糺す【弐拾】《タダス【ニジュウ】》
おはようございます。
一気に寒くなりましたね。
更新いたします。
にっこりと微笑んだ悧羅は目の前で小さく震えながらも歓喜の表情を止めない老いた人の子を眺めやった。狐仙に跨ったその者は歳の頃で言えば60から70程か。人の子の短い生にしては長く生きている方だろう。だが見てみればその身体には多くの精気は残っていないようだ。放っておいても数年で定命を迎えるだろうと思われた。背後に付いてきている妖達を使役するためにそれなりの能力は使っただろうが自らの力量は分かっているのか九尾狐がいない。居たとしても大した事ではないが、仮にも大国で大妖として名を轟かす九尾狐と争わなくて良いのならば悧羅にとっても有難い。敵対するよりも手を結びたいほどの相手ではあるからだ。
しかし何とも卑しい顔つきだ、と悧羅は自分を舐めるように見つめ続ける老いた人の子から視線を外したい気持ちになった。その昔京の帝が悧羅を欲した時よりも下卑た視線が刺さってくる。晴明が好かぬ、といった訳も分かるというものだ。男の後ろに控えるように座っている数多の妖達を見ながら、やれやれ、と悧羅は小さく息を落とした。意識下で人や妖惑わすを雰囲気を少しずつ出していく。急激に出してしまうと悧羅の後ろの子ども達も隊士達も、果ては戻ってきた枉駕達も耐えられないからだ。…少しずつ甘い匂いが広がり漂う中で荊軻だけは悧羅を見ないように努めている。一度見たことのある荊軻が今の段階でこの反応ならば、隊士達や子ども達が自分を保てるとは思わない方がいいかもしれない。小さく苦笑して悧羅は男を見据えた。
「其方が蘆屋道満と申す者か?」
静かな宵闇に悧羅の声だけが響いてその場にいた者たちの背中がぶるり、と震えた。今まで感じたことのない感覚に自分の手足があるのか確かめるものまでいる。それは蘆屋道満と呼ばれた男も異ならなかった。名を呼ばれただけで全身から震えが走って甘美な気持ちに陥ってしまいそうになる。どうにか堪えて、そうだ、と応えると、何故に?、と尋ねられた。
「何故に千賀と共に妾らの安寧を崩さんとする?」
声が響くたびに自分の周りの甘い匂いも強くなってくる。その匂いさえ年老いた身にも関わらず自分が久々に沸り始めさせられていることにも道満は驚いてしまう。これ程までとは思ってもいなかった、と歓喜の余り大きく嘆息してしまう。企てを共にした千賀も十分に眉目秀麗な男だった。だが、目の前にいる者達はその秀麗さの遥か上にいる。額には黒曜石や真珠色の一本角を有し、その場に立っているだけでも自分の持っているものであれば全てを捧げたいとさえ思ってしまう。これでは何の能力もない只人ならば夢現の間に精気を狩り取られてしまうのは明白だ。
「安寧を崩そうなどとは思うておらぬ。儂はお前に会いたかった」
おや、と悧羅は小さく首を傾げてみせる。その間にも辺りは甘い匂いに包まれて少しずつ強くなっていく。
「何故、妾に会うてみたいと思うたのだえ?」
ますます甘い匂いが広がる中で静かに悧羅は尋ねるが背後の隊士達の中には呆然と膝を折り出す者まで出始めている。それは子ども達も同じようでどうにか耐えてはいるが身体の芯が痺れだすのを止められない。
「いとも単純な話よ。お前はあの安倍晴明と懇意にしておるのだろう?」
「何故にそう思うのじゃ?」
晴明の名が出たことに悧羅は訝しんだ。京の帝達を堕とした時の人の子は殆どが黄泉に渡ったと聞いていたし、悧羅達を直に見たことのない者達は只の噂話として語っているはずだ。それ以降姿を現すこともしなかったし、関わりを持っていた人の子が全てこの世を去るまで待ってから里を移した。噂話として流れているならば、わざわざ晴明がそれを正すとは思えない。真であると知れればまた帝のような痴れ者が出てくるのは分かりきった事であったし、何より晴明自身、悧羅達との繋がりに関わって欲しくはないはずなのだ。人形の礼を述べに行った時の変わらない晴明の態度に紳も悧羅もそう感じていた。通じられる優越感がそうさせるのかもしれないが、晴明の考えはどちらかといえば妖に近い。全てをあるがままに受け入れている。それが例えどれほど人の子にとって無情なものであったとしても。そんな晴明が自ら関わりあいたくないと笑っていた道満に悧羅達の事を話して聞かせているとは思えないのだ。
