煩慮《ハンリョ》
遅くなりました。
更新します。
『誅芙蓉』の動きが収まり一万の民達が減ったけれど、里は特段変わりなく動いていた。民達も暮らしの中でいつも見かけていた顔がないことに気づくこともあったけれど、そういうことなのだろう、と誰も詮索などせず日々を過ごした。一歩間違っていれば自分の縁者がそうなっていたのかもしれないのだ。ただ、幸運だったに過ぎない。それよりも残された者たちの胸中を慮れば、おいそれと聞けることでもない。それを噂話として面白可笑しく話すことは長である悧羅も望みはしないはずだ。
一万の護るべき民達を殺めた悧羅自身が一番心を痛めているはずなのだから。
そう思えばこそ悧羅の事が気にかかって仕方がない。これまで二月に一度は里に降りては民達と他愛もない話をし童達に囲まれていた悧羅は騒動以降姿を見せる事が無くなっていた。あれほど倖そうにしておられたのに、と思うと胸が締めつけられそうになる。姿を見る事が出来なくなって、民達は里を巡る隊士達に悧羅は壮健であるのか、と尋ねるのが日課になっていた。隊士達の応えは、御壮健だ、というものだったけれどやはり心配になってしまう。
長く悧羅とともに里で暮らして来たのだ。出てこないのは、まだ粛清したことに悩み苦しみ後悔と自責の念に駆られているのだろうと思ってしまう。
またお痩せになられているのではないだろうか。
元々痩身の悧羅は、悩み苦しむとますます痩せ細る。それも長く里で暮らしている者からすれば幾度となく見てきた姿だ。窮地を乗り越えるたびに悧羅の美しさは増したけれど、すぐに手折れるのではないかと思うほどの儚さも垣間見える。逑を持って子にも恵まれたがその雰囲気だけは変わらない。美しさは年を重ねるごとに増して、重なるように儚さも増した。それはあの細い双肩に自分たちの命を乗せてくれている重責からだろう。
お痩せになられていても良いから、お姿を見たい。
民の誰もがそう思い、隊士達に願い出たのは粛清から八月が経った頃だった。里を見廻る隊士達を捕まえては、とにかくお姿が見たい、どうしているのか心配なのだ、と言われ続けて隊士達も困ってしまった。一介の隊士達がおいそれと長である悧羅に謁見できるはずもなく、伴侶である近衛隊隊長、紳に伝えておくから、とその場を凌ぐしかない。だがあまりの民達の哀願の強さに、ついには見廻りすること自体が困難になり、ついには荊軻が悧羅に、里に降りてくれ、と懇願することになってしまった。
朝議の場で唐突に言われた悧羅は、きょとりと首を傾げた。確かに近頃降りることが出来なかったが、それは他にしなければならない事があったからだ。犬神を預かる、と持っていってしまったままの王母からの任や、粛清を行った時に人形を作ってくれた晴明への礼、子ども達や舜啓との手合わせなどが主たるものであったが、どれも一朝一夕に終わらせる事ができるものではなかったのだ。
特に王母は、これ倖と面倒な事を押し付けてきて大国の地に降り立ったのも一度や二度ではない。妖退治だけならまだしも、宮廷に潜りこんでいる妖まで牽制しろと言われては、数日続けて大国に降りなくてはならないこともあった。悧羅が動く時には紳も当然共に動く。隊士達から民達の願いは聞いて伝えてはいたが、その刻と余裕が悧羅にはなかっただけなのだ。
王母にしてみれば動かしていた方が悧羅が余計な事を考える刻が減るだろう、と笑っていたがそれにしても多すぎる、とは紳には口が裂けても言えようはずもなかった。
「なんぞあったのかえ?」
横に侍る妲己に身体をゆったりと預けたままで悧羅に尋ねられると、どうしたもこうしたも、と枉駕が肩を落とした。
「何処に行っても長は御壮健か、お顔を拝謁したいのだと懇願されておりまして。見廻りさえつつがなく運ぶ事が出来ないのですよ」
おや、と小さく笑う悧羅の前で栄州が声を上げて笑っている。皆心配しておるのだろう、と栄州は笑うが枉駕や荊軻にとっては笑いごとではない。
「紳様もお聞き及びになっておられたでしょう?日を追うごとに民達の不安は募るばかりのようで…。このような騒動などお二人の契りと長の御懐妊の慶事を下ろした以来のことでございますよ」
大きく嘆息する荊軻に紳も笑うしかない。
