糺す【拾漆】《タダス【ジュウシチ】》
遅くなりました。
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目の前で固まったように動かない媟雅を見ながら舜啓は小さく息をついた。それだけで、びくりと媟雅の身体が大きく震えたのが分かる。手を伸ばしても届かない場所に座ったという事は舜啓が伝えに来た言葉を昨日のように思っている、ということだろう。舜啓とてそのつもりで来ていたのだ。読まれたのは意外だったけれど、思ったよりも媟雅の態度は冷静に見えていた。だが今目の前に座っている媟雅は今にも崩れて落ちそうだ。自分から見ようと探して見えなかった事など今日一日だけであったのに、とても長い刻見ていなかったように思えてしまう。じっと見つめているとすっと視線が外された。沈黙も視線を受け止めるのも辛さを煽るのだろう。早く解いてやらないと、とは思うが目の前に媟雅がいるとなるとどうしても心が踊ってしまう。
やっぱり可愛いいよなぁ…。
視線は逸らされたけれどその姿はしっかりと見ることが出来て心の底から舜啓は思ってしまう。揺れ動いていた思いがまた湧き出してきてどう話を切り出せばよいのか分からなくなる。
ここまで来て気持ちが決まっていないなどと言えるだろうか?
昨日ならば言えたであろう別れの言葉を本当に伝えても舜啓自身が後悔するのは目に見えている。
もう一度小さく息をはいて、媟雅と名を呼ぶとゆっくりと外されていた視線が戻った。
「…あのさ…、一回離れてみる…?」
何とも卑怯な物言いだ、と舜啓は自嘲してしまう。始める時も終わらせる時も自分は卑怯だ。覚悟は出来ていたのだろうが舜啓の言葉が終わると媟雅は何とも言えない、というように息を呑んでいる。息が止まってしまったような姿を見ながらもう一度、媟雅?、と呼ぶと大きく息をついてくれた。小さく、分かった、と声がして媟雅はそのまま頭を下げ始める。
「…今まで長い間…、ほんとうにありがとう…」
声と背中が小さく震えているのは分かったけれど、別れを切り出した舜啓にはもう抱きしめる権利はない。ただ、うん、とだけ応えると、どうか倖でいて、と絞りだすような声が続いた。思わず手を伸ばしてしまいそうになり、必死に思い留まる。浮かせてしまった腰を上げて、媟雅も、と言い置いて部屋を出るために戸を開ける。
本当にこれで良かったんだろうか…、とまだ微かに繋がっているはずの互いの想いを手繰るように部屋の中をもう一度みる。頭を下げたままの媟雅は動かないままだ。きっと戸が閉められて舜啓の気配が消えるまでそのままなのだろう。廊下に出て戸を閉めると舜啓の身体が急速に冷えて、あれ?、とその場に座りこんでしまった。手を見ると小さく震えていることに気づく。全身の力も抜けてしまって立ち去らなければならないのに立ち上がることができない。舜啓がここにまだいる事は媟雅だって分かっているはずだ。せめて気配だけでも消してやらないと動くことすら許してやれない。震える手で拳を握って気配を消す。しばらく息も殺すようにして自分の震えが止まるのを待ってどれくらいの刻が経ったのだろう。ふと、戸の奥から大きな泣き声が響いた。
弾かれた様に力が抜けて動かないはずの身体が戸に向かって振り返った。戸を開けようとして中から聞こえてくる泣き声に自分の名が呼ばれていることにも気づく。名を呼びながら幾度となく謝り続けている声は全て媟雅自身を責めるものだ。
分からなかったこと。
間違えたこと。
