縁【伍】《エニシ【ゴ】》
遅くなりました。
日常回ですが更新いたします。
宮の縁側で腰掛けて中庭を眺める紳に悧羅が声をかけた。いつもの穏やかな笑顔で振り向いてくれた紳が歩いてくる悧羅に向かって両の腕を広げてくれる。それに小さく微笑んで腕の中に収まるとふわりと抱き上げられて膝に乗せられた。務めを終えて戻ってきたのは酉の刻を廻っていたがそのまま湯殿に入った紳が縁側に座るまで自室で荊軻からの報せに目を通していたのだが思いの外、没入していたようだ。紳の横には膳に乗せられた酒瓶があるが手をつけられてはいない。悧羅が務めを行っていたので声も掛けずにそのまま座っていたのだろう。
紳の視線を辿ると中庭の池に浮いた蓮の華を捉えている。仄かに輝くそれを紳が持ち帰ったのは十日前のことだ。栄州と共に千賀の縁者達にこれまでの事を話しに行ったはずなのだが戻って来た紳の手にはそれが乗せられていた。言いつけ通り宮で待っていた悧羅は紳がその華を持っていることよりも、如何ともしがたい顔をしている事が気になった。何があった?、と尋ねた悧羅に紳も栄州も、血が絶えたと応えた。紳の手に華がある事と二人の言葉で縁者達の生命が終わったのだろうとは分かったけれど、それでもそれ以上は話したがらない。池に華を浮かべる紳に千賀の邸に連れて行ってくれと頼んだが、もう誰も居ないし何も無いと小さく笑うばかりだった。その微笑みが痛々しくて再び何があったのか、と問う悧羅に教えてくれたのは栄州だった。
「全てを話し終えた後、紳様に伏して詫びておったのですがそのまま…。砂となって土に消え残った物は衣とその華のみでございました」
目を見開く悧羅もそれが王母の所業であることは容易く分かったけれど、それがこうも唐突に起こるとは思っていなかった。先々血が絶えることはあるだろうと重鎮達とも話してはいたが、ゆっくりと火が消えるように絶えていくのだろうと考えていたのだ。何より王母が自ら里の民達に手を下すなど思ってもいなかった。干渉を許すことを善としない王母が千賀達、酊紂の血に関わる者達へ呪をかけている、と思っていたのも王母に確かめたわけではない。ただ悧羅がそう考え思っただけだ。だが紳が持ち帰った華はそれが正しかった事を示すと共に王母の怒りが悧羅が思っていたよりも大きかったことを知らしめるには十分過ぎた。邸は?、と尋ねると紳が首を振った。焼き払ったということなのだろう。そうか、と小さく頷いて悧羅は紳の頬に触れた。触れた頬を撫でながら微笑むと紳がその手を包んだ。うん、と頷いた紳を見て栄州が小さく礼を取って去って行くと悧羅の細い肩に紳の頭が乗った。白く長い腕で身体を包まれると目頭が熱くなる。
「…悧羅…、お願いがあるんだけど…」
身体を悧羅の肩に預けたままで呟く紳に、分かっておる、と悧羅の柔かな声が届いた。
「慰める約束であったからの」
ぽんぽんと背中を叩いて是を示した悧羅に、優しく出来ないかもと断りを入れる紳の耳元で悧羅が小さく笑った。
「…そのような事を気にするでないよ…。紳の好きにして構わぬ。なれど紳の辛さは半分分けておくれ。甘えさせてやりましょうと言うたは妾であったではないか」
うん、と言う言葉を最後に紳は悧羅を抱き上げて胸に押し付けながら自分の顔を見られないように寝所に運ぶ。今顔を見られては堰きを切るように思いが溢れてしまうだろうと思ったのだが、寝所に横にした悧羅はすぐに紳の頬を両手で包んだ。顔を見られたくなかった紳が視線を外そうとするのも名を呼んで引き留める。