「そうは言っても悧羅も忙しくしてたんだし…。たまには休息とらせないとって強くは言えなかったんだよ」
肩を竦めて苦笑する紳に、それは存知ておりますが、と荊軻もまた肩を落とした。それを笑って見やっている悧羅に、とにかく里に降りてくれ、と訴える。
「確かに長いこと降りておらなんだの。里を失念しておったわけではないのじゃが…。では後ほど降りるとしようかの」
くすくすと笑う悧羅は八月前からすれば、少しばかり痩せている。幾ら忙しく動いていても、まだ時折魘されて目が覚めることもあるからだ。その都度紳が、大丈夫だ、と言い聞かせて眠ってはいるが疲れも相まって、近頃では食も細くなっていた。細くなった分儚さと美しさは増していたけれど、触れば手折れそうな悧羅が紳は心配で堪らない。
「何も今すぐじゃなくても…。少し休んでからでもいいんじゃないの?」
「そういうわけにもいかぬであろうよ?荊軻と枉駕の顔を見い。どうにも困っておるようであるし、妾とて里の民達がどうしておるのかは気になっておったに。少しばかり顔を見せらば民達も安堵いたそう」
身体を気遣ってくれる紳の気持ちは嬉しいが、隊士達の務めにまで障りがあるのは好ましいものではない。悧羅が降りることで民達が安堵してくれるのであれば安いものだろう。
「紳とて務めにゆけば隊士達から責めたてられるやもしれぬしの。其方が苦しゅうなるは妾は望まぬ故に」
「それは俺だって同じなんだけど…」
小さく息を吐いた紳だったけれど混乱を鎮めるためには悧羅が降りるしかないとは分かっている。倖にも精気はまだ十分に悧羅に譲っているので顔色や気怠さを感じてくれていない事が救いだ。仕方ないね、と紳が承諾すると荊軻と枉駕の顔が輝いた。
「とりあえずのお姿だけでも拝謁できれば収まりましょう。長居なさってくださいまし、とは申しあげませんので」
ほっと胸を撫で下ろす荊軻に、うん、と悧羅は頷いた。とはいえ降りれば長居をしてしまうものなのだが、里の全てを廻るとなれば一つのところにそう長くはいれないだろう。
「妾を直に見ずとも見たものから話は廻るであろうからの。少しばかり民達と触れ合うように努めてくる故。隊士達には、もうしばらく耐えてくりゃるよう言うてたも」
すぐにでも伝えまする、と喜び勇んで枉駕は場を辞していく。まだ朝議も閉めておらぬのに、と苦笑する栄州に悧羅も苦笑するよりない。
「それだけ困り果てておったということであろうよ」
笑いながら他に何かあるか、と荊軻を見ると、急ぎではございませんが、と笑っている。
「里を少しばかり整えようと思うております。こちらに移って十年になりますが民達の数も増えて参りました。水路や道を整えた欲しいという民達の声もございますし、大掛かりになるとは思いますが。民達の邸もそう整然とは建っておりませんのでね。痛んでおる箇所もございましょうでしょうから。あまり急がずゆっくりと、と思っておりますがお許しいただけますか?」
くすりと笑いながら、良いように致せ、とだけ悧羅は応える。確かに民の数は増えているし、このまま何事もなく里が安泰であってくれるならば多少の整えは必要だ。仮に悧羅が否と言ったとしても荊軻の頭の中には広げた際の里の形がすでにあるだろう。広げる最中で民達の邸が痛んでいないか見てくれるのであれば、悧羅に言うことは何もない。
「承りました」
深々と平伏して朝議を閉めると荊軻と栄州が連れ立って場を出ていった。二人を見送ってから悧羅も立ち上がると紳と妲己も続く。
「本当に行くの?もう少し休んでからでも…」
悧羅の手を取って歩きながら紳が心配そうに呟いた。苦笑しながら、大事ない、という悧羅に、でもさ、と返ってくる。
「俺が今日ばっかりはついて行けないし…。明日とかならさ、一緒に行けるんだよ」
「ちいと廻ってくるだけじゃて。妲己もおるに案ずることなどあるまいて」
悧羅が大国に降りることや、妖の牽制が増えたこともあり紳もなかなか近衛隊としての務めが行えていない。隊長である紳の優先責務は悧羅の側近護衛であるから務めを果たしていないことにはならないが、やはり時折は隊舎に顔を出さねばならない。気がけて顔を出すようにはしていたが、枉駕が言っていたように隊士達の務めに障りが起こっているのなら今日ばかりは顔を出さなくてはならない。それでも例え妲己が共に行くと言っても悧羅一人で里に下ろすのは憚かられる。でもなぁ、と考え込む紳を悧羅も妲己も笑って見るばかりだ。