嫌な思いをさせてしまったこと。
その全てで舜啓ではなく自分を責めている。舜啓は媟雅を責めたのに、泣き叫ぶ声からは罵る言葉など聞こえない。その声に舜啓はまた動けなくなる。
今なら間に合うはずなのだ。
今動けばまた媟雅を腕に抱ける。
それは分かっているのに身体が動かない…。戸を一枚隔てた先にいるのにどうして自分は動けないのだろう。響く泣き声が少しずつ収まってきてしゃくりあげながら動き出す気配がした。戸の方に来るかと思ったがどうやら寝所に向かっているようだ。戸から遠ざかる気配が舜啓には自分と媟雅の距離が開いて行くように感じた。ぽすりと身体を横たえる音が聞こえて、また啜り泣く声が聞こえ出す。
間に合う、と自分に言い聞かせるが動けない。
卑怯な言い方をしてまた媟雅に選ばせた。
間に合うのに一枚だけの戸が開けない。
大きく息をついて戸にかけようとした手を降ろすしかない。今入って何が言えると言うのだろう。自分の事など棚に上げて心の中で媟雅だけを責め続けた舜啓に。戸の内側で一人泣く媟雅にかける言葉など持ち合わせていないでは無いか。力の抜けた身体を奮い立たせて両手で拳を握ると舜啓はその場から逃げるように翔けだした。周りの景色を見もせずにひたすらに翔けて自分の邸に辿り着くと全力で翔けたためか息が上がっていた。もしくは息をするのも忘れていたのかもしれないが、もうどうでも良かった。暗い邸に入ると灯りをつけることすらせずに部屋の中に寝転んだ。握っていた拳を開くとくっきりと掌に爪の跡が残っている。広げた手は小さく震え続けていて止めることもできない。とにかく酷い虚無感に襲われて舜啓は大きく息をついた。
本当に離してしまった。
爪痕の残る掌を見つめて思うと、ぶるりと身体に震えが走る。これからどうなるのだろうと考えるとまた大きく震えが走った。今までは媟雅と舜啓が恋仲だと知っている者が多かったからあんな真似をする者はいなかった。媟雅を連れ込んだ男も酒の勢いもあったのだろう。だが舜啓が手を離したと知れればすぐにでも媟雅を手に入れようとする者が現れるはずだ。もしくはただ情を交わしたいという者も出てくるかもしれない。それをこれからは舜啓は見守って行くしかないのだ。何も言うことも出来ずに、ただ見ているしか出来なくなった。そんな事ができるのかも今は分からない。
幼い頃から媟雅と契るのだと決めていた。年頃になって他に情を交わす者が現れても恋仲になっても結局は引き戻されていた。どんなに他の女が魅力的であっても媟雅を一目見れば全てが色褪せて見えた。そんな舜啓が他の男と共にいる姿を正気のまま見れるのか今は自信もない。挙げていた手で顔を覆うと又大きな溜息が出る。とにかく落ち着かなければ明日の務めにも障る。脱力したままの身体を焚きつけて起き上がると湯処に向かいそのまま頭に水を被った。自分が離したのだから受け入れるしかない、と言い聞かせるが頭の中に部屋の中で泣き叫ぶ媟雅の声が響く。幾度も水を被って追い出そうとするが、声は大きくなるばかりだ。啜り泣いていた媟雅は今も泣いているだろう。
どんなに水を被っても追い出せない声と最後に頭を下げた姿が思い出されていつのまにか舜啓の目から涙が溢れだす。これほどに想っているのに何故手を離す事を選んでしまったのだ、と自責だけが押し寄せた。媟雅が謝る事など考えてみれば一つもない。
