糺す【拾玖】《タダス【ジュウク】》
話がまとまらず一日空いてしまいました。
更新いたします。
動いた、と報せが届いたのは天に満月のみが輝く夜、亥の刻から子の刻に移ろうかという頃だった。既に朝議の場に顔を揃えていた荊軻、枉駕、栄州は大きく頷いて悧羅と紳を見る。共に漆黒の衣を纏った二人は静かに頷いている。枉駕、と悧羅が声をかけると小さく頭を下げて一巻の文書を悧羅に手渡した。広げるとそこに荊軻の優美な文字で紳と枉駕が選抜した隊士達の名が記されている。
「各300ずつの一本角、精鋭でこざいますれば」
うん、と微笑んで以前見せたようにそれに息を吹きかけると全ての文字が浮き上がって小さな紫の人形に変わり、もそもそと動き出す。その中の六つが悧羅の横にいる子ども達に着くと、宮に集え、と声が聞こえた。真っ白になった文書に子ども達の名前が浮かぶのと同時に次々に名前が浮かんでくる。子ども達はそれぞれが隊服に身を包んでいるが皓滓、灶絃、玳絃が内密に進められていた企てを知らされたのは一日の務めが終わって夕餉を皆で摂っていた時だった。知らされた時には、そんな大変な事をどうして今まで自分達に教えてくれなかったのか、と思ったがそれだけ極秘裏に進めていたのだ、と紳に言われてしまっては何も言えなかった。
「悧羅の能力の片鱗と長ってなんなのかを知るいい機会だ。里を移した時には皓滓は小さかったし灶絃、玳絃は産まれても無かったしな。…ただし腹に力は入れとけよ?持っていかれるからな」
持っていかれるの意味は子ども達全員が良く分からなかったけれど、とにかく置いて行かれなかっただけでも良かったと思うことにした。文書に全ての名が戻ると荊軻が悧羅から受け取って巻き取り始める。
「南の方から降りたようでございます。門を開いたのはそこから少し北に行った場でございますね。これまでのことから考えましても開いた同じ場にしか戻ることは出来ぬようでございますし、そこでよろしゅうございますか?」
よいよ、と笑う悧羅に妲己と哀玥が共に頭を上げる。宮の外に集い始めた隊士達の気配を感じ取ったのだ。主、と二人に擦り寄られてそれぞれを撫でながら案ずるな、と言う。あちらには?、と尋ねる悧羅に、つつがなく、と二人が応えた。
「それと長、遅くなってしまいましたがこれを」
袂から別の文書を出して荊軻が悧羅に渡すと開いて目を通しながら、やはりか、と苦笑している。横から覗いた紳にはそこに記されている名が誰の者かが分からない。荊軻を見ると小さく笑いながら悧羅から文書を受け取っている。
「紳様も見えたことはあられるはずでございますよ。長の立式前に宮の前にいた翁を覚えておられませんか?」
「忘れるわけないでしょ?は?あれの縁者だったって事?」
思い出したくもない苦い事を思い出して紳は眉を顰めた。あの翁に騙されて紳は悧羅を信じることが出来なくなったのだ。惑わされたのは紳の至らなさから来るものだから全てを翁の責にすることは出来ないが、それでも思い出すと苦々しく思えてしまう。
「どうにも辿るのに刻がかかってしまいました。どういう訳でございましょうか、翁以降短命になっておるようでして。その者に辿り着くまで何十代と遡りましたので」
「…それは王母の怒りをこうたのだろうて。王母は何も言わぬがな」
くすくすと笑う悧羅に、なるほど、と荊軻は納得したようだ。紳と悧羅の間柄を引き裂き500年も苦渋を与える元凶となったのだ。化身で娘と呼ぶ悧羅にそのような事をされたのでは穏やかな王母の怒りを買ったとしても仕方ない。調べた縁者達は総じて長く生きても60年ほどだった。中には十数年で生命が終わっていた者もいた。
「だけどあの翁は一本角だっただろ?一本角が交われば二本角は生まれないんじゃなかったか?」
