ると労るようにすり寄ってくる。
“咲耶殿…でございましょう?”
低い声が分かっているとでもいうように響いて紳が頷くのを見もせずに哀玥が消えた。
「堪えてみせるというに…」
胸の中で小さく笑う悧羅に紳は首を振った。二人が来てくれる事でもう少し楽にしてやれる手立ても見つけられるかもしれないからだ。悧羅、と呼ぶと返事の代わりに胸に擦り寄ってくる。
「…もしも、だよ?もしも駄目だったとしても自分を責めることはしないでね?…無理させてたのは俺だし、もちろん腹の子は大事だけど俺にとって一番は悧羅だから」
「…せんないことを言うておくれでないよ…。必ずや紳に子を抱かせてみせる故、紳こそそう己を責めてくれるな。気づかなんだは妾も同じじゃ…。もしや護れなんだとしてもそれは二人の責じゃ…」
うん、と応えた紳の胸で悧羅はすうっと眠りに落ちていく。その姿に本当に無理ばかりさせていると紳は自分を責めざるを得ない。胸の中に居たいとは言ってくれたが少しは横になってもらわないと身体が休まらないだろう。ゆっくりと布団に横たえてみるがいつのまにか紳の衣を掴んでいたらしく離れることを拒んでいるかのようだ。
離れるつもりなどあるはずもないのに、と苦笑して隣に滑り込むとそっと身体を包んでやる。悧羅に伝えた事に偽りはない。紳にとって一番は悧羅であるし子が護られたとしても悧羅が苦しむのは望むところではないのだ。どちらも無事に居てくれることが一番喜ばしいがどちらか選べと言われれば迷わず悧羅を選ぶ。痛みは少なくなったと言ってくれているが明け方よりも身体の衰弱が顕著なのは明らかだ。できれば明日からの朝議もしばらく休ませたい。子ども達に預けた悧羅の務めも報せが上がれば確かめたがるに決まっている。こうと決めたら退かないのが悧羅であるのは分かっているし、そうであったからこそここまで里を支え栄えさせることが出来たのだろう。小さくそれでもいつもより早い呼吸に耳を澄ませながら、もしかしたら、と紳は思う。
もしかしたらこれは王母からの紳に対する罰なのかもしれない。過ぎたことに気を取られすぎ悧羅の身体を慮ってやれなかった。王母にとれば悧羅は娘で化身だ。悧羅が無理をして身体を壊してしまうと必ず現れて癒やす手助けをしてくれていた。だが今回は現れる気配もない。いつも唐突に現れるので今後現れることも考えられるが必ず頼れるというわけでもないのだ。紳が護れる間は紳に預けてくれているということでもあるのだが、出来れば今現れて欲しいものだと願ってしまう。逆を返せばまだ紳に預けていても大事には至らない、ということなのだろうが不安な気持ちは拭い去ることができないのだ。とにかく妓姣でも咲耶でも良いから早く来て欲しいと願っていると二つの足音が同時に中庭に降り立った。どうやら二人とも同時であったらしい。
有難い、と思いながら身体を起こして待とうとするが悧羅が衣を掴んだまま離さない。仕方なく半身だけを起こしておくと戸が静かに開けられた。妲己と哀玥に連れられて妓姣と咲耶が入ってくるが、咲耶は入り口から見えた悧羅の顔色に言葉を失っている。ゆっくりと歩いてくる妓姣とは逆に走り寄ってきて悧羅の横に座るなり、どういうことよ?、と紳を睨みつけてきた。
「悪い、気付くのが遅かった」
「起きて謝んなさいよ」
ごん、と頭を殴られたが悧羅が掴んで離さない衣を示すと、ふんとまた殴られた。いってえなぁ、と頭をさする紳に一瞥を投げて咲耶が診察を始めている。ゆっくりと近くに来た妓姣は、ほほほ、と穏やかに笑いながら悧羅の足元に座った。哀玥が加嬬に伝えてくれたのだろう。手桶と手拭いを持ってきてくれた。
「…子は何とか堪えてるけど、先に流れた血が多過ぎたんじゃないの?悧羅の身体の方が腹の子よりも参っちゃってるじゃない」
