糺す【拾伍】《タダス【ジュウゴ】》
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まずい事になった、と媟雅は自室で大きく嘆息した。舜啓がこの所、およそ十四日にもなるのに媟雅の前に現れてくれなくなったのだ。原因は分かっている。十五日前の酒席であまり強くもない酒を勧められるままに呑んでしまってふらふらになった媟雅を看病してくれたのは舜啓ではなく他の男鬼だった。顔見知りで仲もよい数人に誘われて呑みに行ったのだがこの所、気を張り詰めてばかりいたので箍が外れていたようだ。
「あんまり呑まない方なんだから無理して呑むな」
酒席に行くと伝えた舜啓にそう言われていたのに珍しく進んでしまって酔いが廻ってしまい周りが見えなくなってしまった。宮に戻る途中で声を掛けられたが舜啓だとばかり思っていたので、いつものように甘えてしまったのだが相手が違ったらしい。林の中に連れ込まれて口付けられて何かが違うとは思ったが酔いのせいだろうと思って身を任せてしまった。既での所で宮に向かっていた舜啓が見つけて止めてくれたのだが、それまで相手が舜啓だとばかりだと思い込んでいた媟雅は青ざめてしまった。相手を帰した後で、どういう事?、と尋ねる舜啓の声音はいつもの穏やかなものではなかった。舜啓だと思っていた、と弁明したのだが、それにも呆れたような嘆息が聞こえただけだった。乱れた衣を直すと誰とも分からない者に身体を許しそうになっていたことが嫌悪でしかない。
「とにかく送るから宮に戻るよ」
振り向きもせずに言われて先に立って歩き出した舜啓は媟雅の手さえ握ってはくれなかった。宮の入り口に着くまでに酔いもすっかり醒めてしまい、もう一度謝ったのだがそれには何も応えずに舜啓は自分の邸に戻ってしまったのだ。一緒に宮まで来て泊まらずに戻ることなど初めてであったから余程怒らせてしまった、と猛省している。それから機会を見つけては謝ったり、時には舜啓の邸にまで出向いているのだけれど、邸に灯が灯っていることもなかった。もちろん謝罪に対しての応えもない。出来れば姿も見たくないかの様に視線さえ合わせてもらえない日々が続いていた。
舜啓が怒るのは当然なのだから耐えなければならないのは分かっている。酔っていたとはいえ舜啓以外の男と肌を触れ合わせたのは事実だ。例え未遂であったとしても舜啓が来なければそのままであっただろうと思う。最初に情を交わす時に恋仲にならなければ交わさないと言われた。他の男と情を交わすのを許してやれないし、舜啓も他と交わすことはしないから、と。あれから十五年、ずっと舜啓だけだった。媟雅も舜啓に恋慕しているし他の男など知らなくても良いと思っている。けれどまさか媟雅自身がこんな形で舜啓を傷付けてしまうとは考えてもいなかった。十五年一緒にいて小さな口喧嘩はあったけれど、どれも些細な物だったし必ずと言って良いほど先に舜啓が折れてくれていた。それがどれほど媟雅の方に非があろうともそれは変わらなかった。
だが今回ばかりはどうして良いものか分からない。姿も声も視線さえ合わせてもらえなければ打てる手も残っているとは思えない。はあ、とまた大きく嘆息して立ち上がると寝所に突っ伏すように倒れ込む。
このまま終わるのかもしれない。
ふとそんな思いが過った。頭を振って追い出そうとするが一度過った思いは振り払うことが出来ない。