酒に弱いのは知っていたけれど、このところ何やら張り詰めていることも知っていた。媟雅が話そうとしなかったのであえて聞かなかったけれど舜啓にまで言わないとなればかなりの大事なのは予想がついていた。そんな張り詰めていた中で仲の良い者たちと酒席に行けば少しくらい箍が外れても仕方のないことだ。
何より媟雅が望んで肌を合わせたわけでもなく、舜啓だと思いこんでいたから抗わなかったのだ。媟雅が知っているのは舜啓だけであったし舜啓も他の男と情を交わすのを許していなかった。ただの一夜限りの相手がいれば手が違うことにも気づけたのかもしれないが、それをさせなかったのは舜啓の我儘に過ぎない。
破瓜の相手に選んでもらえた事は嬉しかったが一度手にしてしまえば離せなくなるのも分かった上で恋仲になるなら、と条件を出してしまった。本当に卑怯だ、と思い返すと自分が嫌になる。あれから十五年、媟雅は何も違を唱えることなどなかった。それは舜啓に対しての恋慕の想いと貞操を護る、という誠意の現れだ。
最初に肌を重ねた時に、舜啓には他に情を交わしてきた者たちがいる事も知っていたのに、自分には許されないと言われても嫌な顔一つしなかったではないか。そこまで想ってくれていたのに、何故ただの一度、しかも身体を開いたわけでもなかったのに彼処まで嫌悪しなければならなかったのだろう。本当に自分にばかりに都合の良い考えをしてしまったものだ。
溢れる涙をひたすらに水を被って流すが全く止まることがない。あのまま置いてきて良かったのだろうか、とまで思い始めて頭に残る媟雅の泣き声に耳を傾ける。
本当に離して良かったのか…?
本当にこれから先ただ見つめるだけで良いのか?
本当にこれから先、腕の中に収めることができなくなっても良いのか?
本当に隣に立つ者に嫉妬しないのだろうか?
目を閉じれば小さくなって震えていた背中と共に、情を交わすときにしか見せない表情が浮かんでは消えて行く。最初から最後まで是としか言わなかったな、と思ったけれどすぐに違うと思い直す。言わなかったのではなく言わせなかったのだ。何か伝えたいこともあったかもしれないのに伝える暇も与えなかった。自分の身勝手さにぎりりと唇を噛んでもう一度水を被ると湯処に衣を脱ぎ捨てて新しい物を羽織ってから手拭いで濡れた頭を乱暴に拭いて寝所に倒れ込む。溢れ出す涙を拭うことすらせずにそのまま瞼を閉じた。眠れるとは思ってもいないがこのままだと媟雅の元にまた翔けて行ってしまいそうだった。一夜明ければ少しは落ち着くかもしれないし、何より同じ近衛隊なのだ。顔を合わせる事も言葉を交わすこともあるのだから落ち着かなければならない。今ならまだ間に合う、とまた思う気持ちを押し殺して大きな嘆息をつきながらその夜舜啓は幾度も寝所で寝返りを打つばかりで眠る事などできなかった。
舜啓の知らされていない満月の夜まで六日だった。
次の日眠れないままに務めに出た舜啓は一日全く媟雅の姿を見かけずにいれた事に少しばかり安堵した。まだ気持ちを整えることは出来ていなかったし顔を見れば自分がどう動くのかも分からなかったからだ。
だが、次の日もその次の日も姿どころか声さえ聞こえてこない。数は多い隊ではあるけれど隊長である紳からの命を受けるときには皆が揃う。それなのに幾日もちらりとも見えないのはおかしかった。また日が明けてもやはり姿が見えない。さすがに気になって昼餉に忋抖を誘うと、奢りだよね、とついて来てくれた。誘ったはいいものの何と切り出して良いものか分からずにいると、姉様のことだろ?、と忋抖は食餌に頬張りながら苦笑している。気まずいながらも小さく頷くと、部屋にいるよ、と何でも無いように忋抖が言う。
