糺す【拾参】《タダス【ジュウサン】》
遅くなりました。
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やれやれ、と湯から上がって縁側に腰を降ろした悧羅の背後で、お疲れでございますか?、と加嬬が手拭いと櫛を持ってきて座った。濡れたままの髪を丁寧に水気を加嬬が取ってくれていると磐里が冷えた水を膳に乗せて運んで来てくれる。差し出された水を受け取ると磐里もそのまま悧羅の側に座った。悧羅の髪を整えている加嬬もいつもより丁寧に行ってくれているようだ。
「近頃は旦那様も御子様がたもお忙がしゅうにしておられるようでございますものね。長も何やら落ち着きになられないようで…。私共も案じておりますのですよ?」
「…長は私共には心配を掛けまいと何も仰せになられませんからね。これまでもそうでございましたけれど。これでも500年もお側におりますのですから何某かお悩みになられておるのは分かってしまうものなのですよ?」
二人の言葉に小さく笑いながら悧羅は受け取った水を飲んだ。よく冷えた水が喉を通っていくのが心地よい。大したことはない、と二人に言うと、またその様な事を、と溜息をついている。何も二人に隠そうと思っているわけでは無かったのだが、気づけば十五年何も言わないままだった。話せば危うい目に合わせてしまうかもしれないと心と何処かにあったかも知れないが、二人が過ごすのは悧羅の宮の中なのだからそう危ういことなど起こるはずもない。とはいえ全て終わるまで後少しだ。ここまで黙っていたのだから、何も報せず終わってから茶飲み噺として聞かせてもいいだろう。
「ほんに大した事はない故、案じてくれるな。…まだ誰も戻ってきてはおらぬのかえ?」
結えられた髪を触りながら尋ねると二人が首を振る。もう宵も更けてきているのだが確かに近頃皆の戻りは遅くなってきている。妲己も哀玥も遣いに出しているから必然的に悧羅も女官二人と宮にいる事が多くなった。
まるで三十余年前までのようだ、と静かな宮の中庭を見やると池には王母が紳と悧羅を場に呼んだ時に共に戻した蓮の華が浮かんでいる。仄かに輝くそれらはさすがは王母の華というべきなのか一切枯れ果てる事がない。常に露が滴るように閉じては開き開いては閉じる。
「…三十余年前まではこの静けさが当たり前であったのにのう。今では静けさがあるのが不可思議な思いじゃて」
小さく笑いながら中庭を眺める悧羅に磐里も加嬬も、そうでございますね、と目を細める。三十余年前には宮の中が賑やかになるなど誰も想像していなかった。ただひたすらに耐えて忍ぶ悧羅が縁側に座る時は冷たい顔で小さく息をつき細い身体の横に妲己が侍って慰めていた。広い宮の中に悧羅と妲己と磐里と加嬬の四人だけで静かに過ごしていたのに、紳が入ってきた事で全てが一変した。紳と悧羅が同じ床で眠って目を醒さなかった日を懐かしく思い出して磐里と加嬬は共に微笑みながら悧羅を見た。500年自分を圧し殺して耐えていた悧羅が手にする事を捨てていたものまで今はある。側で見ていた磐里と加嬬にとれば本当に感慨深い。
「あっという間でございましたものね。特に御子様方がお生まれになってからは、日々が賑やかで…。悪戯なさる御子様方を叱らせていただくなど、ほんに誉れな事でございますよ」
「あの様に小さかったのにのう…。其方達に付いて廻っては妲己が咥えて戻す。懐しい限りじゃな」
小さく笑う悧羅に、本当に、と磐里も加嬬も笑ってしまう。目を細めればその時の光景がその場に蘇ってくるほどにこの三十年は速かった。日々倖に包まれていく悧羅を見ているのは二人にとっても倖だったのだから。まさか六人も子に恵まれるなど思ってもいなかった。紳と悧羅の姿に子ども達が追いついてしまったがそれでも二人は変わらない。悧羅に至ってはますます美しさが増すばかりで、紳が離したがらない気持ちも鬼女である二人にも分かるような気がしてしまう。同じ鬼女であっても、どきりとさせられる事があるからだ。それも紳と共にいる様になってからの事であるから、やはり悧羅には紳が必要だったのだと痛感させられる。
