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糺す【拾伍】《タダス【ジュウゴ】》

こんにちは。

更新いたします。

まずい事になった、と媟雅(セツガ)は自室で大きく嘆息(タンソク)した。舜啓(シュンケイ)がこの所、およそ十四日にもなるのに媟雅(セツガ)の前に現れてくれなくなったのだ。原因(ゲンイン)は分かっている。十五日前の酒席(シュセキ)であまり強くもない酒を(スス)められるままに呑んでしまってふらふらになった媟雅(セツガ)看病(カンビョウ)してくれたのは舜啓(シュンケイ)ではなく他の男鬼(ダンキ)だった。顔見知(カオミシ)りで仲もよい数人に(サソ)われて呑みに行ったのだがこの所、気を張り詰めてばかりいたので(タガ)(ハズ)れていたようだ。


「あんまり呑まない方なんだから無理して呑むな」


酒席(シュセキ)に行くと伝えた舜啓(シュンケイ)にそう言われていたのに(メズラ)しく進んでしまって()いが廻ってしまい(マワ)りが見えなくなってしまった。宮に戻る途中(トチュウ)で声を掛けられたが舜啓(シュンケイ)だとばかり思っていたので、いつものように甘えてしまったのだが相手が違ったらしい。林の中に連れ込まれて口付けられて何かが違うとは思ったが()いのせいだろうと思って身を(マカ)せてしまった。(スン)での所で宮に向かっていた舜啓(シュンケイ)が見つけて止めてくれたのだが、それまで相手が舜啓(シュンケイ)だとばかりだと思い込んでいた媟雅(セツガ)は青ざめてしまった。相手を帰した後で、どういう事?、と(タズ)ねる舜啓(シュンケイ)声音(コワネ)はいつもの(オダ)やかなものではなかった。舜啓(シュンケイ)だと思っていた、と弁明(ベンメイ)したのだが、それにも(アキ)れたような嘆息(タンソク)が聞こえただけだった。(ミダ)れた(コロモ)を直すと誰とも分からない者に身体を(ユル)しそうになっていたことが嫌悪(ケンオ)でしかない。


「とにかく送るから宮に戻るよ」


振り向きもせずに言われて先に立って歩き出した舜啓(シュンケイ)媟雅(セツガ)の手さえ(ニギ)ってはくれなかった。宮の入り口に着くまでに()いもすっかり()めてしまい、もう一度(アヤマ)ったのだがそれには何も(コタ)えずに舜啓(シュンケイ)は自分の(ヤシキ)に戻ってしまったのだ。一緒に宮まで来て()まらずに戻ることなど初めてであったから余程(ヨホド)(オコ)らせてしまった、と猛省(モウセイ)している。それから機会(キカイ)を見つけては謝ったり、時には舜啓(シュンケイ)(ヤシキ)にまで出向いているのだけれど、(ヤシキ)(アカリ)(トモ)っていることもなかった。もちろん謝罪(シャザイ)に対しての(コタ)えもない。出来れば姿も見たくないかの様に視線さえ合わせてもらえない日々が続いていた。


舜啓(シュンケイ)(オコ)るのは当然(トウゼン)なのだから()えなければならないのは分かっている。()っていたとはいえ舜啓(シュンケイ)以外の男と肌を()れ合わせたのは事実だ。(タト)未遂(ミスイ)であったとしても舜啓(シュンケイ)が来なければそのままであっただろうと思う。最初に(ジョウ)()わす時に恋仲(コイナカ)にならなければ()わさないと言われた。他の男と(ジョウ)()わすのを(ユル)してやれないし、舜啓(シュンケイ)も他と()わすことはしないから、と。あれから十五年、ずっと舜啓(シュンケイ)だけだった。媟雅(セツガ)舜啓(シュンケイ)恋慕(レンボ)しているし他の男など知らなくても良いと思っている。けれどまさか媟雅(セツガ)自身がこんな形で舜啓(シュンケイ)傷付(キズツ)けてしまうとは考えてもいなかった。十五年一緒にいて小さな口喧嘩(クチゲンカ)はあったけれど、どれも些細(ササイ)な物だったし必ずと言って良いほど先に舜啓(シュンケイ)が折れてくれていた。それがどれほど媟雅(セツガ)の方に()があろうともそれは変わらなかった。