“我がおるのだ。案ずることなどあるまい”
くっくっと笑う妲己に、それはそうなんだけどね、と紳は肩を落とした。問題は紳が悧羅の側に居ない時に混乱している里に降ろすことが心配でならないだけなのだ。
「じゃあさ、降りてもいいけど昼前には俺のところに来てよ。それまでには粗方終わらせとくから、そこからは一緒に廻ろう?」
名案だと言わんばかりの紳に悧羅も妲己も声を上げて笑ってしまう。結局共に行くのではないか、と妲己に笑われても、だって心配でしょ、と紳は動じない。
「それでは朝の内に廻れるは限られてしまうのう、妲己や?」
“やれやれ、と申すよりありませぬな。先に辺境から廻りましょうや”
尾を振りながら言う妲己に悧羅も笑う。自室に入るとようやく紳が手を離して、無理しないように、と言い置いて務めに出ていった。後ろ姿を見送りながら、ほんに甘い、と苦笑して悧羅も支度を整える。子ども達は学舎に行ってしまっているし、昼間の宮は静かなものだ。そういえば、妲己と二人で出かけることも無くなっていたように思う。
紳と契りを交わした後は何処に行くにも紳と共にであったし、子ども達が生まれてからは妲己は子ども達のほうにかかりきりだった。
妲己としては悧羅の側にも居たかったのだろうが、子ども達にせがまれては否といえなかったのだろう。宮の中で一番子ども達に甘いのは妲己なのだから。
「久方ぶりに二人の刻を楽しもうかの?」
支度を整えて妲己の頭を撫でると、嬉しそうに尾を振りながら擦り寄ってくる。笑いながら共に自室を出て磐里と加嬬に出てくる、と伝えると二人も心配そうな顔をした。悧羅が疲れているのを二人とも知っているからだ。
「お疲れでございましょうに…。旦那様は共にゆかれないのですか?」
心配する二人に昼頃には隊舎に寄る、と言うと少しばかり安心したようだった。すでに中庭に降りて体躯を大きくしている妲己にひらりと乗ると、お早いお戻りを、と二人が頭を下げた。わかっておるよ、と笑うと妲己が翔け始める。その速さに悧羅は小さく笑ってしまう。余程嬉しいのか妲己の尾は振られ続けている。
「あまり急ぐこともあるまいよ?」
背を撫でながら言うが鼻唄でも歌いだしそうな妲己はますます翔ける速さを上げた。
“久方ぶりに主をお乗せできたのです。逸るのも仕方ありますまい。急ぎ廻らばその分、主とともに微睡むこともできましょうや”
悧羅と二人で出かけるなど数十年振りのことだ。妲己としてもゆっくりと味わいたいが、悧羅の身体を心配していないわけではない。だが、民達を案じる悧羅が疲れを溜めていても無理をして顔を見せにいくというのだ。否と反対したとしても聞きはしないだろう。で、あれば早めに廻り終えて早めに宮に戻り休ませたいと思うのだ。
妲己が翔ければ辺境までなど瞬きの間しかかからない。背の上から里の街並みを眺め降ろすと荊軻が報せていた様子を伺い知ることができた。確かに民達が増えるたびに少しずつ広げて来た里は辺境に行くに連れ水路も道も整っているとは言い難い。
これではまた里を広げたとしても民達の暮らしが不便なく保てるとは言い難い。広がるにしても道と水路を整えて民の住む集落を動かした方が良さそうだ。上から見ているだけでは民達の邸に痛みがかるのかどうかまでは見て取れない。穏やかな里の気候とはいえ陽が沈めばそれなりに冷える。痛んでいる邸では寒さも凌げないだろう。しばらくすれば刻をかけて街中を見に行く必要がありそうだ。
考えていると、すぐに一つ目の里に着いた。妲己が降り立った音に民達が一斉に振り向いて、その背に乗っている悧羅を見つけると慌てて走り寄ってくる。長様!、と大人も童達も寄ってきて妲己の背中から降りる悧羅を取り囲んだ。抱きついてくる童達を受け止めながら、周りを取り囲む民達に悧羅は遅くなったことを詫びた。
「とんでもございません。御健勝にあらせられるお姿を拝謁できまして安心いたしました」
「このところ忙がしゅうにしておったに。遅うなってすまなんだ。妾を案じてくれておったと聞いておる。嬉しゅう思うえ」
