糺す【参】《タダス【サン】》
こんにちは。
更新します。
さて、と悧羅は紳の腕の中から身を起こした。外は既に夕闇が押し寄せてきている。王母が戻った後も紳と情を交わし続けていたので結局二人が休み始めたのは陽が高くなってからだった。庭先に集まり始めた童達の笑い声を眠り歌にしながら眠った悧羅も身を起こしたは良いが目を擦ってしまう。悧羅の動きで目を覚ました紳も、よいしょと身体を起こしている。身体は?、と起きるなり尋ねてくる紳に悧羅は苦笑せざるを得ない。傷一つなく治っていることは嫌というほど確かめたはずではないか。小さく笑う悧羅を見ながら紳も、身体の中のことだよ、と苦笑している。
「気怠さは残っておるがの。犬神に負わされたからではないようだえ?」
微笑む悧羅の額に、なら良いね、と紳が引き寄せて口付けた。うん、と微笑む悧羅を抱き上げて、じゃあ湯を使おう、と湯処に連れて行く。初めて入る紳の邸の中をきょろきょろと見ながら抱かれている悧羅に紳は笑っているばかりだ。
「庭先までは何度も来てたんでしょ?入れば良かったのに」
進みながら笑う紳に、そういうわけにもいかぬであろ、と悧羅は言う。紳の邸は紳のものであって悧羅が断りもなく踏み入れてよい場ではない。
「思い出もあると言うておったろう?知らずに踏み入れて汚してはならぬと思うてな」
湯処に着いて悧羅を降ろしながら、なにそれ、と紳は声をあげて笑っている。夜中に火を付けたままだったので少し温くなった湯を悧羅に掛けると乾いて張り付いていた血が流れて湯が赤く染まった。幾度か湯を掛けてやってから手拭いを使って身体を清め始めると悧羅は、自分で出来る、と笑っている。
「いいからさせて?っていうか、何でそんなに気を遣って邸の中に入らなかったの?」
悧羅の身体を丁寧に清めながら尋ねると少し困ったような顔をしている。何と言葉を選んで良いのか分からないのだ。少しばかり考えてから首を傾げている悧羅に湯を掛けてから抱き上げて湯に浸ける。自分の身体を清めながら応えを待っていると、呟くような声がした。
「…ここには紳の大切な思い出が詰まっておるのであろ?妾の知らぬ紳の思いじゃろうて…。容易く踏み入れてはならぬであろうからの…」
悧羅の言葉に紳はまた声を上げて笑う。自分の身を清めてから、湯に浸かるがそう広くない湯船では二人で入ると狭くなってしまう。いつも通り悧羅を膝に乗せるが、それでも狭い。宮の湯殿に慣れてしまったようだ、と紳は苦笑を隠せなかった。背後から悧羅を抱きしめて湯から出てしまった悧羅の肩に湯を掛けながら、あのね、と紳は話しかけた。
「俺の思い出は悧羅のことばっかりなんだよ。ここで悧羅を想ってずっと宮を見てた。それだけの事だよ。それに、それを言うなら俺は宮に入ってる。宮には俺の知らない悧羅の思い出があるだろう?踏み込んじゃ駄目だって悧羅が言うなら俺だって悧羅の思い出に踏み込んでるじゃないか。悧羅が俺の邸に入ってくれるなら俺が悧羅を想って過ごしていた刻も報われるんだ。どんどん入ってくれて良いんだよ」
「そうなのかえ?…ならば時には手入れをしに入ることにしようかのう。紳一人では大変であろう?」
「そんなこと悧羅にさせられないよ」
笑う紳に、妾がしたいのだ、と悧羅が言う。紳の大切な場所であるのなら、悧羅も共に大切にしたい。自らの手で整えることで紳の想いを汲み取れるような気もするのだ。
「じゃあ、たまには任せようかな。一緒に手入れをするっていうのも昔みたいで楽しいかな」
「そうだの。そうさせてたも」
小さく笑っている悧羅の背中の華と新しい蕾に口付けると、さあ行こうか、と悧羅が紳の胸に身体を預けた。本音を言えばずっとこのまま過ごしたいが、縫いつけた犬神はそろそろ動き始めるだろう。少し急いで片付けた方がよい事柄だ。余り刻をかけると死骸となっていた宮廷の骸の山を喰うだけ喰ってより力を高めるだろう。悧羅を格下だと思っていても犬神の目的は鬼を里を長である悧羅を壊すことだ。力を蓄えてここに近寄られては困る。
