追憶【弐】《ツイオク【ニ】》
過去編続きます。
____________一体なぜ、こうなった?
悧羅は夕餉を作るために炊事場にいながら、頭を抱えた。湖での状況を、もう一度思い出す。妲己は、悧羅の側で妖に転じた狐のため、鬼達と十分に渡り合えるだけの能力がある。二人で、紳を巻くことなど容易かったはずだ。
それなのに、なぜ。
強引に邸まで手を引かれて歩かされている間、悧羅は溜め息が尽きなかった。
悧羅の邸は質素だ。普通の里の民と変わらないか、少し小さいだろう。土間に炊事場、湯殿に厠。それに座敷が二つ。両親が揃っていた頃は手狭に感じていたが、妲己と二人になってしまうと悧羅には十分すぎる広さだ。
邸の前で一旦止まった紳が、ようやく手を離したので、悧羅は仕方なく戸を開けて招き入れた。人気のない様子に、両親は?と紳がたずねる。それに、最近亡くなったと答えると、そっか、とだけ返ってきた。つかつかと邸の中に入り、一通りの場所を確認したのだろう。笑顔で戻って来た紳は悧羅の肩を叩いた。
「じゃあ、暗くならないうちに色々やっとかないとな。俺、湯殿の水溜めてくるから、悧羅はゆっくりしてろよ。水瓶借りるぞ」
言うなり、湯殿の方に向かう。
予想外のことが立て続けに起こって、悧羅は呆けるしかない。主よ、と妲己に声をかけられて、無茶苦茶だ、と笑いあった。土で汚れた妲己の足を綺麗に拭き取って座敷に上げてから、自分もあがる。湯殿の方からは水瓶から水を移す音が聞こえて来る。流されていることは分かっていた。だが、どうにも紳は引き下がらない。何より、心配なことがあった。妲己、と声を掛けると横に座っていた妲己は、言葉にしなくても分かったようだ。
“ご案じなされずともよいかとは思います。一瞬でございましたし、我も立ち塞がったつもりです。主も、すぐ水に浸かられましたし…”
うん、と悧羅も頷く。
そうだ、一瞬だったのだから、見られているはずがない。例え疑念を持たれても、知らぬ存ぜぬで通せば何とかなるはずだ。思い直して、悧羅は左肩に手を当てた。そこには、蓮の華が咲いている。
見られてはいけなかったし、知られてはいけないものだ。出来れば、墓まで持っていきたい。唯一、これを知っているのは幼い頃からの友である鬼女一人だけだが、彼女は、絶対に口を割らないと知っている。
鬼の里では、滅多なことでは世襲はない。当代の長の寿命が近くなると、そこから100年の間に、次の長たる者が生まれ落ちる仕組みになっていた。長の子どもであることもあったが、それは数えるほどしかなかった。どこに生まれ落ちるのかさえ誰にも分からず、只、天からの示しとして身体のどこかに華の印を持って生まれることだけが知られていた。
悧羅が生を受けたのは21年前になる。両親ともに2本角だったため、一本角で華の印の子が産まれた時歓喜したと聞いている。だが、すぐに我にかえり、決して悧羅がそうであることが他に知られないように過ごすようになった。それは、長になるということがどんな事を示すのか知っていたからだ。悧羅も幼い頃から決して知られぬように、能力を使いすぎないように強く言いつけられている。
知られてはいけない、どんなことがあっても。
肩を掴む手に知らず知らずのうちに力が入る。そんな悧羅に、妲己は慈しみを込めて擦り寄った。
「そんなに作んの?」
不意に背後から声を掛けられて、悧羅は心の臓が飛び出るかというほど驚いた。持っていた包丁を落としそうになり、慌てて握り直す。作った夕餉の品数を見て、悧羅も慌てるしかなかった。すでに6品出来上がっており、それでもなお包丁を動かしていたらしい。考え事をしながら炊事をすると、いつもこういう状況になる。
また、やってしまった、と溜め息を吐くと、紳が真横で出来上がったばかりの夕餉をつまんでいる。美味い、と言って又、別のものにも手を出そうとするので、悧羅はその手をはたいた。
「行儀が悪い。ちゃんとよそうから」
言われて、紳も、はいはいと返事はするが、その手はまた別のものをつまんで口に放り込んでいる。もう、と咎めるが意に介していないようだ。外を見ると、あれほど暑かった日差しは陰り、夕闇が押し寄せてきている。悧羅は手早く支度を済ませ、紳を座卓に案内した。口に合うかしらないわよ、と言って白米をよそぎ、紳に手渡す。一度手を合わせて、紳が箸を取った。用意された物は、質素だがどれも美味しかった。ついつい、箸がすすんでしまう。その姿を見ながら、茶を淹れて、紳の前に置いてから悧羅も箸を手にした。
「…ねえ、本当にここで暮らすの?」
尋ねると、うん、とさも当然のような応えが返ってくる。
「大丈夫だよ。寝込みを襲うほどの馬鹿じゃないから」
笑いながら言われて悧羅はまた嘆息する。
本当に何をしているのだろうか、と思ったが目の前で美味しそうに自分の作った夕餉を食べている紳を見ていると、とりあえずはこの状況を受け入れようと思うことにした。
子どものあらしがさりました。
飼い猫も追い回されてぐったりしてます。
悧羅と紳の出会い。ぐいぐいくる紳は、今で言う肉食系なのでしょうね。