追憶【肆】《ツイオク【シ】》
もう少し思い出話が続きます。
お付き合いください。
その年の寒さは酷いものだった。暑かった季節が嘘のように、毎日毎日、雪が降りどこを見廻しても白い世界が広がるだけだ。ともすれば、雪の重さに耐え切れず悧羅の邸など押しつぶされてしまう。それがなかったのは、紳の力によるものだった。連日降り続く雪に文句を言いながら、屋根や邸の周辺の雪を降ろしてくれる。悧羅も共にすると言ったが、これは男の務めと言ってさせてもらえなかった。昨年まではしていたのだから、と言うが、訳が違う、と退いてはくれない。仕方なく、悧羅は部屋を出来るだけ暖かくし、熱い茶を沸かして見守るよりなかった。
「いやぁ、でも驚いたわ」
囲炉裏を囲んでいた咲耶が、茶を啜りながら感嘆の声をあげた。咲耶の家系は、医師の家系で割と生活も裕福だ。咲耶自身も幼い頃から医術を教え込まれ、二年ほど前から里の診療所の一つを任されている。里のはずれで暮らす悧羅を気遣い、両親がいた時から衣や寝具、食材に至るまで刻があれば差し入れてくれている。それも、使い古したものではなく、必ず新しいものを見繕って持ってきてくれていた。申し訳ないから、と断っても聞く耳持たずなのだ。幼い頃の学舎からの付き合いで、気を許せる相手でもあるが、なかなかに強気な性格のため決めたことはやり遂げる鬼女だった。
この日も、寒さが違う、と暖かな寝具と衣、炭や食材に至るまで抱え切れない物を持って来てくれた。その、咲耶が悧羅の家に、紳がいるのを見て目を丸くしたのだ。
囲炉裏を焚いているため、小さな窓を開けているが、そこから雪を降ろす紳を見て、もう一度、信じられない、と咲耶が言う。悧羅自身もこの状況に驚いているので、咲耶の驚きも尤もだった。咲耶と一通りの礼を交わして、紳は雪降ろしに戻っている。
「何がどうなって、こうなってるのよ」
聞かれて、悧羅はこれまでのことを手短に語った。その内容に、咲耶は呆気にとられてしまう。妲己は?、と聞くと、懐いていると悧羅は笑った。今では自分よりも仲がよい。その証拠に、妲己も紳と共に雪下ろしをしていた。とは、いっても尾で叩いた雪を紳に被せているだけのようにもみえるのだが。
「なんて言うか、強引と言うか…。それにほだされちゃったわけね」
咲耶が悧羅を見て、薄く笑うとほだされたというか、と言い返すが見てれば分かると一蹴された。
「そんなに待たせてるなら、ちゃんと気持ちくらいは伝えてあげたら?」
それには、応えた、と悧羅が笑った。咲耶が本当に?と疑うので、ますます可笑しくなる。
それも、前日の夜のことだった。共に暮らし始めた頃から数えると、六月が経っていた。夕餉のあと、共に茶を飲みながら、唐突に紳が尋ねてきた。
「そろそろ、俺の為人はわかってくれた頃だと思うんだけど」
「そうね、為人は何となくね」
笑って返すと、じゃあ契ってよ、と紳は言う。それにも笑いながら、契りとは別、と言うと、子どものように頬を膨らませて見せた。その姿が可愛くて、また笑ってしまう。
「だったら、今のところで俺のこと好いてくれてるのか、まだ全然なのかくらいは応えられるんじゃねぇの?」
いつもより食い下がってくる、と思いながら、そうね、と応える。じゃあ、どっち?、と前のめりに聞いてくる紳が囲炉裏に入り込みそうになって焦ってしまう。危ない、と制してから、そうねぇ、と悧羅は紳を見た。
「どちらかと言えば、好いているでしょうね」
悧羅の言葉に、紳は弾かれたように立ち上がった。どうした?、と聞く前に悧羅を暖かなものが包む。それは紳の腕であり、悧羅は紳に抱きしめられていた。
「…やったぁ…」
感嘆のような声と共に、悧羅を抱きしめる腕に力をこめる。
「じゃあ、俺もっと、知ってもらうために、まだ頑張らなきゃな。でないと契ってもらえない」
あまりの喜びように、なんと言葉をかけていいか分からない悧羅を自分から離して、紳は悧羅の手を取った。そのまま、手の甲に口付ける。
「今は、まだ、これで我慢する」
絶対、契るって言わせてみせるからな、と紳はより笑みを深くしていた。
気持ちは伝えたとは言っても、悧羅にとって契るとなれば話は別だ。それは、咲耶もよく分かっていた。
次の長に、ならなければならないという重圧が、悧羅にあることも知っている。悧羅の華の印を知っているのは咲耶だけだ。別段、長として立つまでに婚姻していていてはならないということは無かったが、もしも子がなされなかった場合、夫以外と夜伽をしなくてはならなくなる。悧羅はまっすぐだから、契ったあとも相手に操を立てたいのだろう。
悧羅らしいといえばそれまでだが、だからこそ自分が選んだ相手と契ってほしかった。
「で、彼はあんたの事情は知ってるの?」
いつのまにか、足されて熱くなった茶を啜りながら咲耶が尋ねる。それには、言ってない、という返事が返ったが、どこか哀愁もあった。
「そんなに簡単に言えたなら苦労しないよね」
言われて悧羅も頷いた。
現状、今の長の治世が終いに近いのは誰の目にも明らかだった。周辺にあった人里は、老を善しとしない長が精気を奪い尽くしてしまい、壊滅状態だ。人の里に隣接するように今の鬼の里はある。人が耕し、森を開き、河の流れを整えることで、里も恩恵を受けていた。だが、人が居なくなれば整備するものが居なくなるということで、その影響は少しずつ鬼の里にも出始めている。____河は幾つか枯渇していたし、頻繁に長が精気を狩りに行くことで、男鬼の数も減っていた。男手がなくなれば、賄えることにも限度があったし、まず子が産まれなくなる。5万は有に超えていた鬼も今は3万といったところだった。長が身罷れば、早急に次の長たる者を探し始めるであろうことは、想像に難くなかった。でもさ、と咲耶が口を開いた。
「このまま一緒にいるんだったら、いつまでも隠しておけないよ?いつかは、分かっちゃうことだろうし。分からなくても長が身罷ってしまわれたら、逃げ切れないかもしれないし」
わかっている、と悧羅は溜め息をついた。
出来ることなら…。
出来ることなら、このまま静かに刻を過ごしていたい。けれど、それが叶わないことであることも、悧羅は痛いほどに知っている。
小窓から見える陽気な紳の姿を見ながら、また一つ、悧羅は溜め息を吐いた。
蒸し暑いですね。
我が家の猫も、ぐったりしております。
午後からは、家の中が嵐になりますので今のうちに寝せておきます。