だが今回ばかりはどうして良いものか分からない。姿も声も視線さえ合わせてもらえなければ打てる手も残っているとは思えない。はあ、とまた大きく嘆息(タンソク)して立ち上がると寝所に()()すように(タオ)れ込む。


このまま終わるのかもしれない。


ふとそんな思いが(ヨギ)った。頭を振って追い出そうとするが一度(ヨギ)った思いは()(ハラ)うことが出来ない。


十五年かぁ、と小さく(ツブヤ)くと思えば長いものだと感じた。鬼の十五年など人の子からすればほんの一、二年程度の事だろう。だがよくよく考えれば父母である(シン)悧羅(リラ)(チギ)りを()わしたおよそ半分の年月を共にいたことになる。よく今までもったものだ、と自嘲(ジチョウ)するとまた大きな溜息(タメイキ)が出てしまう。終わりだ、と思ってしまうと胸の中が重くなって熱くなる目頭(メガシラ)(マクラ)に押し付けた。泣いたところで(アヤマ)ちが無くなるでもなしに、と自分を()き付けて大きく息を吐いた。(ダレ)かに話せれば気持ちも(ラク)になるかもしれないが(ダレ)に話せるというのだろう。母である悧羅ならば話を聞いて良い(アン)媟雅(セツガ)(ナグサ)めてくれるだろうが、今はそんなことで(ナヤ)ませたくなかった。(オサ)として里や民達(タミタチ)を護るために今は一番大切な時なのだ。大きな(ツト)めを(カカ)えている悧羅に余計(ヨケイ)心労(シンロウ)をかけたくない。それが無事(ブジ)に終わって落ち着いても舜啓(シュンケイ)との状況(ジョウキョウ)が変わらなければ話を聞いてもらおうと思い直して媟雅(セツガ)は布団に(モグ)りこんだ。明日も近衛隊(コノエタイ)としての(ツト)めは待っているし、部隊(ブタイ)(チガ)えど舜啓(シュンケイ)と顔を合わせることもあるだろう。


しばらくは声もかけずにいた方がいいのかもしれない。


姿も見たくないのであれば行動も逆を取って会わないようにすれば良い。


舜啓(シュンケイ)とのこれからを考えるためにも媟雅(セツガ)にも必要な(ジカン)なのだろう。


布団(フトン)(モグ)ったは良いがぐるぐると考えてしまって又目頭(メガシラ)が熱くなってきてしまう。身体(カラダ)(ツカ)れているはずなのに一向(イッコウ)微睡(マドロ)むことも出来ず布団(フトン)の中で幾度(イクド)寝返(ネガエ)りを打つばかりだ。ああもう!、と起き上がって部屋を出る。もう一度湯でも使って水でも(カブ)れば多少(タショウ)は頭も冷えるかと思いながら湯殿(ユドノ)に向かって歩き始めた。歩きながらも(メグ)る思いを追い出そうと頭を(タタ)く。しっかりしないと、と(ホオ)(タタ)きながら歩いていると視線の先に縁側(エンガワ)(スワ)っている悧羅が見えた。歩いてくる媟雅(セツガ)に気づいたのだろう。ゆっくりと顔を向けて、おや、と微笑(ホホエ)んでいる。紳を待っているのだろうがもう()(コク)を廻ろうとしている頃合(コロアイ)だ。さすがに中に入らないと悧羅の方が身体を(コワ)すのではないかと心配になりながら近くに寄った。


