縁【陸】《エニシ【ロク】》
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じわじわと押寄せる痺れた脚ではどうすることもできず湯殿に入った悧羅は全てを紳に任せるしかなかった。加嬬を呼ぶと言ってみたのだが駄目だと一蹴されてしまう。身体を清められ髪まで洗われて、それくらいは出来ると言うのだが紳は聞いてくれない。自分の身体も清めてから悧羅を抱き上げて湯船に入り膝に乗せてからゆっくりと脚を解し始める。痺れと膝を曲げるたびに痛みがあるのか眉を寄せる悧羅が自分ですると言うがそれにも紳は首を振る。こんなになるまで紳を慮ってくれた悧羅を少しでも楽にしたかった。
「ごめんな、痛いよね。少し我慢して。湯で温めると早く治るはずだから」
「放っておいてもその内戻る。そう気にせずともよい」
笑いながら紳とは逆の脚を悧羅は自分で解し始める。大したことではない、と言ってはいるが痺れと痛みが強いことは見ていて分からないはずがない。
本当に無理ばかりさせてしまった。
疲れているだろうに何を言うでもなく紳の気持ちだけを何よりも大切に思ってくれたからこそ、無理強いした夜毎の情も受け入れ昼間の務めも行い取れるはずの休息も取らせていなかった。終いにはこれだ。四刻半も膝を曲げて座ったままで途中どれだけの痛みがあったことだろう。紳が目覚めた時には既に感覚も無かったようだ。大した事ではない、と悧羅は言うがそれが容易く行えることでは無いことくらい紳でも分かる。紳が悧羅の頭を腕に乗せたり膝に乗せたりする事とは訳が違う。悧羅の身体は何処も羽の様に軽いのだからどれだけ乗せていても紳の腕や脚が痺れることなどない。だが逆は別だ。ただでさえ細すぎる身体に同じ体勢を強いた上、動けなくなるほどの痛みを与えてしまうなど本当に自分が情けなく感じて紳は大きく溜息をついた。
「本当にごめん。無理ばっかりさせてる」
「だから詫びてくれるなと申しておるに。何をそんなに悔いる事があろうか?」
くすくすと笑いながら自分の脚をさすったり揉んだりして悧羅は紳を見上げると泣き出しそうな紳の顔が目に映った。そんな顔をしてくれるでない、と笑う悧羅に、でも、と紳は何か言いたそうだ。
「気にするで無い。妾と紳は逑であろう?妾が苦しゅうて堪らなんだ時、紳は絶えず側におってくれたではないか。それと同じことをしたまでじゃ」
ふふふ、と小さく微笑む悧羅は本当に嬉しそうだ。紳の助けに少しでもなれたことが倖で堪らぬ、と言ってくれる悧羅の脚を揉み解しながら見上げた唇にそっと口付ける。
「おや、褒美をもろうてしもうた」
小さく笑いながらまた視線を自らの脚に戻して大分動くようになったと紳に見せてくれる。うん、と頷きながら片手で悧羅を強く抱きしめる。これほどまでに紳を愛しく想ってくれている者など悧羅以外にいないだろう。そう伝えると、紳もであろ?と笑われる。
「妾の事を何より愛しく想うてくれるは紳以外におらぬでは無いか。妾にとれば紳がいないことなどもう考えられぬし考えたくもないな」
いつの間にか当たり前になった二人で湯を使う事も、膝に乗せられて抱きしめられる事も些細な事だろうが悧羅にとれば望んでも手に入らないと思っていたものだ。それが当たり前だと思えるほどに離れていた500年を忘れさせてくれるほどに紳は悧羅を大切にしてくれている。であれば悧羅が出来る事であれば例え身体が軋んでも紳が望むままにしたいのだ。紳が望み癒されてくれるのであれば脚の痛みや痺れでも愛おしく思えてならない。
