閑寂《カンジャク》
遅くなりました。
更新いたします。
里の日々は穏やかに巡っていた。悧羅が各里を訪れたことも大きかったけれど、中心に住む民達から仲睦まじさの変わらない悧羅と紳の姿を見聞きしたのも大きかった。二人でいるとその場に華が咲いたようになり、御子を授かる前までの二人と何ら変わらない姿を見た者も聞いた者も一様に安堵した。悧羅と紳の子ども達もそれぞれ長の子である、という重責を持ったようで近衛隊や武官隊の鍛錬に参加したり、一緒に各里の見廻りに行ったりするなど自分に出来ることを行うようになっている。勿論それは上の三人だけであったが、鍛錬の場には十四になった皓滓も積極的に参加しているようだ。
同時に学を深めるために学舎に通い、民の子達と共に学問に励む。それだけでは足りないと文官の務めの場にまで赴き、里のこれまでの足跡を辿る。終いには、まだ足りないと紳と悧羅にせがみ、師をつけてもらって宮でも知識を深めていた。闘技で三番手に入った舜啓は約束通り悧羅に稽古をつけてもらいにやってくることも多くなっている。稽古とはいえ、ただ悧羅に弄ばれているのだが、その際には媟雅、忋抖、啝忋も混じって稽古をつけてもらっていた。
「姉様、兄様、がんばって!」
縁側で妲己の側に座っている皓滓、玳絃、灶絃が応援している。俺にはないのかよ!、と舜啓が叫びながら悧羅に向かっていくが当の悧羅は笑っているばかりだ。四人がかりでも悧羅は笑いを絶やす事なく舞うかのようにひらりひらりと躱しては隙が出来ると打ち込んでくれる。終わる頃には息も絶え絶えの四人に、何処がまだ甘いのかを教えてくれた。打ち込みも躱しの甘いところを突いてくれるので、鍛錬のやり甲斐はあるのだが、息一つ乱すことのない悧羅は鍛錬を続けるたびにその強さが四人に伝わって、心が折れそうになることもしばしばだった。力を抑えて相手をしてくれているのに全く歯がたたない。倒れこんだり座り込んだりする四人に、くすくすと笑いながら悧羅が、今日はここまでじゃの、と言いながら縁側に座り笑い続ける妲己を撫でる。
「母様今日もすっごおい!」
皓滓、玳絃、灶絃が悧羅に抱きつきながら嬉々として笑った。それがいつもの光景だった。
「なんで一発も入れられないんだよお」
倒れ込んだままで嘆くように呻く舜啓に声を上げて妲己が笑った。
“我の主の動きも追えぬ若輩者者共には一撃を入れるなど甘いわ。まだまだ掠ることさえ難かしかろう”
まずは動きを追えるようにすることだ、と助言する妲己に、追えるようにねぇ、と嘆息しながら舜啓は起き上がって座りこんだ。そのまま頬杖をついて考え込む舜啓に、追いかけっこでもするかえ?、と悧羅が微笑む。
「それもいいかもしれないねぇ。母様を捕まえられたら動きについていけるようになったって事だもんね?」
息を整えながら啝珈が言うと、なるほどねぇ、と忋抖も立ち上がりながら衣についた土や埃を払う。確かに自分達は悧羅の動きさえ追えていない。気がつけば身体が浮いて飛ばされているのだ。まずは動きを追えるようにならないとまともな鍛錬にさえならないだろう。
「では、明日からは追いかけっこにしてみるかえ?妾を捕まえられたならば次に進むとしようか?」
笑いながら言う悧羅に、そうしてみるよ、と舜啓が仕方無さそうに肩を竦めた。まずは悧羅に追いつけなければ意味がない。衣の裾さえ触れもしない今では話にもならないのだから。
「ならばそう致そうかの」
