糺す《タダス》
こんにちは。
今日も暑いですね。
残酷描写が続き増す。苦手は方はご注意ください。
里が夕闇に包まれる前に悧羅は全ての出入りの結界を強固にし、里全体を自らの結界で覆った。十年振りに現れた悧羅の結界に民達は驚いたが、何かしら良くないことが起こっているのかもしれないと感じていた。この十年、安らげる場所だと思っていたのに何が起こっているのか分からない。それでも誰一人として騒ぐ事が無かったのは悧羅へ向けられた信によるものだった。
長が無意味に自分たちを不安にさせるわけが無いのだ。
その一つの真実だけが民達の心の安寧を保つことが出来ているのだ。唯一不安があるとすれば民達を護るために悧羅がまた自分を削るような無理をしないか、ということだけだった。民あればこその長だ、と言う悧羅は民達のためであれば自分がどれほど傷もうとそれを顧みない。500年前からその姿を見ているからこそ民達は祈る。
決して自らを削ることがないように、と。
八月前に起こった粛清でも悧羅は自分を削っている。身体だけではなく、心も削っているのは分かっている。姿が見えなくなって心配した民達のために降りてきてくれた悧羅は、また痩せていた。その姿で心を痛めながらも忙がしくしていたのであろうことはよく知る事ができた。だが、側に紳がいる姿を見た者は二人の姿に安堵したのは事実だ。けれど、これ以上身体も心も削る事があれば、と揺らぐ結界を見ながらまた祈る。
どうか御壮健であられるように。
夕闇が押し寄せて宵に転じ始めて民達はそれぞれの邸へ戻りはじめた。宵闇に落ちていく里の周りで悧羅の結界だけが仄かに紫の光を放っていた。
結界を張り終えた悧羅は一息をついて現世へと繋ぐ門への道を紳に抱かれて進んでいた。今回ばかりは危ない、と紳には同行を拒んだのだが、それを許す紳ではない。危ないなら尚の事ついていく、と頑なに退かない紳に仕方なく悧羅も折れるしかなかった。これまで王母からの任には紳は必ず共に行っている。それは悧羅にとっても有難い事でもあるのだが、本当に今回ばかりは巻き込みたくはなかった。悧羅にも何が起こるか分からないからだ。
現世に通ずる門の前で紳が、開と唱えると堅牢な門扉がゆっくりと両側に開かれる。そこを通ると真っ白な雲を潜るように進むと背後で門扉の閉じる低い音が聞こえた。そこからはただ真っ直ぐひたすらに霊峰に沿うように降っていく。
眼下に人の子の住まう邸の灯がぼんやりと見え始めると、紳はそこから大国の中心に向かって翔けだした。出来るだけ中心に近い場の門を通ってきたはずなのだが、それでも半刻ほど翔けてようやく豪奢で横に長い宮廷が見えた。そこで初めて悧羅が紳の腕の中から身を起こした。紳、と名を呼ばれて翔けるのをやめた紳にも悧羅が動いたわけがわからないでは無かった。幾度か来たことのあるその宮廷は前に見た時とは違う気配を漂わせている。
豪奢であることは変わらないのだがまるで黒々とした煙でも立っているかのように二里は離れているこの場にも異様な気配が伝わってくるのだ。その気配は長い宮廷全体を包んで、見る者が見れば眉を顰めるだろう。
「…これはまた禍々しいのお…」
「あんまり近づきたくはないよね。ここからでもびりびりくるよ」
腕の中の悧羅を抱きしめる腕に力を込めて紳も苦虫を噛む。どうやら悧羅の懸念は当たってしまったようだ。どうする?、と問うと、行かねばなるまいよ、と悧羅が小さく嘆息する。確かに宮廷に近づかなければ何が起こっているのか確かめることは出来ない。けれど、どうしても身が竦む。紳の中の生存本能とでもいうのだろうか。近づいてはならない、と警告しているかのようだった。
「大事ない。何があろうとも其方だけは妾が護る」