「…さあ、其方の哀しさを分けてたも…」
引き寄せて深く口付けられると紳が小さく、ありがとうと呟いてその後は悧羅を抱き続けることでどうにか自分を保つことが出来ていた。
あれから十日経とうというのに紳の活気は戻らないままだ。尋ねれば大丈夫だと応えてくれるのだがそれが心からの言葉でない事を悧羅は知っている。これまで悧羅が務めをしていようと宮に戻ればすぐに側に侍ってくれていたのに近頃では宮に戻り食餌や湯を使うと自室前の縁側に腰掛けて華を眺めているばかりなのだ。無理もない、とは思う。目を掛けていた千賀が間諜だったばかりかその縁者全ての血が絶えるのを目の当たりにしたのだ。本来であれば泣き叫びたいほどだろう。紳がそれをしないのは悧羅を護ろうとする王母の意志を強く感じ、それは紳も同じだからなのだと思う。以前王母が紳と共に場へ呼びつけたのも如何に悧羅が特別なものなのかをもう一度植え付けたかったのかもしれない。だが何処へ心内の哀しみをぶつければ良いのか分からずにいるような紳の姿を見るのは悧羅には辛い。紳、と名を呼ぶと視線が池の華から悧羅に落とされた。
「…妾を恨んでくれても良いのだえ?」
呟くように言ったのだが紳は目を見開いてすぐに穏やかな笑みを浮かべると悧羅を抱きしめる腕に力を込めた。
「何で悧羅を恨まなきゃならないのさ?」
「王母の怒りは妾あってのこと。ならば妾の責でもある。何処へやれば分からぬ哀しみならば妾が背負う」
紳の頬に触れながら言葉を紡ぐと、馬鹿だなあ、と紳が微笑んだ。そのまま軽く額に口付けられて目を細める悧羅に紳が微笑みを深くする。
「もう半分背負ってくれてるじゃないか。悧羅を恨むなんてこと考えてもいないよ」
なれど、と見つめる悧羅に紳が静かに首を振る。哀しくてやるせないのは事実だしそれを隠そうとも思わない。近衛隊隊長として務めに出ている時は毅然としていなければならないが、宮に戻れば何も言わずに側に居てくれる悧羅に気持ちを隠すことはしない。それをすれば悧羅も余計に自分を責めるだろうし、隠していても契りの傷痕から通じてしまっているだろう。
「其方の助けになれぬのは妾も痛い」
「十分すぎるほど助けになってるんだよ?悧羅が居なかったら多分自分を保ててないから」
本当だよ?、と見上げる悧羅に口付けて更に抱きしめる腕に力を込める。そのまま契りの傷痕を重ねると大きな哀しみと悧羅への感謝と愛情が悧羅の身体に流れ込んできた。ね?、と唇を離して触れ合う距離で囁くように紳が言う。
「寝所では無理ばっかりさせちゃってるしね。…あんまり優しくしてやれてないから」
苦笑する紳に、そのような事はないと悧羅が伝えるけれど、それにも紳は首を振る。千賀の血が絶えた後から悧羅に無理を強いているのは分かっている。抱いている間は悧羅の事だけ考えていられるのだから溺れている方が楽だった。いつもなら悧羅が意識を手放してしまったら紳も限界であったから共に眠っていたけれど、離してしまうと一人哀しい思いに飲み込まれてしまいそうで無理やりに悧羅を起こして情を交わし続けている。それがどれほど悧羅にとって苦痛であるのかなど分かっているのに止められないのだ。悧羅も千賀の一件で荊軻と里の護りや民達の暮らしを更に穏やかなものにするために昼間は務めが多くなっているというのに、夜になれば紳が離さないのだから身体は疲れ切っているはずなのだ。いつもなら物忌みの間だけでも離してやれるのに今回ばかりはそうもいかず、湯殿で組み敷き続けた。本来ならば許されない事だろうが硬く冷たい湯殿の床であろうとも悧羅は否とは言わなかった。
