糺す【拾陸】《タダス【ジュウロク】》
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朝を迎えると昨夜の湯当りが嘘であったかのように身体が軽かった。手早く身支度を済ませてから鏡で顔を確かめるが瞼の腫れもない。これならば悧羅以外に媟雅が号泣してしまった事など誰にも知られることはないだろう。よし、と両手で自分の頬を叩いてから家族が待つ食事処に向かう。早めに入る方なのだが、珍しくほぼ皆が揃っていた。居ないのは忋抖と灶絃だ。二人は?、と座に着きながら尋ねると、そろそろおいでますよ、と膳を運びながら磐里が教えてくれる。
「お二人とも昨夜は遅いお戻りでございましたから。少しばかりお寝坊なさっておられるようです」
ふうん、と置かれた膳の茶を手に取ると、眠れたかえ?、と悧羅の声がした。ちらりと悧羅を見ると穏やかに微笑みながら茶を啜っている。うん、と頷くとにっこりと笑いながら湯呑みを置いている。
「母様は?あれから父様すぐ戻ってきたの?」
「媟雅が湯に向かってすぐであったな。叱られてしもうた」
小さく笑う悧羅の横から、当たり前でしょ?、と紳が頭を撫でている。
「あんまり遅いときは寝てていいって言ってるのに。言うこと聞いてくれないんだもんね。妲己も哀玥もいないんだからずっと座ってるなんて駄目だよ。今日は寝てていいからね」
「なんの。妲己と哀玥も戻ってくるやもしれぬでな。考えるにも良い刻なのだえ?」
撫でていた手で悧羅の頬を触りながら、もう、と紳は小さく嘆息している。その姿に目を細めながらこの二人のように互いを想い合えたらどんなに良いだろう、と思ってしまう。それが到底媟雅には思い描くことの出来ない辛酸の上にあるものだとしても、今の二人はとても倖そうだ。膳に手を合わせて朝餉を摂り始めると忋抖と灶絃が入ってきて媟雅の両隣にそれぞれ座る。まだ眠そうに欠伸をしている二人の前にも加嬬が膳を置いた。
「哀玥も妲己もまだ戻ってないの?」
膳に手を合わせながらまだ姿の見えない二人について忋抖が尋ねる。もうそろそろだとは思うがの、と応える悧羅に、そっか、と忋抖は箸を進めている。哀玥は悧羅の命以外では忋抖と共に動くのでこうも長く居ないと忋抖も淋しいのだろう。媟雅とていつも居るはずの二人の姿が見えないと淋しく感じてしまっているから、その気持ちはよく分かる。
「ちと厄介な事を頼んでおるからのう。あの二人であらば難なく、とは思うておるが…。戻らば労ろうてやってたも」
悧羅の言葉に、うん、と忋抖が応えて箸を置いた。いつの間にやら全て食してしまっている。早くない?、と苦笑しながら媟雅も箸を置いた。眠れたとはいえあまり食欲はない。冷たい果実だけを摂ってまた茶を飲み始める。食事の進んでいない媟雅に、どうかしたのか?、と紳が心配そうに尋ねながら立ち上がって寄ってくる。額に手を当てられて媟雅を診てくれる紳に、昨日ちょっと湯当りしたから、と笑ってみせた。
「近頃忙しくさせたからな。調子悪いなら務め休むか?」
「大丈夫だよ。ただの湯当りなんだから。父様心配しすぎだよ」
笑う媟雅の頭をくしゃりと撫でて、そうか?、と紳は悧羅の隣に戻る。いつもそうだ。媟雅たち子ども達が少しでもいつもと違うとすぐに紳も悧羅も気づいて気遣ってくれる。特に紳は子ども達に甘い。六人全員が紳の直下である近衛隊に入隊しているのだから、他の隊士達と同じ扱いでいいのだが務めの間は隊長として振る舞うが、ほんの少し周りに人が居なくなるとすぐに父の顔になってくれる。それは嬉しくもあるが、近衛隊隊長としての紳を側で見れるのは誇らしい。媟雅達が産まれた頃から紳の姿は変わらない。それは悧羅も同じだが、何となく二人とも若返っている気もする。媟雅達の成熟が二人よりも遅かったからかも知れない。