「お前たちが現れたと聞いた時に晴明に尋ねたが知らぬという。現れた時に帝が晴明を呼ばぬのは有り得ぬことだ。探れば探るほどに怪しい。晴明は人にして人に非ず。妖に近しいからな」
なるほど、と悧羅はごちた。怪しんで調べていたが確かなものも得られずにいた所を千賀と会った、ということか。そういうと、然り、と道満は大きく両手を広げた。話には聞いていた、と。
「これほどまでとは思っていなかった!美しいとは聞いていたがこれほどまでとは!お前を切り裂き磔て、その血肉を啜ればあんな晴明など儂の足元にも及ばなくなる!儂が希代の陰陽師として名を馳せることができる!何より晴明ですら手に入れる事の出来なかった鬼の長を儂が手にしたと知ればどのような顔をするであろうな?」
それこそ愉悦、と言い放つ道満は周りが見えていないのだろう。下卑た高笑いを響かせながら何ともいえない高揚感に身を委ねている。やれやれ、とまた嘆息しながらそれまで少しずつ出していた惑わしを悧羅は一気に解き放った。咽せ返るほどの甘い匂いが辺りを包んで子ども達と隊士達が一斉に膝を折った。隣に立っていた紳も間近で当てられてその場でかき抱きたくなるのを必死に堪えて、悧羅の背後から抱きしめるだけに留める。触ってしまえば終いなのだが、触らずにはいられない。
そしてそれは目の前の道満も同じだったようだ。広げていた両手がだらりと落ちて息をするのも忘れているかのように見入っている。
「…其方は晴明には成れぬ。妾らを自分の糧にしようとしか思うておらぬ者と懇意にするはずもなし…」
聞こえてくる声が遠いところから聞こえているような感覚に襲われて頭の芯から手足の先まで痺れてまるで情を交わしている時のような官能が広がってくる。このままではならぬ、と呆っとする頭で身体を奮い立たせながら道満は左の指を思い切り捻った。ぼきりという小さな音がして小指の骨が折れた。ずきりと来た痛みで少しばかり頭が晴れてくる。意外な行動に悧羅も、ほうと目を細めた。人の子であれ妖であれ悧羅の惑わしに堕ちないモノなどいない。抗うことさえ出来ずに崩れて堕ちるものなのだがなかなかにして骨がありそうだった。
伊達に長く野に下っておるわけでも無さそうだ。
くすり、と笑う悧羅の姿に皆がへたり込んでいく中、どうにか意識を保とうと道満は懐から脇差を取り出して自らの手に突き立てた。
「おやおや、なかなかじゃの。晴明と比ぶられるだけはあるようじゃ」
くすくすと鈴を転がすように笑いながら悧羅は紳の手を離れて歩きだす。一歩一歩道満に近づくとより妖艶で艶かしい姿が鮮明になっていく。
手にいれたい、と手の痛みの中から道満は切に願った。これを手に入れて晴明に見せつけてやるのだ。お前が欲しても手に入らなかった者は自分の手の中だ、と。そう思えば手の痛みなどどうでも良くなる。あんな小童如きにどれだけの苦渋を舐めさせられたと思っているのだ。突き立てた脇差を引き抜いて今度は足を刺す。痛みはあるがそれで頭の中が晴れてくれるのであれば何ということも無かった。近寄られれば近寄られるほどに自分が自分で無くなりそうで道満は背後に控えている妖達に命を出す。鬼の隊士達は皆膝を折っている。今ならば誰も長を護る者などいない。控えている妖達が如何に烏合無象の衆とはいえ掠り疵程度、もしくは道満が緊縛の呪を唱える隙くらいは作れるだろう。行け、と命じるが背後で動く気配がない。何だ?、と動きにくくなった身体を動かして後ろを見て道満は目を見開いた。
居ないのだ。
そこに居たはずの数多の妖達の姿が見えない。
は?、と小さく声を上げるとすぐ近くでくすくすと笑う声がした。慌てて振り返ると手を伸ばせば届く距離に悧羅の姿がある。宵闇にあって白い肌が浮かび上がり満月の光だけであるはずなのに、立っているその場が輝いているようだ。離れた場にいても崩れて落ちそうだったのに、目の前に立つ悧羅は遠目で見ているよりも痩身で儚げだ。それなのにこの存在感は何なのだろう?すらりと立つ悧羅はまるで肩の華のように水の中に立つ姿のようだ。
