糺す【漆】《タダス【シチ】》
おはようございます。
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姍寂の邸であった場所は既に更地となり新しい草花が芽吹き始めていた。所々に残る焼き払われた邸の残りが踏み進める歩の下で乾いた音を立てる。荊軻はそこを歩きながら何か手掛かりはないものか、と周囲を見渡した。焼き払ったのは八月も前のことなので今更何か見つけられるとは思っている訳でもないのだが何かせずにはいられないのだ。
あまりに周到過ぎる、と悧羅が言った言葉が頭を過ぎる。
言われてみれば確かにそうだ、とも思う。闘技での矜焃、荽梘に始まり八月前の姍寂の一件、そして今回の大国での騒動。姍寂までは一気に進んだ、といった感じであったが落ち着いた頃に起こった大国の犬神騒動は時期を見計らったように段取りが良すぎるような気がした。落ち着いた頃合で次の問題が起きてくる。今こうしている間にもナニモノかが次の一手を打つために動き出しているかも知れない。後手に廻ってしまっている自分が情けなくて荊軻は己を恥じるしかない。
随分と穏やかなこの刻に慣れてしまっていたようだ。
人の子の国にいた時は常に気を張り長である悧羅の片腕としてどんなに小さな諍いでも見落とす事など無かった。少し目を離せば荊軻達の進言も聞かずに自ら動いてしまう悧羅の身体を厭うにはそうしておかなければならなかったからだ。
だが今回はどうだ?、と荊軻は苦虫を噛む。全てが相手側の掌の上で動かされてしまっている。共に大国に降りることは許されなかったが、紳の言葉から想像するに王母からの任を遂行するためにかなりの無茶を悧羅がしたのだろうことは読み取れた。
これまでいつもそうであったように。
民達を護るためであるならば悧羅は己の身体がどれだけ傷つこうが、どれだけ危うい中に堕ちようがそれを顧みない。自分以外の者も手が汚れるのは出来るだけ少なくあって欲しいと願うが故に、長でありながら前線に立ってきていた。それは民達の暮らしを護る、隊士達の手を汚させないという意の他に、早く能力を枯渇させて長という忌々しい呪縛から己を解き放ちたかったからだということも、あの事を知っている荊軻には分かっているつもりだった。紳と契ってからは己の倖も少しばかり考えてくれるようになっていたので安堵していたのは否めない。
倖を掴んでも無理をされるのは変わらないのですね。
炭化した邸の一部を踏んでいるとふと小さな笑いが出てしまう。今の里があるのは悧羅が身を削って苦渋も辛酸も全てを背負ってくれていたからに他ならない。耐えて耐えて耐え抜いてやっと掴んだ小さな倖まで壊し奪わんとするモノが誰なのかは分からないが、壊されてなるものかと荊軻はまた小さく笑った。
悧羅に牙を剥くものが何であれ、それはすべからく荊軻にとっての敵だ。里の中にこれ以上悧羅に反旗を翻す者がいない事を祈りたいが可能性だけは頭に留めて置かなければならないだろう。
「何処の誰方であれ、必ずや後悔させて差し上げましょう」
小さく呟く荊軻の身体を涼しい風が撫でていく。これまで後手に廻ってしまったけれど鬼神を敵に廻すということがどういうことを示すのか、よくよくその身に刻みつけてやりましょう、と心に強く決めた荊軻は久方ぶりに鬼の本性に従うことにした。炭化した邸の場を廻って見たが気になる物は見当たらない。容易く痕跡を残すようなモノではないだろうとは思っていたので、予想の範疇だ。
近隣の民達への質疑は隊士達に任せてはいるが、ふと目に見えた場に立つ邸に行ってみようと思い立つ。辺境の土地ではあるがそれなりに邸の数は多い。隊士達だけで廻るにはなかなかに刻も要するだろう。歩を進めようとして、何故が荊軻は躊躇した。
急き過ぎている、と理性が自分を戒めたのだ。それが分かってつい苦笑する。
そうだ、急いて事を仕損じては何にもならない。悧羅もゆっくりと事を進めようと言っていたではないか。それはゆっくりとではあるが確実にナニモノかの企てを崩せ、ということだ。思っていたよりも頭に血が昇っているようだ、と荊軻は小さく息を吐いた。目に留まった邸へ行くことをやめてもう一度姍寂の邸であった場を巡る。足元に時折触れる大きめの炭を蹴りながら進んでいると、爪先にこつりと硬いものが当たった。石か何かだろうか、と思いながら爪先でその部分の砂や土を払ってみると光る物が見え始める。しゃがみこんで手で土を払うと紅色の飾りが姿を現した。少し溶けてはいるものの荊軻の掌に小さく乗るそれには優美な彫りと一見して高価な物だと分かる玉が埋め込まれている。その彫りも玉も里にはない物だ。姍寂が持つには身の丈に合わない、と訝しむ。何より鬼火で焼き払った業火の中で形を保っている事にも驚きだ。
たまたま鬼火から逃れられたのか?