「ならきつくなったらすぐに言うんだぞ?」
「分かってるよ」
小さく笑う媟雅に念を押すように紳が言うと、ほんに甘い、と悧羅が笑っている。それに笑って忋抖達が立ち上がるのに続いて媟雅も立ち上がった。先に行ってるよ、と皓滓が言い置いて皆で近衛隊の隊舎に向かう。紳は朝議の後に来るのでこれがいつものことだ。翔けているとやはりまだ身体が気怠い気はしたけれど動いていればその内取れる程度のことだ。だが弟達はそうは思わなかったようで、黙って灶絃と玳絃が両手を引いてくれた。大丈夫なのに、と苦笑する媟雅に前を行く忋抖と啝珈が、駄目だと言う。
「姉様気づいてないかも知れないけど顔色悪いよ?本当に休んだ方がいいんじゃない?」
「そんな事ないってば。少し湯当りして疲れが溜まってるだけだから」
くすくすと笑いながら引かれるままに弟達に付いて行くと、なんなら抱えようか?、と皓滓まで聞いてくる。本当に大丈夫だ、と笑うが弟妹達はあまり納得していないようだった。甘いのは父だけでは無さそうだ、と思いながら隊舎に降り立つと紳が来るまでに済ませておかなければならない務めを副官である達楊から下される。辺境の見廻りが主なのだが、その際に里を広げている場の確認と民達の声を聞いてくるのも含まれた。これもいつものことなので早々に済ませることにする。見廻りのために辺境まで翔けて民達と話していると、身体の気怠さもいつのまにか消えていた。媟雅が悧羅と紳の娘だということは民達も知っているが、気さくに話しかけてくれる。一応、姫様とは呼ばれるが皆笑いながら話しかけて、時には果物などまで持たせてくる始末だ。
「持ちきれないよ」
笑いながら言う媟雅に、そう言いなさんな、と笑う民達は皆困った事などないよ、と穏やかだ。
「長様のお陰でね。長様はお変わりないかい?」
これもいつもの事だった。悧羅がほんの少し里に降りれない日が続くと何かあったのではないか、と民達の方が案じてくれる。これが悧羅が500年、身を削って護ってきたものだと思うと嬉しく思う。
「いつも通りだよ。近頃私より若いんじゃないかって思っちゃう。娘より若々しいって困るよねえ」
肩を竦めて見せると、旦那様がおられるからねえ、と民達も笑っている。その紳も若々しくなってきていると伝えると、おやまあ、と誰もが声を上げて笑った。
「そりゃあ何十年振りにまた御子を見れるかも知れないねぇ」
揶揄うような民達の声には二人への敬愛が含まれていて、あり得る話だね、と媟雅も笑った。持ちきれないほどの荷を抱えたままで隊舎に戻ると紳も丁度降り立った所だったようで媟雅を見つけると笑いながら荷を取り上げてくれる。
「また沢山もらったなあ」
「皆、いいって言うのにどんどん持ってきてくれるんだもん。持ちきれないって何度も言うんだけどね。母様に食べて欲しいんだよ、きっと」
隊舎の戸を開けながら、だろうね、と紳も苦笑している。後で宮に持っていっとくよ、と笑いながら戸を開けられて媟雅を中に入れると自分も入って戸を閉めた。紳の姿を見るなり隊士達が挨拶と礼をとっている。それに手を振って応えながら紳も卓に荷を置いてこの日の務めを隊士達に伝えた。頼む、と言う紳に、是、と応えて皆が務めに散っていく。媟雅も自分に与えられた務めをこなすために部隊の仲間達と共に外に出た。務めも特段手こずる事もなく終わらせて部隊長が紳に報せに行くのを見送って鍛錬場に入り、武官隊隊士達と共に鍛錬をつけてもらう。先に鍛錬場に入っていた者たちがぼろぼろになりながら、務めに向かう姿に苦笑してしまうが数刻後には同じ姿になっていた。身体はぼろぼろに疲れたけれど、何も考えなくて済んだのは媟雅にとっては都合が良かった。同じ部隊の者たちとその場に座りこんでいると頭上から紳の声がかかる。座り込んだままの媟雅の前にしゃがみ込んで紳は笑っている。