「己が周りも見えておらなんだかえ」
優美な長く白い指を口元に当てて小さく笑い続ける悧羅の後ろで見たこともないほどの大きな体躯の狐と、これまた見たこともない犬の頭を持った異形の妖が見える。その大きな二つの体躯の足元や背後に今まで道満が使役していたはずの妖達が控えているのが見えた。どういうことだ?、と叫ぶ道満には起こっていることが分からない。使役したモノ達とは道満との間に制約がある。それを解いて自分のモノにするなど並大抵の事ではない。再び、どういう事だ!、と叫んだ道満に狐の足元に控えていた妖の一匹が静かに口を開いた。
【長いものには巻かれろ、というからな。お前と結んだ制約よりもこちらの方が我々に有益であっただけだ】
さも当然のように言い放たれて跨っていた妖まで動こうとして焦った道満は持っていた脇差を思い切り狐の背に突き立てた。ここで逃げられてはこの高い空から一直線に落ちて終わるだけだ。脇差を突き立てられた狐は苦痛の声を上げて刺された場所から血が流れ出している。道満とて妖の1匹や二匹滅することなど容易い。他のモノを取られようとも一匹程度であれば縛り続けて力づくで使役し続けることなど何という事でもないのだ。
「おやまあ、何と酷い事をする者であろうか」
口元に当てている指はそのままに少しばかり眉を顰めて悧羅の反対の指が動いた。瞬間、狐に刺し込んでいた腕が肩から離れた。生温い血の流れる感覚に目を見張ってしまうが、今まで自分の身体に付いていたはずの腕は狐の背中に転がっている。そちらからも血が流れ出して狐の毛を赤く染め始めた。思わず切り取られた肩を押さえて道満は悧羅を見る。何事も無かったかのように佇む悧羅がもう一歩道満に近づくと跨っている狐が小さな鳴き声を上げている。まるで悧羅に対して助けて欲しいと言わんばかりの鳴き声に手を伸ばして狐の頬を撫でると突き立っていた脇差が切り取られた道満の腕と共に紫の炎に包まれて燃えて落ちた。先程よりも近い場に悧羅が立ち、そこから立ち昇る甘く妖艶な匂いに身体の痛みを忘れるほどの痺れが走る。思わず手を伸ばした道満の腕が悧羅に届く刹那、伸ばした腕がそこにない事にまた目を見開いてしまう。は?、と吹き出す血飛沫と落ちていく自分の腕の前に振り抜いた大刀を抱え上げる紳がいた。
「…俺のものに汚い手で触るな」
静かな声だが大刀を担いだまま紳は悧羅を引き寄せている。引き寄せた分自分が沸るのを堪えて担いだ大刀を廻すと切先を道満の首に当てた。当てられた切先が肌に触れて血が流れ出す。だがそれもどうでも良い事のように思えた。目の前の悧羅と紳は立っている、ただそれだけでこの世のものとは思えないほどの美しさなのだ。
「悧羅を磔て眺めておきたい気持ちは分からなくもないけどな。お前なんぞに髪の一筋だって触らせられないね。容易く触れられるほど易い女じゃないんだよ」
悧羅に手を伸ばされた事が余程腹に据え兼ねたのだろう。珍しく怒りを顕にしている紳の頬に悧羅が触れて、そう怒るな、と宥めた。だって、と切先は外さずに紳が悧羅を見やる。
「こいつ悧羅に触ろうとしたんだよ?…俺のなのに」
少し頬を膨らませる紳の顔を引き寄せて、わかっておるよ、と口付けると、こら、と慌てて紳が身体を離す。沸き立つ思いを必死に堪えているのに悧羅からそんな事をされてはこの場で衆目があろうとも組み敷いてしまいたくなるではないか。おや、と笑う悧羅の前で開かれたままの門から枉駕と武官隊隊士達が戻ってくるのが見えた。けれど門を抜けた隊士達は周囲に漂う甘い匂いと、その中心にいる悧羅の見たこともない妖艶で艶かしい姿に一様に身体を痺れさせてその場に膝をついた。どうにか自分を保った枉駕は悧羅を見ないようにしながら、同じく視線を外している荊軻の元へ駆ける。
「あちらは?」
「問題ない。全て壊した、というか焼き払った」
短く言葉を交わすと、よろしいでしょう、と荊軻が大きく頷いた。隊士達はどうやら全てが持っていかれている。妖達の対処を前もって妲己と哀玥に任せる、と言った悧羅の判断は正しかったようだ。背を向けて見ないようにしていてもむせかえる様な匂いと艶かしい雰囲気を感じて一度見たことのある荊軻でさえ自分自身を保つのが精一杯だ。