ふふふ、と笑う悧羅の前で、とん、と中庭に降りる音がする。
「何だよ、まあたやられたのか?」
降り立った紳が中庭に倒れ込んだり座り込んだりしている子ども達と舜啓を見て苦笑している。懲りないねぇ、と言いながら悧羅の側まで歩いてくると、そのまま軽く口付ける。
「お戻りやし」
横に座る紳に悧羅が微笑むとその身体を引き寄せて紳は精気を送り始める。四人相手に鍛錬をつけていたとはいえ能力を使ってはいないだろうが、それでも少し疲れているだろう。
「何?まだ触れてもいないの?」
揶揄うように笑う紳に、そうなんだよね、と舜啓が笑いながら立ち上がった。
「気がついたら飛ばされてるんだよね。何処が弱いかとかは教えてくれるんだけどなかなかどうして上手くいかない」
「追いつけてもいないから話にもなんないんだよ。で、明日から母様と追いかけっこする事になっちゃった」
忋抖が溜息をつきながらまだ座り込んだままの媟雅と啝珈に手を貸している。忋抖の手を取って立ち上がった二人と共に悧羅達の座っている縁側に歩みよった。
「悧羅を捕まえられなくちゃどうしようもないからね。でもとりあえずそれをこなさなくちゃ咲に進めそうもないから」
「悧羅を捕まえる?」
首を傾げて紳が悧羅を見る。悧羅が微笑むと、そんなの簡単じゃない、と紳が声を上げて笑った。またそんな、と苦笑する舜啓に、だって、と紳が悧羅を引き寄せる腕に力を込めた。
「俺はもう捕まえてるもん」
ほら、と空いた手で引き寄せた悧羅を指差して笑う紳に舜啓も子ども達も苦笑するよりない。それは紳だからできる事なのだ。
「それは父様だからなの!普通にしたって無理なんだよ、母様速すぎするだもん」
啝珈が呆れたように紳に言うと、そうか?、と紳は笑ったままだ。皓滓、灶絃、玳絃も悧羅から紳に抱きつきながら、母様すっごく速いんだよ!、と興奮しながら飛び跳ねている。
「あっちにいたと思ったら、こっちにきたりするんだよ?ぼくたちも見えないんだ」
抱きつかれながら紳もそうか、と嬉しそうに笑っている。
「ぼくたちも追いかけっこしたいなぁ。お稽古じゃないならいいよね、父様?」
「でも追いかけっこしても悧羅に追いつけるかな?」
頑張るもん!、と両の拳を握る皓滓、玳絃、灶絃に、やってみるといい、と紳が許しをだした。やったあ!と喜ぶ三人を見ながら、これ、と悧羅が嗜めるように紳に触れる。
「いいじゃない。追いかけっこでしょ?危なくなんかならないよ」
「いやしかし…。上の子達も共に行うのだえ?ぶつかりでもしたらどうするのじゃ?」
「心配し過ぎ!下の三人だって動きたいだろうしね。見てるだけっていうのもつまんないんだろ?上の子達と一緒に動けば色々学ぶこともあるだろうしね」
大丈夫だよ、と触れられた悧羅の手を掴んで諭すように紳が言う。
「それに妲己だって見てるんだろ?危なくなったら妲己が助けに入るさ」
ね?、と紳に見られて妲己も無論と苦笑している。
“お怪我などされる前には我が引き取ろう”
「ほらね、大丈夫だよ。追いかけっこしてる悧羅達の間に入るなんて妲己には容易いだろうからね」
褒められて妲己は横たわったまま尾を振っている。褒められて悪い気はしない。その姿を見て紳は笑った。だが言った言葉に嘘はないのだ。悧羅の動きを追えるのは妲己くらいのものだろう。妲己がいて下の子ども達が怪我をするなどあり得ないし、悧羅とて何かあればすぐに助けに入るだろう。何より上の子ども達だけでなく下の子ども達も悧羅の強さを肌で感じてもよい年頃だ。紳の意図を汲みとったのか、悧羅も小さく息をついた。仕方ないの、と苦笑する悧羅を見て皓滓、玳絃、灶絃が満面の笑みをたたえてはしゃぎ始めた。