だが荊軻は少しばかり土を掘って見つけ出した。とすれば元から埋められていたのだろうか?
それとも邸が焼き払われた時に埋まってしまったのか?
考えられることは山のようにあるが、飾りをよくよく眺めていると僅かに獣の匂いもする。哀玥がいた邸ではあるから多少の獣臭がして当然だとも思われたけれど、よく分からないままに荊軻はそれを袂に入れながら立ち上がった。
よく分からない事ならば調べるだけだ。里にはない技物であればそこから何か掴めるかもしれない。ただの杞憂であるかも知れないが宮に入る時には封じておいた方が良いだろう。得体の知れぬモノが相手なのだから、おいそれと悧羅の懐に入れるわけにはいかない。出来れば早く片付けてしまいたいが、とまた逸りそうになる気持ちを抑えこんで荊軻は地を蹴って空を翔け出した。この場に長く留まっていてはどうにも逸る気持ちが湧いてきてしまう。隊士達に任せた方が今の荊軻よりは幾分も冷静だろう。自身の務めの場に戻りながら、こんな気持ちは永らく忘れていた、ともう一度自嘲してしまった。
袂に仕舞っていた飾りに封呪の呪を施して宮に降り立つとそのまま自身の務めの場に入ると、よう、と枉駕が待っていた。おや?、と笑いながら戸を閉めて中に入ると、何処に行っていた?、と尋ねられる。
「姍寂の邸の跡まで。何といいますかじっとしておれなかったものですから」
苦笑する荊軻に、気持ちは分かるがな、と枉駕も苦笑している。随分と待っていたのか茶を淹れて寛いでいた様な枉駕が荊軻にも茶を淹れて卓に置いてくれた。
「お前は逸ると我よりも周りが見えなくなりがちだからな。…とはいえ我も少しばかり逸っておるからお前のことを責めは出来ぬがな」
淹れてもらった茶を受け取りながら、そうですね、と荊軻は椅子に座る。大きく嘆息する荊軻を見ながら枉駕も椅子を持ってきて卓を挟んで座った。
「お互いに少しばかり気を張り過ぎておるやもしれんな。…これほどの事だ。気を張らぬほうが可笑しいのだが、焦ったとて見落としては何にもならぬ。長のお考えを聞いてまだ一月も経っておらぬのだから」
「それは分かってはいるのですがね。長が慎重に、と言われている意も頭では分かっているのですが…」
言葉を切った荊軻の先の言葉は枉駕にも分かっている。これまで長の側に共に500年仕えてきたのだ。何よりも尊ぶべき存在である悧羅にこれ以上の辛酸を感じて欲しくはないのだろう。だが今はとにかく情報を集めるしかないのだ。隊士達からの報せでも大きな変化がないのが余計に気持ちを逸らせているのは否めない。まだ調べは続いているが、姍寂の妹だと枉駕が言われていた者について分かることが少ないのだ。
若い二本角の鬼女だった。
葉の様な緑の髪が長く揺蕩っていた。
どちらかと言えば温厚な性分で、挨拶をすれば返すが余り邸から出ることも少なかった。
そのため姿を見た者自体が少なく知っていることも殆ど無い、というのが今上がってきている報せの全てだ。
余りにも知り得る事が少なすぎる、とは枉駕も感じている。まるで意図して己の存在を知られない様に動いているようにも見えるのだ。まるでこうなる事を分かっていたかのような動きに苛立つのは荊軻だけではない。
「ここまで調べを続けてそれなりの情報が得られないということは初めてでございますよ。いつもの小さな諍いであれば何処からか綻びが出るものなのですがね」
「関わる者が多ければ多いほどにな。だがここまで知らぬ者が多いということはやはり単体で動いておったのやもしれん。矜焃にしろ荽梘にしろ姍寂にしろ共に動いていた者達は多かったからな。そうなれば自分たちの力を過信して口を滑らす者が出てくるものだ。独断や一人で動いておられれば尾を掴むのも一朝一夕にはいかんだろうよ」
頷く荊軻に枉駕は苦笑を隠せない。荊軻がそれを分かっていないはずがないのだ。それでも逸ってしまうのは仕方がない。里の者なのかそうで無いのかも分からず、姍寂の縁者の可能性も低いのであれば出入りの門に新たな縛りをかけることも難かしい。現に出入りの門はそのままなのだ。容易く出入りできる者であれば、今この時も里にいるかもしれない。
