糺す【伍】《タダス【ゴ】》
こんにちは。
更新します。
一部ギリギリラインがありますので、苦手な方はご注意下さいませ。
紳と悧羅は次の日になっても寝所から出ることが出来なかった。休むことも許されずに堕とされ続けて何をどうすべきであったのかを考える事さえも紳が悧羅に許さなかったからだ。
「今は俺の事だけ考えててくれたらそれでいいんだよ」
快楽の最中に時折聞こえる紳の声だけが悧羅をその場に留めおいた。果てさせられる度に強くなる身体の痺れと朧になっていく意識の中で必死に紳の名を呼び続けるしか出来なかった。余りの官能の強さに幾度か意識を手放しそうになったけれど都度、まだだよ?、と笑いを含んだ紳の言葉と手によって引き戻される。いつしか本当に紳の事しか考えられなくなっていた悧羅を愛しそうに見つめながら、やめる?、と尋ねられても首を振るのが精一杯だった。身体中が自分のものではないように痺れて沸ってしまっていても、まだ、と伝えてしまう自分が不思議でならなかったけれど、もうどうでも良かった。とにかく紳が悧羅の中から出て行くのが耐えられずに出ようとすると、嫌だ、と哀願してしまうのだ。そんな悧羅に応えて紳も慈しむ手を休めようとはしなかった。
やらなければならないことがあるのは分かってはいたけれど、どうしても互いが互いを離したくなかった。知らない場所に連れて行く、と言った紳の言葉はすでに果たされていたようにも悧羅は思ったけれど昇るたびに又違う世界が見える。幾度も、だが全て異なる場に誘われて、それでも眠る事も許されない。今まで情を交わしてきた中でされてこなかった事までされても抗う力など残っていなかった。数えきれないほどに睦み合って真っ白な世界に連れて行かれて紳と悧羅が同時に倒れ込むように意識を手放したのは大国から宮に戻って二日後のことだった。
先に目を覚ましたのは紳だった。悧羅の中に入ったまま覆い被さるように悧羅の上で眠ってしまっていたらしい。身体の下に悧羅の細く柔らかな身体があることに慌てて身を起こそうとしたが意識を手放して深い眠りに堕ちているはずの悧羅の身体はそれを許さなかった。無意識の中ででも紳が自分から離れることを拒んでいるかのようで余りの愛おしさについ口付けてしまう。だがこのままでは押し潰してしまいそうで、ぐったりとした悧羅の身体に腕を廻してころりと体勢を変える。悧羅を自分の身体の上に乗せるように整えるが余程深い眠りについているようで身じろぎ一つしない。
いつもならほんの少しの音や動きで目を覚ます悧羅が、ここまで深い眠りにつく事などなかった。特に粛清を行ってからのこの八月は魘されている事も多かったし、いつもより眠りも浅かった。それが今は何も気づく事なく眠ってくれている。紳が無理をさせた事もあるかもしれないが穏やかな寝顔はそれだけで紳を安堵させるには十分だった。長く艶やかな髪を梳いていると色々な事が思い出された。自分に応えて紳の手にかかって堕ちていく悧羅の艶かしい姿まで思い出されてまた沸りそうになる自分を抑える。
嫉妬に狂ってるのは自分だけだと思っていたのにな、と苦笑しながらそれでも悧羅が涙を流すほどに紳が情を交わした相手に妬いてくれていたことが嬉しかった。どうあっても悧羅を想う自分の想いの方が、悧羅が紳を想う気持ちよりも上回っていると思っていたから。
だが、違ったのだ。
本当に互いが唯一無二の存在だった。