「それは同じだけど無理させたくはないんだよ。悧羅は俺の事ってなると嫌って言わないからさ。…それに甘えてる俺もどうかと思うけどね」
頭上で溜息がつかれて再び悧羅が紳を見上げた。おや?、と艶やかに笑いながら嫌だなどと言うはずもない、と伝える。
「甘えさせてくれるは紳であろ?時には逆でも良いではないか。妾にはこれ以上ない誉であるほどに」
「悧羅は俺に甘いからなあ」
「それは紳であろ?」
笑い合って口付けると互いが沸り始める。さすがに今日ばかりは休ませたいのだが動くようになった脚で悧羅が紳に向き直った。そのまま紳を受け入れながら膝に乗られてはさすがに堪えきれない。すぐにでも動きだしたい気持ちだけを抑えて悧羅を押し付けると紳を沸らせる甘い声がすぐ耳元で聞こえた。おくれ、と甘い声で言われて箍が外れそうになるのも堪える。
「さすがに今日は悧羅も休ませるよ?何だか皆に顔色が悪いって言われてるみたいだし…」
「そう見えるかえ?」
潤んだ目で見つめられて紳もよくよく悧羅を見るが、湯で温まった今ではほんのりと紅く染まった頬しか見えない。明日の朝しっかりと確かめるしかなさそうだった。
「でも本当に今夜は休ませるからね。…ここで終わりだよ?」
「そのようにせんないことを言うてくれるでないよ…。妾は紳と睦み合いたいというに…」
「そんなに可愛い事言っても今夜は駄目。ただし、これで満足させてみせるから」
もう、と頬を膨らませた悧羅に深く口付けて紳は悧羅を抱き上げて突き上げはじめた。宣言通り一度で悧羅を満足させるために、これまで悧羅が癒やしてくれたことに感謝しながら幾度も絶頂へ導いていく。意識を手放し始めた悧羅と共に果てて、くったりとした身体を抱き上げて湯殿から出たのは一刻が経ってからだった。
湯殿から出てきた紳がまだ悧羅を抱えている事に待っていた磐里も加嬬も妲己さえ首を傾げたが、湯当りしたと言う紳の言葉で納得した。鏡台の前に座らせようとしたが、くったりとした悧羅は自分の力で体勢を保つ事が出来ず苦笑した紳が自分の胸に悧羅の身体を預かった。まあまあ、と笑いながら悧羅の寝支度を整え始める磐里と加嬬が冷たい水を紳に渡してくれる。礼を言って受け取りながら紳は妲己に声をかけた。何だ?、と悧羅に擦り寄っている妲己に近頃悧羅の体調が思わしくないのか、と尋ねる。
“主はどうもないと言われるがな。…お顔色が優れぬとは思うておる”
「いつから?」
“気怠そうにしておられたは五日ほど前からであったがな。少しばかりお痩せにもなられたようであるし、この灯りの中では何とも言い難いが陽の光の元で見れば何となくであるな”
そうか、と預けられた身体がずれないように抱きしめながらやはり無理をさせていたのが原因だろうと紳は思った。
“ヌシが気づかぬもの無理はなかろうよ。主はヌシの前では気を抜いておられなんだからな。…それほどにヌシを気遣っておられたのだろうて”
「俺が気づかないってどれだけだよ。昼間俺が務めに出てる間は休んでないのか?」
水を飲みながら聞くと、ないな、と溜息混じりに妲己が言う。
「少しはお休みくださいませと私共も申し上げておりますのですが、務めの文書も後を絶たないものですから…」
「刻を見つけてはお休みいただくように申しておりますが、何やら考え込んでおられることも多ございますね」
磐里と加嬬もそれぞれに心配していたようでこれ倖にと紳に教えてくれる。
“千賀のように先代で一掃した縁者達が短命ではないか、と思うておられるようだ。荊軻殿に調べさせておられる。我や哀玥にも荊軻が調べた場にまだ住んでおるのか確かめよと命じられることもある”
「そんな大事抱えてたのか…」