「それも不可思議な事にあの者以来一本角は生まれ落ちておりません。子に一本角はおりましたがその者達から生まれ落ちた者は全て二本角でございます」
「…それも又、王母様の御力ってことか?」
隣を見るとくすくすと笑いながら悧羅が、であろうの、と頷いた。
「余程腹に据えかねたのであろうな」
「まあ俺もあの翁は腹立たしいからね。生きて俺の前に出てきたら間違いなく斬り捨ててるだろうから」
顔を顰めて頬杖を付いた紳に、もう死んでおりますよ、と荊軻は苦笑してみせた。さて、と口を開いたのは栄州だった。
「そろそろ集うたようであるな。我は年老いておる故、共に参れぬのが情けないが…。長、つつがなく」
深く礼を取る栄州に、任せよ、と笑って先に立ち上がった紳が差し出した手を悧羅は取る。ふわり、と立ち上がると子ども達と荊軻、枉駕が続いた。妲己と哀玥も立ち上がって先に宮の外へと駆け出して行く。その後に荊軻と枉駕が続くと紳が子ども達に、いい?、と尋ねる。振り向かれた子ども達は、もちろん、と大きく頷いて先に宮の外に駆けだした荊軻達の後を追う。
「さて、行きますかね」
悧羅の手に軽く口付けて紳が微笑むと悧羅も穏やかに微笑んだ。共に漆黒の下駄を履くと手を引いたまま紳が宮の中庭を蹴って外へと翔け出す。宮の門の前に既に集っていた者達が悧羅の姿を見留めて膝を着こうとするのを悧羅は止めた。そのままでよい、と静かな声が響いて集った隊士達は立ったまま立礼する。集え、とだけ言われて来たものの何故今集められるのかも分からないのだ。集められた者たちに向けて荊軻が手短に十五年かけて調べ上げた事と、今から行う事を話して聞かせる。まさか、と動揺の声は近衛隊隊士達から聞こえた。隊長、と小さく呟かれて紳は小さく嘆息するよりない。
「信じたく無いのは俺も同じだったよ。だけど調べれば調べるほどにそいつに辿りつくんだ。何が目的かは分からないけどな。…悧羅に対して私怨があるのかも分からないし。だけどこのままにしてたら、里の平穏は護れない。何より近衛隊の一員がそんな事に加担してるなら俺が制さなきゃな」
話す紳の衣は近衛隊隊長の纏う隊服ではなかった。悧羅が着ているのと同じ漆黒の衣だ。悧羅が漆黒の衣を纏う時には粛清と同じように奪う生命を背負う覚悟を決めていることである事を集められた隊士達は知っていた。紳もそれを纏っているということは自らでその者の生命を背負うことを決めているということだ。はい、と呑み込みたくない事実を必死に呑み込んで近衛隊の隊士達は静かに頷く。それを見やって枉駕が企てを説いて聞かせる。
開けられた門の場はわかっている。そこで待ち伏せし出て来たところを叩く。枉駕の武官隊は開かれた門から晴明の作った呪符と荊軻の施した呪を辿って人の子の隠れ住んでいる場所を潰す事になっている。残った近衛隊は主に悧羅の護衛と連れてくるであろう妖達の対処だ。命を受けて、は!、と是を示した隊士達に頼む、と枉駕が深く頷いた。
それに悧羅と共に残る事になる近衛隊に一つだけ紳が補足した。
「残るお前たちはとにかく腹に力を入れて自分を保てるようにしとけ。今回は悧羅の長足る所以が分かるからな。命令だ。絶対に待って行かれるな」
「それはどういう事ですか?」
問われたが紳は苦笑して、一緒にいたら分かるとだけ言っておいた。それ以上尋ねられても口で説いてやる事も難しいのだ。見て肌で感じてもらわなければわからないこともある。少し考えながらやはり説いてやることは出来ないな、と紳は諦めて命令だけ守れ、と伝えた。多くの隊士達が困惑する中で一人、舜啓は悧羅の側に立つ媟雅を見ていた。七日振りに見た媟雅はやはり痩せているのが離れていても分かる。一回りほど小さくなった媟雅の横には妲己が寄り添うように侍っていた。