媟雅を授かった時に分かっていた事なのにこんなにもそれをひしひしと感じたことは初めてだった。それは悧羅に対する紳の負い目と、無理をさせてはならないという自制心が働いていたからかもしれない。500年前に手を離してしまった後悔と自責から何よりも大切に、壊物でも触れるかのように紳は悧羅を慈しんできたけれど、想いのままに慈しんで良かったのだ。どのように慈しもうが悧羅への想いは変わらないし、悧羅が紳を想う気持ちも変わらないだろう。
悧羅の右手を取って顔の前に持ってくると、くっきりとした契りの疵痕が見えた。紳の左手にもある消えない疵痕だ。悧羅と手を繋ぐ時には疵痕が重なるように繋ぐ。離れていても悧羅が苦しんでいたりすれば思いは疵痕を通して伝わってくるけれど、重ねていればより濃く感じることができる。疵痕にそっと口付けてその手に自分の疵痕を重ねて指を絡ませる。途端に倖に満ち溢れた悧羅の想いが流れ込んできて空いた手で紳は悧羅の身体を抱きしめた。
本当に想いは同じなのだ。
流れ込む想いには紳への愛情しか感じない。
それもこれ以上ないほど、全てを捧げる、というほどの想いだ。
ありがとう、と胸の上で眠る悧羅に紳は囁くように伝えた。
「…俺を選んでくれて…、本当にありがとう…」
重ねた契りの疵痕から想いを流し込みながら紳は何度も囁いた。聞こえていなくても疵痕から流れ込んで悧羅の身体や心を満たしてくれればそれでいい。目を覚ましたなら一番に伝えればいいのだ。それでまた離せなくなったとしても、どうにかなるだろう。大国の後始末に関することは悧羅の新しい眷属である哀玥が調べを進めているはずだ。宮廷内の事は王母の指示を待つしかないが、人の子の世の流れなのだからそのままに、と言われるだろう。紳や悧羅がすべき事は、姍寂が残したモノが本当に残っていないのか、ほかにかけられた呪があればそれを解くことだけだ。
全部片付いたらゆっくり二人で逢引きでもしような。
胸の上で満たされたように眠り続ける悧羅の頭を撫でながら、紳もまた目を閉じた。
次に目が覚めたのは戸の外から磐里と加嬬の声が聞こえたからだった。お目覚めですか?、という穏やかな声音に紳と悧羅は共に目を開けた。胸の上で目を擦っている悧羅の中に入ったままだった紳は苦笑しながら、出てもいい?、と尋ねる。その問いに一瞬何を聞かれているか分からなかったのだろう。きょとりとした悧羅が次には顔を赤らめて紳の胸に突っ伏した。そのまま僅かに頷く悧羅があまりに可愛くて紳は声を上げて笑いながら悧羅の中から出る。身体を震わせた悧羅を布団に置いて額に口付けてから紳は寝間着を纏って部屋の入り口を開く。
「おはよう。…悪いね、まだ出てこれないみたいだ」
廊下に座っていた磐里と加嬬が、まあまあ、と顔を綻ばせて卓の上の水差しを新しいものに変えてくれた。お務めは無事に?、と聞く磐里に、一応はね、と紳が肩を竦める。
「まだ後始末が残ってるからあと数回は降りなきゃならないだろうけどね。荊軻達に報せるのは全部終わってからになりそうだよ」
「それは宜しゅうございました。一昨晩お戻りではなかったようですのに、お部屋に血の跡がございましたので、何かあったのではないかと私共も案じておりましたから」
ほっと肩を落とす磐里に紳は苦笑する。慌てて大蛇の玉を取りに戻った時に血が落ちたのだろう。気づいたのは磐里達だけか?、と尋ねると、妲己も、と応えが返ってきた。