母様(カアサマ)父様(トウサマ)まだ(モド)らないの?さすがに中に入ってたら?父様(トウサマ)も心配しちゃうよ?」


声を掛けると悧羅は微笑(ホホエ)みを()やさずに、大事(ダイジ)ない、と(オダ)やかに言う。


「もうそろそろであろうからの。紳や媟雅(セツガ)達のように(ワラワ)(ツト)めに出ておるわけでもなし。(スズ)しゅうて良いものだえ」


「でももう長いでしょ?ずっと座ってるの?」


(オダ)やかな里の気候とはいえ夜はそれなりに冷える。長い(ジカン)を過ごすには身体が冷え切ってしまうだろう。


「いいや、時には動いておるよ?先程(サキホド)まで皓滓(コウサイ)もおったでの。何事(ナニゴト)を考えるにも良い(ジカン)じゃ」


くすくすと笑って悧羅は月を見上げている。まだ()けている月が丸くなったら大きな(ツト)めを悧羅は行わなければならない。それを考えているのだろう。そっか、と言う媟雅(セツガ)に笑って悧羅は自分の(トナリ)をぽんぽんと(タタ)いた。(ウナガ)されるままに座ると手が伸ばされて頭を()でられた。


「…なんぞあったのだろう?(ワラワ)でよければ聞かせてくれまいか?」


優しい声音(コワネ)にまた目頭(メガシラ)が熱くなりそうになるのを(コラ)えて、何もないよ、と媟雅(セツガ)は笑って見せた。だが悧羅は微笑んだままで首を振っている。


「おや?大事(ダイジ)(ムスメ)のことも分からぬ母だと思うてか?よいから()うてみい。吐き出す事で(ラク)になれることもある」


頭に乗せられたままの手が(ホオ)()れて(コラ)えていた涙が(セキ)を切ったように(アフ)れだした。おやおや、と微笑(ホホエ)む悧羅に抱きついて、どうしよう、と媟雅(セツガ)(ムセ)び泣きながら話した。(ダマ)って聞きながら(ナダ)めるように背中をさすられてますます涙が(コボ)れてしまう。


「どうしたらいいのか分からないの。自分が悪いのは分かってるけどこのまま終わるのかなって思ったら苦しくて…」


(ワラベ)のように泣きじゃくる媟雅(セツガ)の身体を優しく(ツツ)んで、そうか、と悧羅は(オダ)やかだ。こんな事を悧羅に今言うなどしてはならないと分かっているのに一度(セキ)を切った言葉も涙も止まらない。(ツツ)んでくれる自分よりも細い腕に暖かさを感じて(コマ)らせるのは分かっているのに媟雅(セツガ)は泣き続けてしまう。どれくらい泣き続けたのか分からないほどに泣いて涙が収まる頃には媟雅(セツガ)はしゃくりあげていた。どうしたらいいの?、と悧羅から身体を離すと優美(ユウビ)な指が涙を(ヌグ)ってくれる。大きく幾度(イクド)か呼吸して息を整えると悧羅は優しく笑っていた。


「お酒に()ってたからって()(ワケ)にもならないよね…。母様(カアサマ)だったらどうする?」


泣きすぎて()れぼったくなった目を(コス)ると、そうさのう、と悧羅は少し考えているようだったがすぐに小さく笑う。


(アン)じずとも良い、とは思うがな。身体を(ユル)した(ワケ)でもあるまい?」


「そうだけど…。それは舜啓(シュンケイ)が来てくれたからで…。来てくれてなかったらきっとそのままだった」


その時の舜啓(シュンケイ)の姿と声が思い出されて媟雅(セツガ)の背中に冷たい汗が流れた。何かが(チガ)うとは思ったが媟雅(セツガ)()()()()()()()()のは舜啓(シュンケイ)だけなのでそうだと思い込んでしまった。油断(ユダン)していたわけでは無かったけれど、危機感(キキカン)()りていないと言われてしまえばそれまでだ。