疲れが溜まって当たり前だ、と嘆息する紳に、ヌシのためだろうて、と妲己が尾で紳を叩いた。
“同じようなものがおってまた同じような事が起きんとも限らぬだろう。それらがまた近衛隊に属しておればヌシの心が崩れかねぬ、と思うておられるのだ”
有難く思え、とまた尾で叩かれて持っていた水を悧羅にこぼしそうになりながら、分かってるよ、と紳は苦笑する。そんなことを考えて動いてくれているとは知らなかった。紳がいつも通りであればすぐにでも報せて動きたかったのだろうが、荊軻や妲己、哀玥としか動いていないということは悧羅も里に降りながら見聞し確かめていたのだろう。それでは昼間休む暇もないわけだ。その上夜は夜で紳に組み敷かれ続け眠りも取れていないのであれば、いつ倒れてもおかしくはない。紳が寝ている間に枕元にあった文書の山は荊軻からのそれに対する報せなのだと思われた。
やれやれ、と大きく嘆息して寝支度の終わった悧羅を抱き直す。本当に明日の朝にはしっかりと悧羅の顔色を確かめなからばならないようだ。
“ヌシがせねばならぬことは一日も早く此度の件を飲み込むことだ。でなけれは主は無理をし続けてしまわれる”
無理にとは言わぬがな、とまた嘆息する妲己に、もう大丈夫だ、と紳は笑って見せた。一日中眠れていたこともあるかもしれないが、どれだけ悧羅が紳を労り慮ってくれているかが分かった。これ以上ないほどに癒やしてもらえたからか、心に残っていた鬱々とした気分も身体を覆っていた気怠さも嘘のように消えている。紳の中で一番大切な者が何であるのかを再び確かめる事が出来たからかもしれないが、本当に晴れ晴れとした心持ちなのだ。夕餉は如何なさいますか?、と磐里が尋ねてくれたが宵も更けているし悧羅も眠ってしまっている。
「明日の朝餉としてもらうよ。せっかく作ってくれたんだしね」
悧羅を抱き上げながら立ち上がると、ではそのようにと二人が妲己と共に部屋を辞した。おやすみ、と三人に声を掛けてからくったりとしたままの悧羅と共に布団に入る。温まり過ぎた身体に冷たい布団の感触が心地良かったが悧羅に病など引き起こさせてはならない。しっかりと抱きしめてすでに冷え始めた悧羅の身体を掛け布団でくるんだ。紳の約束通り湯殿の中で溺れきった悧羅は目を開けることさえしない。紳が眠れていない以上に悧羅も眠れていなかったのだろうから深い眠りに落ちてくれているだけでも安心する事ができる。小さく寝息をたてる悧羅を抱きしめて紫の髪に顔を埋めると香油の匂いに混じって悧羅の匂いがする。こんな風にゆっくりと悧羅を抱きしめたこともしばらくなかった。妲己や女官達、果ては荊軻までも悧羅の体調が優れないことに気づいていたのに一番に気づくべき自分が全く気づけていないことが情けなかった。抱きしめたままで精気を送り込みながら朝になればまずは悧羅の身体を診ようと決めて紳ももう一度眠りに落ちていくことにした。
腕の中の悧羅が小さな呻きを上げたのはもうそろそろ磐里と加嬬が声をかけにくるであろう頃だった。昨日までの紳では気付かないほどの小さな呻きではあったがその時は違った。目を開けると腕の中の悧羅はまだ目を閉じたままなのだが何かが違う。眠っているようなのだが魘されているようではない。御簾の中の薄暗い中にあって悧羅の顔色が青白く見える。額に手を当てて身体の中を診始めると昨日まであったはずの余剰の精気が極僅かになっている。眠る前にも送り込んだはずなのに一晩でここまで減ることなど有り得ない。何処か痛むのか顔を顰めている悧羅を一旦離して床に横たえると声をかけて見る。幾度か声をかけると目を開けた悧羅が覗き込んでいる紳を見つけて首を傾げた。