十五年かぁ、と小さく呟くと思えば長いものだと感じた。鬼の十五年など人の子からすればほんの一、二年程度の事だろう。だがよくよく考えれば父母である紳と悧羅が契りを交わしたおよそ半分の年月を共にいたことになる。よく今までもったものだ、と自嘲するとまた大きな溜息が出てしまう。終わりだ、と思ってしまうと胸の中が重くなって熱くなる目頭を枕に押し付けた。泣いたところで過ちが無くなるでもなしに、と自分を焚き付けて大きく息を吐いた。誰かに話せれば気持ちも楽になるかもしれないが誰に話せるというのだろう。母である悧羅ならば話を聞いて良い案や媟雅を慰めてくれるだろうが、今はそんなことで悩ませたくなかった。長として里や民達を護るために今は一番大切な時なのだ。大きな務めを抱えている悧羅に余計な心労をかけたくない。それが無事に終わって落ち着いても舜啓との状況が変わらなければ話を聞いてもらおうと思い直して媟雅は布団に潜りこんだ。明日も近衛隊としての務めは待っているし、部隊は違えど舜啓と顔を合わせることもあるだろう。
しばらくは声もかけずにいた方がいいのかもしれない。
姿も見たくないのであれば行動も逆を取って会わないようにすれば良い。
舜啓とのこれからを考えるためにも媟雅にも必要な刻なのだろう。
布団に潜ったは良いがぐるぐると考えてしまって又目頭が熱くなってきてしまう。身体は疲れているはずなのに一向に微睡むことも出来ず布団の中で幾度も寝返りを打つばかりだ。ああもう!、と起き上がって部屋を出る。もう一度湯でも使って水でも被れば多少は頭も冷えるかと思いながら湯殿に向かって歩き始めた。歩きながらも巡る思いを追い出そうと頭を叩く。しっかりしないと、と頬も叩きながら歩いていると視線の先に縁側に座っている悧羅が見えた。歩いてくる媟雅に気づいたのだろう。ゆっくりと顔を向けて、おや、と微笑んでいる。紳を待っているのだろうがもう亥の刻を廻ろうとしている頃合だ。さすがに中に入らないと悧羅の方が身体を壊すのではないかと心配になりながら近くに寄った。
「母様、父様まだ戻らないの?さすがに中に入ってたら?父様も心配しちゃうよ?」
声を掛けると悧羅は微笑みを絶やさずに、大事ない、と穏やかに言う。
「もうそろそろであろうからの。紳や媟雅達のように妾は務めに出ておるわけでもなし。涼しゅうて良いものだえ」
「でももう長いでしょ?ずっと座ってるの?」
穏やかな里の気候とはいえ夜はそれなりに冷える。長い刻を過ごすには身体が冷え切ってしまうだろう。
「いいや、時には動いておるよ?先程まで皓滓もおったでの。何事を考えるにも良い刻じゃ」
くすくすと笑って悧羅は月を見上げている。まだ欠けている月が丸くなったら大きな務めを悧羅は行わなければならない。それを考えているのだろう。そっか、と言う媟雅に笑って悧羅は自分の隣をぽんぽんと叩いた。促されるままに座ると手が伸ばされて頭を撫でられた。
「…なんぞあったのだろう?妾でよければ聞かせてくれまいか?」
優しい声音にまた目頭が熱くなりそうになるのを堪えて、何もないよ、と媟雅は笑って見せた。だが悧羅は微笑んだままで首を振っている。
「おや?大事な娘のことも分からぬ母だと思うてか?よいから言うてみい。吐き出す事で楽になれることもある」
頭に乗せられたままの手が頬に触れて堪えていた涙が堰を切ったように溢れだした。おやおや、と微笑む悧羅に抱きついて、どうしよう、と媟雅は咽び泣きながら話した。黙って聞きながら宥めるように背中をさすられてますます涙が溢れてしまう。
「どうしたらいいのか分からないの。自分が悪いのは分かってるけどこのまま終わるのかなって思ったら苦しくて…」
童のように泣きじゃくる媟雅の身体を優しく包んで、そうか、と悧羅は穏やかだ。こんな事を悧羅に今言うなどしてはならないと分かっているのに一度堰を切った言葉も涙も止まらない。包んでくれる自分よりも細い腕に暖かさを感じて困らせるのは分かっているのに媟雅は泣き続けてしまう。どれくらい泣き続けたのか分からないほどに泣いて涙が収まる頃には媟雅はしゃくりあげていた。どうしたらいいの?、と悧羅から身体を離すと優美な指が涙を拭ってくれる。大きく幾度か呼吸して息を整えると悧羅は優しく笑っていた。
