追憶【参】(ツイオク【サン】》
物語は鈍行中ですが、少しずつ進展しています。
共に過ごしていると、実に紳は働き者だということが見えてきた。と、いうか良く気がつくのだ。悧羅が邸の掃除を始めると一緒に掃除するし、飲水を溜めている瓶の中身はいつも、新鮮なものに換えられている。灯りを灯すための油が切れそうだ、と気づいた時には仕入れて帰ってくる。湯殿も毎日沸かし、薪が切れることもない。悧羅が食餌を作れば、片付けは紳がするし、さらには妲己の毛並みまで整える始末。悧羅もこまめに物事を進める方だから、先手を取られることに驚いた。礼を言うと、いい男だろ?、と言われ続けるのにも、もう慣れた。
紳は、日常の中で色々と自分のことも話してくれていた。歳は、悧羅より4つ上で、25になる。
邸は、東の方にあること、父は武官で母は文官。父は2本角だが、母が一本角であり、紳は母の方の血を色濃く引いているとの事だった。一本角と二本角の婚姻など、親類縁者からは余り望まれず、そのため付き合いもないが、楽なものだ、と笑っている。紳を見ていれば、母の容姿も十分なものだろう、と思う。悧羅から見ても眉目秀麗であったし、所作も美しかった。悧羅の背丈も小さい方ではないが、頭一つ分は紳の方が高い。決して大柄ではなく細身な方だろうが、均整の取れた体つきをしている。これだけの男であれば、縁談も情を交わす鬼女にもこと欠かなかっただろうと尋ねると、まあね、と紳は笑ってみせた。
「それなりに縁談の話はあったし、女も事欠かなかったよ」
屈託なく紳は笑い、でも、と続ける。
「なんか違うんだよな。契るとなると。一生を添い遂げる相手を、そんな容易く決めらんねえだろ?」
自分のところに来た時は、容易く決めたように見えた、と悧羅が言うと、また紳は笑う。
「お前は別。言ったろ?探してたって。何だろうなぁ、大会でお前を見た時に、こいつだって思ったんだ。自分でも、良くわかんねえ」
頬杖を付いて悧羅を見ながら、紳は笑いを深くする。何がそんなに良かったのか、全く悧羅には理解出来ない。呆れる悧羅の前で、紳は妲己を撫でている。
初めの頃は、紳を警戒していた妲己も、今では隣で眠るまでになっていた。妲己なら分かるよな?、と問いかけられて、妲己が顔を上げる。
“我が主の上をいく鬼女などおらぬ”
心なしか自慢気な妲己を抱きしめて、お前なら分かってくれると思っていた、と紳も同意している。妲己まで紳についてしまっては、悧羅は苦笑するしかない。それだけ信に足りる男だと、妲己は判断したのだろう。
紳と共に暮らし始めて二月が経っていたが、その間決して悧羅に手を出すことはなかった。床を敷く場所は部屋を分けていたが、夜這いをかける素振りもない。そこも、育ちの良さを感じさせた。只々、何気ない話をし、悧羅を気遣う。そんな、紳に悧羅も少しずつ気を許して始めている。知らぬ男と一緒に暮らすなど嫌悪でしかなかったのに、今では当たり前のことに思える。
両親がいなくなっても特に困りはしなかったが、男手があるということを、頼もしく感じたのは初めてだった。とはいえ、そうも簡単に契りの約束を交わす程、悧羅も愚かではない。それでも、妲己と二人だった邸に紳が来たことで、温もりがあることは事実だ。
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暑い時期が少しずつ過ぎ去り、木々が赤く色づき始めた頃には、紳と二人で出かけることも多くなっていた。あまり、人の多いところには行きたがらない悧羅を連れて、紳は邸の近くの川辺に連れ出し釣りを楽しんだ。
「でっかいの獲って、今日の夕餉だ」
息巻いては見たものの、紳の竿にも悧羅のさおにもなかなか当たりがこない。日も暮れ始めた頃、魚も寝てるんじゃない?、と悧羅は言い帰り支度を始める。夜になっても鬼火は出せるが、出来るだけ能力は使いたくない。しかも、今日に限って妲己は一緒ではなかった。誘ったのだが、お二人でどうぞ、とあしらわれてしまったのだ。
できれば、大きな魚を妲己に焼いてあげたかったけれど、こればかりはどうしようもない。紳に、帰りを急かそうとして、待て待て、と止められた。見てみれば、今まで何の音沙汰も無かった紳の竿が、大きく弧を描いている。
「大物だ!」
と、竿を起こした瞬間、紳が、河に落ちた。引きの強さと紳の引き上げる強さが相まって、体勢を崩したようだった。慌てて駆け寄り、紳!と呼ぶと全身ずぶ濡れになって、紳は川底に手を付いている。早く上がるように伝える悧羅に、紳は微笑んで右手を上げる。
そこには、大きな魚がいた。
「妲己に土産ができた。これで、馬鹿にされずに済むぞ」
満足そうに魚を見ているが、紳の身体は河の中だ。その姿が可笑しくて、悧羅は声を出して笑う。はらを抱えて笑う悧羅を見て、紳も笑い出した。
ひとしきり笑ってから、帰ろう、と悧羅が紳に手を差し出した。伸ばされた手を取って紳も立ち上がる。
邸に帰るまで、その手は離されることがなかったが、悧羅は嫌だとは思わなかった。魚の尾に紐を巻きつけて担いでいる紳を横目で見やりながら思った。
これが恋慕というものか、と。
明日も、子どもの嵐が襲来しそうです。
夏休みの宿題を監督する鬼に、筆者はならねばなりません(^^;;