宵が更けて少し肌寒い風が吹いてきて、加嬬が中に入る様に悧羅に促すがゆっくりと頭を振っている。紳が戻ってくるまで縁側で待つのが悧羅のいつもの姿なのだ。紳は中に入っていて欲しいと願うのだがこればかりは悧羅が退かない。一番に迎えたい思いがあるのだろう。それを分かってか紳も玄関から戻ってくる事は少なくなり、直に中庭に降り立つようになった。子ども達は玄関から入ったり中庭に降りたったりと様々なので、迎える磐里と加嬬もこの場で見えるようになってしまった。仕える女官としてはどうなのか、とも思うが悧羅も子ども達もそれで良いと言ってくれる。
「大きゅうなられるのは早うございますから。手が離れてしまうと淋しゅうもありますものね」
自分の子ども達の事も思い出しながら磐里が笑う。そういうものですか、と加嬬は首を傾げているがそれにまた磐里は笑ってみせた。
「加嬬も良い者を見つけたら言うのだえ?妾にかかりきりで出会いも無かったろうからの。…申し訳なく思うておるよ」
苦笑しながら言う悧羅に、まあ、と加嬬が頬を膨らませた。
「何を仰せになられますか。長のお側に居れることなどこの上ない誉でございますのに。私を追い出さないで下さいまし」
「そういうつもりではないのだが…。其方ならば引く手数多であろうと思うてな」
小さく笑う悧羅にまた加嬬が頬を膨らませる。
「そのような殿方がおりますればすぐに申し上げておりますよ。旦那様や若君方を近くで見過ぎて加嬬の目は肥えきってしまっておりますのです。旦那様や若君方以上でなければ私は嫁になど参らぬと決めております」
拗ねたような加嬬の姿に悧羅も磐里も声を上げて笑ってしまう。それはなかなかにおらぬでしょう、と磐里が言うと、そうでございますよ、と加嬬が胸を張った。近くで見てきた紳と悧羅のように互いをいつも慈しめる相手でなければ納得できない。宮にいて二人の姿を見てきているからか本当に目が肥えてしまったのだ。
「では妾の子らなどどうじゃ?」
笑いながら尋ねる悧羅に、とんでもございません、と加嬬が急いで首を振った。悧羅の子ども達など加嬬にとっては高嶺の華すぎる。何より赤子の時から世話をしてきたのだ。加嬬にとっても子どものようなものなのだから逑になるなど考えられない。
「お戯れがすぎますよ、長。あまり私を虐めにならないでくださいまし」
大きく嘆息する加嬬にまた悧羅と磐里は笑ってしまう。どうにか話を変えたくて加嬬は茶を淹れてくる、と立ち去ってしまった。おやまあ、と笑う悧羅に磐里が苦笑する。
「良い者ができたらすぐに長にお伝えしますでしょう。加嬬にとりましては長はお仕えすべき尊ぶお方ですが、姉のような所でしょうからね」
「それは嬉しゅうあるの。妾は甘えてばかりじゃがな。なれどそれを言うのであらば磐里は妾にとれば母のような者であるな。叱られては敵わぬからの」
「それはそれは。長年お仕えした甲斐もあるというもの。何よりの褒美でございますよ」
くすくすと二人で笑っていると俄かに宮の入り口が賑やかになった。お戻りのようですね、と立ち上がる磐里の視線の先から子ども達が全員揃って入ってきた。今日も鍛錬が厳しかったと見えて皆土埃にまみれている。まあまあ、と子ども達を迎えながら湯殿の支度を整えに磐里が立ち去っていく。入れ違いに温かい茶を持ってきてくれた加嬬も戻ってきた子ども達を見て磐里の手伝いに向かった。歩いてくる子ども達を、お戻りやし、と迎えると皆一様に笑顔になって悧羅の周りを取り囲むように座り始める。
「忙がしゅうあったかえ?」
側に寄った玳絃と灶絃の頭をそれぞれに撫でると、いつも通りだった、と笑っている。そうか、と微笑む悧羅に、もうすぐ父様も戻ると思う、と媟雅が教えてくれた。
「冷えるから母様も中に入りなよ。身体壊したらどうするのさ?」
心配そうに立ち上がりながら忋抖が言うが悧羅が部屋に入らないのはわかっている。悧羅の部屋から上衣を取ってくると黙って掛けてくれた。くすくすと笑う悧羅に、何さ?、とまた座りながら忋抖が尋ねた。
「…いや…。其方達は妾に甘いと思うてな」