「妲己はすぐにでも血の後を追いたがったのですけれど、御子方の手前控えたようでございました。後程お顔をみれれば安堵致しますでしょう」
微笑む磐里に、わかった、と紳は頷いた。紳も悧羅もいない間、宮の護りを固めるのは妲己の役目だ。媟雅や忋抖、啝珈であればすでに自分の身は自分で護れるが下の皓滓、玳絃、灶絃はまだそうはいかない。先日のように舜啓が宮に留まっていてくれるならば妲己の負担も少なくなるだろうが、それはそれで紳にとっては複雑に感じてしまう。
いざとなれば、近衛隊や武官隊の隊士達も宮の護りを固めにくるはずだけれど、それでも妲己がいてくれているから紳も悧羅も王母の任で里を離れることができるのだ。
「悧羅が起き上がれるようになったら妲己に一番に会いに行くことにするよ。子ども達は?」
笑う紳に、もう学舎へ、と加嬬が応える。そんなに長く眠っていたのか、と思っているとその思いを読んだのか、もう巳の刻を過ぎておりますれば、と小さく笑っている。
「もう少し致しましたら軽いお食餌をお持ちいたしますね。湯殿も整えておりますのでいつでもお使いくださいませ」
分かった、と礼を言いながら紳が思い出したように、そうだ、と呟いた。
「新しい家族が出来たんだよ。まだ大国に降ろしてるから今度一緒に戻ってくると思う。そいつがどうやって過ごすかは分からないけど、一応妲己みたいな部屋を用意してやっててくれる?」
まあ、と女官二人が目を丸くする。家族、だと言われたから悧羅が懐妊したのか、と期待してしまったが紳の話し振りではそうではないらしい。
「妲己のようなものなのですか?」
「似て非なるものかな?妲己が怒らなければ良いけどね。形は妲己とは全然違うから最初は戸惑うかも知れないけど、悧羅を主だって決めてるから力になってくれると思うよ」
諭すように話す紳に、かしこまりました、と礼を取って二人が部屋を出て行った。静かに閉められた戸を見やりながら、水差しから新しく冷えた水を飲んで悧羅にも持っていく。紳から降ろされたままの姿で布団に顔を埋めている悧羅の名を呼ぶと顔を見せないまま頭を振っている。
「なに?どうしたの?」
苦笑しながら悧羅の横に座ると、ちらり、と視線だけが紳を捉えた。水の入った湯呑みを枕元に置いてもう一度、悧羅?、と名を呼ぶと視線が外される。
「…恥ずかしゅうてかなわぬ…。あのようになるまで溺れてしまうとは思うておらなんだ…」
伏せた顔は見えないが耳が赤く染まっていることに気づいて紳は悧羅を抱き上げた。これ、と焦る悧羅に、駄目、と笑って膝に座らせる。両手で顔を覆った悧羅の手を外そうとすると、嫌じゃ、と首を振っている。
「嫌だじゃないでしょ?そんな風にされてたら口付けることも出来ないじゃないか。それとももう一回溺れさせたら手が離れるかな?」
くすくすと笑いながら言うと、これ以上は、と悧羅も慌てたように手を離したが、まだ赤く火照った顔を紳の胸に埋めて隠してしまった。その姿が今まで見たことのないほど可愛い姿であったので、紳は声を上げて笑ってしまう。
「何でそんなに可愛いんだよ。困るなあ」
笑う紳に、揶揄うでない、と恥ずかしそうな悧羅の声が届く。紳としては本音を言っただけなのだけれど悧羅は揶揄われたと思ったのだろう。小さく笑い続けながら紳は悧羅の小さな顎に手を当てて上向かせる。そのまま深く口付けると悧羅の身体がまた震え出した。
「本当に困った女だよ。これ以上誘われたらまた寝所から出れなくなるでしょ?さすがに後始末に行かないと哀玥も待ってるだろうしね」