先に流れた血…、紳が物忌みだと思い込んで湯殿でも悧羅を組み敷き続けた時だ。今思い返せば物忌みではあり得ないほどの血が流れていたようにも思う。水場で薄まっていたこともあるから確かなことは言えないが大量に血が流れたのはあの時しか考えられない。
「ずっと精気を流し込んでんの?あんたの方が先に参るんじゃない?」
手際よく入念に診察を始めながら咲耶が小さく嘆息している。
「俺には民達が分けてくれた玉があるから何とかなる。…とりあえずこっちを少しでも楽にしてやってくれ」
「そりゃやるけどさ…。どうしたもんかしらねえ…」
妓姣をちらりと見ながら咲耶が呟く。来る途中で哀玥から聞いたところによれば痛みが来たのは五日前だそうだ。強くなったのが昨夜であったため紳がまさかと思い妓姣を呼んだらしい。そこは褒めてやるべきだろう。咲耶も医師ではあるが子を産み落とさせることは妓姣の方が長けている。どちらかといえば咲耶の患者としてある者は子が流れ落ちてしまった者が多いのだ。そういった者への治療法は心得ているが、堪えさせて痛みを取るなど薬もそうそう使えないのに容易いことではないのだ。
「長様であるからここで堪えられておるのだよ。…体力を少しでも戻せるようには出来ぬかの?」
「…薬湯くらいしか考えつかないなぁ…。あとは上から少し子袋を護るように優しめの呪をかけるか…。でも腹に子が居るのに呪なんて使っても大丈夫かなあ…」
真っ白な悧羅の顔色を眺めながら咲耶は考え込んでしまう。子を孕まないように呪を掛けていたことはあるけれど、子を護るための呪など誰に対しても施したことはなかった。下腹を出して手をそっと当てると痛みがあったのか悧羅が目を開けてしまったようだ。
「咲耶と妓姣だよ。寝てていいから」
額に口付けながら教える紳に、そうか、と悧羅の声がする。
「二人ともすまぬな。…忙しゅうにしておったろうに…、無理をさせてしもうたのではないか?」
起き上がれないままの悧羅の声に馬鹿ねと咲耶が叱責し、妓姣は穏やかに笑っている。叱責したはいいものの本当にどうしてやったらいいものか、と咲耶は悩む。痛みをとることだけ考えればそう難かしい事ではないのだがそれにも術を使わなければならないし、完全に痛みを取り去るともしもの時まで気付かない恐れもあった。
「…駄目だ、分かんない。妓姣さんの命に従って私が動いた方が良さそう」
大きく溜息をついた咲耶に妓姣が笑っている。
「御殿医殿がそのようなことでどうする。里でも同じような者はおるであろうに」
「私のとこに来るのは流れ落ちてしまった後が多いから。そっちだったら分かるんだけどね。こういう時はみんな妓姣さん達を頼るでしょ?」
ほほほ、と笑う妓姣に、だから学ばせてもらうよ、と咲耶が悧羅の下腹から手を退いた。
「なるほどの。そういうことであれば婆の知っておることは少ないがお教えしておいた方が良さそうじゃて」
うん、と頷く咲耶にもう一度笑ってみせてから妓姣が、よいしょと居住まいを正した。
「さて長様、旦那様。一つお伺いしておかねばならぬが、もしもの時はどちらをとられる?」
どちらとは悧羅か子がということだろう。は?、と言葉を失う悧羅に代わって紳が応えた。
「悧羅だ」
紳、と咎めるような声がしたが首を振る。これだけは譲れない。子はまた授かるかもしれないけれど悧羅は一人しかいない。迷う事などあるはずもない。
「ならぬ。子じゃ」
紳の衣を掴んだ悧羅を見やって紳がもう一度首を振る。真っ白な顔をしながら泣きそうな目で見られても紳にとれば悧羅の居ない世など意味を持たない。
「前にも言ったでしょ?悧羅が居なくなったら俺も後を追う。こうなったのは二人の責だとしても俺は悧羅を取る。子が駄目になったとしても俺たちが忘れずにいてやればそれでいい」