「それって反対だよね?俺が悧羅を護らなきゃならないんだよ?」
見上げた悧羅に苦笑しながら口付けて紳は歩みよるように少しずつ宮廷までの距離を縮めて行く。近寄れば近寄るほどに竦む身体を震い立たせて進むと、異臭が鼻に突き始めた。単なる異臭ではない。肉の腐る臭いと独特の血の混ざった臭いに嘔気をもよおしそうだ。前にここに来たのは三月ほど前のことだ。その三月の間に何があったというのか。
進め、という意識と裏腹に止まりそうになる足を必死に動かして紳は進む。気を抜けば踵を返して逃げ出したくなるくらいの、それは狂気だった。背中に伝わる冷たい汗を感じながら宮廷の屋根の上に着くと悧羅が腕の中から降りようとする。駄目だ、と言うが悧羅は首を振る。
「紳から離れぬと誓う故」
絶対だよ?、と言う紳に悧羅が大きく頷く。悧羅としても紳から離れて動いたとして紳に何かあっては堪らない。分かった、と大きく息をついて紳が悧羅を腕の中から降ろした。そのまま手を繋いで空いた手には背負っていた大刀を握る。
「どこから調べる?」
尋ねると悧羅は少し考えているようだ。本来ならばこの臭いの元から探らねばならないだろうが、あまりにも禍々しい。下手に刺激して退路を断たれるのは避けたい。
「中からにした方が良いであろうな」
言われて紳は悧羅と共に窓の一つから宮廷の中に入った。天井に近い場所を辿りながらもその中が異様であることが見てとれた。人の声も気配もしないのだ、宮廷であるのに。代わりにあるのは静寂と時折聞こえる猫のような鳴き声だけだ。屋根にいた時よりも腐臭は弱くなったが、血の臭いだけは強くなっている。
「誰もいないの?まったく気配がしない」
「この血の臭いでは望めぬかもしれぬな」
小声で話しながら進んで近場に見えた戸に近付いて悧羅がそれを少し開いた。途端に血の臭いが強く流れ出して紳も悧羅も一瞬顔を背けた。息を止めるように部屋の中を確かめると、見るも無惨な光景が広がっている。
大きな部屋は天井も床も壁も血が飛び散りべっとりと肉片が張り付いている。悧羅が開けた戸にも暗くて分からなかったけれど血が張り付いていた。喰いかけなのか、そこで意識的に止めたのかはわからないが何十もの人であっただろう残骸が見えた。ふう、と息をついて悧羅は戸を閉める。代わりに廊下に出て鬼火を一列に配すると、そこに面した部屋の戸には血が張り付いているのを確かめる事ができた。長い廊下のあちこちにも死骸が横たわっている。
「なかなかに壮絶じゃな」
鬼火を自分と紳の横に一つずつ残して消しながら悧羅が呟く。紳もただ頷くしかなかった。鬼の紳が思うほどに、この光景は残虐だ。握った手に力が込められて紳は悧羅を見る。悧羅の顔も曇ってはいるが、まだしっかりと前を向いていた。進んでみるか、と手を引かれて紳も続く。どこまでも長く続く廊下を進むと死骸を跨がねばならない事もあった。多くあるはずの部屋の前を通ると、血の匂いと腐臭がする。この宮廷の中で生きているものなどいないだろう事だけがひしひしと伝わって、どれほどのモノなのだ、と紳はまた背中に冷たい汗が伝うのを感じた。長い廊下をひたすらに進んで最奥の一際大きな戸の前で二人は足を止めた。
朝廷の場に続く戸に手をかけてゆっくりと横に開くと強い酒の臭いがした。中は仄かに灯が残っているのかぼんやりとしているが伺い知るには十分だった。広い部屋の中にいるのはひしめき合うほどの数の真っ赤な顔をした妖だ。樽に入った酒を浴びるように飲んでは横になり、飲んでは騒いでいる。戸を開けた紳と悧羅に近くにいたモノは気づいたようだが意にも介していないようで酒盛りを続けていた。猩々で間違いないようだった。おい、と一番近くに居た猩々に紳が声をかける。酒でとろりとした目でそれが紳と悧羅を捉えたが、ただ笑って酒を飲んでいる。