「務めが終わったら悧羅に揚饅頭買っていってくれないか?近頃また食が落ちてんだ」
笑いながら媟雅の手に小銭を握らせる。大きな務めの前や考えなくてはならない事があると悧羅は食が落ちる。ただでさえ痩身であるのに食べれない日が続くとより痩せてしまうのだ。だが周りに部隊の者がいるのに紳が父の顔になるのは珍しい。
「俺が行けたら良いんだけど今日も遅くなりそうだからさ。おばちゃんの店も閉まっちゃうだろ?頼める?」
「分かった。…でも出来るだけ早く帰ってね。母様どんなに言っても動かないから」
小銭を懐に仕舞いながら言う媟雅に、分かってるよ、とまた笑って紳は頭を撫でて去っていく。
何だろう、本当に珍しい。
きょとりとしてしまいながら立ち上がると仲間達も、よいしょ、と立ち上がっている。上がった息もどうにか落ち着いて皆で隊舎に戻り残った務めを部隊長から命じられて手早く終わらせて戻った頃には酉の刻を廻っていた。部隊長に報せを済ませると、御苦労さん、と戻ってよいと許しが出た。いつもなら弟妹達が終わるのを待つのだが、紳からの遣いも頼まれている。甘えて下がる事にして媟雅はそのままいつもの揚饅頭屋に向かった。一日が終わるとどっと疲れも出てくるが図らずも舜啓と顔を合わせなくて済んだのは良かったかもしれない。疲れはしたが身体の怠さも消えていつもの務めの後の疲労感があるだけだ。歩きながら大きく伸びをして目当ての店に着くと、店の中から恰幅の良い女主人が手を振ってくる。笑って少し駆け出すと店から出てきた女主人が広げた腕の中に飛び込んだ。
「久しぶりじゃあないかい、姫さん」
甘い饅頭の匂いがする腕に抱きしめられて媟雅は笑ってしまう。
「女の子がこんなに泥だらけになって。ちったあ紳さんに考えろって言わなきゃなんないね」
顔についていたのであろう汚れを取ってくれながら豪快に笑う女主人は幼い頃から媟雅を可愛いがってくれている叔母のような存在だった。
「おばちゃん久しぶり。元気だった?」
「見りゃあ分かるだろ?元気でなけりゃあ少しは痩せるってもんだよ」
わはは、と笑いながら女主人は媟雅の頭を撫でてくれる。で、どうしたんだい?、と聞かれて悧羅のために饅頭を買いに来た、と言うとうんうんと頷いて店の中に戻り手際よく紙袋に饅頭を放り込んでいる。小さい頃、一緒に作るとねだって女主人と悧羅と共に作った事もある饅頭だ。悧羅の好物でもあるが媟雅の好物でもある。手元を見ていると懐かしくなってつい笑みが溢れた。
「…おばちゃん…、また一緒に作りにきても良い?」
「何だい、よそよそしい。当たり前だろう?忙しいんだろうけど、小ちゃい頃みたいにひょっこり来てくれないと呆けちまうよ?」
大人になっちまったねえ、と豪快に笑われて媟雅も笑ってしまう。確かに幼い頃は妲己にせがんで宮を抜け出して女主人の元に遊びに来ていた。黙って宮を抜け出して店の手伝いをしている所を紳に見つけられて大笑いされたものだ。あの頃から少し年老いたが、この声を聞くと悧羅に包まれている時と同じように安心してしまうから不思議なものだ。悧羅達に言わせれば物心着く前から女主人には懐いていたそうで、腹の中にいる時もここの饅頭だけは悧羅も食べれていたと教えられていた。腹の中にいた時から女主人の為人をどこか感じていたのかも知れなかった。
「ほら、姫さん。あったかい内に持って帰ってやんな」