「そうはいうても…。既に腹の中におってくれておる子じゃ。妾の生命が削られようとも妾は産み落としたいのだえ」
「分かってるよ。だから本当にもしもの時だ。悧羅は若々しくなってるらしいから、また子を授かる機会はあるよ。でも悧羅は一人しかいないんだからその代わりには誰にもなれない」
退けないよ?、と伝える紳の目に強い意志を汲み取って悧羅も衣を掴む手を緩めるしかない。潤み始める目を拭いてやりながら、ごめんね?、と謝るとぽろぽろと涙を流し始めている。嫌じゃ、と力の無い声が絞り出されて、うん、と頷きながら紳は胸に悧羅を収めた。その姿が悼まし過ぎて目を逸らす咲耶とは逆に妓姣は穏やかに笑うばかりだ。
「もしもと申したであろうに。まだそうと決まったわけではない。そうお泣きになられるな」
うんうんと頷きながら、では、と妓姣が診る事を悧羅に伝える。泣きながらも腹の中を診られる痛みに息を止める悧羅を紳が強く抱きしめた。
「掴んでていいよ」
頑張れ、と頭を撫でてやりながら声を掛けると大きく息をついて耐え始めているのが分かる。小さい手とはいえ妓姣の掌すべてが入り腹の中を診られるのだ。ただでさえ痛みのある腹を抱えていてはこれまで産み落としてきた時には味わった事のない痛みだろう。
「そうそう、大きく息をしておりなされ」
優しい声音に後押しされるように悧羅が大きな息を繰り返す。じんわりと汗の浮かんでくる額を拭ってやりながら頬を撫でて励まし続ける紳に悧羅が小さく頷く。よしよし、と言われながらもいつ終わるのかとさえ思ってしまう。いつもなら手を握ってくれる咲耶も今回ばかりは妓姣の手技を見ておきたいのだろう。いつのまにか妓姣の側に侍っている。代わりに悧羅の枕元に妲己と哀玥が揃って伏して小さく鳴いた。主、と声をかけられるがそれに応えてやれる余裕は悧羅には無かった。身体に負う痛みならどれだけでも耐えれるというのに。だが今耐えているのは悧羅だけではない、腹の子も耐えてくれているのだ、と自分を鼓舞し続けてどうにか堪える。
「よしよし、よう耐えられたな」
四半刻ほど妓姣の手が入ったり抜けたりした頃にようやく善が出た。何したの?と咲耶が尋ねているようだが呆っとした悧羅の頭には会話も入ってこない。紳の手と妲己と哀玥が擦り寄ってくる感覚だけが確かなものだった。速まってしまった息を整え始めながら目を開けると紳の心配そうな顔が見えた。
「…子は…?」
荒れた息の中からどうにか絞り出すように尋ねると紳が、妓姣と呼んでくれた。手を洗っていたのか水の音がするが、少し待ちなされと咲耶に何やら命を出しているようだ。何事か話しているが聞き取れない。鈍く続く痛みと疲れで霞がかる目を必死に開けていると、悧羅と呼ばれる。
「ちょっと触るからね。痛むなら声上げてもいいから」
言うなり腹に咲耶の手が触れて思わず息を呑む悧羅を紳が抱き止める。声を堪えることは出来るが顔を顰める悧羅に、噛んでてもいいよ、と紳が肩を差し出した。それには小さく首を振ったが紳の腕を掴む手に力を込めてしまう。整い始めていた息がまた速まってきてますます掴む手に力が入るが、紳は穏やかに悧羅を抱きしめて撫でてくれている。咲耶の触れている場が灼けるように熱くなる。まるで古疵が開いていくようにも思えてしまう。熱と共に子が流れてしまうのではないか、と不安しか頭を過らない。
「…紳…、紳…」
幾度も名を呼ぶと抱きしめる腕に力が込められていく。
「大丈夫、ここにいるから。何処にも行かないよ」