もしかしたら立つ事さえもふらついてしまうのかもしれない。
隊士達の方に一切視線を向けないのはその中に舜啓がいるであろう事を分かっているからだろう。身体を隊士達の方に向けることはあっても視線は地か荊軻や枉駕の背に向けられているばかりだ。
今度会えたら自分の気持ちを伝えるのだと決めていた。だがこれほどの務めの前では見えている媟雅に声を掛けることも腕を掴むことも許されない。まずは、この務めを粛々とこなして終わらせないと、媟雅と話す事もできないだろう。伝えたとしても許されないかもしれないが、どうしても伝えなければならないのだ。舜啓自身の為に。伝えて拒まれたのであれば、どれだけでも待つ覚悟も出来ている。例え受け入れられず媟雅が恋仲になる相手を見つけようと、他の男と情を交わそうと、ずっと待ち続ける覚悟も出来た。契る相手でないなら奪えばいいだけの話だ。…その間に舜啓が他の相手と情を交わさずにいられるかは別にして。媟雅の姿に踊る心を押し殺して舜啓は大きく息をついた。まずは目の前のことに気を置いておかねばならない。
さて、と悧羅の声がして隊士達が一斉に視線を返す。哀玥、と声を掛けられて御意と一歩脚を進めると、頼みますね、と荊軻が頭を撫でた。任されよ、と低く鳴いて哀玥が翔け始めると荊軻と枉駕、それに武官隊が続く。それを見やって紳が悧羅を抱き上げて子ども達に行くぞ、と声を掛けて高く翔け出した。続く子ども達と妲己の後に近衛隊が続く。その者が降りた場へ哀玥が臭いを辿りながら先導していく。四半刻もかからずに里の門を抜け北へ進み何もない空で哀玥が止まった。臭いはここで途切れている。
「ここですか?」
後に付いて来ていた荊軻に、是と哀玥が応えた。では、と続いて到着する枉駕に声をかけると哀玥を中心に布陣を敷く。敷き終わった頃に紳と悧羅達が着いてその背後に子ども達と妲己が降り立つ。続く近衛隊に紳が手で布陣を示して悧羅を中心に扇状に配置した。腕の中から悧羅を降ろすと寄り添うように立って大刀を担ぐ。
「あんまりやりすぎないでよ?」
額に軽く口付けて言う紳に悧羅は、さての?、と笑ってみせる。苦笑しながら紳は悧羅の纏った衣の襟を大きくずらして両肩を露にする。本当は見せたくないのだが、今回ばかりは仕方ない。結え上げられた髪の隙間から悧羅の両肩や背中にある蓮の華が宵闇にぼうっと仄かに浮かび上がった。華が増えていることに驚いたのは隊士達だけではない。里を移す前よりも咲いた華と蕾が増えている事に荊軻や枉駕も息を呑む。長?、と枉駕が声を掛けると、気にするでないと笑っているばかりだ。ほれ、来るぞと微笑む悧羅の前で何もなかった空間に門が現れ始めていた。
その者は教えられていた通りにその夜計略を共にする者の元へと向かった。宵も更ける頃であれば紳と悧羅は寝所に籠るはずだと教えていたので、では日が移り変わる頃が良いだろうとなったのだ。この十五年余り里には大きな諍いは無かったし武官隊や近衛隊の日々の務めも見廻りや鍛錬ばかりだ。安穏とした日々に慣れた者たちがどう驚愕するのかと思うと可笑しくて込み上げてくる笑いを止める事もできない。笑いながら里から少し離れた北の場で門を開き潜ると、いつもの洞穴の前で老いた人の子と数百の妖達が待っていた。見渡すだけでも狐仙や猩々、猫又、檮杌、窮奇…。その他、数多の妖達が目に入って、よくもまあこれだけ集めたものだと笑ってしまう。だが九尾狐がいないところを見ると、やはりあれだけの大妖は使役出来なかったようだ。
「よく集めたもんだね」
笑いながら近寄ると、十五年もあればな、と老いた人の子が嗄れた声で笑った。