しがみつく童達の頭を撫でながら民達に悧羅は微笑む。困っていることはないか、と続けて尋ねるが、今のところは、とどこか安堵したような民達の声がした。何かあればすぐに隊士達に申し伝えるように言い残して悧羅は、また来る、と妲己の背に乗った。
「長様もう行っちゃうの?」
淋しそうな童達に笑顔を向けて手を伸ばして頭を撫でる。
「他の里の民達も妾を案じてくれておる故、姿を見せねばならぬ。全ての里を巡らねばならぬのでな、すまぬが僅かな刻しかおれぬのだ。またゆるりと参ると約束するでな。許してたもれ」
絶対?、と不安そうな目をする童達に、必ずじゃ、と笑うと、うん、と仕方なさそうに童達が妲己から離れた。もう一度、すまぬな、と声をかけると妲己が翔け始めた。そのまま近隣の里を巡り辺境の里から里の中頃の里を全て廻る頃には、陽は高く昇っていた。何処の里でも最初の里のように民達から安堵の声が聞かれ、童達からは後ろ髪を引かれるような眼差しを受けてしまった。中には痩せてしまった悧羅を見て泣き出すものもいて戸惑うこともしばしばだった。
“思ったよりも刻がかかってしもうたようですね。彼奴が落ち着かずに待っておることでしょうて”
悧羅を背に乗せて近衛隊隊舎に向かいながら妲己が苦笑した。なかなか現れない悧羅を待って鬱々としていることだろうことは、考えなくとも分かることだ。過保護過ぎるのであるよ、と頭を撫でられて、仕方ありますまいよ、と妲己が笑う。妲己も紳が悧羅を慈しんでいるのは十分に分かっている。それでも、あの約束通り紳が悧羅にしたことは忘れてはいない。媟雅や忋抖、啝珈に真実を話した時も側に居たが、まだ紳が十分に傷を持っていることは伝わっている。それでも許してくれるな、という紳との約束を妲己は守っている。
少しは許してもいいのだがな、と笑いながらも妲己はそれを口に出さずにおいて里の中心にある近衛隊隊舎の前に降り立った。待ち望んでいたのだろう。紳が妲己が降り立つ音と共に隊舎の中から飛び出して駆け寄ってきた。まだ妲己の上に乗っていた悧羅に腕を広げると、笑って悧羅がその腕の中に舞い降りる。腕の中に収まった悧羅を抱きしめながら紳が、お疲れ、と労った。妲己にも、大変だったろ?、とその背中を撫でながら言う紳に妲己が軽く尾を振った。
「二人とも昼餉も取っていないんじゃないか?一緒に食べに行くか?」
昼餉!、と妲己がますます尾を振る。悧羅としてはあまり空腹ではないのだが悧羅を乗せて里中を翔け廻った妲己には摂らせたい。腕の中から悧羅を出して額に口付けてから紳が手を握った。繋いだ手をそのままに歩き出して紳は隊舎の戸を開き中にいる隊士達に、昼を摂ってくる、と声をかけた。奥にいる隊士達には悧羅の姿は見えなかったようだが開けた戸の正面にいた隊士は青ざめて膝をついた。その姿に中の隊士達も戸まで走ってきて悧羅を見留めると次々に膝をついている。良いから立て、と笑う紳の言葉でどうにか隊士達は立ったが皆久しぶりに見る悧羅の姿にほっとしている。
「難儀をかけたようですまなんだな。里を廻ってきた故騒ぎも小そうなろうて」
微笑みながら言う悧羅に隊士達が頭を下げる。じゃあ、ちょっと行ってくるからな、と笑う紳の後ろで、あれ、悧羅?、と声がかかった。悧羅を名で呼ぶ者など少ない。二人で振り向くと妲己を撫でている舜啓がいた。珍しいね、と笑う舜啓に近づくと子どものように悧羅に抱きついてくる。おいおい、と苦笑する紳には目もくれず、ちょっと痩せたよね?、と心配そうに悧羅の顔を覗き込んでいる。
「紳が無理させてんじゃないの?大事にしてくれるのは良いけど、寝る刻くらいあげてよね」
揶揄う舜啓の頭を小突いて紳は、やかましい、と笑っている。
「何処か行くの?」
「民達が心配してたからね、悧羅と妲己で辺境から廻ってくれてたんだよ。昼餉も摂っていないみたいだから、中心の民達に悧羅を見せるついでに一緒に食べようと思ってね。行くとこだ」
そっか、と舜啓が笑う。少しは食べてよ、と悧羅の頭を撫でて舜啓は隊舎の中に入って行く。どこまでも過保護な者が多い、と小さく笑う悧羅を引いて紳は妲己にも声を掛けて歩き出した。里の中を歩く度に民達から、長様、と声が上がる。それに、変わりないか?、と尋ねながら悧羅は紳に引かれるまま足を止める事が出来なかった。止まれば最後、民達に囲まれてしまうことが紳には分かっていたから足を止めないのだろう。