どうせなら口付けて安心させてやりたいが、さすがに今はそういう状況でないことくらいわかる。ひたすらに耐える悧羅を励ますことしか出来なくて無力な自分が本当に情けなく思えた。こんな思いをさせてまで護るべきものなのだろうか、と考えてはならないことまで考えてしまう。ちらりと咲耶を見ると、もう少しだから、と視線を感じたのだろう。目は腹に落としたままで咲耶が応えた。その咲耶の横に妓姣が腰を曲げながら立って何やら教えているようだ。あまりの苦しがりように紳まで泣きたくなってくる。
「…よしよし、それでよろしかろう」
紳の耳に妓姣の声がして咲耶が手を離すとようやく悧羅が大きく息をした。不安と痛みで流れ出している涙を哀玥が舐め取っている。身体中がしっとりと汗で濡れたのを見やって入り口で泣きそうな顔をして控えていた加嬬に声を掛けると支度のために部屋を辞していく。寝間着を整えて布団を掛けることを咲耶に任せて妓姣が、よいしょと悧羅の側に座った。長様、と声をかけられてゆっくりと悧羅がそちらを向く。真っ白な顔の頬を撫でながら、うんうん、と妓姣が大きく頷いて見せた。
「…御子は大事無い。案じられよ」
その言葉にまた涙を零す悧羅に、ほほほ、と笑いながらよう堪えられた、と妓姣が労う。
「咲耶殿には婆が施した手当を伝えてある。子袋の出口を縛る術を行いました故、痛みなさったろうに…。声もあげぬとは…。叫ばれて然るべきですぞ?」
ぐったりとした悧羅にさすがは長様じゃの、と流れ落ちる涙を拭きながらくしゃくしゃと頭を撫でている妓姣は本当に母のようだった。
「咲耶殿に施してもろうたは子袋を護る術じゃ。あまりにこちらにばかり旦那様の送られる精気を取られ過ぎておりますのでな。少しばかり長様にも廻らねば長様が保たぬ故」
「でもそれじゃあ子はどうなるの?俺の精気を全部持っていかないと保たないんだろう?」
「なに。まだ御子は小さい。ほんの指ほどの大きさしかないでの。出口を止めてこれ以上の血が流れ出ぬようにし、咲耶殿が子袋を護る術を施しなされた。これで旦那様が送られる精気が半分ずつ送られようて」
なるほど、と頷く紳の前で咲耶も妓姣の横に座った。
「なれど安心なさるな?少しでも長様のお身体が力を取り戻さねば産み落とす時に身体が保たぬ。御子が大きゅうなられれば婆の術も保たぬでな。せめて五月を過ぎるまでに一人で座れる程度にまではお身体をお厭い下さらねば。産月を迎える前に御子を産み落としてしまうやもしれませぬでの」
分かった、と大きく頷く紳に満足そうに妓姣が微笑む。
「長様のお身体が力を持てば子袋の耐える力も戻ってこよう。悪いことばかり考えてしまわれるかもしれぬが、それが一番身体に悪い。御子と御自身、旦那様を信じられよ」
小さく頷いた悧羅に、よろしい、と微笑んで妓姣が立ち上がった。
「しばらくは朝一番でお迎えに来ていただけるか?こう見えて婆も案じておりますでな。…それから旦那様。婆は驚きましたぞ」
悧羅を抱き直している紳に向かって妓姣が声を上げて笑っている。何が?、と尋ねる紳に、ほほほとまたいつもの笑いを上げながら妓姣が目を細めた。
「長様が若々しくなられた、とは申したがそれは旦那様も同じこと。何やら二十余年前よりも若くあられる。御子方と並ばれたらば旦那様の方がお若く見えようて」
揶揄うような言葉を残して部屋を出ようとする妓姣を追って妲己が出て行く。そうかなあ、と頭を掻きながら悧羅を見ると力の入らない腕を伸ばしてくる。抱き上げて欲しいのだろう。半身を起こして胸に包むとようやく大きく安堵の息をついてくれた。
「まったく…。こうなる前に気づかないあんた達もあんた達よ。少しは自分のことも省みなさい」
紳に包まれた悧羅の頬を軽く叩きながら咲耶が呆れたように溜息をついた。うん、と応えた悧羅がとろりと微睡みだして、少し寝なさいと伝えている。ことりと紳の胸に頭が預けられて小さな寝息が聞こえ始めると哀玥が心配そうに擦り寄って鳴き始めた。