「お前らもこいつらに先に捕まえられた、なんてことになるなよ?」
悪戯に笑う紳に忋抖が肩を落とす。
「これで負けたら年上として立つ背がないよね」
「そういうことだ。励みにもなるだろう?」
嫌な圧だけどね、と舜啓が苦笑している。
「まあ、とりあえず湯でも使ってこいよ。お前ら土埃だらけだぞ?」
紳に言われて四人は自分の姿を見下ろす。確かに土埃で衣も肌も汚れてしまっている。
「どうせ舜啓は泊まっていくんだろ?」
「明日も務めだからね。こっちの方が早いもん」
じゃあ入ってこい、と手を振る紳に従って忋抖が弟達にも声をかけて子ども達が湯殿に向かった。背中を見送りながら笑っている紳に、やれやれ、と悧羅は身体を預ける。精気を送り込まれながら小さく息をつく悧羅の身体を抱きしめる腕に紳は力を込めた。
「疲れたんだろう?」
「少しばかりの…」
ふう、と息をつく悧羅の膝に妲己が頭を乗せる。その頭を撫でる悧羅の頭に紳が顔をつける。
「やっぱり無理しすぎなんだよ。少しは悧羅自身のために休まないと。沢山一度に背負いすぎるんだもんな、いつもいつも」
“ほんに。主はいつも自らを後回しにされるでな”
それが心配なのだが、と嘆息する妲己を悧羅が優しく撫でる。大事ない、と笑う悧羅に、そんなわけないだろう、と紳が溜息をつく。まだ夜さえしっかり眠れていないことは、抱きしめて眠る紳だからこそ知っている事だ。粛正当時ほどではないが、まだ時折魘されては目を覚ましている。都度安心させるようにかき抱いているのだが情の疲れで微睡みはするものの深い眠りについているわけではない。きっと今夜もそうだろう。
王母からの任もいつも通りに淡々と下され続けている。否と言う事なく全てを悧羅が受けているのは、まだ預けたままにしている犬神のこともあるだろうし、十年前に新たに与えられた華の恩もあるのだろう。それが分かっているからこそ紳も無理をしていると分かっていても止めることが出来ないでいるのだ。
「まあとりあえずは俺たちも湯を使おう。俺も務めでべったべたなんだよね」
一緒に入ってくれるよね?、と仰ぎみる悧羅に紳が伝えると、仕方がないのお、と悧羅は微笑んだ。その唇に軽く口付けると悧羅が紳の身体から起き上がった。妲己も悧羅の膝から頭を降ろして縁側に寝そべった。先に立ち上がって紳が悧羅の手をとって立ち上がらせる。そのまま共に歩いて湯殿に向かう。一つは忋抖達が使っているだろうし、露天は媟雅達が使っているだろう。
案の定空いていた湯殿に入って身を清めてから湯に浸かる。いつものように悧羅を自分の膝に乗せて華を確かめながら、後ろから悧羅を抱きしめて精気を送り始める。助かる、と言いながら紳の胸に身体を預ける大きな溜息が出てしまう。温かい湯と紳の腕に包まれていると、ついとろりと微睡みそうになる。
「眠いの?」
とろりとした意識が紳の声で現に戻された。
「其方に包まれておると気が緩んでしまうようでの…」
すまぬ、と苦笑しながら湯で顔を洗うとわずかばかり目が覚める。少し早めに上がって早めに休ませた方が良さそうだ、とその姿を見て紳は思う。お互いの身体が良く温まっていることを確かめてから、紳は湯から上がろうと悧羅を引き上げた。もうかえ?、と少しばかり不満そうな顔に、今日は駄目、と紳が嗜める。元来湯に浸かるのが好きな悧羅は長湯をすることが多い。もう少し湯に浸かりたいのだろうが今日は早く休ませたいのだ。