「お酒に酔ってたからって言い訳にもならないよね…。母様だったらどうする?」
泣きすぎて腫れぼったくなった目を擦ると、そうさのう、と悧羅は少し考えているようだったがすぐに小さく笑う。
「案じずとも良い、とは思うがな。身体を許した訳でもあるまい?」
「そうだけど…。それは舜啓が来てくれたからで…。来てくれてなかったらきっとそのままだった」
その時の舜啓の姿と声が思い出されて媟雅の背中に冷たい汗が流れた。何かが違うとは思ったが媟雅にそんな風に触れるのは舜啓だけなのでそうだと思い込んでしまった。油断していたわけでは無かったけれど、危機感が足りていないと言われてしまえばそれまでだ。
「舜啓だ、と思ったのであろ?そう思っていたからこそ身を任せようと思ったのであろ?」
首を傾げて言う悧羅は微笑んだままだ。うん、と頷くと、ならば大事ない、とまた悧羅は小さく笑う。
「媟雅の話を聞く限り妾には舜啓が怒っておるは舜啓自身に、だと思うがな」
「舜啓が自分に?…私にじゃなくて?」
悧羅の言っていることが分からなくて聞き返すと、うん、と頷いている。どうして?、と尋ねると、容易いことじゃ、と悧羅が媟雅の手を取った。
「護れなんだ、と思うておるのだろうよ」
護る?、と首を傾げると悧羅はまた頷いた。幼い頃から舜啓は悧羅の子どものようなものだ。まっすぐな性分な分、己に厳し過ぎる所があるのを知っている。媟雅が産まれた時から嫁にとるのだといい、恋仲になった時もこっそりと悧羅にだけは教えてくれていた。
「強い鬼になって媟雅を護れるくらいにならないと嫁にくれないって悧羅言ってたから、俺まだまだ強くなるからね」
耳打ちされた言葉に笑ったのを覚えている。媟雅と顔を合わせたくないのではなくて、合わせる顔が無いとでも思っているのだろう。媟雅が酒に弱い事は知っていただろうし、仲の良い者たちだとはいっても男も混じっているのであればそうなる可能性は考えておかなければならなかったはずだ。それをせずに媟雅を酒席に送り出し戻るのを待つでもなく、あわやという目に合わせたのだ。自分に腹立たしくて仕方ないのだろう。そう媟雅に伝えると、でも悪いのは私だよ?、と大きく溜息をついている。
「舜啓の手しかついておらぬのだから分からぬとしても致し方あるまい?他の手を知っておるのであらばすぐに分かるであろうが。それを媟雅に求めるのは、ちと酷であろうな」
そういうものなの?、と目を見開く媟雅に悧羅は笑ってみせた。
「…母様だったら違うって分かる?父様じゃないって」
すぐに、とますます悧羅は笑った。
「触れられた瞬間に分かる。あれが妾に触れる手はいつも慈しみに溢らておるに。他の男どもとは違うての」
「私もそうだったらよかったのになあ…。そしたら舜啓を傷つけずに済んだのに…」
また涙が溢れてきて媟雅は寝間着の袂で拭うと、良いものでもないぞ、と悧羅が苦笑した。
「妾がそれを分かるのは長として子を成すために紳以外の数多の男と情を交わしておったからに過ぎぬ。民達でもそれが分かるは一夜限りの情を交わす者がおるからじゃ。舜啓の手しか付いておらなんのであらば無理というものであろ」
そっか、と媟雅は大きく息をついた。紳と離れて500年の間、悧羅は望まぬ夜伽を繰り返さなければならなかったのだ。想う相手はいるのにそれでも身体を開かなければならなかった苦痛は如何ばかりだったのだろう。ほんの少し肌を触れ合わせただけで、こんなにも嫌悪してしまうというのに長であるから、と受け入れてきた悧羅であれば紳と違う手などすぐに分かるのは当たり前なのかもしれなかった。
「だけど離れたいって言われたら?嫌だけど受け入れるしかないのかな…?」