舜啓(シュンケイ)だ、と思ったのであろ?そう思っていたからこそ身を(マカ)せようと思ったのであろ?」


首を(カシ)げて言う悧羅は微笑んだままだ。うん、と(ウナズ)くと、ならば大事(ダイジ)ない、とまた悧羅は小さく笑う。


媟雅(セツガ)の話を聞く(カギ)(ワラワ)には舜啓(シュンケイ)(オコ)っておるは舜啓(シュンケイ)自身に、だと思うがな」


舜啓(シュンケイ)が自分に?…私にじゃなくて?」


悧羅の言っていることが分からなくて聞き返すと、うん、と(ウナズ)いている。どうして?、と(タズ)ねると、容易(タヤス)いことじゃ、と悧羅が媟雅(セツガ)の手を取った。


(マモ)れなんだ、と思うておるのだろうよ」


(マモ)る?、と首を(カシ)げると悧羅はまた(ウナズ)いた。(オサナ)(コロ)から舜啓(シュンケイ)は悧羅の子どものようなものだ。まっすぐな性分(ショウブン)な分、(オノレ)(キビ)し過ぎる所があるのを知っている。媟雅(セツガ)が産まれた時から(ヨメ)にとるのだといい、恋仲(コイナカ)になった時もこっそりと悧羅にだけは教えてくれていた。


「強い鬼になって媟雅(セツガ)(マモ)れるくらいにならないと嫁にくれないって悧羅言ってたから、俺まだまだ強くなるからね」


耳打(ミミウ)ちされた言葉に笑ったのを(オボ)えている。媟雅(セツガ)と顔を合わせたくないのではなくて、合わせる顔が無いとでも思っているのだろう。媟雅(セツガ)が酒に弱い事は知っていただろうし、仲の良い者たちだとはいっても男も()じっているのであれば()()()()()()()は考えておかなければならなかったはずだ。それをせずに媟雅(セツガ)酒席(シュセキ)に送り出し戻るのを待つでもなく、あわやという目に合わせたのだ。自分に腹立(ハラダ)たしくて仕方(シカタ)ないのだろう。そう媟雅(セツガ)に伝えると、でも悪いのは私だよ?、と大きく溜息をついている。


舜啓(シュンケイ)の手しかついておらぬのだから分からぬとしても(イタ)し方あるまい?他の手を知っておるのであらばすぐに分かるであろうが。それを媟雅(セツガ)(モト)めるのは、ちと(コク)であろうな」


そういうものなの?、と目を見開く媟雅(セツガ)に悧羅は笑ってみせた。


「…母様(カアサマ)だったら違うって分かる?父様(トウサマ)じゃないって」


すぐに、とますます悧羅は笑った。


()れられた瞬間(シュンカン)に分かる。あれが(ワラワ)()れる手はいつも(イツク)しみに(アフ)らておるに。他の男どもとは(チゴ)うての」


「私もそうだったらよかったのになあ…。そしたら舜啓(シュンケイ)を傷つけずに済んだのに…」


また涙が(アフ)れてきて媟雅(セツガ)寝間着(ネマギ)(タモト)(ヌグ)うと、良いものでもないぞ、と悧羅が苦笑した。


(ワラワ)がそれを分かるのは(オサ)として子を()すために紳以外の数多(アマタ)の男と(ジョウ)()わしておったからに過ぎぬ。民達でもそれが分かるは一夜限(ヒトヨカギ)りの(ジョウ)()わす者がおるからじゃ。舜啓(シュンケイ)の手しか付いておらなんのであらば無理(ムリ)というものであろ」


そっか、と媟雅(セツガ)は大きく息をついた。紳と離れて500年の間、悧羅(リラ)は望まぬ夜伽(ヨトギ)を繰り返さなければならなかったのだ。(オモ)う相手はいるのにそれでも身体を開かなければならなかった苦痛は如何(イカ)ばかりだったのだろう。ほんの少し肌を触れ合わせただけで、こんなにも嫌悪(ケンオ)してしまうというのに(オサ)であるから、と受け入れてきた悧羅であれば紳と違う手などすぐに分かるのは当たり前なのかもしれなかった。