「今日は早く休もう。でないと悧羅が本当に疲れて倒れちゃうだろう?」
「…では今日は情を交わさない、ということなのかえ?」
首を傾げて聞く悧羅に紳がきょとり、と目を見開くとますます悧羅は首を傾げた。
何てことを容易く言ってくれるのか…。
ふわりとした手拭いを悧羅に渡すと大人しく拭き始める悧羅を見ながら紳は大きく肩を落とした。身体を拭いている悧羅を抱き寄せて、深く口付ける。
「どうしてそういうこと言うかなぁ?」
抱きしめたままで苦笑して、たまには我慢しようと思ったのにさ、と言う紳に悧羅が微笑んだ。
「堪えるなど物忌みの時だけで充分じゃ。他の夜は其方に包まれておらねば妾は安らかに眠ることさえできぬ」
知らぬわけでもあるまいし、と笑う悧羅の腰に手を当てて抱き上げると紳はそのまま座り込んだ。おや?、と悧羅が苦笑する。
「ここでかえ?」
「煽ったのは悧羅でしょ?」
膝に乗せた悧羅の首筋に唇を這わせると抱きしめた身体がびくりと震える。確かに、と言う悧羅の声には笑いが含まれている。
「確かに煽ったのは妾の方であるの。責はとらねばなるまいて。…それに、」
紳の頬を包んで口付けると悧羅は艶やかに笑う。
「妾とて堪えられぬようじゃ…。それ故、」
言葉を切った悧羅の次にくる言葉に紳は自分の言葉を重ねた。
「一回だけ許して、でしょ?」
先に言葉を紡がれて悧羅はまた艶やかに笑う。妾が申そうとおもうておったに、と頬を膨らませる悧羅に紳が柔らかく笑う。
「これは俺のなの。どうしてもの時に使う言葉なんだから。でも、悧羅にならたまには使ってもらってもいいかな?」
くすくすと笑い合いながら、悧羅は先の言葉を紡ぐ。
「ならば、一度だけ許してたも?」
その言葉に紳が破顔して悧羅に深く口付けた。
「一回だけと言わず、どれだけでも。悧羅が望むだけの俺をあげるよ」
おやおや、と笑う悧羅を強く抱きしめて紳は慈しむことを堪えることをやめることにした。
長い湯を使って湯殿を出ると待ちきれなかったのか、子ども達はもう夕餉を摂り始めていた。遅いよ!、と責められながら二人も席に着く。すぐに加嬬が冷酒を乗せた膳を持ってきてくれた。礼を言って受け取ると盃を取る紳に悧羅が酒を注いでやる。子ども達にとってはいつもの姿だけれど舜啓が、いいなあ、と笑っている。
「舜啓だって呑んでるじゃないか」
酒を飲みながら紳が言うと、俺は手酌なの、と苦笑している。
「本当に仲がいいよねぇ。まあ、俺が譲たんだから仲良くしててもらわないと嫌なんだけどね。たまに羨ましくなるよ」
磐里に新しい酒を頼みながら言う舜啓に、任せとけ、と紳が笑っている。あの時五つだった舜啓と酒を飲めるようになったもいうのも不思議な感覚だ。新しく持ってきてくれた酒を磐里から受け取るとその酒瓶を舜啓の手から媟雅が奪いとっている。
「手酌が嫌なら注ぐくらいしてあげるわよ」
苦笑しながら舜啓の盃に酒を注ぐ媟雅に舜啓が目を丸くして、珍しい、と微笑みながら注がれた酒を飲み干した。空になった盃に新しく酒を注いでやりながら媟雅も苦笑している。酒瓶を膳に置きながら媟雅も夕餉を取るのを止めていた手を再び動かし始めることにした。何やら媟雅中で舜啓の格付けが上がっているように見えて、紳と悧羅は目を合わせて笑い合う。これは本当に舜啓が二人の息子になる日も遠くないかもしれない。