言われたくもない言葉を口にすると身体が小さく震え出してしまう。悧羅に握られた手にも震えが伝わったのだろう。そっと手が包まれた。
「その時はその時じゃ。媟雅が嫌じゃと思うならそう伝えれば良し。舜啓が折れねば、待つとでも言うてやればよろしかろう。…待つ間に媟雅の気持ちさえ良ければ他の男と情を交わすのもよい。どんなに離れようと引き合う時には引き合うものだ。紳と妾を見ておれば分かるであろ?」
微笑まれて媟雅も本当だ、と小さく笑った。離れたとして他の男と情を交わすなど今は考えることも出来ないが、どんなに離れても引き合うときには引き合うのだ。紳と悧羅のように500年互いに想いあってきた者が目の前で、大した事はないと言ってくれている。これ以上の励ましはないだろう。
くすくすと笑い始めた媟雅に悧羅は湯を使って来るように促す。随分と泣いていたので湯にでも浸かって目を水で冷やさなければ明日には腫れてしまうだろう。そんな姿を媟雅が舜啓に見せたくないのは分かる。うん、と立ち上がった媟雅に、よく目を冷やすように、と悧羅の声がかかった。
「うん、母様ごめんね。大きな務めの前なのに…」
落ち着くと悧羅に迷惑と余計な心配をかけてしまったことが申し訳なさすぎて謝る媟雅に悧羅はにっこりと微笑んだ。
「妾の務めのことなど気にせずともよい。媟雅という大切な宝が気を揉んでおる方が辛いでの」
さあ行ってきや、と背中を押すように言われて今度は悧羅に礼を言って媟雅は湯殿に向かう。涙と冷汗で濡れた寝間着を脱いで髪は濡れないように結えてから湯船に浸かる。手桶に水を張って手拭いを浸して絞ってから目の上に乗せると熱くなった瞼が冷えて心地良かった。温くなったらまた冷やして当てるを繰り返すと重たかった瞼が幾分か軽くなる。湯船の縁に頭を乗せていると、大きな嘆息が出てしまう。だが思いの外心の中がすっきりして重苦しかったつかえも取れている気がした。
確かに悧羅の言う通りだ、と思う。
もしも舜啓が媟雅と離れたがったとしたらそれはそれで仕方のないことだ。媟雅がそれを言われた時に嫌だと思えば待つと言えば良いのだし、待っている間に心変わりしたとしても良いように思えた。今まで舜啓と恋仲だったからこそ他の男と情を交わしたり、目移りする事などなかっただけだ。離れればそれだけ媟雅の視野も広がるだろう。そう考えれば、深く悩まずとも良い気がした。何より媟雅に出来得ると考えられることはすべて行った。顔を合わせれば幾度も謝罪したし、舜啓の邸にも何度も足を運んだ。それでも会えなかったり言葉を交わせなかったのであればそれ以上できることもないではないか。何よりあの舜啓だ。離れるにしても黙って去ることはしないだろう。であれば媟雅に出来ることはもう待つこと以外残っていない。いつものように何も変わらない風を装って舜啓が答えを出すのを待てばいいのだ。
もう一度目をしっかりと冷やしてから湯から出ると少し長く浸かり過ぎたようでくらりと足下がふらついた。ほんの少しだけ湯当たりしてしまったようだ。部屋に戻る前に水差しをもらっていこう、と思いながら眩む視界が治るのを待って脱衣場に戻る。身体の水気を取ってから新しい寝間着に袖を通して結えた髪はそのままに湯殿を出る。思っていたよりも湯当りは酷いようだ。しっとりと汗ばんでくる首筋や顔を乾いた手拭いで拭き取りながら磐里と加嬬が控えている部屋に行き声をかける。
まあまあ、と驚いたような加嬬が戸を開けてくれて、どうされました?、と中で磐里モ立ち上がっている。
「ううん。汗かいたからもう一度湯を使ったらちょっと当たっちゃって…。水差しをもらいに来ただけよ」
「そのようなこと、言ってくださればお部屋にお持ちしましたのに。眩みますか?」