笑い続ける悧羅に、当たり前でしょ、と子ども達が声を揃えて言う姿が面白くて悧羅はまた笑ってしまう。そんなに心配しなくても良い、と言うが誰も首を縦に振らない。悧羅に甘い所は紳譲りだと思いながら子ども達に湯を使うように勧めると、暖かくしててね、と言い置いて皆が湯殿に向かった。背中を見送りながら、本当に大きくなったものだ、と目を細めてしまう。下の子ども達も近衛隊に入隊した。紳の直下で鍛えてもらいたい、ということもあるのだろうが近衛隊が悧羅の護衛を担うということも理由の一つであることを悧羅は知っている。あと数百年もすれば子ども達が近衛隊を担い里の要となっていくだろう。その日が来るのを楽しみにしながらも、それまで諍いのない里にしなければ、と強く思う。若い者たちも老いた者たちも皆が笑って過ごせる里にしておくことが悧羅の務めなのだ。まだ能力自体衰えてはいないし、どちらかといえば増して来ている。悧羅の定命は遠いだろう。
数十年前までは早く定命を迎える事を望んでいたのに今では出来るだけ長く世に居たいと願っている。考えは変わるものなのだな、と変わった自分に苦笑するしか無いがそれも仕方ないとさえ思う。何よりも大切な伴侶や子ども達を得てしまっては離れ難くなるのは当たり前だろう。贅沢になったものだな、と手にしていた茶を啜っていると中庭に愛おしい姿が降り立った。
湯呑みを傍らに置いて歩み寄ってくる紳に、お戻りやし、と微笑むと、ただいま、と笑って抱きしめながら口付けてくる。そのまま隣に座って悧羅を引き寄せながら精気を送り始める紳もいつもの事だ。
「冷えるから中で待っててって言うのに。身体壊したらどうするの?」
子ども達と同じ事を言われてしまって悧羅はくすくすと笑う。本当に皆悧羅に甘すぎる。
「いつも言うておるであろ?そこまで弱くはない、と。紳が精気を分けてくれておるに、案じずとも良い。子ども達も紳と同じことばかり言うて、妾が護られてばかりではないか」
「それでいいの。悧羅はちょっと触ると壊れそうだからね。子ども達も大事にしたいんだよ」
悧羅の額に口付けて笑う紳が上衣を整えてくれた。
「そんなに容易くは壊れぬよ?…紳が一番知っておろう?」
身体を預けると紳の体温が伝わってきてほっと安堵してしまう。小さく嘆息する悧羅を抱きしめる腕に力が込められた。
「俺以外に知ってたら、俺が壊れちゃうよね」
「…そうであろうな。…大事ないかえ?」
腕の中から紳を、仰ぎ見ると少しばかり苦笑している。あと数日後に迫った満月の夜は十五年かけて仕掛けた企てを行う事になっている。それまで相手に気取られないように振舞わねばならないのだが、紳が一番その者と近しい。仕方がないと、どうにか呑み込もうとしている紳の苦しさは十分に悧羅にも伝わっている。
「心配してくれて嬉しいけど、俺は大丈夫だよ」
聞けばいつもそう返してくれるがそれが心の底からの言葉でない事は悧羅にも分かる。ぽすりともう一度紳の胸に身体を預けて悧羅は小さく息をはいた。
「…あまり無理をしてくれるでない。其方が苦しゅう思うておるは妾にも分かる故。このような時にこそ支えねば妾が共におる理を失うではないか。…その昔、其方が妾に言うてくれたであろ?」
「そうだったね。…じゃあ全部終わったら甘えさせてくれる?今甘えると張り詰めてる気持ちまで緩みそうだからさ」
抱きしめられる腕の力が強められてそれに悧羅は手を当てた。
「どれだけでも。其方の好きにして構わぬよ。…其方の痛みを分けてくれるのであらば、の」
うん、と応えた紳をもう一度仰ぎ見るとそのまま唇が塞がれた。痛いほどの苦しみも流れ込んでくるが今はまだ悧羅も何も言うことができない。紳と同じ思いを悧羅も幾度となく感じてきているからこそ、何も言葉を紡げないのだ。紳が苦しんでいる今も、事が終わった後も側にいて支えることしかできないだろう。
だが、それでいいのだとも思う。
悧羅が苦しんでいる時も紳はただ側にいてくれた。それがどれだけ心を安らげてくれたかなど紳は知る由もないかもしれない。ただ一人で抱えこんでいた頃を思えば隣で共に背負うと言ってくれている者がいるだけで肩の力が抜けた。紳が悧羅に与えてくれたように、今度は悧羅が紳に安らぎを与える番なのだ。唇が離された代わりに抱きしめられる腕に力が込められた。その腕を優しく叩いていると、大きな溜息が頭上で聞こえる。しっかりしなきゃな、と自分を鼓舞するような紳の声に悧羅はまた廻された腕を叩いた。