「だけど(ハナ)れたいって言われたら?嫌だけど受け入れるしかないのかな…?」


言われたくもない言葉を口にすると身体が小さく震え出してしまう。悧羅に(ニギ)られた手にも震えが伝わったのだろう。そっと手が(ツツ)まれた。


「その時はその時じゃ。媟雅(セツガ)が嫌じゃと思うならそう伝えれば良し。舜啓(シュンケイ)が折れねば、待つとでも言うてやればよろしかろう。…待つ間に媟雅(セツガ)の気持ちさえ良ければ他の男と(ジョウ)()わすのもよい。どんなに離れようと引き合う時には引き合うものだ。紳と(ワラワ)を見ておれば分かるであろ?」


微笑まれて媟雅(セツガ)も本当だ、と小さく笑った。離れたとして他の男と(ジョウ)()わすなど今は考えることも出来ないが、どんなに離れても引き合うときには引き合うのだ。紳と悧羅のように500年(タガ)いに想いあってきた者が目の前で、大した事はないと言ってくれている。これ以上の(ハゲ)ましはないだろう。


くすくすと笑い始めた媟雅(セツガ)に悧羅は湯を使って来るように(ウナガ)す。随分(ズイブン)と泣いていたので湯にでも()かって目を水で冷やさなければ明日には()れてしまうだろう。そんな姿を媟雅(セツガ)舜啓(シュンケイ)に見せたくないのは分かる。うん、と立ち上がった媟雅(セツガ)に、よく目を冷やすように、と悧羅の声がかかった。


「うん、母様(カアサマ)ごめんね。大きな(ツト)めの前なのに…」


落ち着くと悧羅に迷惑(メイワク)余計(ヨケイ)心配(シンパイ)をかけてしまったことが申し訳なさすぎて(アヤマ)媟雅(セツガ)に悧羅はにっこりと微笑んだ。


(ワラワ)(ツト)めのことなど気にせずともよい。媟雅(セツガ)という大切な宝が気を()んでおる方が(ツラ)いでの」


さあ行ってきや、と背中を押すように言われて今度は悧羅に礼を言って媟雅(セツガ)湯殿(ユドノ)に向かう。涙と冷汗(ヒヤアセ)()れた寝間着(ネマギ)()いで髪は()れないように(ユワ)えてから湯船(ユブネ)()かる。手桶(テオケ)に水を張って手拭(テヌグ)いを(ヒタ)して(シボ)ってから目の上に乗せると熱くなった(マブタ)が冷えて心地(ココチ)良かった。(ヌル)くなったらまた冷やして当てるを繰り返すと重たかった(マブタ)幾分(イクブン)か軽くなる。湯船(ユブネ)(フチ)に頭を乗せていると、大きな嘆息(タンソク)が出てしまう。だが思いの(ホカ)心の中がすっきりして重苦しかったつかえも取れている気がした。


確かに悧羅の言う通りだ、と思う。


もしも舜啓(シュンケイ)媟雅(セツガ)と離れたがったとしたらそれはそれで仕方のないことだ。媟雅(セツガ)()()を言われた時に嫌だと思えば待つと言えば良いのだし、待っている間に心変(ココロガ)わりしたとしても良いように思えた。今まで舜啓(シュンケイ)恋仲(コイナカ)だったからこそ他の男と(ジョウ)()わしたり、目移(メウツ)りする事などなかっただけだ。離れればそれだけ媟雅(セツガ)視野(シヤ)も広がるだろう。そう考えれば、深く(ナヤ)まずとも良い気がした。何より媟雅(セツガ)に出来()ると考えられることはすべて行った。顔を合わせれば幾度(イクド)も謝罪したし、舜啓(シュンケイ)(ヤシキ)にも何度も足を(ハコ)んだ。それでも会えなかったり言葉を()わせなかったのであればそれ以上できることもないではないか。何よりあの舜啓(シュンケイ)だ。離れるにしても(ダマ)って去ることはしないだろう。であれば媟雅(セツガ)に出来ることはもう待つこと以外残っていない。いつものように何も変わらない風を(ヨソオ)って舜啓(シュンケイ)が答えを出すのを待てばいいのだ。