「烏合無象とはいえこれだけ居れば少しなりとも隙は作れよう?この刻であれば皆油断し寝入っておるのだろうからな」
「まあ、そうだろうね。寝所に籠ってるんだろうし。そんな刻に攻め込まれたら慌てるだろうなあ」
騒ぎを思い描いてまた笑ってしまう。本当に多少なりとも慌てて焦ってくれればいい。これが失敗したならまた別の面白いことを考えて仕掛ければいいだけだ。自分の生命が尽きるまで。くすくすと笑いながら考える。特段個人的に里や長に恨みがあるわけではない。ただ幼い頃から言い聞かされていただけだ。昔は一本角の家系だったのだ、と。では何故自分も周りの縁者も二本角なのか、と尋ねた自分に納得する応えを出してくれる者はいなかった。
「天の怒りをかったのだろう」
それだけ応えられても、は?、としか思えない。
何故怒りをかったといえるのか。
何故天が定めたと思えるのか。
辿ってみても理由など分からなかった。わかった事といえば悧羅が長として立った後から一本角が産まれなくなったという事実だ。けれど一本角であった者たちは長寿の鬼でありながら既に死んでいたし、それどころか自分の縁者は皆短命で、長く生きて60年。人の子となんら変わらないほどしか生きれていない。妖達と共にいる老いた人の子は自分も他の鬼と同じように刻があると思っているようだが、それは違う。たかが十五年と言ってはみたものの自分にとっても長く貴重な十五年なのだ。だが、よく分からない事に翻弄されるまま今の自分達を受け入れている縁者達にも腹が立った。何もしないまま短命を受け入れて二本角であることに不満も抱かず、それで良いのかと苦々しかった。。そうであれば分かっている事実。悧羅が立った後から短命になったのだ、という事実だけでそこに何かしらあるのだろうということだけで十分動くには値する。自分が関わっていることは知られてもいないだろうし、知られていても他の縁者が巻き込まれてどうなろうと知ったことでもない。どうせ遅かれ早かれ死んでいくのだから。であればこそ面白く可笑しくしてやりたい。
一人くすくすと笑っていると老いた人の子が呆れたように自分を見ている。
「さて、手引きを頼む」
「良いけど里の中にはどうやって入る気なのさ?門には呪が掛かってて里の者以外は入れないって教えただろ?」
笑いながら尋ねると、儂を舐めすぎだ、と笑われた。
「お前から聞き及んだ呪を解呪する法は既に見つけておる。その穴を開けるためにこれだけの妖達を使役しなければならなかったがな」
顎で妖達を示しながら老いた人の子は嗄れた声で笑い続けている。確かに人の子にしてはそれなりに長けた術者だ。里が移される前に里に出入りしていた晴明と同じくらいの力量は持っているのは初めて見えた刻から分かっていた。だからこそ利用しようと考えたのだ。
まあどう動くにしても失敗しそうだと思えば囮にしてしまえばいいだけだ。
ふうん、と肩を竦めて込み上げる笑いを抑えずに、じゃあ行く?、と指を鳴らすと老いた人の子が作った門が現れた。待ち兼ねた、と笑いながら老いた人の子と共に門を潜る。後に続いてくる妖達を引き連れてまるで凱旋でもするかのように老いた人の子が先を進むが出る先は空の上だ。さすがに落ちるだろう、と思っていると狐仙が1匹走って来ると、その背に老いた人の子を乗せて歩き始めた。
よく躾たもんだよ、と苦笑しながら共に歩んで門を出て思わず、わあお、と声を上げてしまった。門を抜けた先に見えるのはただ空があるはずだった。そこから南に下った先に里に入る門がありそこから中に入る予定だった。
だが見えたのは風になびく紫の髪。
その周りを取り囲む見慣れた隊士達の姿だ。
隣を見ると老いた人の子は狐仙に跨ったまま固まっている。どういうことだ?、と固まったままでどうにか嗄れた声で尋ねられるが、さてねえ、と笑うしかない。