空を見上げるとまだ欠けた月が浮かんでいる。あれが丸くなる時には動きはじめなければならない。
本当に、無理だけはさせたくないのだがな…。
見上げた月に向かって小さく嘆息すると名を呼ばれた。月から紳に視線を移して微笑むと、どうした?、と見下ろされた。いや、と苦笑する悧羅に紳もまた嘆息する。
「…また置いていこうとか考えてるでしょ?」
考えを読まれて、おや、と笑うと呆れたような表情になっている。無理をたせたくないのだ、と言うがそれにもまた紳は呆れたようだ。
「それ…、俺がいつも思ってることだからね?悧羅が聞いてくれた試しはないけどさ」
「おやまあ、それはせんないことをしておったのだな」
くすくすと笑い出す悧羅に、やっと分かったでしょ?、と紳が苦笑している。そうであれば悧羅が置いていこうとしても決して紳は、是、とは言わないだろう。
「悧羅は忘れてるかも知れないけど俺の役目は悧羅の側近護衛なんだからね。子ども達も連れていくのに俺が側に居ないなんてこと出来るわけもないでしょ?置いていこうなんて変な事本当にしちゃったら、俺泣くよ?」
頭に紳の顔が埋められたのが分かって、悧羅はますます小さく笑う。承知した、と笑いながら応える悧羅に呆れ返ったような紳の嘆息がまた降ってくる。やれやれと抱きしめていた悧羅を持ち上げて自分と向かい合わせにするともう一度深く口付ける。
「そういうこと考えなくていいから、悧羅は怪我しないようにだけ気をつけてよ。俺が側にいるのに十五年前みたいな大怪我されたら困るんだからね」
「あい分かった。怪我などせぬと紳に誓うとするえ?」
「どこまで本当だか?」
額を付けて紳も小さく笑い出す。二人で笑い合っていると、父様お帰り!、と子ども達の声がした。声のした方を二人で見ると啝珈が駆け寄ってきて紳の背中に飛びついてくる。反動で悧羅を落としそうになって慌てる紳に他の子ども達も笑いながら周りに座った。
「まあた二人で愉しんでたの?」
揶揄うように髪を拭きながら笑う忋抖に、羨ましいだろ?、と背中に抱きついたままの啝珈を離しながら紳が笑った。どうにか落とさずに済んだ悧羅をもう一度膝の上に座らせて抱きとめ直すと、また啝珈が紳の背中にひっついてくる。
「父様と母様って変わらないよね。俺たちが小さい頃からその調子だもんね」
「私が小さい時からこんな感じよ?…今更変わられたら、そっちの方が驚いちゃうじゃない」
灶絃の笑いを含んだ言葉に媟雅が、馬鹿ね、と小突いた。そっか、と灶絃も髪を拭きながら納得する。紳と悧羅が仲睦まじいのは里の民達でさえ知らない者がいないくらいだ。何十年も一緒に居てよく飽きないものだ、とも思うが二人を見ていると日に日に互いへの愛情が深まっているようにも見えて不思議にもなる。
「よく飽きないよねえ。毎日毎日…」
双子の片割れである玳絃が磐里と加嬬が持ってきてくれた水差しを受け取りながら苦笑している。
「どんなに仲が良いっていったって、こうも何十年も一緒に居たら少しは飽きそうなもんなのにね」
玳絃を手伝って人数分の水を注いで渡しながら皓滓までも肩を竦めている。紳と悧羅の昔の話を知っている上の三人はまず飽きることなどないだろう、と分かっているが話を知らない下の三人がそう思うのは無理もないのかも知れなかった。紳と悧羅も聞かれない限り話そうとはしないはずだ。あまり話したくない事だと言っていたし、出来れば思い出したくもないはずなのだ。だが、紳と悧羅は玳絃と皓滓の言葉に声を上げて笑っている。飽きるんだって、と笑い合う二人は子ども達の幼い頃の姿となんら変わらない。
「お前たち分かってないなあ」
悧羅を抱きしめながら紳が玳絃、皓滓に向かって笑っている。
「悧羅って里一番の女なんだぞ?そんなん手に入れて飽きるなんて事ないでしょ?第一そんな数十年で飽きるようなら契る必要も無いじゃないか。鬼の生なんて長すぎるんだからな」
それはそうかもしれないけどさ、と水を飲みながら灶絃が苦笑している。
「何でそこまでっては思うよね。なんかあったの?」
突如核心に迫られて紳も言葉に詰まってしまった。その表情に、やっぱりね、と灶絃が笑っている。どう考えてもそうとしか思えなかったのだ。