紙袋一杯に詰められた饅頭に、入れすぎだよ、と笑って支払いを済ませる。
「あれ以上痩せられちまったら風が吹いたら飛んでっちまいそうだからね。ちゃんと食べるように言っとくれよ」
「うん。おばちゃんの饅頭なら母様食べるんだよね。弟達も好きだからすぐ無くなるんだよ」
紙袋を受け取って甘い匂いに包まれるとつい一つ摘んでしまう。そりゃ嬉しいねえ、と減った饅頭を一つまた紙袋に入れられて苦笑しながら、また来るね、と媟雅は宮に戻り始める。いつでもおいでぇ、と下から叫ばれて笑いながら手を振る。甘い饅頭を頬張りながら急いで翔けて宮の中庭に降り立つと目の前の悧羅の自室の戸は大きく開け放たれていた。卓に向かって文書を広げている悧羅の姿が目に入って、遠目からでも少し痩せたのが見てとれた。縁側に寄りながら、母様、と声をかけると顔を向けて、おや、と笑いながら立ち上がっている。
「良い匂いがするの」
部屋からゆっくりと出てきた悧羅が媟雅の腕の中の紙袋の中に手を伸ばして饅頭を取る。
「父様が買っていってって。珍しく仲間のいる前で言われたから吃驚しちゃったよ。母様があんまり食べないから心配してるみたいだよ?」
「…とはいえ、買うてき過ぎではないかえ?」
「おばちゃんが入れるんだもん。母様にそれ以上痩せられたら困るんだって」
手にした饅頭を口に運びながら、おやまあ、と悧羅が笑っている。そのまま磐里と加嬬を呼ぶと二人がぱたぱたとやってきた。媟雅を見つけると、まあお早い、と喜びながら紙袋を受け取っている。
「多ございますねえ」
苦笑する二人にも悧羅が食べるように勧めると、笑いながら一つずつ手に取って食べ始めた。
「若君方が喜ばれますね。妲己と哀玥もおりましたらよろしゅうございましたのに」
笑いながら美味しそうに食べる二人に、そろそろ戻ろう、と悧羅が教えている。持っていた饅頭も食べ終えてくれたようでほっとする媟雅に加嬬が湯殿を勧めてくれた。
「長湯なさってはなりませんよ?また湯当りしてしまいますからね」
二つ目の饅頭を頬張りながら言われて笑いながら媟雅は湯殿に向かおうとすると中庭に次々に弟妹達が降りてきた。まるで饅頭があることを知っていたかのように、いい匂いがする、と磐里の腕の中から取り上げて食べ始めている。磐里達の言う通りすぐに無くなりそうだった。笑いながら湯殿に向かう媟雅を啝珈が追いかけてきて腕を取ってきた。一緒に入ろう、と手を引かれて笑いながら共に湯を使う。身体を清めていると、身体大丈夫?、と啝珈が尋ねてくれた。朝から心配してくれていたので気になっていたのだろう。
「動いてたら大丈夫になったよ。ただの湯当りだって言ったじゃない。みんな心配し過ぎなんだよ」
「だって姉様、本当に顔色悪かったんだよ?忋抖達も心配してたもん。お昼も摂ってなかったでしょ?」
そういえば、と媟雅は言われて気づいた。ただ忙しかっただけなのだが、昼餉も摂っていなかったようだ。気づいてなかった、と笑うと、もう、と呆れたように啝珈が湯をかけてくる。何かあったの?、とも聞かれたが、何も、と笑って見せた。
「もうすぐでしょう?少し気が張り詰めてるのかも知れないね。母様がどう動くにしても十五年前みたいに一人で背負わせたくないから」
「…ならいいけどさ。それは啝珈も同じだし。父様は皓滓達も連れて行くって言ってるけど、まだ三人には何にも言ってないみたいだしね」
「直前で話すって言ってたよ?私たちも母様のあの姿を見たからちゃんとしなきゃって思ったんだし、父様が言うんだったら大丈夫だよ」