この場には護らねばならない民達も愛おしい紳も大切な子ども達もいるのだ。
壊されてなるものか、と小さく呟いた悧羅を紳が強く抱きしめた。紳とて同じ思いだ。腕の中に容易く収まる細い身体で重圧を背負う悧羅を支えてその重責も苦渋も辛酸も半分にするために悧羅の側に紳はいるのだから。
「…昨日みたいな無茶だけはしないって約束してよ?あんなの何度もされたら俺の心の臓が幾つあっても足りないからね?」
「承知しておるよ。…昨夜のような無茶はせぬ。知りたい事は知れたのだから」
ならいいけど、という紳に、大事ない、と悧羅は笑う。
「あれは昨夜の事で妾を下に見てあるであろうからの。…こちらも新たなモノを手にすることができそうであるし…」
「新たなモノ?」
湯で顔を洗いながら悧羅が、うん、と頷く。名を考えよ、と言われてもそう容易く思いつくものでもない。やれやれ、と小さく吐息をつきながら肩を落とす悧羅を心配そうに紳が抱きしめた。
「ほんに大事ない故、案ずるでないよ」
柔らかく紳に伝えて悧羅は振り向いて微笑んだ。振り向いた悧羅に口付けてから、じゃあ行こうか、と紳も覚悟を決める。深く頷く悧羅を抱き上げて湯船を出た。姍寂の呪縛から悧羅を解いてやるために歩を進めると決めて。
____________________________________
月が高く昇る頃になって紳と悧羅はまた大国の宮廷の屋根に降り立った。湯から上がった二人が脱衣場に行くと何故か二組の衣が用意されていた。どちらも悧羅が粛清の時に纏うような漆黒の衣であったが、裾に小さく悧羅の華が刻まれていた。何で?、と訝しむ紳に、戯れと詫びであろうよ、と悧羅が苦笑すると紳も納得したようだった。詫びであればもう貰ったというのに、と笑いながら衣に袖を通すと、さらりとした心地良い肌触りがした。と、同時に何やら呪が組み込んであるのが伝わってくる。
「これってさぁ、護りの呪だよね?」
確かめる紳に悧羅も頷く。悧羅のしたことに余程胆を冷やしたのだろう。もしかしたらこれは紳に対する詫びなのかもしれない。悧羅が手を離れていたらどうであったか分からない、と直々に言っていたのだから。紳にそう伝えると、そうか、と笑って衣を整えていた。
「じゃあ有難く賜るとしますかね」
そうして衣を整え終わった悧羅を抱いて紳は里を出た。そして今、また腐臭の漂う宮廷に降り立ったのだ。手を繋いで屋根を進みながら昨夜犬神を縫いつけた中庭を見下ろすが、そこに犬神の顔は無かった。屋根を蹴って中庭に降りると大刀は噛み砕かれ、呪符は焼け落ちている。
「やはり甘かったようだの…」
苦笑して、さて何処に行ったかのう、と周りを見廻すと頭上から殺気を感じて二人は素早く飛びのいた。今まで立っていた場所からもうもうと土埃がたっている。唸り声と土煙の中に真っ赤に光るぎょろりとした眼が二人を睨んでいた。
【懲りもせずにまた喰われに戻ってきたのか?】
這うように地をずりずりと進んできながらげらげらと笑っている犬神の大きな口には見えるだけで何十もの人の身体であったであろうものが詰まっている。宮廷の中にあった骸だけかと思っていたが、一部に道服が見えて悧羅も紳も眉を顰めた。どうやら宮廷内の骸だけでは飽き足らず大国を廻って能力の大きな道士まで喰らって己の糧としていたらしい。
悧羅にとれば人の子などはどうでも良いが、道士を喰らいに行ったということは犬神と道士は繋がってはいない、と考えてもいいだろう。死骸となった人の子を喰らうよりも、能力の強い道士を一人二人喰らった方が自らの能力の回復にも増強にも影響が強い。それを分かっているからこそ道士を狙ったのであれば、それなりに知恵もつけているようだ。
【そのまま逃げておれば身どもから向かってやったというのに。であれば鬼も里もお前もすべからく壊してやれたものを。ちと遊びすぎておったようだな】