沸る自分をどうにか抑えて笑い続ける紳の胸にまた悧羅は顔を埋めた。どうあっても今は顔を見られるのは恥ずかしくて堪らない。
「…誘ってなどおらぬではないか…」
呟くように言う悧羅の背中を紳が指でなぞるとまた身体が反り返り始める。
「これで誘ってないって言えるの?」
揶揄う紳に、これ、と悧羅は身体を離そうとする。それを離さないように抱きしめると悧羅を抱き上げて自分の方に身体を向けさせた。
「やっぱり無理みたいだ」
苦笑しながら悧羅の身体を持ち上げてゆっくりと降ろしながら、中に入り込むとそれだけで悧羅の身体がびくりと大きく震えた。
「…っ!だがこれ以上は…っ」
入り込んだだけで息も声も乱れる悧羅に紳は笑って、大丈夫、と伝える。
「夜にしかあそこまで墜とさないから。確かめるだけだよ、俺だけの悧羅だってことをね」
だから見せてね?、と笑う紳の首に悧羅のしなやかな腕が廻された。
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紳と悧羅が大国の宮廷の屋根に降り立ったのはその日の月が高く昇ってからの事だった。王母から賜った漆黒の衣を纏って降りたった二人の前に哀玥が行儀よく座して待っていた。腕の中から悧羅を降ろそうとして紳は苦笑しながら、立てる?、と尋ねる。寝所から出ようとした悧羅は腰から下が震えて立つ事がままならなかったのだ。宮の中の事であったので紳が悧羅を抱いて動いていたが、溺れて墜ち続けた悧羅にとっては衝撃だったらしく、また顔を赤らめていた。何があった?、と心配して尋ねる妲己にも、何でもない、としか悧羅は応えられなかった。
「俺にとってはこれ以上ない誉だけどね」
そう伝えてみたがやはり悧羅は恥ずかしかったようだ。少しの刻であれば立てるようにも歩けるようにもなった悧羅を連れて宮を出たのは夕刻の事だった。空を翔けながらも、今日も溺れてもらうからね、と笑った紳に、これ以上かえ?、と悧羅はまた顔を赤らめていた。
本当に愛らしくて堪らなくなる。
くすくすと笑い続けている紳に諦らめたように、悧羅が溜息をついていた。
「狂うほどに溺れさせて欲しいと言うたは妾であったからの…」
「そうだよ?悧羅が悪いね、俺の箍を外しちゃったのは悧羅なんだから」
「そうであればやむを得ないであろうな。…妾が望んだことであるしの。なれど、…その…、少しばかり手加減を…」
恥じらうようにまた顔を赤らめながら言う悧羅に、嫌だ、と紳は笑うしかない。
「しばらくは手加減なんてしないよ。あんなに可愛い姿を見れるのは俺だけなんだから。まだまだ見せてもらわないと足りてないんだからね」
笑い続ける紳に悧羅がますます顔を赤らめるのが見えて、こんな姿を見たことのある者はいないだろう、と紳は優越感に浸ることが出来た。とにもかくにも早く後始末を済ませてしまわないと、悧羅を愛でる刻が少なくなってしまう。幾日も顔を見ていない子ども達も心配ではあったので、少し立てるようになった悧羅と共に大国に降りたのだ。
屋根の上に立った悧羅に哀玥が伏せて礼を取っている。これが本当にあの犬神なのか、と紳は訝しんでしまう。頭しかなかったはずの哀玥には体躯が出来ているし、それも王母の御力の為せる業なのだろう。哀玥、と悧羅が呼ぶと伏していた体躯を起こして悧羅の足元に擦り寄ってくる。大きな体躯を悧羅が撫でると嬉しそうに鳴いていた。