「お前たちは誰に集められた?そのモノは何処にいる?」
尋ねる紳に猿のような笑い声が響く。猩々は知恵は乏しくとも人語は介するはずだ。もう一度尋ねると高らかな笑いと共に上を指さした。
【皆死ぬぞ?皆死ぬぞ?きゃっきゃきゃ、きゃっきゃきゃ。皆死ぬぞ】
耳につく笑い声を上げながらそれが言うと、次々と周りの猩々達も同じように叫び始めた。
【皆死ぬぞ!皆死ぬぞ!愉快だ愉快だ、皆死ぬぞ!】
一斉に上を指しながら叫び続ける。この!、と斬りかかろうとした紳を悧羅が制した。何十何百とひしめきあう猩々の中に官吏の衣と皇帝の衣を纏ったモノが目に入っている。叫び続ける猩々達は人形から全身赤い毛に覆われた猿のような姿に転じ始めている。
【皆死ぬぞ!皆死ぬぞ?愉快だ愉快だ、皆死ぬぞ!?】
踊りだしそうなほどの笑い声と共に酒をあおってはまた叫ぶ。
「これに構うておることはない。…上、か…」
叫び続ける猩々達に背を向けて悧羅は紳の手を引いて歩き出した。あまり近づきたくはないが確かめねばならない。少し離れた場所の窓から顔だけを出すと強い異臭が再び鼻をついた。そこから外に出て屋根へと跳び上がる。猩々達の指さした場所からは四丈ほどの距離だが真っ直ぐに見つめる先には黒々とした何かが蠢いている。何をしているかは見ずとも二人には分かった。それが蠢くたびに黒々とした禍々しい気配が大きくなってゆくのだから。
「…どうやら一つ二つではなかったようじゃな…。全てがここに集まってくれておるならばよろしかろうが、まだおるやもしれぬ。近寄ってきたとてあれに喰われて終いだろうがの…」
大きく肩を落として悧羅は紳と繋がれた手に力を込めた。これ以上喰わせては本当に手に余るようになる。…今でさえ手に余るほどの気配を有しているのは肌で感じるが、だからといってこのままにするにはあまりに危うい存在だ。一間ほど間合いを詰めると蠢く陰の前に黄金色をした猫が1匹天を仰いでいる。口を大きく開けて天に浮かぶ月から精気を吸っているようだった。
「金華猫…」
呟いた悧羅の目の前で金華猫は眉目秀麗な男の姿に転じたが、すぐに隣に紳がいることに気づき次には妖艶な美女に転じる。二人を相手に次々に男になり女になりを繰り返す金華猫に悧羅は小さく舌打ちをせざるを得なかった。
まさかこんなものまでいるとは思っていなかった。
とすれば、宮廷の中で喰い散らかされていた死骸の中には金華猫によって殺された者もいたのかもしれない。不敵な笑みを浮かべながら転じ続けるその後ろで蠢いていた陰が動きを止めた。ゆっくりと振り向いたそれの視線に囚わらて、ほんの一瞬紳と悧羅の呼吸が止まった。血走った大きな吊りあがった目の前からは狂気しか感じない。獅子の頭ほどもある大きさのそれはやはり犬神と化した犬の頭だ。
悧羅を見留めると大きな口をにたり、と開いたその姿は首から下がない。紳や悧羅の場からしっかりと確かめることは出来ないが、今まで蠢いていたそれの下には見えるだけで三体の犬の頭がある。一息に全てを喰らっているようではなく、所々喰われた犬の頭達は一様に『殺せ』と哀願している。
一体何体のモノを作っていたのか。
これまで何十何百の妖と対峙してきた悧羅でさえ息を止めてしまうほどの禍々しさだった。今アレが喰っているものが大国で作られたモノ全てであればよいが、もしもまだ残っているのだとしてもこの場には現れてはくれないだろう。それらを見逃してしまっては第二、第三のモノが出てきてしまう。けれど、これほどのモノが居てはその気配を掴むことすら難しいと思われた。
繋れたままの紳の手をもう一度強く握ると、これまずいよ、と小さく呟く声がした。それに頷きはするがこのまま戻るわけにもいかない。大きく息をついてから悧羅は真っ直ぐに犬神を見た。