にたり、と笑う犬神の口の端からぼとりと肉片が幾つか落ちた。口の中に残っていた人であったものを咀嚼してごくりと飲み込むと、犬神の顔が一回り大きくなって腐臭と血生臭さが鼻をつく。禍々しさも増した犬神がまた、けたけたと笑う。
【あれだけ痛めつけたのにもう癒やしてくるとは、まがりなりにも鬼なのだな】
弱いというのに、と嘲笑する犬神に悧羅は首を傾げてみせるだけで言葉を発しない。隣の紳が逸らないように繋いだ手にだけ力を込めた。悧羅の思惑通り犬神は確実に悧羅を格下だと思ってくれているようだ。これ以上都合の良いことなどない。そのまま下に見られていた方が動きやすい。
【だがお前の血肉はまこと美味であった。お前全てを喰らわば身どもの能力も更に強くなるだろうな】
にたりにたりと、笑いながら近づいてくるが悧羅は微動だにしない。這うように近づいてきた犬神は悧羅の眼前で飛び上がり大きく口を開けた。
【骨の一つも残さぬぞ!】
悧羅の頭を犬神が覆い尽くそうとした時だった。犬神の頭が左に吹き飛んで宮廷の壁を破っていく。がらがらと崩れる瓦礫の中から勢いよく犬神が飛び出して、唸りと吠えを上げながら紳と悧羅に襲いかかってきた。牙が紳に届く刹那、また左に吹き飛んで宮廷の壁にぶつかった。がらがらと音を立てて崩れる瓦礫の中から這い出ながら、なんだ?、と犬神が目を見開いた。見えた先では悧羅が細く白い脚をゆっくりと降ろしている。
【…何だ?お前ごときが身どもを蹴ったのか!?】
血走った目を大きく見開いて、そんなはずはない、と犬神は思い直した。昨夜あれだけ痛めつけたのだ。大した能力も無く噛みついて肉を裂き腕も脚も腹さえも千切れんばかりに痛めつけた。息も絶え絶えになりながら、必死の一撃で自分を地に縫い付けて逃げていったのだ。その場で呪符を破って追いかけても良かったが、どちらにせよ鬼の里も潰さなければならないのだ。であれば、逃げた先を突き止めてしまえば全てが片付くと思ってあえて逃した。悧羅の血の臭いは覚えたし場を突き止めるなど容易い。
いたぶるだけいたぶって喰ろうてやろう。
恐れ震え上がっているだろう鬼女の肉を確かに喰らうために更なる畏怖を与える目的で能力の強い人の子を喰って能力を高めていたのだ。
だが、何なのだ?
明らかに自分の方が能力は上のはずだ。証に鬼女は昨夜、自分に手も足も出なかった。今目の前にしていても自分の方が格は上だと思える。どんなに急いて傷を癒したとて受けた負荷は残っているはずなのだ。何一つ自分より秀でていなかった鬼女に自分が二度も蹴り飛ばされたなど信じることが出来ようはずもない。
…そうだ。ただ運が良かっただけなのだろう。彼奴にこの様なことが出来るはずがないのだ。そうに違いない。
にたり、と笑って今度は目に止まらぬ速さで紳と悧羅の背後を取る。
鬼女の弱みはこの男だ。こちらから喰えば鬼女の心など容易く折れるだろう。
紳の背中に喰らいつこうとした犬神の頭が今度は上から地に叩きつけられてその勢いで、ぼこりと地に穴が空く。押しつけられるように地中に埋め込まれて思わず犬神の口から苦悶の声が漏れた。頭の骨が軋む音がして、口から血が流れ出た。違う、と穴から這い出ながら犬神は思う。這いでた先では悧羅が紳の頬に触れて笑っている。
「妾の紳に傷をつけようなど戯けたことを為そうと思うからじゃ。紳に手出しはならぬ、と言うたはずだえ?」
這い出てきた犬神に微笑みながら言う悧羅の姿に歯軋りが止まらない。
こんなはずはないのだ。あり得るはずがないのだ。
地に作られた同胞を全て喰らった自分は、組み込まれていた蠱毒の法もその身に移している。それぞれの同胞が蓄えていた呪いの元となる人の思いも全て自分の物にしたのだ。ナニモノよりも強いのが自分であるはずなのだ。呪いとして作られたが、自分は神の位にいるのだ。
それがどうして、ただの鬼女にこの様な目に遭わされている?