「気になるならいけばいいじゃん」
悪戯な笑みをたたえて食餌を続ける忋抖の言葉に、それが出来ればやってるよ、とだけ応える。だろうね、と笑っている忋抖も詳しいことは知らないよ?、と食べ終えた箸を置いて茶を飲み始める。
「母様が出すなって。それだけ」
「悧羅が?」
聞き返すと、うん、と忋抖は頷いている。では悧羅がついているのか、と聞くがそれには忋抖が首を振った。
「昨日まではそうだったけど妲己と哀玥が帰って来たからね。帰ってきてからは妲己がついてる。俺も気になって覗いてるけど起きると泣くから母様が眠らせてるよ」
「じゃあ…食餌も摂ってないんじゃないか?」
「うん。食べたくないんだって。何で俺たちで姉様の好きな饅頭買って行ったりしてるんだけどね。食べてくれない」
そうか、と大きく溜息を着くと忋抖は何も言わずに茶を啜っている。目が覚めたら泣いてしまうのでは身体も憔悴しきっているはずだ。痩せてんじゃないか?、とぽつりと呟く舜啓に、それなりに、と忋抖はまた苦笑した。そっか、と背中を椅子に預けると胸の中がざわついてくる。だった四日姿が見えなかっただけでこんなにも気持ちが騒ぐのならやはり離さなければ良かったのだ。
「…でもさ、こんなの刻がかかるもんでしょ。男にしろ女にしろ。心配し過ぎなくても良いんじゃない?近いうちに姿くらいは見れるよ」
「…知ってんだ?」
小さく笑う舜啓に、何にも、と忋抖は湯呑みを置いた。
「何があっても言うような姉様じゃないし。ただ母様が出すなっていうなら絶対だからね。今は無理って母様が思った。それだけだよ」
四日前に自室から出てこない媟雅の様子を見に行ったのは悧羅だった。いつもなら磐里か加嬬に任せるところを悧羅が自ら行ったということは何かしらわかっていたのかもしれない。戻ってきた悧羅は、自分の手伝いをさせるからしばらく宮から出すな、と皆に伝えた。紳も何かを感じとったようだったが、わかった、と言うだけでそれ以上は聞かなかった。もしかしたら二人の刻には聞いているのかも知れないが忋抖たち子ども達にも何も言わない。心配になってそれぞれが見に行くたびに部屋の中から啜り泣く声が聞こえて皆戸を開くことが二日は出来なかった。悧羅に顔だけでも見たいと願って眠らせている媟雅の顔だけは見る事が出来たけれど、泣き過ぎて腫れてしまった目を悧羅が冷やしているのを見て何も言えなくなった。寝ているだけなのに壊れそうなほどに弱っているのは一回り小さくなった身体から見て取れた。
「妾の務めには付いてゆくと言うてきかぬでの。しばらく休ませておる」
あの調子では連れて行かない方が良いのではないか、と忋抖と啝珈は言ったけれど、そう言ったところで聞くような媟雅ではない。長の子でしかも長子の責務を見つけ出しては背負っている。忋抖たち他の子ども達もそれぞれに責務を持っているけれど長子だからなのか媟雅は時に溜め込むこともあるくらいだ。特に粛清に共に行ってからそれは強くなったように思う。多分舜啓や忋抖達にも言っていない事もあるだろう。
「そんなに気に掛けなくても数日中には出てくるよ。…出てきてもそっとしといてやってくれると弟としてはありがたいかな」
「…それは顔を合わせるなってことか?」
椅子に身体を預けたままで小さく嘆息する舜啓に、そこまでは言ってない、と忋抖は苦笑した。
「見たところ舜啓もまだ思うところがありそうだしさ。お互いの気持ちが落ち着くまでは必要以上に関わると苦しいだろ?同じ近衛隊なんだし顔を合わせたり言葉を交わさなきゃならないこともあるし。それ以上はまだ無理だと思うよってだけ。無駄に避けると余計傷つくだろうから」