もう一度目をしっかりと冷やしてから湯から出ると少し長く()かり過ぎたようでくらりと足下がふらついた。ほんの少しだけ湯当(ユア)たりしてしまったようだ。部屋に戻る前に水差(ミズサ)しをもらっていこう、と思いながら(クラ)む視界が(オサマ)るのを待って脱衣場(ダツイバ)に戻る。身体の水気を取ってから新しい寝間着(ネマギ)(ソデ)を通して(ユワ)えた髪はそのままに湯殿(ユドノ)を出る。思っていたよりも湯当(ユアタ)りは(ヒド)いようだ。しっとりと汗ばんでくる首筋(クビスジ)や顔を(カワ)いた手拭(テヌグ)いで拭き取りながら磐里(バンリ)加嬬(カジュ)(ヒカ)えている部屋に行き声をかける。

まあまあ、と(オドロ)いたような加嬬(カジュ)が戸を開けてくれて、どうされました?、と中で磐里(バンリ)モ立ち上がっている。


「ううん。汗かいたからもう一度湯を使ったらちょっと当たっちゃって…。水差(ミズサ)しをもらいに来ただけよ」


「そのようなこと、言ってくださればお部屋にお持ちしましたのに。(クラ)みますか?」


赤く火照(ホテ)った顔を見て磐里(バンリ)(タズ)ねてくれたので、ほんの少し、と応える。


「では冷たい手拭(テヌグ)いも支度(シタク)(イタ)しましょうね。お部屋にお待ち(イタ)しますよ?」


早く布団(フトン)に入っておけとでもいう二人に笑って持っていける、と言うと(イソ)いで支度(シタク)(トトノ)えてくれた。待つ間に冷たい水も渡されて飲み干すとほんの少し身体の火照(ホテ)りが引いたような気がした。だがやはり頭はぼうっとしているようで二人の言う通り早めに冷やしながら休んだ方が良さそうだった。手渡(テワタ)された(ゼン)を受け取って二人に礼を言うと、何かあればすぐに呼ぶように、と(ネン)を押されてしまう。それに分かったと言い置いて自室に戻ろうとするのだが、やはり足がふらついた。二人には気取(ケド)られないようにしっかりしなきゃ、と自分を()きつけながらどうにか部屋に戻る。そのまま枕元(マクラモト)(ゼン)を置いて冷たい水を二回飲んでから布団(フトン)に倒れ込むように横になった。横になるだけで天井(テンジョウ)(マワ)るのが分かって急いで目を閉じて冷たく冷やしてくれた手拭(テヌグ)いを(ヒタイ)から目にかけて乗せる。よく冷えた感触(カンショク)心地(ココチ)よくてそのまま微睡(マドロ)み始める。もう一度くらい冷たい手拭(テヌグ)いに変えたかったけれど一度横になると起き上がるのが(ムズ)かしかった。目を開けたり起き上がったりすればまた(クラ)むのは分かっている。手拭(テヌグ)いの表裏(ヒョウリ)だけを返して目を閉じていると疲れていたのか身体がすぐに眠りに(シズ)んでいく。大きく息をついて(シズ)んでいく意識に身体を(マカ)せることにした。


どれくらい眠れていたのかは分からなかったが手拭(テヌグ)いが冷たいものに変えられたのが分かった。手拭(テヌグ)いが当てられているので目を開けることは出来なかったが磐里(バンリ)加嬬(カジュ)なのだろう。布団(フトン)の上に倒れ込むようにしていたはずなのにいつのまにか掛け布団までかけられている。きっと心配して様子を見に来てくれたのだと思うと申し訳なかった。二人の名を交互(コウゴ)に呼ぶが返事がない。では悧羅だろうか、と母様(カアサマ)?、と呼んでみるがこれにも応えは無かった。手拭(テヌグ)いの上から(テノヒラ)(オサ)えられているのは分かるので気にせずに休め、ということなのだろうか?