ぎりぎりとなる歯をもう一度大きく開いて犬神は怒号のような咆哮を上げた。血走った目をこれ以上ない程に見開いて、再び紳と悧羅の真下に動く。下から二人まとめて喰らいつこうとするが右頬に衝撃が走ってまた宮廷の壁に叩きつけられた。頬骨の砕ける音と共に犬神は激しく咳込んだ。馴染みのある血の味がして顔を起こしながら、やはり何かが違う、と犬神は悧羅を見た。乱れた衣の裾を紳が直しているのが見える。
「もう、あんまり肌出さないでっていつもお願いしてるのに」
笑いながら悧羅に口付けている紳も昨夜とは違う。あれほど自分に恐れて鬼女が傷付くたびに泣き出しそうになっていた姿など幻であったかのように余裕の雰囲気なのだ。
【…何があったというのだ、あれほどに痛めつけたというのに。お前達は同じ者なのか?】
ぼたぼたと血が流れ出す口から疑念の言葉が飛び出した。咳込む犬神に紳と悧羅が視線を返す。にっこりと微笑んでいる二人はやはり昨夜とは違う。くすくすと笑い合いながら、悧羅が犬神を白く長い指で指し示した。
「其方は妾があの程度の者だと思うておったのかえ?」
【…何を言う。身どもに為す術も持たなかった弱きモノが!】
血を吐きながらずりずりと距離を縮めると目の前から紳が消えた。消えた、と認識したと同時に頭頂部から鋭い痛みが走って視線だけを向けると大刀を突き立てている紳が見えた。は?、と目を見開くとそのまま一直線に大刀は犬神の頭を貫いて地に留められ、頭の上に乗ったままの紳が笑っている。
「なに?ゆっくり動いたんだけど追えなかったの?」
笑いながら犬神の頭を蹴って紳は悧羅の横に戻る。頭に血が昇るのが分かって思いきり顔を振って犬神は大刀を砕いた。そのまま動こうとしたが上から紳に踏みつけられてまた地中深くに埋められてしまう。ぐしゃり、と骨が砕けてその日二度目の咆哮を犬神は上げた。取り込んでいた能力を沸らせて負った傷を癒しにかかる。禍々しい気配と共に穴から飛び出してきた犬神に紳と悧羅は笑っている。
【どういうことだ!】
唸る犬神に悧羅は小さく笑って、知りたい事は知れた、と言い放った。何だと?、と聞き返す犬神の傷がどんどんと癒えていくのにもたじろいでいる様子はない。それどころか、分からぬのか?、と悧羅は笑うばかりだ。
「この地に作られた犬神となる蠱毒がどれだけあるか知りとうての。其方が妾より上である、と思わば吐くやもしれぬと思うてな。案の定吐いてくれたは嬉しゅうあったえ?」
は?、と目を見開く犬神に紳が伝える。
「悧羅の思惑は分かったんだけどね。あんなに無茶するとは思ってなかったんで、俺はちょっと焦ったんだけどさ。止めて聞くような女じゃないもんで」
左手に着いた契りの疵痕を見せながら紳は声を上げて笑った。昨夜悧羅が何かを知ろうとして能力を抑えているのは契りの疵から流れ込んで来ていたので知っていた。邪魔をしてはならないとは頭では分かっていたのだが、やはり目の前で悧羅が傷付くと冷静でいられるはずもない。冷静さを欠けば自身の能力も十分にだせなくなる。常日頃から鍛錬でも冷静さを欠くな、と隊士達にも言っているが実際に感情に支配された紳は自分に苦笑するしかない。何よりあれほどの深傷を負うまで無茶をするとは考えてもいなかったのだから仕方ないだろう。腕の中で血を流し続ける悧羅の身体が気になりすぎて紳も実力の半分も出せなかったのは省みる必要があるけれど、これは悧羅が悪い、と思うことにした。
「やっぱり悧羅が傷付くと冷静じゃいられなくてね。ちゃんと相手してやれなくてすまなかったな」
ひらひらと手を振って笑う紳に犬神は、ぎりりと歯軋りするのを止められなかった。
【あえて弱く見せていた、とでも言いたいのか?あれほどまでに身どもの足元にも及ばなかったお前達が!】