「悧羅、何処か痛む?」
目が開いたばかりの悧羅は問われている意味がよく分からないのかますます首を傾げている。微睡む目を擦りながら、いいや?、と応えているが一瞬顔を顰めたのを紳は見逃さなかった。
「嘘つかないの。何処?」
額に手を当ててとりあえずの精気を送り込みながらもう一度紳が尋ねると諦めたのか、腹だ、と小さく嘆息している。
「なに、古疵が少しばかり痛むだけじゃ。何ということもない」
「そんなわけないでしょ?俺が一緒に居るようになってからそんなに痛むこと無かったじゃないか」
空いた手で悧羅の古疵のある場所に触れると余程痛むのか小さく息を止めている。少し我慢して、と腹を探る。下腹の疵自体が腫れたり紅くなっているところは見当たらない。ということは中か、と探っていくと触れた部分にアルモノを感じてふと手を止めてしまう。もしかして、とは思うが有り得ないとも思った。触れた手はそのままに少し考えるが悪い方にばかり考えが巡る。けれどそう考えれば一度に精気が使われたのも合点が行く。
「最近咲耶はいつ来た?」
咲耶?、と問い返す悧羅に、いいからと応えを促す。
「千賀の事のしばらく前であったとは思うが…?」
悧羅の応えに紳の背中に冷たい汗が走った。小さく震えだすのを堪えて妲己を呼ぶように悧羅に伝える。ますます首を傾げる悧羅に頼むからと願うと、よく分からないのだろう。きょとりとしながらも、妲己と穏やかに呼んでくれた。何処からともなくするりと現れた妲己に、紳が呼んだ、と伝えてくれている。
“何だ、ヌシか。我を呼びつけるなど…”
鼻を鳴らしながら紳を見た妲己がその顔を見て近づいてくる。耳を紳の顔に寄せると悧羅に聞こえないように用件を伝えられて、承知とまたするりと消えた。妲己ならば面も通っている。すぐに連れてきてくれるはずだ。
「何がどうしたというのだえ?」
消えた妲己を見ながらまだきょとりとしている悧羅を抱き起こして紳が強く抱きしめる。精気を送り込むことを速めながら、どうか保ってくれと湧き上がってくる震えを悧羅に気取られないように大きく紳は息をついた。紳?、と腕の中から見上げている悧羅にごめんと謝るとまたきょとりとしている。
「何を詫びておるのだ?ただの古疵の痛みじゃ。気に病んでおるのか?それならば気にするな」
青白い顔のままで微笑みながら気遣う悧羅に紳は何も言えない。もしも紳が思っていることが間違いでなければ深く悧羅を傷付ける事になってしまう。自分のことばかりに気を取られ過ぎて悧羅のことを蔑ろにしてしまった罪ということか。唇を噛むしかない紳の頬に悧羅が触れた。
「どうした?何をそのように案じておる?」
うん、と言いながら身体を冷やさないように布団で悧羅を包んでから抱きしめ直す。ごめん、ともう一度謝ると、だから何じゃ?、と悧羅はきょとりとしたままだ。
「俺って本当に最悪だよ」
嘆息する紳の胸に擦り寄りながら精気を送り込まれて悧羅がほうっと息をついている。やはりかなり身体が気怠かったのだろう。
「何をそう思うておるのか知らぬがな…。紳が最悪なものか。妾の一番の伴侶なのだえ…」
送り込まれた精気で腹の痛みも幾分か和いだのか、とろりと微睡み始める悧羅に休めるなら休んでていい、と紳が伝える。紳は?、と尋ねられて、妲己を待つと応える紳にやはり何か案じているのだ、と悧羅は思う。だが何をそんなに案じているのかが分からない。聞いても応えてはくれないだろうと思い直して目を閉じようとすると部屋の戸が静かに開けられた。御簾ごしだが妲己の気配ともう一つ。何とも懐かしい気配に、おや?、と悧羅が身を起こそうとした。それを紳が留めて妲己にこちらに通すように伝えている。戸が閉められて、少し体躯を大きくした妲己が御簾を上げると、おやおや、と微笑んでいる妓姣の姿があった。妓姣、と驚く悧羅を強く抱きしめて紳が礼を言っている。何が何やら分からないでいる悧羅の腹に妓姣が触れる。退いていた痛みが僅かに戻ってきて顔を顰める悧羅を紳が強く抱きしめてくれる。