肩を竦める忋抖に舜啓も、努める、としか言えず、代わりに大きな溜息をつく。そこまで後悔しているのならまた手を取りに行けばいいのに、と思ったけれど忋抖はその言葉を呑み込んだ。二人の事は二人にしか分からない。忋抖が容易く口を挟むべきではないし、あと二日すれば本当に顔を合わせることになる。極内密に行われている支度は昨日妲己と哀玥が戻って来たことで全て整った。後はあの者が動いた後に近衛隊と武官隊に招集をかけることになっている。それまでは気取られないように弟達にも言っていないし、ましてや隊の者達など何が起こっているのか知りもしないのだ。
「頼むよ?これで舜啓まで苦しんでたら姉様多分立ち直れないと思うから」
念を押すとまた大きな溜息が聞こえる。それにまた苦笑しながら、甘味も食べていい?、と忋抖は手を挙げて店主を呼び始めた。
「…食べても良いからどうしてるかくらいはたまには教えてくれよ」
「知ってどうするのさ?知ったところで何もしないんだったら知る必要がないだろ?」
店主に注文を済ませてから忋抖は首を傾げる。そうなんだけどさ、と言う舜啓もどうしてそんな願いをしたのか分からない。ただこのままでいいのかも分からない。
「俺が舜啓に姉様の事教えてもさ、それが舜啓の納得のいくものかなんて分かんないじゃん?舜啓が安心するために姉様の事知りたいの?」
「どうなのか分からないんだよな」
「じゃあ余計に無駄じゃない?例えば姉様がこのまま引きずってたとしてそれを伝えてもどうしようもないんだろ?姉様の心の中が整って恋仲になる相手や情を交わしてるってのも教えなきゃなんないの?もしかしたら契りを結ぶ事だってあるよね?それ、教えて舜啓は分かったって言えんの?」
痛いところをつかれて舜啓は苦笑してしまう。その間に店主が運んできた甘味を忋抖は口に放りこんでいる。今のこの心持ちではただ迷うだけなのだろう。この調子ではいつまで刻を掛けたところで教えられた事に穏やかに倖を祈ってやる事などできないかも知れない。
媟雅は舜啓の倖を望んでくれているのにどこまでも自分は勝手だ。
「昼餉も馳走になったことだし、変わった事があれば教えてやるよ。でもそれが舜啓が望んでる答えじゃなくても知らないよ」
「俺の望む答え?」
甘味を食べ終えてまた茶を飲みながら言う忋抖に舜啓は聞き返してしまった。そうだよ?、と茶を飲み干して忋抖は続ける。
「…え?自分が何を望んでるかも分かってないの?」
呆れたように目を見開く忋抖にまた舜啓は苦笑してしまう。分かんなくなってきてる、と正直に言うと、はあ?、とまた呆れた声がした。まあ、そういう反応になるよな、とは思う。自分で自分の心が分からないから整えるために媟雅がどう思ってどうしているのかが知りたいのかもしれない。
「それじゃあ、教えたって無駄無駄。まずは自分の心を整えないとそのまま突き進んだって何も良い事無いじゃないか。まずは舜啓は自分の心と向き合いなよ。姉様に会いたいってなってもそれじゃ駄目だよ。手引きもしてやれない」
自分よりも歳下の忋抖にひらひらと手を振られて、だよなあ、と舜啓は頬杖をついた。
「とりあえず今何が一番大切な事なのかくらいは分かってよ。姉様はきっと舜啓の倖を願ってるはずだからさ」
聞いたわけでもないだろうに媟雅と同じ事を言われて、倖ねぇ、と舜啓はごちた。
今の自分にとっての倖とは何なのだろうか?