まあそうだよね、と湯に浸かる啝珈が大きく溜息をついている。どうかしたの?、と媟雅も湯に浸かりながら聞くと、思い出しただけだ、と苦笑された。粛清の時の悧羅の姿のことだろう、とは媟雅にもすぐに分かった。返り血を避けることさえせずに奪った生命を全て背負っていたように見えた。
「ほんと…長って重いよねぇ。これが最後にしてほしいよ」
呟くように言った啝珈に媟雅も頷く。あの細い身体に背負う重圧がこれ以上重くならないことを祈ることしか出来ないのが悔しいが、それでも自分たちも十五年前よりは使えるはずだ。護ろうね、と言われて、もちろんと笑ってから二人は湯から上がる。湯殿を出て中庭の見える方に歩いていくと、もうないじゃん!、とこれまた珍しく紳の声がした。約束通り早く帰って来てくれたようだが手には紙袋が握られている。中には饅頭が入っていたはずの袋なのだが中を覗きこんで大きく肩を落としている。どうやらあれだけあった饅頭は弟達に食べ尽くされてしまっていたようだ。美味かったよ?、と悪戯に笑っている玳絃の頭を小突いて、俺の分が無いじゃないか、と笑っている。その背中に隣を歩いていたはずの啝珈が走って飛びついた。
「父様、お帰りなさあい!」
おっと、と言いながらも紳は笑って、ただいまと言っている。媟雅も歩み寄って行くと遣いをした事に対しての礼を言われる。
「おばちゃんの事だから山のように入れてくれてたんだろ?俺の分が無いんだよ。悧羅は食べた?」
「戻ってきてすぐに食べてくれてたよ。磐里達も」
ならいいか、と笑って紙袋を玳絃の頭に被せると見ていた悧羅はくすくすと笑っている。
「こうなると思うておったに。紳の分は取ってもろうておるよ」
笑う悧羅に、さすが、と破顔して紳が口付けている。本当に今でも恋仲の間柄のようだと子ども達が笑っていると磐里と加嬬が皆に湯を使うように言っている。
「上がられたら夕餉でございます。姫様がたには冷たいものをお持ちしましたよ」
父母と弟達が湯に向かうのを見送って加嬬が膳を置いてくれる。冷たい水とよく冷えた桃が乗せられた膳を挟むように啝珈と媟雅は共に縁側に座った。陽が落ちて暗くなった宮は湯を使った後はとても涼しく過ごしやすい。互いに濡れたままの髪を手拭いで拭き取りながら置かれた水と桃を口にする。甘い味が広がって妲己にも食べさせたいと思う。桃は妲己の好物なのだ。本当に早く二人とも戻ってきてくれないかなぁ、と思いながら空を見上げると月が昇り始めている。
「どこまで行ってるんだろうねえ」
啝珈も同じことを考えたようで頬杖をついて桃を次々に口に放り込む。本当だね、と笑いながら無くなる前にもう一切れ媟雅ももらって後は啝珈に譲った。媟雅も啝珈も妲己に育ててもらったようなものだから長いこと姿が見えないとやはり淋しいものだ。
「母様はもう少しって言ってたから、きっとすぐだよ。私たちにはわからなくても母様には何処にいるかくらい分かってるはずだから」
媟雅の言葉に啝珈も、うん、と応えた。二人の脚ならどんなに遠くても光のように翔けていることだろう。妲己の気配は元より哀玥は悧羅の眷族だ。どんなに離れていても繋がっているのだから心配する必要もない。桃を食べ終えてごろりと縁側に横になる啝珈に苦笑しながら媟雅はまた月を見上げた。
その日の夕餉には媟雅が買ってきた饅頭が添えられていた。自分の膳に乗っているものだけでは足りなかったらしく弟達にせがまれて媟雅の饅頭は無くなってしまう。お前らなあ、と苦笑しながら紳が分けてくれるとその紳に悧羅が分ける。
「悧羅は食べなきゃ駄目でしょう」