「妾と情を交わしておる間だけでも其方が癒されるのであらば、それ以上の倖があろうか。如何ようにしてくれても良い」
ごめんね、と謝る紳に悧羅が微笑んだ。
「優しくしようなどと思わずとも良いのだえ?紳はどのような時であれ妾に触れてくれる手は慈しんでくれておるのが伝わるでな」
「そう?結構酷いことしてると思うよ?」
「なんの。どうということもない。妾が乱るのことで紳が癒されるのであらば、どれほど壊してくれようとも構いはせぬ。紳であらばどのようなことでも妾は満たされる故」
白く細い腕が紳の首に廻されて引き寄せられるとそのまま深く口付けられて紳も少しずつ沸るのを抑え切れない。少しばかり緩めていた腕に力を込め直して片手で悧羅の頭を押し付ける。唇が離れてしまわないように押さえ込んで弄ぶように口付けを交わすと解放した時には悧羅の息は乱れ目も潤んでいた。
「今日も駄目みたいだよ?」
抱き上げたまま立ち上がって部屋に入り戸を足で閉めると足速に紳が寝所に滑り込んだ。
「紳の望むままに」
寝間着を剥ぎ取られながら微笑む悧羅の片足を抱え上げて何の前触れもなく一気に紳は中に入り込んだ。受け入れる支度も出来ていなかった悧羅の顔が一瞬苦痛で歪む。
「ごめん、やっぱり優しくないや」
痛みに耐えている姿でさえ紳を沸らせるには十分だ。少し動くとやはり痛むのだろう、眉を寄せる悧羅に口付けながら自嘲する紳に腕の中から悧羅が首を振ってみせた。
「其方は優しすぎる。どのようにしても構わぬと言うたは妾なのだえ?謝ることなど何もない」
ようやく馴染んできた紳を感じて悧羅はその背に腕を廻した。ふう、と大きく息をついた悧羅にもう一度口付けて紳が動き出すとまだ痛むだろうに甘い声を聞かせ始めてくれる。痛いでしょ?、と突き上げながら尋ねると紳の背中に爪を立てながら首を振る悧羅に紳は苦笑するしかない。中に入っている紳に分からないはずがないのにとは思うが一度入ってしまうともう止まれないのだ。突き上げ続けると少しずつ悧羅の中も潤って痛みも無くなったようだった。甘い声と喘ぎの中で紳に応える悧羅を強く抱きしめて、ありがとう、と耳元で囁く。もうしばらくすればきっと自分の気持ち落ち着ける事が出来る。悧羅がこうして癒やしてくれている限りそれがそう遠い日のことではないだろうと思いながら、その夜も紳は悧羅を組み敷き続けた。
明け方近くまで組み敷き続けてようやく二人が微睡むと深い眠りに落ちる前に部屋の外から磐里と加嬬の声がした。この所これがいつもの事だった。殆ど眠らない内に起こされてその日の務めが始まってしまう。いつもなら微睡む目を擦りながら紳の上で目を覚ます悧羅も心配をかけまいとしているのだろう。すぐに目を覚まして紳よりも先に寝間着を羽織り戸を開けてくれる。少しでも休めるならば休んで欲しいという悧羅の思いだろうが、それにも甘えてしまっている自分が紳は情けなくもあった。御簾の外から、おはようございます、と磐里と加嬬の明るい声がして悧羅も笑いながら相手をしてくれている。本来ならそれは紳がすべき事であるのに。
「湯殿のお支度も整っておりますよ」
いつものように二人がそう言い残して戸を閉めると悧羅が御簾の中に水差しを持って入る。うつらうつらとしている紳を見て枕元に座ってからそっと頬に触れて、もう少し休んでたも、と小さく呟きながら立ち上がる気配を感じて、悧羅、と紳が呼ぶ。微睡む中から呼ばれて悧羅が再び枕元に座した。