「妾の言がわかるかえ?」
言葉と共にゆらり、と犬神の頭が揺れる。大きな口を開けて端から血を滴らせながら、それはゆっくりと金華猫の横まで浮いてきた。一間まで近づいたそれの腐臭が強くなり、にたりと笑う口から血の臭いが流れてきて紳も悧羅も顔をしかめてしまう。
【お前のその角…、その能力…、鬼だな】
浮いたままの犬神の頭から低く唸るような声がした。|如何にもと目を細めて応える悧羅に、そうかそうか、とにたりにたりと笑いを深めながらそれは悧羅を上から下まで眺めやっている。ふふふ、と怪しく笑いながら舐めるように見られては余り気の良いものではない。紳も悧羅を獲物と定めたようなそれの視線に苛立ちを隠せずにいつでも大刀を振れるように構えた。
【お前、名は何という?】
ずり、と悧羅との間を詰めながらそれが聞いた。悧羅だ、と応えると、そうかそうか、とまたにたりと笑う。
「お前は何のために作られた?この地におるのはお前が最後か?」
臆することをせずに悧羅が尋ねるが犬神の頭は応えない。ただにたり、と笑いながらずりずりと二人に近づいてきて紳は思わず大刀の切先をそれに向けた。この間合い以上、悧羅に近づかせるわけにはいかない。びたり、と切先を向けられても尚それは怯んだ様子さえ見せず、当てられた切先を、べろりと舐めた。もう一度問う、と悧羅が静かに声を出す。
「お前は何のために作られた?この地におるのはお前が最後か?答えよ」
静かに響く声にそれは少しだけ目を細めた_________と思った。次の瞬間に紳は悧羅に突き飛ばされて繋いでいた手が離れる。それまで紳が立って居た場所に犬神の頭が見えた。そこから血飛沫が上がる。
「悧羅!!」
叫んで大刀を振るうのとそれが紫の鬼火に包まれて燃え上がるのが同時だった。大刀が掠める刹那、それは後ろに飛びのいた。ぶるり、と顔を振って鬼火を払いながら、けたけたと笑っている。悧羅!、と走り寄ると左肩から腕にかけて鮮血が迸っているのが見てとれた。喰い千切られてはいないが傷が深い事はすぐにわかる。噛みつかれた肩を押さえる悧羅を紳が腕に収める。
身を引けば肉ごと喰い千切られていただろう。それが無かったのは紳が払った大刀と悧羅の鬼火から犬神が自ら退いたからだ。収めた腕の中で悧羅の血が自分の衣に染み込んでくるのを感じた。沸々と怒りが湧き上がって犬に斬りかかろうとした紳を、待ちや!、と悧羅が止める。腕の中に視線を落とすとすでに青くなりつつある顔で悧羅が首を振った。だけど!、と叫ぶ紳にもう一度悧羅が首を振る。
【こんなものか】
犬神の声がして紳は咄嗟に悧羅を抱き寄せる腕に力を込めた。
【壊せと言うからにはどれほどの者かと思っておれば大した事もない】
口の周りに付いた悧羅の血を舐めながら犬神はけたけたと大声で笑っている。まあ、味は悪くない、とにたりとまた大口を開ける犬神の周りに無数の悧羅の鬼火が現れるのを見て紳も同様に鬼火を出す。
「…やはり、お前を作ったのは女かえ?生い茂る葉と同じ色の髪をした鬼の女であろう…」
問う悧羅の息が乱れている。止血の術を使っているのに血が止まらない。小さく舌打ちして悧羅は犬神を睨みつけた。それがどうした、と犬神がまたけたけたと笑う。
【誰が身どもを作ったのかなどどうでも良い事だ。身どもは壊せ、と願われた。鬼を、里を、悧羅という鬼女を。ならば壊すまでのことだ。お前が悧羅だというのなら探す手間もない。…ここで喰ろうてやろうぞ】
遠吠えのような唸りを上げる犬神に紳も悧羅も苦虫を噛まざるを得なかった。
姍寂…!
死してまで悧羅に牙を剥くなどとは…!
ようやく八月前の粛清の疵が癒えかけていた悧羅にまだ苦しみを与えるのか!?