「どうやら読まれてたみたいだね」
隣を見ると老いた顔は歓喜に満ち溢れたように小さく笑い身体は震えだしている。初めて見えた悧羅の姿に見惚れているのは明らかだった。いつもは肩まで隠している肌は大きく開かれ艶かしい雰囲気が漂っているのだ。滅多に見れるもんでもないよ、と小さく笑いながらも企てが全て失敗だったのだと知る。それもまた面白い、と笑い出すと聞き慣れた声が響いた。
「千賀」
笑いながら大きく両手を広げて千賀は向き直った。悧羅と同じ漆黒の衣に身を包んだ紳が静かに自分を見ていた。何とも言えない視線を受け止めて千賀はますます笑いを深くする。これは隊長、と小さく頭を下げると大きな嘆息が聞こえた。
「これは壮観ですね。武官隊、近衛隊の精鋭。全て一本角ばかりでお出迎えていただけるなんて光栄です」
悪びれた様子も見せないその姿に紳は又大きく息をつくしか無い。なんでこんなことを、と聞く気にもなれなかった。歳若くして近衛隊に入隊した千賀はよく紳に懐いていた。鍛錬にも力を抜くことなく里や悧羅を護らなければと常に言ってくれていた。他の隊士達からの評価も高く、為人も心地のよい者だった。共に過ごす刻が多かった分、弟のように思っていたし悧羅と契りを結ぶとなった時も誰よりも喜んでくれていた。紳の何とも言えない心持ちを読んだのか、知ってますか?、と広げていた手を下ろして笑いを深めた。
「俺の縁者、長く生きる者はいないんですよ。昔は一本角もいたらしいけど、どういうわけかある時を境に二本角しか生まれなくなった。しかも辿れば長が立たれた後から」
何かがあると思いますよね?、とまた両手を広げて大袈裟に千賀は肩を竦めて見せる。
「縁者はみんな諦めたように、天の怒りをかってしまったんだろうって言う。何にもしないで千年は軽く生きる鬼なのに人の子と変わらない程度で死んでいくのに馬鹿げたように受け入れてるんです。そんな事が起こってる者達がいることを誰にも知られずに、ですよ?呆れちゃいますよね?」
開かれたままの背後の門から枉駕達武官隊が入っていくのは分かったけれど、今更どうでも良かった。千賀一人で止められるはずもないし、老いた人の子の隠家がどうなろうと知ったことでは無い。
「せめて生きた証くらい残せばいいのに。なあんにもしないんです。本当に情けないったらないですよ」
くすくすと笑いながら頭を掻く千賀にもう一度紳は大きく嘆息して酲紂という名を知っているか?、と尋ねる。
「ずっと昔のじいちゃんの名前ですね。そのじいちゃんの子どもの後から一本角が生まれなくなって長く生きられないようになりましたよ。…そのじいちゃんが何かしたんでしょうけど、そんなの俺に関係あります?俺だけじゃ無い。他の縁者にだって、そのじいちゃんの血なんて殆ど残ってやしないでしょうに。呪のようなものだけがへばりついてるんですよ」
確かにな、と紳は頷いた。荊軻の報せにしたためられていた酲紂な名は千賀から辿れば何十代も前になる。千賀の言う通りその血は爪の先程も残ってはいないだろう。だが逆を返せばそれだけ王母の怒りをかったのだ。
「先代の頃の官吏の一人だ。里が荒廃していく中で率先して私腹を肥して民達を見捨てた。己のしたことを省みず私怨を悧羅にぶつけ続けてた。…酲紂が心を入れ替えてたらお前たちにそんな呪はかからなかっただろうな」
不憫に思うよ、と言う紳に千賀は声を上げて笑ってしまう。何が不憫だ、と思った。一本角に生まれつき近衛隊隊長にまで昇り詰め、あろうことか長である悧羅の伴侶にまで選ばれた。長い生も約束されている。そんな紳が妬ましくて仕方なかった。今も隣に長を連れて言われても何の慰めにもならない。