「何じゃ?まだ眠っておってよいのだえ?朝餉も此方に運ばせるように言うた」
うん、と応えながら手を伸ばして悧羅の手を握る紳に、何処にも行かぬよ、と柔かな声が聞こえた。握った手を包まれてその温かさに微睡みが深くなるのを感じる。
「ここにおる故、少しばかり休みや」
包まれた手をさすられて、うん、と応えた紳の意識はそこで深く眠りに落ちていった。
自室の外が少し騒がしくなって紳は重い瞼を上げた。枕元に座っていてくれたはずの悧羅の姿も無く御簾の外から声がする。悧羅ともう一人は荊軻のようだ。
「…故、今日のところは休ませてやってたも。何であれば妾が出る」
「長がお出になられずとも私と枉駕で足りるというものでございますよ。それよりも長も少しお休みになられた方がよろしいのでは?」
何か渡しているのか床に置かれる音がする。荊軻の進言に、大事ない、と小さく笑う悧羅の声がした。続けて、ですが、と荊軻の嘆息が聞こえる。
「私が申し上げる事でもございませんでしょうがお顔色が優れておりませんよ?…あまりお休みにもなられておられないのでは?」
「なんの、大した事はない。妾よりも紳の心内の方が大事なことじゃて。…そう容易く癒えるものでもあるまいが…」
小さく嘆息する悧羅の吐息が聞こえて紳は思わず御簾を上げようとして手を止めた。どうも自分の事を話しているようだがやはり悧羅が無理をしているのは荊軻の目から見ても明らかなのだろう。
「それはそうでございましょうが…。長、少しお痩せになられましたよ?何でございましたらしばらく紳様とお籠りになられても…。私が近衛隊をお預かり致しても宜しいのですから」
荊軻の言葉に悧羅が小さく鈴を転がすように笑っている。珍しいこともあるものよ、と笑い続ける悧羅を、長、と荊軻が嗜めた。
「荊軻から籠れと言われるとは思わなんだ。早う出て来やとは言われておったがのう」
「それは長が限度というものをお知りにならなかったからでございましょう?またその様な事がございますれば都度申し上げますよ。…私も有事の時には急かしたりなど致しませんでしょう?」
肩を落としながら、全くと又嘆息する荊軻に悧羅は笑いが止まらない。確かに悧羅が紳を必要とする時に幾日籠っても叱られたことはない。惑わしを使った後などは出てくるなとは言われないが残滓として感じ取るのだろう。何も言わずとも荊軻が近衛隊を預かり気を長くして紳が悧羅を鎮めるのを待ってくれる。その荊軻が紳を思って悧羅に籠れと言うなどとは思わなかった。くすくすと笑い続ける悧羅に、やれやれ、と荊軻が溜息をついた。
「紳様は長に安らぎを下さったかけがえのないお方です。苦しまれておられるのを一番見ておられるのも長でございましょう。後の事はお任せ頂いて紳様をお癒しになられることと長も少し休まれませ」
穏やかな声音で言われて悧羅も小さく続いていた笑いを止める。心からの心配であることは分かっているつもりだが、これまで言われてこなかった事ばかりに少し戸惑いもする。
「気にしてくれるは嬉しゅうあるがな。妾のことならほんに案ずることなどない。宮から出るような務めでもないでな。紳も今籠れと言われても受け入れぬであろう。…千賀の事をしかと受け止めておるからこそ今近衛隊を離れる事を善とはせぬよ。今日ばかりはほんに久方振りによく眠っておる故に、妾の一存で休みをやってくれと其方に申しただけのこと」
「では紳様がお務めの合間には少しばかり長もお休み下さいませ。主だったことは私で務まります。長がお倒れあそばしましたらどうなさるおつもりですか」