「妙なものが持ち込まれたり新しく作り出そうとすれば哀玥が分かると言ってあったろう。あれも元は呪であるからな。風格はかなり異なったが生まれが同じであれば引き合うものがあるのかもしれんしな」
「そうですね。ゆっくりと確実に仕留めなければなりません。ですが今回で全て終わらせたい、と思ってしまうのですよ。長がやっと掴まれた倖を壊されてしまっては堪りませんから」
大きく肩を落とす荊軻に、そうだな、と枉駕も笑う。それも同じだ、と笑う枉駕に荊軻はまた肩を落として見せた。
「とりあえずゆっくりと粛々と進める事にしようでは無いか。相手側も我らが勘ずいたことは知っておるだろうからな。逸りすぎて我らが足元を掬われては何にもならん」
同じ考えを笑って言われて荊軻は苦笑するしかない。それは分かっているのだ、分かり過ぎるほどに。深く腰掛けていた椅子から身を起こして、で?、と荊軻が枉駕に尋ねる。荊軻が戻るまで待っていた、ということは何かがあったのかと思ったのだが、枉駕は特段何も、も笑っている。
「お前が逸り過ぎておらんか釘を刺しに来ただけだ。あとはとりあえずこの事は一旦置いておいて晴明に会いに行ってみないか、と誘いに来たというのもあるがな」
「晴明の所にですか?また何故?」
「姍寂の一件では世話になったからな。長は行かれておるが我らは行っていなかっただろう?久方ぶりに友に会うのも気が紛れて良いのでは無いか、と思ってな。どうだ?」
どうだ?、と言われてもと荊軻は小さく笑う。今のこの状況で里を離れるのは少しばかり憚られる。長の側を離れることにも不安が残るのだ。晴明に会いたく無いわけでは無いけれど、今ではなくても良い様にも思えてしまう。そう伝えると、長は良いと言われたぞ、と枉駕が笑った。
「もう長にまで尋ねられたのですか…」
呆れて嘆息する荊軻の前で、お前が居ない間にな、と枉駕は笑った。実を言えば荊軻が余りにも気を張り詰めているのを感じ取っていたので休息を取らせたい、と悧羅に進言しに来たのだ。同じように感じていたようで、ならば晴明の元へ行ってはどうか、と悧羅が案を出したのだ。里の中に居ればどうしても気持ちはそちらの問題に向かってしまうだろうし、休めと言ったところで務めの場に出てくるのはわかっている、と。であれば里から一時離れて友と酒を酌み交わしてゆるりとして来い、と笑われてしまった。何より晴明も人の子だ。後で後でと思っていたら定命を迎えてしまうかも知れない。人の子の一生など枉駕達からすれば瞬きの間のことなのだ。
「ついでに倭の国を見聞してこいと仰せだったぞ。長が晴明の元へ行かれた時は見聞する暇も無かったようだからな。身体を厭えと伝えてくれとも言うておられた」
目の前で豪胆に笑う枉駕に荊軻は苦笑するしかない。悧羅までそう言ってくれているのであれば甘えるしか無いだろう。確かにまとまった休息もこの所取ることもできていなかった。特に矜焃や荽梘の事があってからは次々に起こる問題や後始末、王母の任で悧羅が里を離れる事も多かった為荊軻が務めを離れるわけにはいかなかったのだ。
「ですが私達が二人とも場を空けては、王母様からの任が長に下ったときに護りが手薄になりましょう」
首を傾げた荊軻に、それも案ずるなと仰せだ、と枉駕が手を振って見せた。
「大国の朝も捨ておけ、と申されたらしいからな。しばらくは大きな事は下らぬだろうと笑っておられた。何より哀玥も護りに加わったのだから長が無理をなされる事もなかろう」
「確かにそれは言えますね…」
分かりました、とようやく首を縦に振った荊軻に、よし、と満足して枉駕は立ち上がった。お前を出汁に使った甲斐がある、と笑う枉駕にどこまで本気で言っているのかと荊軻は笑うしか無い。
「すぐすぐというわけにはいかないでしょうが、近いうちには甘える事に致しましょう」
「そうしてくれ。我らがおらぬ方が長も刻を気にせず紳様と過ごす事もできようしな」