「そういえば忋抖、佟悧とはどうなってんだよ?」
夕餉を摂り始めながら紳が揶揄うように尋ねると、どうもこうもないよ!、と忋抖ががっくりと項垂れる。
「暇さえ出来れば誘いにくるんだよ。お陰で近頃、佟悧がくると反射的に隠れちゃうようになっちゃったもん。ぐいぐいくるから逆に怖いんだ」
思い出してますます項垂れる忋抖に皆が笑うと、笑い事じゃないって!、と頭を掻いている。
「ぐいぐい行くのは咲耶譲りなんだろうなぁ。強気っていうか物怖じしないっていうか。それが佟悧の良いところなんだけどな。何が駄目なんだよ?」
「駄目っていうか、姉様みたいなとこあるからなあ。小さい頃から知ってるし俺は身内だと思ってるし、いきなりそんなこと言われても女として見れないでしょ?」
確かにな、と紳は苦笑した。
「別に契りたいと言われているわけじゃないんだから楽しめばいいのに。忋抖って意外と固いよねぇ」
隣に座る啝珈から肘で突きながら言われても、そういう問題じゃない、と忋抖が大きく息をついた。持っていた箸を置いて悩む忋抖に舜啓が盃を差し出した。黙って受け取る忋抖に酒を注いでやると一気に呑みほしている。
「兄様は母様みたいな女が好きだもんね。佟悧ちゃんはちょっと違うもんね」
皓滓に言われて忋抖は苦笑する。確かに忋抖の理想とするのは母である悧羅のような鬼女だ。見つけ出すのは難しいとは分かっているが一番身近に里一番の鬼女がいては、全ての他の鬼女が霞んで見えてしまうのは否めない。かといって一夜限りの情を交わすことがない、というわけではないのだが。理想だと言われた悧羅は嬉しそうに笑って紳を見ている。
「なかなかいないと思うけどね。悧羅みたいな鬼女って」
「分かってるけどさ。じゃあ誰でも良いっていうわけにもならないでしょ?俺だってまだ若いしまだ成長途中だし。その内ひょっこり、この女だって思えることがあるかもしれないじゃない」
空になった盃に酒を注いでやりながら舜啓が言うと、忋抖も苦笑した。一回試せば?、と舜啓にも言われて忋抖が、やめてよ、と首を振った。
「隠れることだけは上手くなったけどね。その内夜這いでもかけられそうな勢いなんだよ?舜啓からも言ってやってよ。そろそろ諦めろって」
大きく嘆息する忋抖にその場の皆が、それは無理だ、と笑った。
「佟悧はこうと決めたら突き進むからな。本当に咲耶そっくりだ。忋抖の言う通り、その内夜這いにくるかもってのも間違ってはないかもしれないぞ?」
くすくすと揶揄う紳に、勘弁してよ、と忋抖は青ざめている。本当にない話ではないのだ。佟悧は舜啓と同じで宮に自由に入る事を許されている。自分たちの部屋に行くまでにも悧羅の呪がかけてあるが進む順序も全ての覚えているのだ。忋抖が身を守るには佟悧に知られずに部屋を変えるか、悧羅に呪をかけ直してもらうくらいのことしかできない。
「母様本当に俺の部屋変えるか、呪かけ直してくれないかなぁ?俺安心して眠れないよ…」
肩を落とす忋抖に悧羅は笑っている。
「忋抖の願いとあらば聞かねばなるまいな。好きな部屋に移ればよろしかろう。そこに辿りつくまでの呪ならばすぐにかけてやるえ?」
「本当?やった!でも佟悧には教えないでよ?」
あまりの怯えようにまたその場の皆が笑ってしまう。教えなくても佟悧は見つけるまで諦めはしないだろうことは容易く思い描けるからだ。皆も頼むからね!、と念を押されて皆、分かった、と頷くしかない。不安が少し和らいだのか途中で止めていた箸を再び動かし始めている忋抖の顔には笑顔が戻っている。そこまで怯えさせる佟悧の攻め方が気にはなるところではあるが、まずは安心したような忋抖の姿に皆苦笑するしかなかった。