「待たせてすまなんだな。疲れてはおらぬかえ?」
“なんの。主よりの初の命でございますれば、誉に思うばかりでございます”
低い声音で喜びを隠せずに蛇の尾を振る哀玥に、そうか、と悧羅は微笑む。
「して、どうであった?」
哀玥の頭を撫でることをやめずに悧羅が問うと、二つばかり、と甘えるような声で哀玥が応えた。
“小生が作られた時にはすでにこの地で十体は作っておったはずでございます。おる場は同じ呪で作られた小生が引き合いまする。あの者が作ったモノが二体残っておりましたが、まだ小さきモノでございました。ここにおったモノに近づくことが出来なんだのでしょう”
既に取り込んでおります、と言う哀玥に、そうか、と悧羅が笑う。
“後は虫を使った蠱毒も幾つかございましたが焼き払いましてございますが、あの者が作ったモノ以外は捨て置いております”
「人の子が作ったモノ…ってこと?」
哀玥の報せに考え込みながら紳が聞くと、然り、と声が返ってくる。
「人の子が人の子を呪うために作りしモノであれば、妾らが手を出すまでもあるまいな」
なるほど、と頷く紳の前で哀玥も頷いている。人の子の為すことで悧羅や王母の治める場に危うさが及ばないのであれば悧羅達が手を出すことは許されない。それは人の子の世の理に関わる、ということになるからだ。悧羅達が人の子に関わるのは王母の任が下りた時だけに限っていた。
“宮廷の中のこともそのままに。猩々や金華猫なども元来大国に住まう妖でございますので、小生も手出しはしておりませぬ。…主に牙を剥かんとすれば容赦は致しませぬが、ここにおったモノの溢れ落としたモノを狙っておっただけのようでございますから”
うん、と微笑みながら頷く悧羅に甘えるように哀玥がますます擦り寄っている。ようやってくれた、と褒められて満足そうに哀玥が小さく鳴いた。それを笑いながら撫でて、悧羅は大国全土を視る。宮廷に巣食っていた犬神の禍々しさが消えたせいなのか、容易く全土に悧羅の結界が張れる。哀玥の報せ通り姍寂や他の鬼の気配はないが、人の子が作ったのであろう弱い呪の気配はある。時折能力の強い人の子の気配や妖達の所在が感じ取れるが、道士や大国を住処にしている妖達であれば、こちらから手を出す必要はない。
結界を解いて、よろしかろう、と頷く。後のことはまたどうにかして欲しければ王母から呼ばれるはずだ。だがどうしても拭いされない思いがある。哀玥、と呼ぶとそれだけで悧羅の意図を察したように哀玥は悧羅から体躯を離した。
“…あれが壊れ始めていたのは小生が作られる前からのようでございます。最期に壊したのは小生でございますが、一つ気になる事がございます”
気になること?、と紳が首を傾げた。大国の問題が片付いたなら一旦終わりだ、と思っていたのだが、悧羅も哀玥も違うようだ。どういうこと?、と悧羅に視線を移すと顎に優美な指を当てて考え込んでいるようだ。
「…いや…。姍寂一人で行ったにしては余りにも事が大きゅう気がしてならぬでの。壊れておったにしても学が深うあったとしても。哀玥一人を作るのであらばどうにかなろうが、そうであれば八月前の粛清で全て片付いておったように思えてならぬ…」
悧羅にとってはそこが一番頭の中に渦巻いていた。哀玥を使えば一万の民を惑わすことが出来たのは納得がいく。だが今回の大国の件のように十体も犬神を作り、それをまた蠱毒のようにして落ち着いた頃の里や悧羅達を襲わせることまで姍寂が一人で考えられただろうか?
