縁【漆】《エニシ【シチ】》
遅くなりました。
少し長くなりましたがお楽しみいただけると嬉しいです。
いつも通りに磐里と加嬬が戸の外から声を掛けて紳も悧羅も目を覚ました。妓姣を送って行った妲己も悧羅を心配したのだろう。いつの間にか二人が眠っている側に侍っていた。まだ眠そうな悧羅の額に口付けて痛みは?、と紳が尋ねると、随分と良い、と目を擦りながら応えがあった。それにほっとして寝ているように伝えてから部屋の戸を開けると二人が座している。部屋に入る前に子ども達が起きているかと聞く紳に、そろそろかと、と加嬬が応えた。
「じゃあ起きたらここに来るように伝えてくれる?できれば朝餉もここで。朝議もここにしてくれるように荊軻に頼んでくれると有難い」
「それはもちろんでございますが…。何かございましたか?」
心配そうにする二人に子ども達が揃ったら伝える、と言うと、では早めにお起こしに参りましょうと言いながら部屋に入ってくる。
「悧羅起きれないから寝所で整えてあげて」
先に御簾を上げながら紳が言うと、まあ!、と二人が焦り始める。御簾の先でまだ床に横になっている悧羅の横に妲己が侍っている事にも驚いたようで青ざめながら、長、と駆け寄って行く。側に座ると青白い悧羅の顔が見えたようで、かたかたと小さく震えだしてしまっている。
「ですから少しはお休みくださいと申し上げておりましたでしょう!」
叱る磐里に苦笑しながら、大事ない、と悧羅が言っているが、何処がですか!、とまた叱られていた。
「とにかくそのままお休みになっていて下さいませ」
泣き出しそうな声を上げながら悧羅の支度を整えた後、寝所を整えたいのだろう。紳に声が掛かる。その声も叱られているようで、はいはい、と紳が悧羅を抱き上げて妲己と共に部屋の中に座って待っておく。妲己も余程心配しているようで悧羅に擦り寄りながら決して離れようとはしない。
「妲己、しばらく悧羅の側で寝てくれる?また頼み事しなくちゃならないかもしれないし、お前が側にいてくれたら俺も安心できる」
寝所を整えている二人に聞こえないように声をひそめて言うと静かに頷いてくれた。
“なれど良いのか?”
言いたい事が分かって紳は苦笑するしかない。さすがにこの状況の悧羅を組み敷くわけにはいかないことくらい紳も分かっているし自制はきく。
「妓姣が善と言うまではさすがに俺も考えないよ。それに妲己がいてくれた方が俺の抑止にもなってくれるでしょ?」
“…噛み殺してくれるわ…”
ふん、と鼻を鳴らした妲己に頼むよと紳が言うと腕の中の悧羅がくすくすと笑っている。それに擦り寄って行く妲己を撫でながら、ほんに甘いと笑い続ける悧羅に当たり前だ、と二人が声を揃えた。まさか二人ともそうであるとは思っていなかったし、紳に至っては自分の責で悧羅を哀しませることになっていたのかもしれないのだ。明け方妓姣が来てくれるまでの震えが蘇ってきてぶるり、と背筋を悪寒が走った。今でさえ安心出来る状態では決してないのだから甘くなるのは仕方ない。
「辛くない?」
抱きしめた腕から精気を送り込み始めながら紳が尋ねると、大事ないとはいいながら胸に身体を預けてくる。気怠さはまだ大きいのだと思われて少しでも多くの精気を送り込む。子が流れ出ようとしているのを必死に堪えてくれているのだ。腹の痛みとそちらに取られる精気が多いのかなかなか悧羅の顔色は戻らない。
「あまり無理をしてくれるな。大蛇の玉も少なくなっておろう?妾なら大事ない」