わはは、と笑う枉駕に、確かにそうですね、と荊軻も同意する。荊軻や枉駕など重鎮達が揃っていては毎朝の朝議もある。二人が場を離れれば栄州も休めるだろうし、結果的に紳と悧羅の刻も増えるだろう。それは荊軻にとっても喜ばしいことだ。
「…長が勧められたのはそれが大きな要因ではないでしょうね?」
くすり、と笑うと、さてどうだかな、と枉駕が笑いながら部屋を出て行った。何にせよ自分のことを心配しての事なのだろうという事は痛いほど伝わって荊軻はもう一度深く椅子に身体を預けた。枉駕だけでなく悧羅にまで心配をかけていたようで申し訳なくもある。自分で思っていたよりも逸っている気持ちは漏れ出していたようだ。やれやれ、と小さく自嘲しながら卓の引き出しを開けて小さな木箱を取り出す。空の木箱に袂に仕舞っていた飾りを入れて蓋を閉めると、その上から更に封呪の呪をかける。木箱を卓の端に置いて筆を取り、手早く呪付をしたためると木箱の口を塞ぐように貼って引き出しに仕舞う。
これだけ入念に封呪を施しておけばおいそれと誰かに奪われることはないだろう。荊軻の務めの場に入れる者は限られているが、だからこそ用心しなければならない。容易く入り込まれる可能性も考えなければならないが、もしもここに入り込める者が荊軻達が探しているものなのだとしたら…。
余り考えたくは無い事ですがね、と一人で小さく呟きながらもう一度椅子に身体を預けて荊軻は天井を仰いだ。晴明に会いに行く前に飾りの事は悧羅にだけは伝えておいた方がいいだろう。目立った事だとは思っていないけれどどんなに小さなことでも何かしらに引き合うことも考えられるのだ。卓に置かれた冷めた茶を飲み干して荊軻は立ち上がると部屋を出た。庭を通って宮に通じる道を通り大きな戸の前で歩を止めた。からり、と戸を開いて中に入り決められた通りの廊下を辿って進むとすぐに悧羅の自室に繋る廊下に出る事ができる。中庭を見ると忋抖と哀玥が手合わせをしていた。いち早く荊軻を見留めて哀玥が動きを止めて軽く礼を取ってくれる。忋抖も気付いたようで動きを止めて荊軻を見ると、にっこりと笑った。近頃ではますます紳に似てきている。啝珈と忋抖が並んでいると若いころの紳と悧羅を見ているようで目を細める者も多いのだ。
「母様、荊軻さん来たよ」
縁側に向かって声を掛けながら哀玥の頭を撫でている忋抖に礼を言うと何でも無いように肩を竦めている。その仕草さえも紳にそっくりだ。忋抖と啝珈が産まれた時の里の騒ぎまで思い出されて小さく笑いながら荊軻は忋抖に声を掛けた。
「今日は見廻りはよろしいのですか?」
くすくすと笑いながら尋ねると、行ってきたよ?、と縁側に近づきながら忋抖が応えた。
「近衛と一緒に廻って来たんだけど隊舎に戻ったら父様が今日は母様の所に行く暇が作れないから、哀玥と一緒に側にいろって言うんだもん。妲己がいるから大丈夫だって言うのにきかないんだ。仕方ないから二人で戻ってきて母様に鍛錬見てもらってた」
腰掛けた忋抖の背後の戸は悧羅の自室だ。その戸は大きく開かれている。そこから見ていたのだろう。
「ですが、長はお部屋の中でしょう?」
「部屋の中からだって母様には関係ないよ。甘い所目掛けて庭の石ぶつけてくるもん。俺も哀玥も痣だらけだよ。追いかけっこも捕まえられないしね」
な?、と前に座っている哀玥を撫でながら笑う忋抖に荊軻は笑いを隠せない。確かに悧羅であればその程度訳はないだろう。だが悧羅直々に鍛錬を付けてもらえるなど里中の民達が羨ましがることだ。光栄な事ですよ、と言うと、分かってるよ、とまた忋抖は笑っている。
「哀玥も母様の側に居たいだろうしね。俺にとっても哀玥にとっても良い事だったよ」
笑っている忋抖の背後で衣擦れの音がした。見やると悧羅が微笑みを浮かべて立っている。座ったままの忋抖の頭を撫でる悧羅に荊軻が軽く立礼した。
「妾も忋抖と哀玥とゆるりと過ごすはしばらく無かったでの。良い刻であるよ」
くすくすと笑う悧羅に撫でられて照れ臭そうにはにかむ忋抖の顔が愛らしくて荊軻は又笑ってしまう。身体は大きくなっても母である悧羅を敬愛する気持ちは変わらないのだろう。思えば幼い頃から忋抖は悧羅に付いていることが多かった。