「皓の兄様とも言ってたんだよ。絶対なんかあったんだって。でないとここまで互いを想いあってる逑なんて見た事ないもん」
悪戯に笑いながら、何があったのさ?、と尋ねてくる灶絃に紳も悧羅も小さく苦笑した。いつか聞かれる日が来るだろうとは思っていたがこんなに軽く聞かれるとは思ってもいなかった。どうする?、と紳が悧羅に聞くと、良いように、と悧羅も頷いた。上の三人には話して聞かせているのだ。これまで紳と共にいた事で500年前の事など本当に些末な事だと思えている。聞きたがるのであれば特段隠す事でも今は無いとさえ感じているほどに倖なのだ。
「面白い話じゃないからな」
前置きして紳は話し始める。500年前の事をゆっくりと。紳にとっては忘れてはならないことを話し終えると、皓滓、灶絃、玳絃がいつのまにか居住まいを正していた。はい終わり、と笑った紳に、ごめん、と三人が頭を下げている。どうした?、と首を傾げる悧羅に、そこまで深い話だと思ってなかった、と灶絃がますます頭を下げる。
「よいよい。そう気負うでないよ。ほんに遠い日の事であるのだから」
悧羅の言葉で顔を上げた三人の目には薄らと涙が滲んでいた。泣くなよ、と紳に笑われて必死に涙を堪えるが溢ら出るものは止められない。だが、二人が互いを慈しみ合う理由が分かってすっきりしたのは本当だ。
「泣くなって。…って言っても無理か。上の三人も聞いた時泣いてたしな。だけどお前たちがいるから少し話しやすくなったってのもあるし…。とりあえず俺が悧羅以外見ない理由は分かったろ?それさえ分かっててくれたら良いから」
ね?、と悧羅の頬に口付けている紳に三人は大きく頷くしかない。それに、よし、と言い置いて悧羅を膝から降ろすと紳も湯を使ってくる、と大きく伸びをしながら湯殿に向かって行った。ゆるりと、と見送る背中に声を掛ける悧羅に手を挙げて応えながら廊下の先に消えていく。紳が見えなくなってから悧羅は涙を流している三人の頬を其々に撫でた。微笑みを浮かべる悧羅に、母様、と皓滓が声をかけた。
「…腹の疵痕って今もあるの?」
聞いてもいいものか悩んだような声音に悧羅は静かに頷く。
「…今でも痛んだりしてる?」
「…時には、といったところだの。紳と共におるようになってからはそう痛みもせぬし引き攣ることも少のうなった」
そっか、と涙を拭きながら意を決して次の言葉を皓滓が紡ぐ。
「それってさ…、見せてもらうことってできないかな?」
皓滓の言葉に上の三人が息を呑んだ。自分たちが話を聞かせてもらった時には言えなかった言葉なのだ。そこまで踏み込んではならない、と自制が働いたから。少し考えて悧羅は立ち上がって自室に向かう。座ったままの子ども達に、おいでやし、と声をかけると皆が立ち上がって悧羅と共に部屋に入った。
「見ても気持ちの良いモノでは無いえ?」
座りながら言う悧羅に皆が大きく頷くと、寝間着の帯を緩めて下腹を露にする。途端に子ども達の目に飛び込んできたのは真っ白な肌に陰りを落とす夥しい数の疵痕だった。刺し傷だけでなく時には縦に横にと切り裂かれ引き攣れている部分まである。息を呑みながら触ってもいいか、と尋ねる子ども達に悧羅は静かに微笑んだ。六つの手が疵痕に触れて手が引かれると悧羅は寝間着を整える。
「母様はそれだけ父様以外の子を孕むのは嫌だったんだね」
手に残った疵痕の感触を忘れないように握り締めながら媟雅が呟いた。同じ女であるからこそ自らの子袋を潰すということがどういうことなのかは分かる。その後に待ち構えていた長としての苦渋も今なら理解できる。
「妾が勝手にしたことであるからな。紳を責めておくれでないよ?紳は共におる時は妾に疵を隠すな、と言うのでな。…未だに己を責めておるのであろうよ。妾に其方たちという倖をくれておるのにのう」
今では些末なことなのだから、と微笑む悧羅の前で子ども達はそれぞれに疵痕に触れた手で拳を握る。自分たちがここにあることを当然だと思ってはならないのだ、と誰もが思った。
満月の夜まであと九日だった。
遅くなり申し訳ありません。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。