隊舎から然程遠くない食事処に迷うことなく紳が悧羅と妲己を連れて入る。食事処に入った悧羅に中にいた者たちが驚きの余り箸を落とし始めている。すまぬ、と詫びる悧羅と、そのままで、と笑う紳に民達も心を落ち着かせるように務めた。
窓側の一角に悧羅を座らせて紳はさっさと注文を始めている。窓は開け放たれているので遠巻きではあるが、外から悧羅を見る民達の姿があった。
「これならわざわざここを廻らなくても悧羅の姿を見せることができるね。早く帰って休んでてもらわないと」
悪戯に笑いながら卓に頬杖をつく紳に、やれやれ、と悧羅も笑う。そう言うことか、と笑う妲己の前に肉と桃の入った皿が置かれた。紳の前にも盆に置かれた食事が並べられ、続いて悧羅の前にもよく冷やされた果実が置かれた。
「これくらいなら食べれるでしょ?」
あまり食の進まない悧羅の事は分かっている。食事処に誘ったけれど食べることは出来ないだろうことも分かっていた。であれば、疲れを溜めている悧羅を早く癒す為に里に降りている刻を短くしたかった。悧羅を食事処に連れてくるのは目立つけれど、一度に沢山の民達に悧羅を見せる手段としては良いだろう。くすり、と笑って果実に手をつけ始める悧羅を前にして、そういえば、と紳が言う。
「二人でこんな食事処に入るなんて初めてだね」
「そういえばそうだの。500年前ならばあり得たかも知れぬが、其方がまた妾の元に来てくれたは妾が長になってからであるからの。そう容易く里の食事処に来るなどならなんだからな」
笑う悧羅の口に果実を自分の箸で挟んで差し出しながら紳は嬉しそうだ。
「まるで逢引きみたいだね?」
契りを結んでからも日々は速く過ぎて、子ども達が出来てからというもの2人でゆっくりと出掛けることもできていなかった。それは倖な事ではあるのだが、普通の民達のように、恋仲の者同士のようには過ごせていなかった。紳が差し出した果実を口にする悧羅を見ながら、ここが人目のある場所で良かった、と苦笑する。そうでなければ、自分の差し出した物を当たり前のように食べてくれる可愛らしい姿を見せられて自分を保ててはいなかっただろう。
嬉しそうに笑う紳の姿を見ながら、悧羅はくすりと笑った。
「時には二人でこうして出掛けるのもよいやもしれぬな。ゆるりと外で其方と過ごすもよろしかろうて。何やら気恥ずかしゅうもあるがのぉ」
「…だから、そういうこと言わないの」
我慢しなきゃならないんだからね、と苦笑する紳に悧羅は首を傾げた。
「紳が言い出したのではないかえ?」
「そうなんだけどね、…帰るまでは堪えなきゃならないからさ」
おや?、と手元の果実を紳に差し出しながら悧羅は肩を竦めた。差し出した果実を紳が口にするのを見ながら悧羅はその頬に触れた。
「妾には堪えるな、と言うに其方は堪えてばかりじゃのう」
口にした果実を危うく喉に詰めそうになって紳は咳込んでしまった。おやおや、と苦笑しながら席を立って紳の横に動くとその背中をさする。咳込む紳を、大事ないのか?、と言う悧羅に、うんうん、と頷くがなかなか咳が止まらない。食事処にいる民達も心配そうに紳を見ながら、その背中をさすっている悧羅に目を細める。どうにか咳を鎮めて背中をさすってくれている悧羅の手を取って隣に座らせた。
「…そういうことじゃないんだけどねぇ」
苦笑しながらも人目も憚らず悧羅に深く口付ける。食事処の中の者達も、窓の外から二人を見ていた者達もその姿を見て笑顔になる。
やはりこの二人はお変わりがない。
それだけで民達は安堵する。しばらく見ることの叶わなかった悧羅は少し痩せているけれど、紳が側にいる限り民達が心配するようなことは起きないだろう。唇を離してはまた口付けるを繰り返す二人を見ながら、くすくすと笑いながら民達は視線を外すことにした。
日常回ですね。
しばらくは穏やかなお話が続けば良いのですが。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。