ぎりっと歯軋りをして紳は悧羅を抱きしめる腕に力を込めた。大口を開けて瞬きの間に二人の間合いを詰めてくる犬神に無数の鬼火が降り注いだ。爆炎と爆風が舞う中で紳は一足に空へ翔け出した。どうせ効いてはいないのは分かっている。であれば今すべきは悧羅の安全を確かなものにする事が最優先。燃え上がる二色の鬼火から目を離すことなく空へ跳びあがった紳の眼前に犬の顔があった。
速い!、と身を躱そうとした紳の身体がもう一度弾かれる。腕の中から悧羅が離れてしまって、思わず紳が悧羅!と叫ぶ。その視界の中で悧羅の右足から腹にかけて喰らいつく犬神の頭が映った。持っていた大刀をそれに向かって投げつけると掠める寸前で犬神が悧羅から離れた。同時にぐらりと傾く悧羅の身体を抱きとめて紳がその名を呼ぶ。衣が引き裂かれて露わになった足や腹の肌から大量の血が流れだしている。もう一度名を呼ぶと、大事ない、と力ない声がした。どこがだよ!、と叫びながら悧羅を抱きしめて紳は目の前の犬神を睨みつけた。
「…紳は…、傷ついてなど…おらぬかえ…?」
絶え絶えの息の中から尋ねる悧羅に紳が抱きしめる腕に力を込める事で応える。
「なんで庇うの!逆でしょ!?」
泣きたくなるような悧羅の現状に震えが走る。このまま出血し続ければ如何に悧羅といえど体力が持たない。考えたくもない思いが心を過ぎって紳の背中を冷い汗が流れた。犬神はまた口の周りについた悧羅の血を美味そうに舐めている。
「…紳が、傷つくのは…耐えられぬ…」
「一緒だよ!」
叫んではみるがこの場からどう逃げれば良いかの策が浮かばない。紳の速さでは容易く追いつかれてしまうのはもう分かった。かといってこちらの攻めも全く意に介していない犬神は高らかに笑った。
【何だ?それを傷つけられたくないのか?ならばそちらから喰ろうてやろうか?】
どちらにせよ喰らうのだから、と吠えた犬神が這うように、だが素早く二人の頭上から大口を開けて喰らいつこうとする。
まずい!
迫る犬神の顔に出せるだけの鬼火を出してぶつけながら紳は今度は悧羅から離されないようにしっかりと抱きとめて後ろに退がった。近すぎる場での爆炎と爆風も相まって犬神との間は開いたが、もうもうとした煙を引き裂くようにして涎を垂らした犬神の顔がまた迫ってきた。くそ!、と舌打ちしつつ悧羅に覆い被さろうとすると眼前にあったはずの犬神の顔が横に飛んだ。腕の中の悧羅が噛まれて千切れかけた右脚で犬神の顔を蹴り飛ばしたのだ。犬の顔と共に鮮血が紳の顔の前に流れていく。
「何やってんの!足!痛めてるんだよ?!」
叫ぶ紳の声は悧羅に届いていたのかすら分からない。至る所から血を流している悧羅が紳の腕の中で咳込んだ。押さえた手の間から血が滴って吐血していることを紳が知る。あれだけの広い範囲に喰らいつかれているのだ。臓腑が傷ついているのは当然のことだ。蹴り飛ばされたことに少しばかり驚いたような顔をしながら、それでも犬神は面白そうに笑っている。
【そのようになってまで、それを傷つけられたくはないのか?鬼とは冷徹、冷酷残酷なものだと思っていたのだがな。この程度の能力しか持たぬ妖を壊すために身どもは作られたのか?なんともふざけたものだ】
嘲笑するように大きく血走った目を細めて犬神が唸る。
【どれほどのものかと思うて同胞も喰らいつくし、人を喰ろうて能力を高めたというのに何の戯れにもならぬな】
こんなものなど自分で壊せば良かったものを、と吐き捨てるように言う犬神はにたり、と口を緩めている。またくる!、と紳が身構えると腕の中から力なく名を呼ばれた。離せ、とでも言われるのだろう。聞くまでもなく紳は、嫌だ、と首を振った。これ以上悧羅が傷ついては紳が共に来た意味がない。元々契る前は、いつでも悧羅の盾になると決めていたのだ。逆に護られてばかりでは盾になるなどという話でもないではないか。