夕餉が済むと、しばらく酒を片手に談笑して皆自室に下がっていった。玳絃と灶絃には妲己が共に侍って眠る。小さい子ども達と妲己は今までも共に眠っている。何かあった時に護るためでもあるし、幼い子ども達は皆妲己と共に眠りたがるのだ。廊下は途中までは同じだが、ある一定の場からはそれぞれの部屋に行くには順序を辿らねばならない。子ども達が増えると共に護るために悧羅が新たに施してきたからだ。
舜啓も宮に泊まる時にはいつも使う客間に入るとすでに敷かれていた布団に身体を預けた。務めの後に悧羅に鍛錬をつけてもらっているので、それなりに疲れている。明日からはまず悧羅を捕まえる事を目指さなくてはならない。それもかなり難しい事だとは分かっている。八月前の粛清の場に舜啓もいたのだ。悧羅の凄さと重責は十分に分かったつもりだ。
幼い頃には分からなかったけれど、今ならわかる。あのまま舜啓が約束通り悧羅を嫁にもらっていたとしても悧羅を支えてやることは出来なかっただろう。どんなに舜啓が悧羅を大事に思っていても長として立った500年の重みをわかってはやれない。わかろうとすることは出来ても見てきたわけではないのだから、それはこうかもしれないと慮ることしかできなかった。
やっぱり紳に預けてよかった。
今思えば舜啓が悧羅に抱いていたのは恋慕ではなく忋抖が抱いているような憧れにも似た思いだったのかもしれない。舜啓とて悧羅のような鬼女を探しているのだ。忋抖の気持ちは分かる。今はそれは媟雅だと信じて疑ってはいないが、それも啝珈が言ったように交わわしてみなければわからない事もあるだろう。媟雅にその気が無いのでどうにもならないが、その点では舜啓も佟悧も変わらないかもしれない。
やっぱり俺も母さんに似てるんだろうな。
自嘲しながら布団に潜ると、ほどよい疲れとほろ酔いですぐに微睡み始めることができた。もう少しで深い眠りに落ちるだろう、というところで舜啓は部屋の外に気配を感じて目を覚ました。宮の中の者達がどこに行くにも舜啓のいる客間を通る必要はない。それは舜啓が他の場に行く時も同じことだ。宮の中に怪しい者はいないが、こんな夜更けに客間を訪れるなど何かあるのだろう。何より今夜ここに舜啓がいることは皆が知っているのだから。
何だろう、と思いながら身を起こすと戸の外から聴き慣れた声が聞こえた。舜啓、と小さな声で呼んだのは媟雅の声だ。寝入っていたら気づけなかったかのような小さな声に舜啓は布団から出て戸を開けた。
「どうしたの?」
戸を開けた先には媟雅が座っている。何かあった?、と尋ねると中に入ってもいいか、と逆に尋ねられた。よく分からずに、もちろん、と招き入れると立ち上がって部屋の中に入っていく。戸を閉めて布団の上に座った媟雅の前に座って、もう一度、どうしたの?、と尋ねてみる。うん、と困ったような顔をする媟雅に舜啓も首を傾げるしかない。
「あのね、」
しばらく考えた込むようにしていた媟雅が思い切ったように口を開いた。うん?、と首を傾げたままの舜啓の耳に思いがけない言葉が届いた。
「…舜啓はさ…、情を交わしてる女がいるの…?」
思ったよりも遅くなってしまいました。
遅くなってしまい申し訳ありません。
お楽しみ頂ければ嬉しいです。
ありがとうございました。