「ありがとう」


(ツブヤ)くように礼を言うと手拭(テヌグ)いの手がほんの少し動いた気がした。気にはなったけれど湯当(ユアタ)りと号泣(ゴウキュウ)の後で身体が気怠(ケダル)い。大きく息をついてまた眠りにつこうとすると手拭(テヌグ)いが変えられる。また(オサ)えられる前に(ダレ)なのかだけでも、と重い腕を動かして手拭(テヌグ)いをずらして目を開けるとまだ少し(クラ)む視界に漆黒(シッコク)の髪が見えた。(オドロ)いて飛び起きると目がぐらりと(マワ)って身体が倒れ込んでしまう。何で?、と(ツブヤ)くように言うが返事の代わりに布団(フトン)に横たえられた。寝ていても頭の中が廻っているようで気分が悪くなる。何を言うでもなくまた冷たい手拭(テヌグ)いが(ヒタイ)と目の上に置かれて(オサ)えられた。言葉を出したいが今口を開けば吐瀉(トシャ)してしまいそうで仕方なくそのまま媟雅(セツガ)も何も言えなくなる。(ヌル)くなるとまた冷たいものに変えられてほうっと安堵(アンド)溜息(タメイキ)()れてしまう。寝ろ、と(ツブヤ)くような舜啓(シュンケイ)の声がして久しぶりに聞けた声に身体が(フル)え出したのが分かった。何よりもどうして舜啓(シュンケイ)が、とも思う。あれだけ()けられていたのにどうしてここに居て媟雅(セツガ)看病(カンビョウ)をしてくれているのかが分からない。だが何か話があって来たのは間違いがないのだろう。(オサマ)ってきた嘔気(ハキケ)を飲み込むようにしてどうにか一言(ヒトコト)、別れ話?、と声にした。


手拭(テヌグ)いの上の手が少し動いたのが分かって、やっぱりそうか、と媟雅(セツガ)は苦笑してしまう。話をしに来たら媟雅(セツガ)具合(グアイ)が悪そうだったので(ホウ)っておくことが出来なかった、というところなのだろう。手拭(テヌグ)いの下で目頭(メガシラ)が熱くなるのを感じたけれどどうにか押し殺して落ち着くように大きく息を吐く。


「…何でそう思うんだよ?」


静かな部屋に小さな舜啓(シュンケイ)の声が響いて、何となく、とだけ媟雅(セツガ)は応えた。悧羅はああ言ってくれていたけれど、他の男に身体を許そうとした自分を舜啓(シュンケイ)が許すとは思えなかっただけだ。起き上がれない自分には今で丁度(チョウド)よかったかもしれない。もし具合(グアイ)が良かったらきっと泣いて(イヤ)だといい引き止めて(コマ)らせてしまっていた。


「いいよ、はっきり言ってくれて」


先を(ウナガ)すように言ってみるが舜啓(シュンケイ)の言葉がない。けれど言うなら言うで早くしてもらいたかった。言い置いて出て行ってもらわなければ泣くことも出来ない。大きく嘆息(タンソク)してしまう媟雅(セツガ)に、いいから寝ろ、とまた声が()る。手拭(テヌグ)いを変えられて、自分で出来るから、と言うが、(タオ)れたじゃない、と一蹴(イッシュウ)された。