【そのように共におりたいのであれば、一度に喰ろうてやっても良いのだぞ?どちらにせよ女は長くは持たぬだろう?身どもは死肉は好まぬ。やはり生きたまま喰らうが良い声も聞けて愉悦に浸れるのでな】
口の端から涎を大量に垂らしながら、良い声を聞かせてくれ、と笑う犬神の顔がまた横に飛んだ。紳に抱きしめられたまま悧羅が動いて右の顔を蹴り飛ばしたのだ。動くたびに呼吸が荒くなり笛音のような音がし始めている。
「もう、動くなって!ほんとにやばいって!」
紳が悧羅に言うがそれは首を振って拒まれた。ここまで舐めた真似をされてその上紳にまで手を出そうとするなど、悧羅にとってこれほど許し難いことなどない。自分を餌にすれば口を滑らすのではないか、と考えていたのだが滑らせるまでに随分と深傷を負わされてしまった。血を流しすぎているせいか視界も霞んでくる。千切れかけた左腕と右脚はすでに痺れている。
餌にするには多すぎたな。
蹴り飛ばした犬神が唸りを上げているがその姿も朧に見える。けれど知りたい事は口を滑らせてくれた。知りたい事は知れたのだ。一度退いて身体を整えたいが悧羅の血の臭いを覚えた犬神はどこまでも追ってくるだろう。であれば、残された手立ては追えない程の深傷を負わせることしかない。この身体でどこまで出来るかは悧羅にも分からないが紳を傷つけられることも、里を壊されることにも容易く是などといえるはずもない。悧羅は里を民達を護るためだけの長なのだから。
紳、ともう一度悧羅は喘鳴の中から名を呼んだ。
「駄目だよ!何があろうともう離さないからね?!」
身体に廻された腕に力が込められたのが伝わって、違う、と悧羅は呟いた。その僅かな言葉を交んすだけでも咳込んで血を吐いてしまう。喀血なのか吐血なのかさえもう悧羅にも分からない。
「…妾が、倒れぬよう…支えておいてたも…」
は?、と聞き返そうとした紳に応えず悧羅は走った。瞬時に犬神の後ろを取ると右腕で殴り飛ばす。飛んだ犬神を追うと今度は千切れかけた左脚でその右顔を蹴り飛ばした。血が舞うが構くことなく追いかけると犬神が大口を開けた。躊躇うことなく右足を口の中に突っ込むと犬神の牙が足に食い込んだ。それに眉一つ動かさずにそのままの勢いで悧羅は犬神の頭を宮廷の庭へと蹴りつける。後頭部に当たった衝撃で犬神の口が大きく開いて悧羅の足に喰い込んでいた牙が離れた。
口の中から足を引き抜いて間髪開けずに二つの鬼火を大刀と呪符に転じさせる。起きあがろうともがく犬神の頭上にもう一度飛び上がって、勢いをつけて刃に付けた呪符ごと降りてくる悧羅を喰らおうと口を開けて待っていた犬神の口に突き立てて地面と縫いつけた。
【何だ?動けぬ!?】
大した者ではない、と悧羅を舐めていた犬神には起こったことが呑み込めないようだ。喘鳴を繰り返す悧羅に、もう無理するな!、と紳もさすがに止めに入った。
そう長くは持たないだろうが、一先ず傷と体力を癒す刻くらいは稼ぐことはできるだろう。このまま里に戻るわけには行かないから、大国の何処かに身を隠さなければならないけれど、都合が良いかも知れなかった。
縫いつけた大刀から手を離して、一度退く、と悧羅は犬神に喘鳴の中から伝えた。
【退こうが退くまいがお前は身どもに喰られるだけだ。それがほんの少し延びたに過ぎないぞ】
けたけたと笑う犬神の声を聞きながら悧羅は紳の胸にぐったりと倒れ込んだ。大量に血を流した上に能力も行使してしまった。閉じていく瞼を止めることができない。意識を手放す前に、紳、と呼ぶと、分かってる、と返ってきた。その言葉に安堵して悧羅は沈むように意識を手放した。
一丈は約三km
一間は約1.8mです。ご参考までに。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。