安堵の溜息をつきながら言われても紳も妲己も是とは言えようはずもない。大国の犬神騒動で確かに玉を使いはしたがまだ十分に残っている。けれど今回ばかりはそれで賄えるのかも怪しいところだ。とりあえずは、まだある、とだけ伝えておく。必要であれば人の子から獲りに行くだけだが、その間悧羅の側を離れることになるのだけはどうにか避けたいところだ。少し考えていると磐里と加嬬が寝所の支度を終えてくれた。旦那様と声をかけられて抱き抱えたままの悧羅を寝所に横にすると妲己が身体を包んだ。
“身体をお冷やしになられてはなりませぬ”
ふわりとした毛並みに包まれて小さく笑う悧羅の手を握って紳も横に座った。
「では御子方にお声かけしまして此方に朝餉の支度を致しますね。長、何か召し上がりたいものはございますか?」
悧羅の布団を整えながら磐里が聞くと、温かい茶が欲しいな、と悧羅が応える。
「すぐにお持ちいたしましょうね。お休みになられるようでしたらどうぞお休み下さいませ」
ぽんぽんと布団を叩いて部屋を出て行く女官二人を見送ってまた悧羅が笑い出している。二人ともまさかそういうことだとは思ってもいないだろう。玳絃、灶絃を産み落として二十四年が経っている。悧羅でさえまだ信じられない気持ちがしているのだ。今後赤子を抱くとすれば子ども達が授かった時だろうと思っていたし、まさかまた自分の中に子が宿るなど思ってもいなかった。布団の中で下腹に手を当てて気づいてやれなかったことを少しばかり悔いた。腹の子のためには妓姣の言う通り床に着いていなければならないのだろうが今荊軻と共に調べていることも蔑ろには出来ない。どうしたものか、と考えあぐねてしまうと思わず溜息が出てしまった。
「どうしたの?辛い?」
握ったままの手からずっと精気を送り込んでくれながら紳が心配そうに悧羅の頬に触れる。それに、いいや、と笑ったけれど、お務めのことでございましょうや、と妲己に見透かされてしまった。
「ああ、何だか色々やってたんでしょ?俺があんなだったから言えなかったんだよね」
触れた頬を撫でられると心地良くて目を細めてしまう。
「なんの、少しばかり気になったのでな。そう急ぐことでもないのだが手を付けたからにはしかと務めねばならぬ。荊軻だけに任せるとあれの務めが多なる故、叱られてしまいそうじゃ」
「俺が動ければ良いんだけどねぇ。でも荊軻は務めが多くなることより悧羅が寝込むことになった事を叱りそうだよね」
確かに、と悧羅も苦笑する。あれだけ休め休めと言われていたのに大事ないと伝えて動いていたのだ。きっと叱られることになるだろう。
“報せの文書を確かめる程度であらば、紳が側におる間はよろしいでしょう。場の確かめには我や哀玥が行けば良いこと”
悧羅の顔に擦り寄りながら言う妲己に、久しぶりに名を呼ばれた、と紳が笑った。ふん、と鼻を鳴らしながら妲己は悧羅を包み直す。
「子ども達に任せるわけにはいかないの?」
「それでも良いのだが子らも務めがあろうしのう…。妾に当てられたこともまだ収まってはおらぬのではないかと思うてな」
「さすがにもう大丈夫でしょうよ。そういえばあれからあんまり子ども達に会ってなかった気もするなあ」
惑わしを使った悧羅はそのまま紳が寝所に引き込んでいたし出てくるまで十日はあった。その後も少しばかり艶かしさは残っていたからか悧羅も子ども達としっかりと顔を合わせていない。むしろ子ども達が避けていた、という方が正しいかもしれなかった。特に男子達は近くに寄ることも戸惑っていたように思う。
“もう落ち着かれておられますよ。若君方は主を見てしまわれると思い出されるようですが”