「凄まじいな」
頭を何度も振りながら荊軻と同じように悧羅に背を向けながら枉駕はごちた。京の帝達を堕とした時とは桁違いに惑わす魅力が増している。この数十年でこれ程までに変わるものか、と小さな笑いさえ出てきてしまう。
「紳様が箍を外されたのでしょうね。…本当にもう…」
荊軻もまた苦笑しながら、いい加減に収めていただかないと、と肩を落とした。この場に居合わせた者は数日は使いものにならないだろう。人や鬼だけを惑わしているようだが常に側に侍っている妲己と哀玥以外の妖達もその場に屈み込むように崩れ始めている。このままでは里に帰ることも妖達を野に帰すことも出来なくなるだろう。大きく息をついて、長と荊軻が声をかけた。静かすぎる場においてその声はよく通り悧羅に届く。その一言で道満の隠家は潰し終わった、ということが悧羅に伝わる。くすくすと笑って悧羅は指をすっと横にひいた。線を描くような仕草だったが目の前の道満の視界がぐるりと廻った。は?、と思う間に自分が落ち始めている事に気づく。
「妾に見えたのだから十分であったであろ?」
遠くなる意識と薄くなる悧羅の姿の中でその声だけが聞こえて、次の瞬間には視界が閉じた。落ちていく頭を眺めながら悧羅の鬼火がその頭と狐の上に残ってぐらつき始めた身体を包んだ。瞬く間に全てが燃え落ちて大きく開かれていた門もがらがらと大きな音を立てて崩れ落ちていく。作った術者が生を終えた、という証でもあるそれを見やりながら悧羅は大きく息をはいた。流れた血は多かったけれど、どうにか一段落つけたようだ、と肩の力を抜く。けれど、その一息で膝をついていた者たちが一斉に崩れ落ちた。それは子ども達も同じであったようで妲己と哀玥が駆け寄った。その様に長と責めるように荊軻が大きく嘆息する。すまぬ、と苦笑して衣を正して露にしていた肌を仕舞う。小さく笑い続けながら周りを見ると紳に言われていたはずの近衛隊も門から出てきた武官隊もすべからく倒れ込んでいるのが見えた。
おやまあ、と苦笑を深くする悧羅を引き寄せて一先ず鎮めて、と紳が額に口付けた。
「でないと俺も保たないよ?」
困ったように笑う紳に、願ってもないな、と笑いながら悧羅は惑わす雰囲気を抑え始める。急いで全て抑え込んではみたものの残る残滓までは取り込めない。漂う甘い匂いが残る中ではまだ誰も起き上がれないようだった。荊軻と枉駕でさえ背を向けたままなのは紳にとってみれば好都合だ。周りを見ながら小さく笑い続けている悧羅を引き寄せて一度長く深く口付ける。誰にも見られていないことをいい事に弄ぶ様な口付けから解いてやると悧羅もまた紳の沸りが伝わったのか息が上がっている。潤んだ目で見つめられて、囁くようにもっと、と強請られて箍が外れそうになる。後でね、と濡れた唇を舐めてから離したくもない身体を離すと紳は荊軻と枉駕に声をかけた。
出来れば振り返りたくはない二人だったけれど仕方なく大きく嘆息して振り返り紳と悧羅の側に駆け寄った。苦笑している紳には荊軻と枉駕もまた少なからず当てられているのが分かった。
「よく保てますね」
隣に立っても悧羅を直に見ることが出来ない二人に鈴を転がすような笑い声が届く。
「保ててないよ?でもこれをどうにかしないと悧羅と籠れないんだよ」
くすくすと笑い続ける悧羅を横目に紳が隊士達を指さした。確かに、と二人も苦笑するがどうすれば良いかが分からない。自分自身を保つだけでも必死なのに他者までとは…。やれやれ、と息をつくと紳は近衛隊の方に向かっている。近くまで寄ると、ほら、と手を叩いた。
「だから腹に力を入れとけって言っただろう?持っていかれるなって命じたのに、仕方のない奴らだな」
苦笑しながら気合い入れて腹に力を入れろ、と伝えると呆っとする頭を抱えながら隊士達が重い身体を持ち上げ始めた。靄のかかった様な頭とは裏腹に身体は沸って仕方がない。熱を持った身体も思うようにならず持ち上げたは良いけれど立ち上がれない隊士達にまた紳が手を叩いて気合い!、と笑う。そんなこと言われても、と呟きながら隊士達は頭を振る。振り返って武官隊を見るとそちらも同じようだった。