「お久しゅうございますな、長様。…で、いつからでございましょうや?」
何が?、と聞く悧羅に、痛みですな、と妓姣は穏やかに微笑むばかりだ。
「痛んできたのは五日ほど前からかの…。なれど妓姣、先だって物忌みはあったえ?何故其方が呼ばれたのかが妾にはとんと分からぬ」
うんうん、と頷きながら、よいしょ、と妓姣は立ち上がって悧羅の足元に座り直した。
「少しばかり失礼いたしますよ、長様」
は?、と驚いている悧羅を横目に妓姣が腹の中を診始めた。紳を受け入れることには慣れているが、こればかりは悧羅も慣れない。身体を預けていた紳の胸をつい掴んでしまうと、頑張れ、と紳が抱きしめる腕に力を込めてくれた。六人産んだがその都度診られていたよりも長い刻をかけて妓姣に腹の中を診られて大きく息をつかなければやり過ごせなかった。どうにか妓姣の診察が終わった時には悧羅の額には薄らと汗が滲んでいた。ようやく解き放たれてまた痛みだした腹にも顔を顰めてしまう。いつの間にか妲己が持ってきていた手桶で手を洗う妓姣に紳が声を掛けると静かに頷いている。
「…もう少し遅うございましたら間に合わなんだ。大事に至らずようございました」
よいしょ、と立ち上がって悧羅の横に座ると額に浮いた汗を手拭いで拭き始める。何のことじゃ?、と紳を見上げるとぼろぼろと泣いていた。
「何じゃ、どうした?」
手を伸ばして涙を拭いてやると力が抜けたように大きく息をついている。その姿に妓姣も、おやおや、と笑いながら紳に手拭いを渡すと受け取った紳がますます咽び泣いている。妓姣?、と悧羅が声をかけると穏やかな笑みを浮かべて、ほほほ、と笑う。
「お話致しましょうや。まず初めに長様、御懐妊しておられるよ」
は?、と声を上げて身体を起こそうとすると今度は紳ではなく妓姣に止められた。
「いや…なれど…。物忌みはあったえ?それに今になってか?」
「今になってとは申されても長様の身体はまだ老い始めてはおられぬではないか。むしろ最後に婆がお会いした頃よりも若々しくあられる。何のことはない」
なれど、とまた身体を起こそうとして、これ、と悧羅は妓姣に止められてしまう。無理をなさってはならぬ、と強めに言い置かれて紳を見上げるが手拭いを顔に当ててまだ泣き続けていた。何が何やら、と嘆息する悧羅に妓姣が落ち着くようにと言いながら頬を撫でた。
「まずは御懐妊はしておられるが危ういところであったと申し上げましょうや。どうにか婆が間におうたようですがの、今無理をなされば御子は流れる。婆が善と言うまで床から出てはなりませぬ。宜しいな?」
「そうは申しても…、妾には真とは思えぬえ?」
首を傾げる悧羅に妓姣が続ける。
「長様が物忌みと思うておられたは御子が流れ出ようとしていたもの。どうにか留まられたが辛うて母君に痛みを出して教えなさったのであろう。ほんに腹の中でよう堪えた良い子じゃて」
ほほほ、と笑う妓姣に、間に合った、とようやく涙が止まったのか紳の声がした。
「よう婆を呼んでくださったの、旦那様。明日であれば間に合うてはおらなんだでしょうや。宜しいな、旦那様。婆が良いと言うまで長様のお側を離れてはなりませぬぞ?」
穏やかな妓姣の言葉に紳は何度も頷いている。