くっくっと可笑しそうに笑いながら妲己が教えてくれる。紳と悧羅の知らない間の子ども達の様子を思い出して笑っている姿に、よほど愉快だったのだろうと二人は苦笑した。
「どちらにしてもさ、悧羅は身体を大事にしてくれないと。考えたくもないけど万が一の事を思えば重鎮達全てに話すのもどうかと思うんだよね…、荊軻だけにしといた方がいいかな…」
考え込む紳に、任せると悧羅が応えると磐里が茶器を持って入ってきた。横になっている悧羅に満足したのか慣れた手つきで茶を淹れて渡してくれる。身体を起こして受け取ろうとしたが思うように動かず妲己が手伝ってようやく身を起す事が出来た。起き上がると紳がそのまますっぽりと悧羅の身体を背中から預かってくれようとしたが、ヌシも着替えよ、と妲己に嗜められている。確かに悧羅は支度を済ませてもらえたが紳は寝間着のままだ。朝議もここで行うのであれば、さすがに寝間着姿では示しがつかない。
“我がお支えしておく。さっさと召し変えてこい”
少しばかり体躯を大きくした妲己が紳の代わりに悧羅をすっぽりと包む。尾で器用に布団を腹まで掛けてくれていては紳の出る幕はなさそうだ。ゆったりと身体を預けて湯呑みを受け取る悧羅を見ながら、わかったよ、と紳も身支度を整える為に用意されていた部屋着を持って一度部屋を出た。手早く着替えを済ませて顔を洗うなどの身支度を終えて部屋に戻ろうとすると起きてきたのだろう。子ども達が次々に支度場に入ってくる。まだ眠そうな子ども達から、おはよう、と声をかけられてそれに応えながら忋抖と共に来た哀玥を見つけた。名を呼ぶととことこと寄ってきた頭を撫でる。
「荊軻はもう務めの場にいるはずだ。悪いけど連れてきてくれる?」
“御意。荊軻殿だけでよろしいのですね?”
他の顔があった時のために確かめる哀玥に、うん、と紳が頷くとやや駆け足で去って行った。枉駕や栄州は朝議の刻に合わせて来るが荊軻は報せなければならないことを確かめるために二人よりも随分と早く務めの場に来ている事が多い。多分今日もそうだろう。
「荊軻さんだけって何かあったの?」
身支度を進めながら尋ねてきたのは皓滓だった。いつの間にか支度場には六人全ての子ども達が揃っていたがその中に舜啓の姿まであって紳は苦笑してしまう。どうやら悧羅の言っていた事は正しかったらしい。
「大切な話なら俺は席を外そうか?」
顔を洗いながら言う舜啓に、お前ならいいだろ、と応えておく。悧羅にとって舜啓は我が子も同じだ。ここで席を外させることは好まないだろう。
「さっさと支度してこいよ」
先に支度場を出ようとした所で、紳、と舜啓に呼び止められる。
「何だよ?」
「今度ちょっと刻とれない?」
今度?、と紳が首を傾げる。今では駄目なのか、と尋ね返すとちょっとね、と舜啓は笑っている。
「出来れば悧羅も一緒がいいんだ」
そう言われたは良いが悧羅はまだ無理をさせる訳にはいかない。床に着かせたままならばどうにかなるだろうが、できれば休ませたかった。
「悧羅に聞いとくよ」
そう返すと、うんとまた支度場に戻っていく舜啓の姿が見えなくなってから足早に自室に戻る。戸は開けられて既に朝餉の支度が進められていた。まだ妲己に寄りかかったままの悧羅を受け取って胸の中に収めるとすぐに精気を送り始める。妲己は体躯をいつも通りに戻して悧羅の膝の上に頭を乗せた。舜啓も居たことと刻を取って欲しいと言われたことを伝えると、悧羅はくすくすと笑っている。
「言うた通りであったであろ?媟雅も心穏やかになったことであろうな」
「うん。聞いちゃ駄目な話なら席を外すって言ってたけど構わないって伝えたよ。舜啓が来てるのに蚊帳の外に出すの悧羅は嫌でしょ?」