何かがある、と王母の場で感じたのは大国の犬神の後ろに何かがいる、と感じたからだ。
「それって、まだ片付いてないってこと?」
眉を顰める紳に、そのような気がするだけだ、と悧羅は小さく笑う。ただの小さな考え違いだと思いたかった。けれど哀玥は、是、と悧羅の考えを肯定した。
“小生が喰ろうたあの者の邸に居たのは二体。あの者の父母でございましょう。…もう一人、歳若い鬼がおったはずでございますが小生が這い出た時には姿が見えませんでした”
そうか、と悧羅は嘆息した。哀玥が喰ってしまったと思っていた姍寂の縁者が残っている、ということだ。あの状況では何体の鬼が喰われていたか判断は困難であったろうし、邸が焼き払われることも考えに入れていたのだとしたら姿を眩ますことなど容易いだろう。
「…え?じゃあ、そいつが黒幕ってこと?」
ますます眉を顰める紳に、否、と悧羅は首を振った。
「それだけではここまでの事にはならぬであろう。…手を組んでおるモノがおる、と思うたほうがよろしかろう」
嘆息する悧羅に哀玥が擦り寄る。紳も悧羅の手を握った。やっと悧羅をあの苦しみから解いてやれると思ったのにまだ続くのか、と思うと紳もまた嘆息するしかない。
“あの者の縁者であれば小生が気配を覚えております。里に入る事を許していただけるのであればすぐに見つけて見せましょう。…里におればの話でございますが”
「…まあ、おらぬであろうな…。姍寂の縁者であれば近隣の者達には顔が知れておろう。すでに里を出ておる、と思うておったがよろしかろうな」
再び大きく嘆息した悧羅に、是、とまた哀玥が同意した。
“ナニモノと通じておったかまでは小生にも分かりかねます。作ったのはあの者でありました故、小生との制約はあの者との間に結ばれたものでございましたから。…お役に立てず申し訳ございません…”
頭を垂れる哀玥に、そのような事はない、と悧羅がまた頭を撫でた。
「妾の方でも調べさせる故。すまぬが哀玥、里に戻ったならばその者の気配を辿ってくりゃるかえ?」
“里に入ってもよろしいのでございますか?”
大きく目を見開く哀玥に、悧羅は、無論だ、と笑っている。紳も、入らないつもりだったの?、と驚いた顔をして哀玥を見た。
「俺、もう新しい家族が出来たから部屋を用意するように女官達に伝えちゃったよ?」
その言葉に哀玥が目を丸くして紳を振り仰いだ。違うの?、と笑っている紳に哀玥が深く項垂れる。
“…小生は主を害さんとして作られ申したのです。お呼びがかかれば命に叛くことは致さぬと誓いまするが、御側近くに侍ることなど許されぬ、と思うておりました”
小さく鳴く哀玥の姿に、本当に変わったものだ、と紳も悧羅も苦笑する。項垂れたままの哀玥の前に紳と悧羅がしゃがみ込んでそれぞれに頭を撫でる。
「でもお前は変わっただろう?悧羅を主として認めて悧羅のために尽くすんだろう?」
“身命にとして”
撫でられながらも項垂れたままの哀玥に、じゃあ家族だ、と紳が笑う。
「俺達里の民達は悧羅を護るためにいる。悧羅はその民達を護るためにいてくれている。お前が悧羅のために尽くすなら悧羅の大事なものも一緒に護ってくれるんだろ?」
無論です、と応える哀玥に、じゃあ側にいないとね、と紳は撫でる手を降ろした。顔を上げて悧羅を見た哀玥に柔らかな微笑みをたたえた悧羅が見えた。微笑みながら頷く悧羅に、感謝申し上げます、とまた項垂れる哀玥の名を悧羅が優しく呼ぶ。ゆっくりと顔を上げた視線を受け止めて悧羅はその頭をもう一度撫でた。
「妾にはここにおる紳との間に六人の子がおる。其方よりも長く妾の側におってくれた妲己という狐の妖も大切な者じゃ。…其方も共に護ってくりゃるかえ?」
悧羅の言葉に哀玥がその場に伏した。御意のままに、と震える声で言う姿に笑って悧羅はその背中を撫でた。
「では一度愛しい者達のおる場に戻るとしようかの。妲己が哀玥に妬かねば良いがの」
くすくすと笑いながら立ち上がった悧羅を紳が抱き上げる。
「まだ翔けられないでしょ?」
悪戯に笑う紳の言葉に少しばかり顔を赤らめながら悧羅は哀玥に、戻るえ、と微笑んだ。
まだまだ困難が続きそうです。
さて、どうなりますやら。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。