赤く火照った顔を見て磐里が尋ねてくれたので、ほんの少し、と応える。
「では冷たい手拭いも支度致しましょうね。お部屋にお待ち致しますよ?」
早く布団に入っておけとでもいう二人に笑って持っていける、と言うと急いで支度を整えてくれた。待つ間に冷たい水も渡されて飲み干すとほんの少し身体の火照りが引いたような気がした。だがやはり頭はぼうっとしているようで二人の言う通り早めに冷やしながら休んだ方が良さそうだった。手渡された膳を受け取って二人に礼を言うと、何かあればすぐに呼ぶように、と念を押されてしまう。それに分かったと言い置いて自室に戻ろうとするのだが、やはり足がふらついた。二人には気取られないようにしっかりしなきゃ、と自分を焚きつけながらどうにか部屋に戻る。そのまま枕元に膳を置いて冷たい水を二回飲んでから布団に倒れ込むように横になった。横になるだけで天井が廻るのが分かって急いで目を閉じて冷たく冷やしてくれた手拭いを額から目にかけて乗せる。よく冷えた感触が心地よくてそのまま微睡み始める。もう一度くらい冷たい手拭いに変えたかったけれど一度横になると起き上がるのが難かしかった。目を開けたり起き上がったりすればまた眩むのは分かっている。手拭いの表裏だけを返して目を閉じていると疲れていたのか身体がすぐに眠りに沈んでいく。大きく息をついて沈んでいく意識に身体を任せることにした。
どれくらい眠れていたのかは分からなかったが手拭いが冷たいものに変えられたのが分かった。手拭いが当てられているので目を開けることは出来なかったが磐里か加嬬なのだろう。布団の上に倒れ込むようにしていたはずなのにいつのまにか掛け布団までかけられている。きっと心配して様子を見に来てくれたのだと思うと申し訳なかった。二人の名を交互に呼ぶが返事がない。では悧羅だろうか、と母様?、と呼んでみるがこれにも応えは無かった。手拭いの上から掌で抑えられているのは分かるので気にせずに休め、ということなのだろうか?
「ありがとう」
呟くように礼を言うと手拭いの手がほんの少し動いた気がした。気にはなったけれど湯当りと号泣の後で身体が気怠い。大きく息をついてまた眠りにつこうとすると手拭いが変えられる。また抑えられる前に誰なのかだけでも、と重い腕を動かして手拭いをずらして目を開けるとまだ少し眩む視界に漆黒の髪が見えた。驚いて飛び起きると目がぐらりと廻って身体が倒れ込んでしまう。何で?、と呟くように言うが返事の代わりに布団に横たえられた。寝ていても頭の中が廻っているようで気分が悪くなる。何を言うでもなくまた冷たい手拭いが額と目の上に置かれて抑えられた。言葉を出したいが今口を開けば吐瀉してしまいそうで仕方なくそのまま媟雅も何も言えなくなる。温くなるとまた冷たいものに変えられてほうっと安堵の溜息が漏れてしまう。寝ろ、と呟くような舜啓の声がして久しぶりに聞けた声に身体が震え出したのが分かった。何よりもどうして舜啓が、とも思う。あれだけ避けられていたのにどうしてここに居て媟雅の看病をしてくれているのかが分からない。だが何か話があって来たのは間違いがないのだろう。治ってきた嘔気を飲み込むようにしてどうにか一言、別れ話?、と声にした。
手拭いの上の手が少し動いたのが分かって、やっぱりそうか、と媟雅は苦笑してしまう。話をしに来たら媟雅の具合が悪そうだったので放っておくことが出来なかった、というところなのだろう。手拭いの下で目頭が熱くなるのを感じたけれどどうにか押し殺して落ち着くように大きく息を吐く。
「…何でそう思うんだよ?」
静かな部屋に小さな舜啓の声が響いて、何となく、とだけ媟雅は応えた。悧羅はああ言ってくれていたけれど、他の男に身体を許そうとした自分を舜啓が許すとは思えなかっただけだ。起き上がれない自分には今で丁度よかったかもしれない。もし具合が良かったらきっと泣いて嫌だといい引き止めて困らせてしまっていた。