「無論だ。あれは妾の子であるからの」
だと思ったと笑う紳の胸にぽすりと身体が預けられる。休むか?と勧めてみたが首を振られた。廊下の先から哀玥の足音に混じって衣擦れの音が聞こえる。反対の方からは子ども達の足音も聞こえてくるし、休むのは一通り叱られてからになりそうだった。先に着いたのは哀玥達で悧羅の顔色を見るなり荊軻は大きく嘆息し哀玥は駆け寄ってきた。肩を落としながら部屋に入ってきた荊軻は悧羅の前まで来たが座る事をしない。代わりに、だから申し上げたでしょう!、と珍しく声を張り上げた。
「あれほどお休み下さいませと申し上げましたのに!少しは私の申し上げることに耳を貸していただきませんと、文官長の任をお返しいたしますよ!」
いつも静かな荊軻の怒声に朝餉の支度を進めていた磐里と加嬬が驚いたように手を止めた。部屋の外まで聞こえたのだろう。わらわらと部屋の入り口に集まった子ども達も悧羅の顔色を見た絶句せざるを得ない。青白いということではもうない。
_______真っ白なのだ。
紳が背後から抱きしめて精気を送っているのは見れば分かるが、それでも顔色が戻らないのは明らかにおかしい事だ。母様!、と走り寄って荊軻よりも悧羅に近づいてそれぞれが座る。より近くに侍りたくて座った子ども達と舜啓で悧羅の布団が埋め尽くされてしまった。
「其方に文官長を返されては妾が立ちゆかぬではないか」
「ではもう少し御自愛下さいませ!長は昔から御身を後回しにされすぎるのです。休めと申し上げましたなら今後、否など仰せになられますな?!是と仰せになると誓って頂かねば、この荊軻許しませぬよ?」
「あい分かった。分かった故、そう荒れておくれでないよ」
両手を挙げて降参の意を示すが荊軻の怒りは収まらないようで、これ倖にと小言を始めてしまう。これは長くなりそうだ、と苦笑する悧羅を見咎めて大体と座りもせずに荊軻の小言が続く。
「ようやく物事が一段落致しましたのに長がお倒れになってしまわれては何にもならないではないですか。長は御自身で思われておるほど強いお身体ではないのですよ?ただでさえ500年無理をなさっておいでになっているのです。華が増えようとも長が御自身を大切になさらなければ枯れ果ててしまいましょう。この里にどれだけ長が必要であるのか、もう少し御自覚していただきませんと」
「分かったと言うておるに…。とにかく其方座らぬか?」
「お分かりでないから申し上げておるのです!」
ますます声を張り上げる荊軻に困ったように悧羅が紳を仰ぎ見る。これではこちらの話を始めようとも始められない。小さく嘆息をついた悧羅を見て、また荊軻が、長!、と嗜める。しばらく小言が続いてようやく荊軻が悧羅の前に座った。
「私も多少の事は目を瞑りますけれど、今回ばかりは…。御殿医殿は参られたのですか?」
「咲耶はまだだな」
「またその様な悠長な事を申されて…。では朝一番に来ていただく様に報せを出すことと致しましょう」
言いながら立ちあがろうとする荊軻を悧羅が留める。急ぎませんと、とそれでも立ち上がろうとするのを今度は紳が止めた。紳様まで、と小言の矛先を変えられそうになって、話があるんだってと紳は苦笑した。
「お話ですか?」
まだ腰を上げたままの荊軻に紳が座るように勧める。そうでなければ走って出て行ってしまいそうな剣幕なのだ。
「話がなきゃこんなに早くに来てもらわないでしょ?とりあえず落ち着いて聞いてもらえると有難いんだけどな」