笑いながら悧羅の口に饅頭を運ぶ紳を見ながら、その日の夕餉は賑やかなものだった。夕餉を終えて磐里や加嬬たちも含めて茶を飲みながら他愛も無い話をする。夜が更けてくると誰からともなく夜の支度を済ませて自室に下がっていく。媟雅も小さな欠伸をしながら父母に、おやすみ、と言い残して夜の支度を済ませて自室へ向かう。月の昇り具合から見て亥の刻近いか廻っているといったところだろう。また小さく欠伸が出るのを手で押さえながら自室の戸を開いて、媟雅はびくりと身体を固めてしまった。開けた戸の先で仄かな灯りの中に座っている舜啓の姿があった。一度邸に戻ったのか隊服姿ではない。隊長である紳の戻りも早かったから、部隊長である舜啓も務めが終わっていて当然だった。
一つ大きく息をついて媟雅は部屋の中に入ると戸を閉める。舜啓から少し距離をとって座り居住まいを正した。
「…長く待ってたの?」
早鐘を打つ心の臓の音が響いて舜啓にまで聞こえるのではないかと心配になるほどだ。媟雅の問いに、いや、とだけ舜啓が応えた。宮での刻の使い方は知っている。いつ頃女官達がそれぞれの自室に灯りを灯しにくるのかも、いつごろそれぞれが自室に戻るのかも。その刻を見計らって来ていたので待っていた刻などほんの僅かなものだ。
今日一日毎日のように謝罪に来ていた媟雅は顔を見せなかったし、ちらりと見かけることはあっても忙しいのか休む暇もなく動いているようだった。務めが終わる頃には会えるだろうと思っていたけれど舜啓が隊舎に戻った時には、すでに宮に下がっていた後だった。声も聞けず姿を見かけても視線も合わせず、ということがたった一日であったのに舜啓には辛かった。
これを十四日も媟雅に強いていたかと思うと、情けなくて仕方なくなる。媟雅が別れ話なのか、と聞いた意味も分かった気がした。こんな思いをさせられ続けていたらそう考えても仕方ないだろう。
正直に言えば昨日来たのはそのつもりだった。
危うい目に合わせてしまった舜啓自身も不甲斐無かったが、何よりも他の男と自分を間違えるなど、ましてや肌を重ねるなど許せるはずもなかった。けれど伝えに来たものの媟雅は倒れ込んでいるし、顔も青ざめている。冷やしていたのだろうが濡れた手拭いも落ちていた。とにかく布団に入れようと抱き上げたのだがそれだけで心が踊ってしまうのだ。よく見ると瞼は腫れている。きっと泣き続けていたのだろうことが容易く思い描けて心が苦しくなった。目を冷やしてやりながら考えていると、舜啓が何を言えるのだろう、と思えた。
元々恋仲にならなければ情を交わさないなどと卑怯な制約を結ばせた。自分はそれまで幾人もの鬼女と肌を重ねてきていたにも関わらず、だ。それをたった一回、しかも酒に酔って舜啓だとばかり思っていたと言う媟雅が身体を許そうとしていたのに対して怒る権利など自分にあるのだろうか。
舜啓だと思っていたからこそ媟雅は身を預けようとしていたのに…。
そう思うと手を離すべきなのか分からなくなった。手を離せば落ち着いた頃に媟雅は恋仲になる者を見つけるかも知れない。そうまでしなくても情を交わす相手くらい見つけるだろう。その時に果たして自分が耐えられるのだろうか、とも思えてきて覚悟を決めているような媟雅の声に思わず口付けてしまった。もう一度考えたくてその場は去ったけれど触れた事で熱を持った身体を鎮めるのはなかなかの拷問だった。その辺りの鬼女でもいいから鎮めたいとまで思ったほどだ。それをどうにか堪えられたのは、今日またここに来なければならない、と自分に言い聞かせたからだ。
固まったように少し離れた場所に座る媟雅を真正面から見つめて舜啓は小さく息をついた。
長くなりますので分けました。
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ありがとうございました。