「いいよ、はっきり言ってくれて」
先を促すように言ってみるが舜啓の言葉がない。けれど言うなら言うで早くしてもらいたかった。言い置いて出て行ってもらわなければ泣くことも出来ない。大きく嘆息してしまう媟雅に、いいから寝ろ、とまた声が降る。手拭いを変えられて、自分で出来るから、と言うが、倒れたじゃない、と一蹴された。
「ただの湯当りだから、寝れば治るよ。それより話があるんでしょ?」
「媟雅の具合が悪い時に話どころじゃないよ。いいから寝ろって」
嘆息したような言葉に、狡いなぁ、とごちて媟雅は苦笑してしまう。最期まで優しくされては気持ちの切り替えに刻を要してしまうではないか。いいから、ともう一度先を促すと舜啓が大きく息を吐くのがわかった。言いにくいのか言いたくないのか、どちらにしてもこのままではいられないというのに…。待っているが舜啓は何も言わないままだ。まるで媟雅が眠るのを待っているかのように身じろぎ一つさえしていないのは気配で分かる。本当に微睡みそうになってきて、焦って手拭いの下で目を開けようとするが抑えられた瞼を上げることは出来なかった。
「…約束破りそうになったのは私だもんね。舜啓が許せないのも分かるから。…私から言おうか?」
沈黙の方が拷問に感じて媟雅が口を開いた。
「…今話す事じゃないよ」
「長く伸ばせる話でもないんでしょ?だったら今でも後でも一緒だよ」
そっか、と舜啓が嘆息したのが聞こえた。心なしか手拭いに置かれた手に力が込められたような気もするが媟雅は何も言わずにおく。媟雅、と呼ばれて、なあに?、と応えるのが精一杯だ。それ以上言葉を出すとこれからくるであろう別れの言葉の前に泣き出してしまいそうだった。
と、目に当てられた手はそのままに唇が塞がれて驚いて両手で舜啓の身体を押し戻した。何?!、と発した声は思いの外大きかった。広い部屋に少しばかり響いた声に自分でも吃驚してしまう。目は押さえられているので舜啓の顔を見ることも叶わずにいるとまた深く口付けられる。押し戻そうとするが目に当てていた手も解いて抱きしめられて、頭も抑えつけられてはどうすることもできない。重い腕で舜啓の胸を叩いてみるがびくともしなかった。弄ぶように長く口付けられて、ようやく唇が離された時には媟雅の息は乱れて荒れてしまっていた。目に置かれていた手拭いも落ちてしまってゆっくりと目を開けると少し眩むが舜啓の顔がぼんやりと見える。
「舜啓、何で?」
荒れた息の中から聞いてみるが視界に映った舜啓は何も言うことなくまた深く口付けてくる。身体の芯が痺れてきて身を捩る媟雅を逃さないかのように力強く抱きしめて唇が離れるとまた何も言わずに奪われる。幾度もそうして口付けられてようやく解かれた時には媟雅はくったりとしてしまっていた。
「…とにかく今日は寝ろ。…明日また来るから」
力の抜けた媟雅の身体を布団に横たえてもう一度軽く口付けてから冷たく絞った手拭いを目の上に乗せてくれる。寝ろよ、と言う声がして舜啓が部屋を出て行くのは気配でわかった。
何だったんだろう…。
気配の無くなった部屋に一人残されて媟雅は何が起こったのかさえ理解が出来ない。別れ話の前の最後の口付けなのだろうか、とも思ったがぼうっとした頭と沸らされた頭では考えがまとまらない。どちらにしろこれ以上考えても無駄な事だけは分かって媟雅は気怠くなった身体が眠りに沈むのを感じた。
満月の夜まであと七日になっていた。
雨が降ると言っていたのに快晴です。
難しい天気ですね。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。