眉を顰めてとりあえず座り直してくれた荊軻を見て紳は磐里と加嬬を呼ぶ。出て行くべきだと思ったのか入り口の方に向かおうとする二人に、こっちだよ、と手招きすると首を傾げながら荊軻の一歩後ろにそれぞれが座った。やっと話が進められそうだ、と紳は小さく息をついた。
「大事な事なんだけどとりあえずはここだけの話にして欲しい。悧羅の腹に子がいるんだ」
は?、と言う荊軻と子ども達、舜啓の声に、まあ!、と歓喜する磐里と加嬬の声が交錯した。哀玥だけは悧羅の身体を見て慶ぶべきか迷ったようで小さく鳴きながら悧羅に擦り寄っている。
「それでしたら尚の事急いで御殿医殿に来ていただかねば!」
また立ち上がろうとする荊軻を留めている間にも子ども達と舜啓は、本当なの?と悧羅に尋ねている。
「どうやらそうらしい」
小さく笑う悧羅の腹にそれぞれが触れようとして、お待ちを、と妲己に止められていた。妲己が子ども達を止めるなど滅多にない事だ。どうしたの?、と聞く啝珈に、まずは父君の話を、と諭している。
「…何かあまりよろしくない事がございますのですね?」
磐里が慶びを抑えて静かに言うと悧羅は苦笑し紳は頷いている。
「妓姣に明け方来てもらった…、悧羅が腹が痛むって魘されてたからね。診立ではどうにも危ないらしくって、妓姣が善って言うまでは悧羅は床から出られない。…俺にも悧羅の側から離れるなって言いつけられた」
「危ないって…、子が流れるかもしれないってこと?」
問う舜啓の顔は真っ青だ。子が流れると言う事は母体にもかなりの負担がかかるとは咲耶から聞かされていたことだ。幾人もの民達を診てきている咲耶はそういった者達も多く診ている。流れた後の心持ちもあるだろうが、大量の血が流れることで身体の回復が遅れ中には生命を落とした者も少なくないと聞いていた。今の悧羅の身体がどれだけ疲弊しているかなどは一目瞭然であるし、危機を脱しても産み落とせるだけの体力が戻るのかも疑がわしい。
「うん。もう少し妓姣が来るのが遅かったら駄目だったらしい。どうにか堪えてくれてるけど、まだ安心できる状況じゃない。手放しで慶べないんだよ」
「…ですから無理をなさるなと…あれほど申し上げておりましたのに…」
がっくりと肩の力を落とした荊軻に、これは俺の責だ、と紳が言う。
「俺が気づいてやれなかったのが悪い。もう少し早く気持ちを落ち着けてたら気づけてた事だ。悧羅は何にも悪くない。だけど、今悧羅に無理をさせるわけにはいかないし俺も悧羅の側を離れるわけにはいかない。何より堪えてくれれば一番だけど…もしかしたら…ってことは考えて置かないといけないみたいなんだよね。だからここだけの話にして欲しい。妓姣から善が出れば慶事として下ろせるけど今は時期じゃない。そういう訳なんで、荊軻。上手い事、周りの目を誤魔化して俺が近衛隊をしばらく離れられるようにして欲しい」
「…また難題を…。枉駕や栄州殿にも伝えずに…、でございましょう?さて、どう致しましょうか…」
考え始める荊軻に、頼むと言うと承りましょう、と頷いてくれた。後は子ども達だと紳はそれぞれを見やる。
「無事に子が産まれるためにはお前たちの力も必要なんだ。まだ腹が痛むみたいだから触らせてはやれないけど俺が悧羅の側をほんの少し離れなきゃいけない事もあるだろう?その時には妲己や哀玥と一緒に見張ってて欲しいんだ。…目を離すとすぐに何かしようとするからね」
「それはもちろん。だけど本当に赤子がいるの?玳絃、灶絃から二十年以上経ってるのに…」
媟雅が信じられないとでも言うように悧羅の腹に手を伸ばそうとしてまた手を退いている。まあその気持ちは分からないでもない。悧羅でさえ妓姣に今なのか?と聞いていたくらいだ。