「哀玥、大丈夫だよ。悧羅は頑張れる子だから」
咲耶に言われても哀玥は鳴くことをやめない。ここまで弱った悧羅を見ることが初めてであったし、哀玥にとって悧羅は唯一無二の主なのだ。
“代わってさしあげたい…”
ぽつりと呟くような声に紳がその頭を撫でる。
「そう思ってくれて側に居てくれるだけで悧羅は嬉しがるよ。しばらくは忋抖じゃなくて悧羅の側に居てやってくれるか?」
“…御意…”
うん、と微笑む紳が卓の上の小袋を取ってくれるように伝えると、とことこと歩いて咥えて持ってきてくれた。受け取って中にある玉を一粒噛み砕いて飲み込むと身体中に抱え切れないほどの精気が巡り始める。抱きしめた腕から悧羅にそれを送り始めるとこれまではどれだけ送っても戻らなかった頬に少しばかりの紅みが挿した。
「…上手くいったみたいだね。でもあんたも無理しちゃ駄目よ?悧羅はあんたからしか精気を獲らないんだから」
「俺は大丈夫だよ」
持っていた小袋を咲耶に渡すと中を検めている。小袋に半分ほどの銀色に光る玉を見て、なるほどね、と頷きはしたが五月を過ぎても精気は必要だ。これで賄えるのだろうか、とも心配になる。
「どうにかするさ。悧羅が落ち着いてくれたら人の子からでも獲りに行くことも出来るしね。その間悧羅の側を離れることが心配なんだけど連れて行くわけにもいかないからな」
「その時は子ども達でも私でも付いておくわよ。…でもまさか今また子を授かるなんてねぇ」
僅かに穏やかになった悧羅の寝顔を見ながら咲耶が苦笑する。
「俺たちも吃驚したよ。妓姣に言わせれば悧羅は玳絃、灶絃を産んだ時より若くなってるらしいから」
「ああ、それはそう思うわ。でもあんたもよ?最初に悧羅と恋仲になった頃みたい。何か秘訣でもあるなら教えて欲しいもんだわ」
「何もしてないって。500年を取り戻すために悧羅を愛でてただけ」
ふうん、と小袋の口を閉めて枕元に置きながら咲耶がくすくすと笑い始める。確かに離れていた刻が長過ぎた二人にはどれだけ求めあっても足りることはないだろう。
「仲が良いのは私も嬉しいけどね。ああ、そうだ。聞いた?」
思い出したような咲耶に紳も笑う。もちろん、と応えると、咲耶も嬉しそうに笑っている。
「まさか本当にそうなるとはね。あんた達が許してくれたからって私たちにも教えてくれたんだけど白詠なんて真っ青になってたよ。まさか姫様をって」
青ざめて焦る白詠の姿が容易く思い描けて紳も声を抑えながら笑ってしまう。
「舜啓の粘り勝ちだろうな。諦めなければどうにかなるっては教えてたけど。…悧羅もその慶事があるからどうにかして子を護りたいんだよ」
どちらにしても悧羅が落ち着くまでは契りの儀は行わない、と舜啓が言ってくれた。多分子を産み落とすまでは行う気はないのだろうとは分かっているが、舜啓が媟雅を想う気持ちとは別に悧羅を特別大事に思っているのを知っているので有難く気持ちを受け取ることにしている。
「どっちにしてもまずは悧羅と子だね。…あんたが側にいる限りは悧羅も大丈夫でしょうよ」
「当たり前だろ?俺がいてこれ以上哀しい事に合わせてたまるか。俺は悧羅を倖にするためだけにいるんだから」
「…変わってないよね、そういうとこ」
苦笑しながら立ち上がって、しばらくは診療所に泊まるから、と咲耶が歩き出す。何かあればすぐに呼べということだ。送ろうとする哀玥を撫でながら、悧羅の側にいていいよ、と笑いながら出て行ってしまった。
“留待ってくださればよろしいのに…”
項垂れながら悧羅の横に侍る哀玥に紳もそうだな、と笑いながら抱きとめている悧羅の頬に口付けた。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。