「ただの湯当(ユアタ)りだから、寝れば治るよ。それより話があるんでしょ?」


媟雅(セツガ)具合(グアイ)が悪い時に話どころじゃないよ。いいから寝ろって」


嘆息(タンソク)したような言葉に、(ズル)いなぁ、とごちて媟雅(セツガ)は苦笑してしまう。最期(サイゴ)まで優しくされては気持ちの切り替えに(ジカン)(ヨウ)してしまうではないか。いいから、ともう一度先を(ウナガ)すと舜啓(シュンケイ)が大きく息を吐くのがわかった。言いにくいのか言いたくないのか、どちらにしてもこのままではいられないというのに…。待っているが舜啓(シュンケイ)は何も言わないままだ。まるで媟雅(セツガ)が眠るのを待っているかのように身じろぎ一つさえしていないのは気配(ケハイ)で分かる。本当に微睡(マドロ)みそうになってきて、(アセ)って手拭(テヌグ)いの下で目を開けようとするが抑えられた(マブタ)を上げることは出来なかった。


「…約束破りそうになったのは私だもんね。舜啓(シュンケイ)が許せないのも分かるから。…私から言おうか?」


沈黙(チンモク)の方が拷問(ゴウモン)に感じて媟雅(セツガ)が口を開いた。


「…今話す事じゃないよ」


「長く伸ばせる話でもないんでしょ?だったら今でも後でも一緒だよ」


そっか、と舜啓(シュンケイ)嘆息(タンソク)したのが聞こえた。(ココロ)なしか手拭(テヌグ)いに置かれた手に力が込められたような気もするが媟雅(セツガ)は何も言わずにおく。媟雅(セツガ)、と呼ばれて、なあに?、と応えるのが精一杯(セイイッパイ)だ。それ以上言葉を出すとこれからくるであろう別れの言葉の前に泣き出してしまいそうだった。

と、目に当てられた手はそのままに(クチビル)(フサ)がれて(オドロ)いて両手で舜啓(シュンケイ)の身体を押し戻した。何?!、と発した声は思いの(ホカ)大きかった。広い部屋に少しばかり響いた声に自分でも吃驚(ビックリ)してしまう。目は押さえられているので舜啓(シュンケイ)の顔を見ることも(カナ)わずにいるとまた深く口付けられる。押し戻そうとするが目に当てていた手も()いて抱きしめられて、頭も(オサ)えつけられてはどうすることもできない。重い腕で舜啓(シュンケイ)の胸を叩いてみるがびくともしなかった。(モテアソ)ぶように長く口付けられて、ようやく唇が離された時には媟雅(セツガ)の息は(ミダ)れて荒れてしまっていた。目に置かれていた手拭(テヌグ)いも落ちてしまってゆっくりと目を開けると少し(クラ)むが舜啓(シュンケイ)の顔がぼんやりと見える。


舜啓(シュンケイ)、何で?」


荒れた息の中から聞いてみるが視界に(ウツ)った舜啓(シュンケイ)は何も言うことなくまた深く口付けてくる。身体の(シン)(シビ)れてきて身を(ヨジ)媟雅(セツガ)を逃さないかのように力強く抱きしめて唇が離れるとまた何も言わずに(ウバ)われる。幾度(イクド)もそうして口付けられてようやく()かれた時には媟雅(セツガ)はくったりとしてしまっていた。


「…とにかく今日は寝ろ。…明日また来るから」


力の抜けた媟雅(セツガ)の身体を布団に横たえてもう一度軽く口付けてから冷たく(シボ)った手拭(テヌグ)いを目の上に乗せてくれる。寝ろよ、と言う声がして舜啓(シュンケイ)が部屋を出て行くのは気配(ケハイ)でわかった。


何だったんだろう…。


気配(ケハイ)の無くなった部屋に一人残されて媟雅(セツガ)は何が起こったのかさえ理解が出来ない。別れ話の前の最後の口付けなのだろうか、とも思ったがぼうっとした頭と(タギ)らされた頭では考えがまとまらない。どちらにしろこれ以上考えても無駄(ムダ)な事だけは分かって媟雅は気怠(ケダル)くなった身体が眠りに(シズ)むのを感じた。



満月の夜まであと七日(ナノカ)になっていた。

雨が降ると言っていたのに快晴です。

難しい天気ですね。


お楽しみいただけましたか?

ありがとうございました。

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