「妓姣に言わせれば悧羅は玳絃、灶絃を産んだ時より若々しくなってるらしいぞ?俺はどうか知らないけどな。…俺たちも驚いたけど実際こうだしね。どれだけ精気を送り込んでも悧羅が楽になってくれてないから全部持っていかれてるんだろうな」
溜息をつく紳の気持ちは子ども達にも分かる。ただでさえ悧羅は紳からしか精気を譲ってもらわない。食餌や人の子からなど以ての外だ。それは500年前から決めていたことであり、子ども達が産まれたから紳からだけは受け入れるようにしてくれているのは知っている。
_________けれどこのままでは________。
真っ白になってしまっている悧羅の顔を見ながら、母様、と呟く皓滓に悧羅は微笑んでいる。
「大事ない。そう案じずとも妓姣や磐里、加嬬もおってくれるでな。…随分と歳の離れた子が増えそうじゃが…よろしいか?」
くすくすと悪戯に笑っているが気怠いのだろう。身体は紳に預けたままの悧羅に、もちろん、と子ども達は声を揃えた。
「何よりまずは悧羅と腹の子が第一だ。磐里、加嬬。また面倒かけるけど頼まれてくれるか?」
紳の言葉に、面倒だなどと!、と二人が声を張り上げる。
「私共がそのような事を思いますでしょうか?!そうと分かれば長の好まれるものを沢山ご用意しなければ。私共の目の黒い内は哀しいことなど起こさせてなるものですか」
「そうでございますよ。ではお務めもしばらくはお休み頂くということでよろしいですね?」
拳を握って見せる二人に、それは進めると悧羅が笑っている。なりませぬ、と叱る二人に悧羅が首を振った。
「あまり長く置いておきたいことでもないでな。なれど床から出るわけにはならぬようなのでの…、媟雅、啝珈、皓滓、灶絃、玳絃に手を貸してもらおうとは思うておるよ。上がってきた報せを確かめる程度であれば紳が側におるならばよろしかろうと妲己も言うてくれておるでな」
「ですが長…。あれはそのように急がずともよろしいのでは?」
止めようとする荊軻に静かに悧羅は首を張る。
「ならぬ。調べねばならぬ事じゃ。こればかりは妾も退けぬこと。故に子ども達に預ける。忋抖は近衛隊の部隊を任されておるでな」
「俺だって非番の時くらい手伝えるよ。…何したらいいのさ?」
一人名を呼ばれなかった忋抖は僅かに頬を膨らませている。おやまあ、と笑う悧羅に代わって荊軻が務めの内容を説いて聞かせた。そんな大事やってたの?、と子ども達から非難の声が上がったが事もが事だけに気安く話せなかったのだ。
「妲己と哀玥にも手を貸してもらっていたのですが、長のお側にいてもらったほうが今は良いでしょう。姫君、若君方には少しばかり重くなるやも知れませぬが…」
案じる荊軻に、母様と子のほうが大事だ、と子ども達は胸を張った。
「なら俺も手伝うよ。手は多い方がいいんでしょう?」
黙って聞いていた舜啓が手を挙げて言うと、それは助かりますね、と荊軻も頷く。舜啓であれば紳や悧羅の信に厚いし実力もある。何某かあった時にも十分に対処してくれるだろうし何より口が堅い。
「であればまずはどう他の皆様を誤魔化すかを考えませんと…。朝議までには良い案を講じますので長も紳様も私の申し上げることに是と申してくださいませ」
では、と足早に部屋を出て行く荊軻の足音が遠くなると、さあさあ、と磐里が手を叩いた。
「とにもかくにも朝餉に致しましょう。冷めてしまいますよ」
「長には果実をお持ちしましょうね」
女官二人が動き出して子ども達もそれぞれの膳の前に動こうとする。その中の舜啓を悧羅が声を掛けて止めた。
「何やら話があるのであろ?」