何が一番心に陰りを落としているのか、などはすぐに分かるのに一番大切ななものが何なのか分からないのも不思議なものだ。とにかくさ、と忋抖が立ち上がる。
「残りの務めをこなさないと考えるどころじゃないよ。まだ山のようにあるんだから」
促されるままに立ち上がって舜啓も忋抖と共に隊舎に戻った。忋抖も舜啓と同じ一部隊を任されている身だ。確かに朝から紳に命じられた務めは山のように二人に残っている。戻り次第、隊士達に務めを割り振って舜啓でなければならない務めをこなしていると、もやもやと考えている暇もなかった。自分の務めを片付けて隊舎に戻る頃には酉の刻を過ぎ辺りもすっかり陽が落ちて宵闇に染まっていた。先に戻っていた隊士達から任せていた務めの報せを受けてまとめるとそれを紳に伝える。御苦労さん、と労ってくれる紳はいつもと変わりがなかった。媟雅の事は悧羅から聞いて知っているだろうに何も言わないのも紳らしいといえば紳らしかった。
その紳もこの所忙しくしていて宮への戻りが遅い。帰っていいぞ、と笑われて、あんまり無理しないようにとだけ伝えて舜啓は邸に戻る。翔けている間に宮の仄かな灯りが目に入ったけれど出来るだけ見ないようにして翔けていく。
今頃目を覚ましてまた泣いているのだろうか、と過ったけれど頭を振って追い出した。忋抖の言う通りまずは自分の心を整えて何が一番大切でやりたいことなのかを考えなければならない。邸に入って灯りを灯してから湯処の支度を整えて湯を使う。ゆっくりと湯に浸かると一日の疲れと共にとろりとした眠気も襲ってきた。そういえばこの所眠りも浅かった。静かな部屋に居るとあの夜の媟雅が思い出されて微睡んでも夢を見ているかのようだった。大きく息をついて湯船に肩まで浸かって考え始める。
自分が望む答えとは何なのだろうか?
今までぐるぐると考えていたのは手を離したのが正しかったのか、媟雅に何も言わせなかった自分の卑怯さや、これから先に現れるであろう媟雅の新しい相手の事ばかりだった。それらを一旦頭の片隅に追いやって何がしたかったのかをもう一度深く考えてみる。
しばらくそうして考えていたがやはり答えは見つからない。湯当りしそうになって湯船から上がり身体の水気を手拭いで取ると寝間着を羽織る。夕餉は摂る気になれなかったので酒だけを持って寝所に入った。敷いたままだった布団の上に座って酒瓶ごと酒を煽り始める。この数日は媟雅の事ばかり考えていたので邸の中のことも出来ていない。近い内に休みを取って邸の中の事も整える必要があった。媟雅が隣にいた頃は舜啓が忙しくしていると、特に何を言うでもなく邸の中の事まで整えてくれていた。いつのまにか当たり前のように甘えていた事にも気づいて自嘲しながら酒を呑む。
一緒にいた刻が長過ぎてさまざまな事が思い出された。その中で自分が一番望む事を考え続ける。あっという間に無くなった酒瓶を放ると何かに当たる音がした。こつりという音に導かれるように転がした酒瓶のところまで行くと光る飾りが見えた。掌に乗る程度の軽いそれは櫛だった。媟雅のものだ、とすぐに分かる。櫛を持ったまま又布団に戻って寝転がると、何だ、と笑いが出た。思い悩んでいた事など幼い頃から変わらない容易い事だった。
舜啓が一番望むもの。
ただ媟雅に倖でいて欲しいのだ。
ただ倖にするのは自分でなければ嫌なのだ。
ただ舜啓が媟雅を求めているだけだ。
なんて当たり前の事だったんだろう、と声を出して笑いながらそれでも媟雅を傷つけた自分が腹立たしくて仕方なくなる。今すぐ宮に翔けて行って許されるものなら謝ってやり直したいと伝えたいが思い留まる。忋抖は悧羅が眠らせている、と言っていた。無理に起こしてしまうのも忍びない。逸る気持ちを落ち着けて数日中には会えるだろう、と言った忋抖の言葉を信じて待つ事にする。
会えた時にはすぐに伝えることが出来る様に、言葉と心を整えることにして目を閉じる。手には媟雅の櫛を握ったままで。
満月の夜まであと二日に迫っていた。
ぐるぐると廻っておりますが少しずつ進展させていきます。
お付き合いいただきありがとうございます。