「何ぞあったのかえ?先程、枉駕が其方に休息をと言うたに許したところであったが」
忋抖の頭から手を離して荊軻に向き直る悧羅に微笑まれて、はい、と短く荊軻は応えた。席を外そうか?、と言う忋抖に、若様であればよろしいかと、と荊軻が笑った。
「ただ、この場のみのお話にして頂きとうございます。…紳様にはお伝え致しますが…」
うん、と頷く忋抖の後ろで妲己が部屋を出てきて悧羅の横に侍った。中に入るか?、と言われるがそう刻がかかる話ではない。この場で良い、と伝えてから荊軻は姍寂の邸跡で見つけた飾りについて悧羅に報せる。
「何のことは無いかも知れませんがとりあえず私の卓に封呪を施して仕舞っております。あまり知られずにおりました方が良いかとも思いましたので…」
言葉を切った荊軻の意を悧羅は汲み取る。ここにいる者以外では紳にしか伝える気がない、ということだろう。他の重鎮達にも内密に、ということだ。
「余り考えたくは無い事だがな…。よいであろ。紳には妾から伝えよう。忋抖も良いな?」
「もちろん。誰にも言わないよ。母様が危ない目に合うの嫌だしね」
姉や弟妹にも言わない、と言う忋抖に荊軻も、そのように、と頷いた。
「紅い飾りで獣の臭い…。哀玥、何やら覚えはあるかえ?」
聞かれた哀玥は静かに首を振った。
“小生を辻道から掘りだし邸に移したはあの者でございます。小生も壺に入れられ封呪を掛けられておりましたので、気配は分かりますがそれが誰の物か、とは分かりかねます”
うん、と頷くと悧羅も少し考え始めた。
「姍寂が持つには高価過ぎる、というのもの…。誰ぞから贈られた物やも知れぬし、父母の物かも知れぬしな。応えを急くことはあるまいよ。其方が厳しく封呪を掛けたのであらば易々とは破れまい」
微笑んだ悧羅に、恐れいります、と荊軻も小さく笑う。荊軻の学や呪の技が秀でているのは悧羅だけでなく周知の事だ。その上で宮のある場には幾重にも悧羅の呪が施されている。容易く入り込めるような場でも無いのだ。それよりも、と悧羅が苦笑しながら荊軻を見た。
「其方、ほんに少しばかり休みゃ。枉駕と共に晴明に会うてくるがよろしかろう。気を張り詰めてばかりおっては穏やかで正しい応えも見つかるまいよ」
「それはそうなのですが…。色々と考えてしまいますと没入してしまいますもので…」
困ったように笑う荊軻に、それが其方なのだがの、と悧羅は笑っている。
「其方が沸々と怒ってくれておるは分かるがな。有難いとも思うておるが、其方に倒れられてしもうては容易く運ぶことも運ばぬようになってしまうでの」
くすくすと笑われて荊軻は頭を掻いた。
「休息って大事だよ。ちょっと休むと見えてなかったものが見えてきたりするもんね。…って父様の受け売りなんだけどさ。俺の目から見ても荊軻さん働き過ぎだよ。ちゃんと休まないと母様を護ってくれる鬼が少なくなるのは困ると思うよ?」
ねえ?、と哀玥を撫でながら忋抖にまで言われて、ますます荊軻は頭を掻いて苦笑してしまった。
「若様にまで見透かされておっては何ともお恥ずかしゅうございますね。すぐすぐとは参りませんが長のお言葉に甘えようと思っておりますよ」
「そうしてたも。妾もよろしゅうに、と言うておったと伝えておくりゃ」
承りました、と笑いながら頭を下げて荊軻は場を辞した。宮を出ながらも小さく笑いが出てしまう。やはり自分が思っていたよりも逸ってしまっていたらしい。悧羅や枉駕だけでなく忋抖にまでそう思われていたとは情けない。これでは紳や栄州だけでなく報せにくる隊士達にも気取られていたかも知れなかった。
自分では冷静だと思っていたけれどまだまだのようだ。
悧羅や枉駕の言葉に甘えて懐しい友と共に過ごせばまた心も穏やかさを取り戻すだろう。そうとなれば、と務めの場に入りながら早めに溜まった務めを片付けようと荊軻は椅子に腰掛けて文書を開き始めた。
とても良い天気です。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。