柔らかく微笑んでくれてはいるが体調が思わしくない時に言うことでもない、と舜啓が辞す。それにころころと鈴を転がすように笑って、それではいつになるか分からぬよ、と悧羅は紳を見上げた。言い出したら聞かないのは分かっているので紳も、いいよ、と応える。ぽんぽんと隣に座るように促されて舜啓は頭を掻いた。
「…いや、本当に今じゃなくてもいいんだって。ちゃんとしなきゃならないことなんで…」
それにも悧羅は、うん、と笑っている。何が言いたいのかは分かっているからあまり待たせたくはない、という優しさなのだ。確かに全員揃っているし丁度良いのは良いのだが…。もう一度、でも、と訴えてみるが悧羅は微笑むばかりだ。もう、と小さく吐息をついて舜啓は媟雅を呼んだ。既に座に着いていた媟雅が急いで立ち上がって舜啓の横に並ぶ。あれ?、と小さく声を上げた紳を見上げて悧羅が笑っている。
「待たせるわけにはならぬだろう?」
囁くように言われて紳もようやく悟った。確かに待たせるわけにはいかないようだ。紳と悧羅のいる場所から一段下がった場所に二人が座して舜啓が深く礼を取る。その姿に食餌を摂ろうとしていた子ども達も驚いて向き直っている。舜啓が紳や悧羅に宮の中で礼を取ることなど初めての事なのだ。
「長の御身体が芳しくない時に申し訳なく思います。私のお願いは一つにございます」
礼を取ったままの舜啓が述べて悧羅は微笑みながら、申せ、と伝えた。大きく一度息をついてから礼を取ったままで舜啓が言葉を紡ぐ。
「私に媟雅姫と契りを交わすお許しを賜りとうございます」
舜啓の言葉が終わると媟雅も隣で伏して礼を取る。弟妹達が、は?、と声を上げているのが分かったけれど今は紳と悧羅が許してくれるのだろうか、という思いが強くて手足が冷たくなっていくのがわかった。礼を取っている二人の背中を見ながら悧羅が紳を見る。うわあ、と微笑んでいる紳は悧羅を抱きしめる腕に力を込めた。それにくすくすと笑いながら悧羅が紳の手を叩くと大きく頷いた。
「舜啓…、媟雅を頼まれてくりゃるのかえ?」
柔らかな声音だが舜啓は顔をあげない。
「必ずや倖にしてご覧にいれましょう。…まだ隊長には遠く及びませぬが、どのような事が起きましょうとも御護りすると制約致します」
言葉を紡ぐ舜啓と隣で伏している媟雅の背中が小さく震えているのを見やって、いつぞやの紳の姿を悧羅は思い出す。もう一度紳を見て笑い合うと二人で声を揃えた。
「許す」
二人の言葉に弾かれたように舜啓と媟雅が顔を上げた。見えたのは本当に嬉しそうな紳と悧羅の笑顔だ。ほうっと安堵する舜啓を悧羅が呼びながら自分の隣をぽんぽんと叩く。今度は躊躇うことなくそこに座った舜啓の頬に悧羅が触れた。
「妾との約束を果たしてくれたのだな。其方は妾の誉の子。紳に劣らぬ良い男じゃ。媟雅のことよろしゅうに」
ふわりと悧羅に包まれて、うん、と舜啓はその身体を抱き返す。幼い頃には気づかなかったけれど包んだ身体は本当に細く少し力を入れれば容易く手折ってしまいそうだった。
「絶対倖にしてみせるから。悧羅は元気な子を産んでよね」
「おや、新たな約束が出来てしもうた」
舜啓の腕の中にすっぽりと収まってしまう悧羅から笑いが漏れている。
必ずや良い子を産んで見せよう、と言う悧羅の身体をもう一度抱きしめていると自然と涙が溢れてくる。悧羅の肩に顔を埋めてそれを隠しながら、約束したからね、と舜啓は祈るように伝えた。
さて、どうなりますやら。
とりあえず舜啓と媟雅は契りを結べそうです。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。