「そういうておるに。…まあ、思うていたよりも深傷を負わされたは真であるがな。少しばかり危ううはあったようだえ?」
首を傾げる悧羅に、少しじゃないよ!、と紳が嗜めている。
「本当に危なかったんだからね?どれだけ俺が心配したと思ってるの?」
嗜められた悧羅は、すまなんだ、と紳に向かって笑っている。
「本当にこんなの最後にしてよね?もう嫌だよ、冷たくなっていく悧羅を抱きしめて走るのは」
二回もこんな目に遭うと思わなかった、と嘆息する紳の頬に悧羅が触れる。その手を取って引き寄せて口付ける紳と悧羅に、ふざけるな!、と犬神が吠えた。咆哮が爆風となって二人を包むが意介していないように口付けを止めない姿に怒りが止まらない。大口を開けて頭上から噛みつこうとすると、真正面から紳の拳が顔に減り込んだ。吹き飛んだ先で頭を起こす犬神に、邪魔するなよ、と笑いながら紳は悧羅を抱きしめている。
おやまあ、と苦笑する悧羅も、その額に口付ける紳も犬神のことなどただの虫だとしか思っていないようだ。
【ふざけるな!ふざけるな!ふざけるな!!こんな事があってなるものか!!お前達など身どもの餌となるはずだ!!身どもはお前達を壊すために生み出されたのだ!!】
叫ぶ犬神に、知っておる、と悧羅が小さく嘆息した。
「…どこまで壊れておったのやら…。どこまで己が心のままに動いておったのやらも分からぬがの。なれど、それも今となっては知り得ることなどできぬ。…ほんに哀れと言うしかあるまいな…」
其方もの、と嘲笑されて、哀れだと!?、と犬神が目を細めた。
「哀れであろ?…其方、姍寂に作られて妾らを壊すと申しておるが、それしか目的がないのであろ?そこに其方の思いなどあるまい?ただ、壊れて妾らを呪うた姍寂の思いに惑わされておるだけじゃて」
何を言う!、と叫ぶ犬神の声は苦痛の声に潰れた。頭に鈍い痛みが走る。視界に入っていたはずの紳がいつのまにか犬神の頭を踏みつけていた。また地中に押し込められそうになって渾身の力を込めて踏み留まる。あれ?、と苦笑しながら紳が犬神の頭の上で跳ねてもう一度踏みつける。ますます押し込められそうになるのを、歯を食いしばって堪える。
「おお、頑張るじゃないか」
笑いながらもう一度踏みつけて紳は悧羅の横に戻った。
「さて、どう致す?其方も既に感じておるであろ?如何に人を喰ろうて能力をつけようとも紳にも妾にも敵わぬ、と」
ゆっくりと悧羅が犬神に近付きながら尋ねる。再び身体に溜めた能力で傷を癒やしながら顔を起こすと目の前に悧羅が立って犬神を見下ろしている。見下すな!、と呻くが悧羅は眉一つ動かすことはない。
【身どもは神だぞ!お前のようなただの鬼などに身どもが劣るはずなどないのだ!】
叫ぶ犬神の顔を紳が踏みつける。誰がただの鬼だって?、と苦笑しながら足を離すと犬神の顔が潰れている。神ねえ、と笑う紳がしゃがみ込んで犬神の顔を持ち上げた。知らねえの?、と嘲笑されて、何がだ!?、と血を吐きながら犬神が唸る。
「俺達も神なんだよ。普通の鬼じゃねえんだ。お前を作った姍寂は鬼だけどな。角の数が違うだろ?」
気付けよ、と笑いながら紳は持っていた犬神の頭を投げ捨てた。
【お前達が神だと?ふざけたことを言うな!身どもが神なのだ!身どもほどの能力を持たねば神にはなれぬのだ!!】
「だからお前今俺たちに手も足も出せてないじゃないか。それとも能力の差も分からないほどの愚かモノなの?」
【それはお前達が何かしてきたからだろう!でなければこのような事があるはずがないだろうが!】
叫ぶ犬神に、駄目だこいつ、と紳が指を差しながら肩を竦めた。ほんにのう、と悧羅も笑いながら犬神をまた見下ろした。
【見下すなと言っているだろう!下賤な鬼の分際で、身の程を知れ!身どもの前では伏して控えよ!】
やれやれ、と嘆息する悧羅は本当に何処までも哀れだ、と呟いた。