諭すような荊軻の言葉に悧羅は首を振った。紳が堪えて務めに出ているのに自分ばかりが休んでいては申し訳が立たない。
「ほんに妾は大事ない。今、妾が第一に考えねばならぬのは紳の心の疵を一刻も早く癒えるようにすることじゃ。…どうすれば良いのかは分からぬがな」
小さく微笑んだ悧羅に、無理だけはなさらぬように、と諦めたように荊軻が礼を取って衣擦れの音と共に遠ざかっていくのが御簾の中の紳にも伝わった。しばらくして悧羅も立ち上がったのか衣擦れの音がして、からりと戸が閉められたのが分かる。小さく嘆息しながら卓に置かれた文書に目を通すために座ろうとした所で、悧羅、と紳が声をかけた。声のした方を悧羅が見やると御簾を少しばかり持ち上げた紳の顔が目に入った。おや、と座ろうとしていた卓から離れて御簾の中に入るとまだ紳は横になったままだ。枕元に座ると膝の上に紳の頭が置かれる。
「…起こしてしまったかえ?すまなんだ」
置かれた紳の額を悧羅が撫でると、いいや、と紳がころりと体勢を変える。悧羅の腹に顔を押し付けて抱きしめるとはだけた布団をかけ直してくれた。
「そんなに眠ってた?」
悧羅の匂いに包まれて安堵の息をつくと、もう陽が高い、と柔らかな声が降って来た。
「あまりに良く休んでおったようでな。一応声はかけたのじゃが…。勝手かとは思うたが休みを取らせたえ。時にはゆるりとするも良いものじゃ」
うん、と頷いてますます悧羅の腹に顔を押し付ける様に引き寄せる。容易く片腕が廻ってしまうほど悧羅の身体は細い。近頃無理をさせているとは分かっていたが荊軻が心配するほど痩せたり顔色が悪かっただろうか、と振り返る。痩せたのは抱き心地で何となく気づいていたけれど顔色までは気づかなかった。ちらりと視線だけを上げて見ると穏やかな微笑みを浮かべながら悧羅は紳の髪を梳いてくれている。御簾の中は薄暗く明るい場で見ているわけではないが何となく青白い。もともと透き通るように白い肌だ。よく考えてみればこの所明るい場で悧羅の顔をしっかりとみていなかったような気がした。朝共に過ごす刻は短いし務めに出てしまえば紳が戻るのは宵も更けてからだ。今までは戻ればすぐに悧羅の側に侍って体調を見ながら精気を送り込んでいたが、縁側で物思いに耽けるようになってから診ていなかった気もした。
情は交わす刻は長いから悧羅の中に入っている間は多少なりとも紳の精気が流れ込んではいるだろうが意識的に送り込むのとは全く異る。廻した腕を解いて悧羅の額に触れる。どうした?、と微笑む悧羅に小さく笑って精気を探ると触れることが出来て一先ず安心する。これで枯渇などさせていたら紳は自分を許せなかっただろう。額の腕をもう一度細い身体に廻して精気を送り始めると、ほうっと小さな溜息が聞こえた。
「やっぱり無理させてたんでしょ?ごめんな」
謝る紳に、なんの、と悧羅が小さく笑い出した。
「何も無理などしておらぬ。紳こそ妾に精気を送ってくれるは有難いが心配要らぬ故、今しばらく休んでみてはどうじゃ?」
このままでも構わぬぞ、と頬を撫でられるのが心地良くて安心できてまたとろりと微睡んできてしまう。
「じゃあ悧羅も一緒に休もうよ。疲れてるんでしょ?俺が居ない間も色々あるんじゃないの?」
「妾の務めなど大した事ではない。気にせずとも良いから…さあ、しばし休みや」
優しく童をあやすように頬を撫でられながら布団の上からぽんぽんと身体を叩かれて押し寄せてくる眠気に逆らえず紳はまた眠りに落ちてしまった。
“…りは此処で宜しいですか?”