「長様ようと思い出してみられよ。物忌みの間が少しばかり長かったであろ?本来であらばそのままないものであったはず。無理をなさったりはしておられなかったかえ?」
いや、と首を振る悧羅を紳が強く抱きしめた。
「俺が無理させてた。…色々あってたから…」
紳の応えに妓姣が満足そうに微笑んだ。
「どうにか御子が堪えられるように手助けは致したが、ほんに大事ないとは申せませぬ。お伝えになられるのはほんに近しい方のみになされよ」
うん、と紳が頷いているが悧羅にはまだ信じられない。妓姣と呼ぶと、婆を信じなされと諭された。どうやら戯言ではないらしい、と悧羅は大きく息をついた。まさか今になってまた子を授かるなど、と腹に手を当てると小さく笑いが出てしまった。
「婆もしばらくは連日参る。お許しいただけますかな?」
「有難いが…。ならば妲己か哀玥を迎えにやろうて。妓姣の良き刻を妲己に伝えてくりゃれ」
「おやおやそれは婆の方が有難い。ではくれぐれも床から出てはなりませぬぞ?それから腹の痛みが酷うなったらすぐにでも婆を呼びなされ」
よいしょ、と立ち上がった妓姣を送るように悧羅が妲己に伝えると一度擦り寄ってから、御意と二人で部屋を出て行く。あまりに一度に信じ難いことばかり起きてしまって苦笑してしまう。それにしてもよく紳が気づいてくれたものだ、と悧羅は紳を見上げる。
「すまぬな、紳。…ようやっと二人の刻であったのにもう一人増えるそうな…」
くすくすと笑う悧羅に紳が勢いよく首を振って見せた。間に合わないと思った、とまた涙を浮かべる紳に、おやまあと悧羅が手を伸ばす。
「俺が無理ばっかりさせてたから…。物忌みの時期も知ってたのに気づいてやれなかった。ごめんな、本当に辛かったよね?」
「いや…、妾も気付いておらなんだしの。紳が気付いてくれなんだなら知らぬままであったろうよ。やはり妾の紳は秀でた者であったの」
笑い続けながら紳の胸に擦り寄って悧羅は安堵の溜息をついた。妓姣の手当の賜物だろう。鈍く続いていた痛みも和らいでいる。加えて紳が精気を分けてくれているのでこの所続いていた気怠さも僅かばかり軽くなったような気がした。悧羅を胸に抱いたまま紳も布団に入って悧羅の身体をゆっくりと横たえる。
「とにかく間に合ってよかった。妓姣の言いつけも守らなきゃならないから、しばらく務めから離れようね」
横たえた悧羅をもう一度引き寄せて額に口付けると床から出なければ良いのであろう?、と悧羅は笑っている。
「それよりも子ども達に何と伝えようかの?妾でさえ信じられぬ故、驚くであろうな」
「そんなの喜ぶに決まってるよ。俺がちゃんと伝えるから悧羅は身体を大事にして。本当にごめんな。哀しい思いをさせるところだった」
まだ本当に安心するのは早いのかもしれないが大きく息をついて紳は悧羅を抱きしめた。絶えた血や千賀の事ばかりに気を取られすぎていた自分を本当に殴りたかった。血が絶えようがこうしてまた紡がれていく生命もあるのだ。自責と後悔にばかり呑み込まれて一番大切なことを忘れてしまうところだった。
「でも誰にまで伝えるかが難しいところだけどね」
髪を梳いてやりながら身体を優しく叩いてやると悧羅がすぐにとろりと微睡み始めた。
「まだ早いから磐里達が起こしに来るまでは休もう」
うん、とすでに眠りに入りながら悧羅が紳の胸に擦り寄ってくる。その身体を抱きしめて精気を送りこみながら紳も目を閉じた。
大分寒くなってきました。
皆様ご自愛下さいませ。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。