「とりあえず動けるようになるまでは腹に力入れろ」
言い置いて悧羅が声をかけている子ども達の元に向かう。六人全員が夢現のような顔をして起き上がらせようとする悧羅の手が触れるだけで男である忋抖、皓滓、灶絃、玳絃は理性を失いそうになっているのは見てとれた。こら、とそれぞれの頭を小突きながら目を覚まさせる。
「気持ちは分かるけど悧羅を押し倒しちゃ駄目だ」
俺のだからな、と笑いながら隊士達に伝えたように腹に力を込めろと子ども達に伝える。どうにか起き上がった子ども達もそれぞれに頭を振って靄を晴らそうとするが上手くいかない。
「何なのよ、これ…」
呻くような啝珈の声に続く言葉は子ども達から上がらない。各々が沸る自分を堪えるのに必死なのだ。紳が止めてくれなければ男子達は母であろうとも組み敷いているだろう。気合いをいれてもぞわぞわと沸きたつ沸りに難無く身を委ねそうになってしまう。
「だから持っていかれるなって言っといただろう?先に忠告した意味も無いじゃないか」
分かったろ?、と笑われて子ども達が無言で頷く。どういう意味なのか分からなかったが肌で感じてようやく理解した。
「こんなの一溜りもないよ」
灶絃がどうにか言葉を絞り出して立ち上がると他の子ども達も負けていられない、とでも言うように次々と立ち上がる。ふらつきそうになる身体を支えようとした悧羅の手を、駄目!、と男子達は断った。先程までではないが、まだ甘い匂いは周囲を漂っている。悧羅自身から立ち昇る艶かしさも消え去ったわけではない。
「母様、申し訳ないけどちょっと離れて。せめて宮に帰って父様が引き込むまでは…」
哀願するような皓滓の言葉に、せんないことを、と悧羅は少し困ったような笑顔を向けた。その姿さえも心を奪われてしまいそうで思わず子ども達は皆悧羅から視線を外してしまった。おやまあ、と紳を見上げる悧羅に、仕方ないよ、と紳が苦笑する。背後を振り返るとどうにか近衛隊も武官隊も立ち上がることが出来たようだった。立ち上がった隊士達に荊軻が三日の休息をやる、と伝えている。
「その間に鎮めてくださいませ。務めに障りが出てしまいますからね」
まだ夢現のような隊士達は一応返事はしたもののどうしたものか、と困惑しているようにも見えた。それにまた苦笑して紳は隊士に預けていた千賀の亡骸をその手に取った。
「…どうする?」
隣に付いて来た悧羅が紳の腕に触れながら静かに聞いてくる。悧羅が近くに来たことで隊士達は身体ごと視線を外さずにはいられなかった。手にした亡骸を見つめて一つ大きく息を吐くと、紳は自らの鬼火でそれを包んだ。燃え上がって昇って行く炎を見ながら何となくではあるのだが千賀の縁者は程なく血筋が絶えるだろう、と思った。この一件でますます王母の怒りをかっただろうから。紳が目の当たりにした千賀は500年前の酲紂と同じ顔をしていた。そのまま縁者が血を繋いでいけば、また同じように悧羅を貶める者が出てくるはずだ。であれば血が絶えることも仕方なく思えた。例え弟のように思っていた者だとしても悧羅に害為す者は許せない。それだけは紳にとって変わらない事実だ。
「埋葬せずとも良かったのか?」
いつのまにか握っていた拳をしなやかな手で包まれて炎から悧羅に視線を戻すと、うん、と紳は頷いた。
「…これだけの事をした奴を里に戻すわけにはいかないしね。自分で葬送出来たから大丈夫だよ」
そうか、と小さく微笑む悧羅の手を握り返して荊軻達を見るとそれぞれに頷いていた。
「では、里に戻るといたしましょうか」
荊軻が微笑むと悧羅も小さく笑って見せた。穏やかな声音で話してはいるが荊軻も限界が近いのだろう。
「妲己、哀玥」
静かに呼ぶと二人が駆けて擦り寄ってくる。それぞれの頭を撫でながら、ようやってくれたと労って妖達の対処を預ける。御意と二人が頭を下げると紳が悧羅を抱き上げた。さすがにもう保てそうになかった。
「皆戻るえ」
紳の限界を肌で感じて苦笑しながら悧羅が声をかけると是という声を背後に紳は翔けだした。
どうにか一段落(?)です。
残りの問題はどうなりますやら…。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。