「だけどお前のしてきた事は許される事じゃ無い。里の民達だけでなく悧羅まで危うくするところだった。それは分かってたんだよな?」
「もちろんですよ?」
当たり前の事を聞かれて千賀は首を傾げて見せた。
「少し面白可笑しくしてやりたかったんですよ。諍いも無くなって安穏とした日々を当たり前のように享受できている民達にも。天の怒りとやらをかう元凶となった長にも。いい刺激になったでしよ?ずっと見てましたけど、俺はそれなりに面白くて笑えましたよ」
馬鹿野郎、と紳が小さく呟いて握る大刀に力を込めた。見ていたということは悧羅が自分を餌にして大怪我を負った事も、奪いたくもない一万の若い民達を弑さなければならなかった事も知っているということだ。それを面白かった、などと言い笑って見ていたということか?余りの怒りに手か震えてしまう。まるで500年前、宮で紳を煽った酲紂と同じ姿がそこに見えた。血は薄くなっても持ち合わせているものは同じなのかもしれない。何処かで誰かが気付いて過去を振り返ることが出来ていたら、王母の怒りも解けていたかもしれないのに。それに気付かないなど愚かで稚拙だと言うしか無い。握りしめた手にそっと触れられて紳は隣を見る。少しばかり心配そうな顔をした悧羅が紳を見つめていた。その表情に自分を取り戻す事ができる。大丈夫だ、と伝えると小さく微笑んで手が引かれる。
「…一応聞くけど、お前考えを改めることはないか?ここで失敗するにしても考えを改めて残された生を悧羅や民達のために使う気はないか?」
紳の言葉に千賀が吹き出して声を上げて笑い出した。
「そんな事あると思います?」
腹を抱えて笑いながら浮いた涙を拭く姿は本当に酲紂に似ていた。
「そんな容易く諦めるくらいなら、もっと前にそうしてますよ。そうでしょ?でも誤魔化せてると思ってたんだけどなぁ。やっぱり姍寂や大国の犬神騒動まで逸り過ぎたと思ったんですよね。そこからですか?」
「まあ、そうだな」
「やっぱりそうですか。人の子の言う通りにするんじゃなかったかな」
笑いながら千賀が隣を見ると老いた人の子はまだ言葉も出せないほどに震えている。これもここまでしか使えないな、と笑って千賀は肩を竦めた。
「じゃあ、俺はお暇しましょうかね。ここで捕まると面白く無くなっちゃうでしょう?」
言うなり急降下を始める千賀を紳が追いかける。
「…逃げられるはずが無いだろう…」
千賀の前に立って共に降りながら大刀を首筋に当てると、ですよねぇ、と笑っている。柄を握る手に一瞬力を込め直して、悪い、と呟くしかない。
「…なんで隊長が謝るんですか…。本当に甘いですよね」
小さく笑った千賀の首筋に当てた大刀を振り抜いた。首と胴が離れて落ちていく身体の後を追うように血飛沫が後を追う。唇を噛みながら頭と胴を掴んで悧羅の元に戻る。戻る途中から甘い匂いが漂い始めていた。頭と胴を持って戻った紳を見て悧羅が、笑っておるではないか、と千賀の頭を見て言う。腕を持ち上げて顔を見ると本当に薄らと笑っている。逃げられるはずもないことも分かっていながら、甘いですね、と笑った千賀の顔のままだった。込み上げてくる思いを押し殺して背後の隊士二人に頭と胴をそれぞれ預ける。それから、もう一度隊士達に腹に力を入れろ、と伝えた。
「…始まるぞ。持っていかれるな」
よく分からない命令にとりあえず従う事にして隊士達は腹に力を入れた。何の匂いなのか辺りには甘い匂いが漂っていた。紳が悧羅の元に再び戻るとにっこりと悧羅が老いた人の子に向かって微笑んだ。
大分寒くなってきましたね。
お身体にお気をつけてお過ごしください。
一日空いてしまいましたがお楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。