「確かに其方は神を冠しておるな。なれど妾らも神を冠しておるのじゃ。鬼神というのじゃが、其方程度の格の低い神には属さぬ」
【格が違うとでも言いたいのか!】
叫んで悧羅に噛みつこうとする犬神をもう一度紳が踏みつけた。
「悧羅に近づくなって」
へこんでしまった鼻から血が流れ出して犬神は目を閉じてしまった。分からぬ奴じゃのお、と肩を落として悧羅は、もう一度、其方は哀れじゃ、と目の前の犬神に視線を落とす。すでに傷を癒す能力さえもないのだろう。紳に蹴られた傷も癒えることなく血を流し続け、それでも血走った目で悧羅を壊すだけの為に動いている犬神には脅威も畏怖も感じない。禍々しさは残っているけれど、それにも慣れてしまっていた。
「やはり妾を里を民達を壊さんとする思いは変わらぬか?」
静かに尋ねる悧羅に、それをせずして何のための身どもだ!、と叫ぶ犬神に、そうか、と悧羅は苦笑した。
「ならば致し方あるまいな」
【何がだ?!】
けほり、と軽く咳込む犬神を悧羅がゆっくりと指さしてくる。
「妾は長であるからの。里や民達を護らねばならぬのだ。其方が害を為さぬ、と制約出来るのであれば哀れな其方に生きる術をやろうかとも思うたのだが…。望まぬのならば全てを滅さねばならぬ。…許してたもれ」
柔かに言われて、犬神が吠えた。
【身どもを滅するなど戯けた事を!】
「せめてもの情けじゃ。妾の手ではなく同胞の手にかかって逝くがよろしかろう」
同胞?、と目を開いた犬神の前で、悧羅は囁くようにその名を呼んだ。
「…哀玥…」
声に呼応するように悧羅の鬼火が一つ意図せずに現れて大きくなる。その中からぬるり、と姿を現したのは八月前に王母に預けた犬神だったモノだ。呼び出しに応じた哀玥と名付けられたそれは出てくるなり悧羅の目の前にいた犬神を一口で飲み込み、くるりと姿勢を返すと悧羅の前に伏した。
顔は犬体躯は狼で漆黒の毛並みだが尾だけが白い蛇だ。伏した姿は四尺三寸ほどだろうか。へえ、と驚きながら見ている紳が面白そうな声を上げた。
「これがあの犬神?何か神格化してない?」
伏したままの犬神の前に膝をつきながら、王母の側におればそうなるであろうよ、と悧羅は苦笑する。哀玥と名を呼ぶと、ゆっくりと身を起こして座った姿は悧羅と視線が同じくらいだ。その目の下に一つ蓮の華が小さく咲いている。
“名を賜り光栄に存ずる。これより先、小生は主悧羅様の御為だけに動く忠実な僕。何なりと命じられよ”
頼む、と微笑みながら哀玥の頭を撫でると目を細めている。姍寂の邸から持ち帰った時のような禍々しさは消え失せて、どこか柔らかささえ感じさせる。目の下の蓮について尋ねると、王母から玉を賜った、と応えが返ってきた。
“主の側におりたいのであれば、と”
そうか、と微笑む悧羅に、どうぞご命令を、と哀玥が頭を下げた。うん、と頷いて悧羅は命じる。
「大国の地を廻り姍寂が残したモノがないか確かめてきや。其方であれば気配を追えるであろ?」
“御意のままに”
一度伏して控えてから哀玥は姿を消した。その姿を見送って紳がまた、へえ、と苦笑している。
「新しいモノってこれのことだったの?」
よいしょ、と悧羅を抱き上げて地を蹴って翔けだしながら紳が尋ねる。
「名を考えろ、と言うておったからの。そういうことなのであろう、とは思うておったのだが。あれほどに変化しておるとは思うておらなんだえ」
風になびく髪を押さえて苦笑する悧羅に紳も笑っている。
「顔だけよりも子ども達は怖がらなさそうだ。妲己の機嫌が悪くなるかもしれないけどね」
確かにそうだ、と笑いながら紳と悧羅は里へ戻る道を辿った。
悧羅の犬神さん再登場です。
これからもぼちぼち出てきます。
姍寂編がここで終われば良いのですが。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。