低い妲己の声が遠くで聞こえた気がして紳は少し身体を動かした。しっかりと目覚めていない頭に、すまぬな、と悧羅が礼を言っているのが聞こえた。紳を起こさないように二人とも気を遣っているのだろう。ひそひそと話しているようだ。すぐ真上で文書を巻き取る音とまた開く音も聞こえる。
“主、我に寄りかかられては…。やはりお顔色があまりよろしくありませぬ”
「灯りのせいであろうよ。ほんにどうもないのだえ?…何であらば共に翔けて見せようか?」
“またその様なお戯れを申されて…。哀玥も案じておりましたよ?忋抖若君が暴走を止めて欲しいと仰せであられた故侍っておりますが主のお側におりたいようでございました”
妲己の言葉に、おやまあ、と悧羅が小さく笑っている。
「ほんにどうもないと言うておるに…。皆妾に甘すぎて困ったものじゃな」
くすくすと笑う悧羅に、やれやれと妲己の嘆息が聞こえて、そこでようやく紳が目を開けた。一番に見えたのは悧羅の顔でも妲己の顔でもなく文書の一部だった。部屋に灯りが入っているということは夕刻は既に過ぎ去っているのだろう。頭の下に柔かな悧羅の脚がある事に気づいて慌てて身を起こす。悧羅の持っていた文書に当たってしまい転げ落ちたが、起きたのかえ?、と穏やかな声がするばかりだ。
「刻は?!」
焦る紳に戌の刻を廻った、と妲己が教えてくれる。一度目を覚ました時は陽が高いと悧羅は言っていた。一体どれくらいの刻を悧羅の膝の上で過ごしてしまったのだろう。落ちて転げた文書を妲己が拾い上げて咥えて悧羅に渡している。長く同じ体勢を強いてしまったので動けないのだ、とすぐに分かる。
「悧羅ごめん。え?どれくらい?」
慌てて悧羅の脚を崩させようとするが、なんの、と笑って制された。
「四刻半ほどかの。よく眠っておったようで安堵したえ」
今脚に触れると体勢を保てないのだろう。四刻半も紳を膝に乗せていたのであれば脚の感覚があるのかも怪しいところだ。やばい、と思いながらも悧羅の両脇に手を入れてゆっくりと浮かせると痛みがあるのか少しばかり眉根を寄せている。そのまま脚を伸ばすと痛みが来ない様にまたゆっくりと座りながら悧羅を膝に乗せた。途中膝が伸びず曲がらずで妲己がそっと手伝いながらではあったがどうにか同じ体勢からは解いてやる事ができた。衣をずらして脚を確かめると血の通いが悪かったのだろう。脚は青白く所々色が悪い。血が良く通い出した事でじわりと痺れ始めた脚に悧羅がますます眉根を寄せた。動かせるか、と尋ねると、しばらくすればなと笑って悧羅は応えた。
「四刻半も同じ体勢でいてくれてたら、こうなって当たり前だよ。何で降さなかったの」
さすると痛みが強くなるだろうからぐっと堪えて言う紳に悧羅は笑うばかりだ。
「降ろすなど勿体のうて考えもせなんだ。珍しゅうに妲己が代わるというてくれたがの。如何に妲己といえども譲るわけには参らぬからの」
“ですから我に身体をお預け下されと申し上げたのです”
笑う悧羅を責めるように妲己が大きく嘆息する。よく見れば枕元には十近くの文書が積み上げられていた。紳が眠っている間、動くこともせず妲己に持ってきてもらい務めを進めていたのだろう。色を取り戻し始めた脚を見ながら謝る紳に、何を詫びることがある?、と悧羅は笑いを深くした。
「紳を癒すは妾にのみ許されたこと。脚の一つや二つで紳がゆるりと休めたのであらばそれで善」
「だからって無理ばっかりしないでよ」
「無理などしておらぬよ。妾にとりても良き刻であったほどに」
痛みが退いてきたのか少し自分で膝を曲げ始めた悧羅に、痛むよ?と言い置いて紳が抱き上げて立ち上がる。湯殿で温めながらさすったほうがまだ早く戻るだろう。妲己に磐里と加嬬への言伝を頼んで紳は湯殿に向かう。
「少しばかりは疲れもとれたか?」
腕の中から尋ねられて、そういえばと紳は思った。昨夜まで残っていた鬱々とした気持ちも気怠かった身体も何処かすっきりとしている。ぐっすりと眠れたことで落ち着きを取り戻したということだろう。
「うん。何だかすっきりしてる。悧羅のお陰だね。ありがとう」
腕の中の悧羅に口付けると、それは宜しかった、と笑っている。脚が痛むだろうにここまで癒やしてくれたことに申し訳なくも思ったが今度は紳が悧羅を労る番のようだった。
ゆらりゆらりと日常回を入れながらお話を続けて参ります。
お付き合いいただき嬉しいです。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。