真実《シンジツ》
残酷描写が少しあります。
苦手な方はご注意ください。
荊軻と枉駕、そして媟雅、忋抖、啝珈が手分けをして葬った者たちの縁者に報せを持って廻り終わるまでには七日を要した。一万の民の縁者に報せて廻るのはそれなりに骨が折れたが、どの縁者達も自分の子や逑がそのような愚かな事に加担していたことを泣いて詫びた。決して自害などするな、という悧羅の言葉にも嗚咽を漏らすばかりだった。
同時に荊軻と枉駕は刻を見つけては捕らえた者たちへの詰問を始めた。日が経つにつれ少しずつ自分を取り戻し始めた十と四の者たちは一様に唆されたのだ、と口にしている。
「力こそ全ての鬼の世で近衛隊隊長や武官長に護られるだけの力無き長など長足りえる資質もないのだ、と。闘いの中に身を投じて能力を発揮すべき我々が安穏と暮らして良いはずがない。ここが大国であるならば尚のこと掌握して妖も人の子もすべからく能力ある鬼の足元に膝まづかせるべきた、と言っていた」
荊軻に矢で射貫かれながらある者は言い、またある者は枉駕に刺し貫かれて叫びを上げながら二人の詰問に応えた。
「最初はそんな事やれようはずもない、と思っていたのにまるでそれが当たり前の様に感じてしまっていた。『誅芙蓉』の名の下に自分たちが新たに里を繁栄させていく要になるのだと信じていた。そうする事こそが、民達を更に安寧に導けるのだと。鍛錬で集まる度にその気持ちは大きくなった」
それらの言葉に荊軻は眉を顰めた。まるで何かの呪にでもかけられているかのように皆が同じ事を言う。姍寂がかけたにしても、一本角の者にまでこう思わせるような能力があるようには思えない。当の姍寂に尋ねても何も応えず、殺してくれ、と哀願するばかりなのだ。
何かおかしい、と思ったのは荊軻だけではなかったようだ。枉駕も皆が同じような事を言い続ける事に疑念を感じた。どんなに刺し続けても、弓で射られ続けても聞き出せる言葉が誰一人として異らない。誰であれ少しばかりの言葉の食い違いはあるものなのに、まるでそれは刷りこまれたように繰り返される。十と四の数が全て同じように応えるのだ。
「おかしいと思わぬか?」
荊軻の務めの場に戻り勝手に茶を淹れながら枉駕は疑念を口にした。向かい合った場に座りながら差し出された茶を受け取って、そうですね、と荊軻も小さく息をついた。
「粛清し、残った者からは詰問で話を聞く。それだけのことのはずだったのですが、何かがおかしいとは思います」
「呪の類ではないのか?ああも同じことを繰り返すのはやはりおかしいだろう?矜焃や荽梘の時は己の意思で語っていたように思ったのだが。こやつらは何やらに考えを支配されているように応えが同じだ」
足の爪先で足元の床を数回軽く蹴りながら枉駕は淹れた茶を啜る。荊軻も受け取った茶を啜りながら床を眺めやった。
「考えられないことではないとは思いますが、矜焃や荽梘が掛けたということはないでしょう。あれらは欲で動いておりましたし、何よりもう事切れておるのですから」
二人を詰問していた時の事を思い出しながら荊軻はますます眉を顰める。例え二人の内のどちらかが呪を掛けていたとしても、術者が死ねば効力は失われるものだ。二人の邸を検めた時も特にそういった気配は感じなかった。別の場所でかけているならば見落としている可能性もないではないが、あの二人と呪が結びつかない。
「かと言って姍寂にそれ程の能力があるとは思えないのですよ」
嘆息する荊軻に、そうか?、と枉駕が意外そうに首を傾げた。枉駕はそうは思っていないのか、と問う荊軻に少しばかり考え込む姿が映る。
「我はそういった類には博があまりないのでな。素人の思慮だと笑ってくれても構わないのだが。姍寂は周到に達楊を落としているだろう?お前も言っていたではないか。掛けるにはそれなりの能力と学がいる、と」
そういえば、と荊軻もはっとする。達楊が油断していた事を差し引いても近衛隊の副官を任せるほどの実力はある。枉駕や紳、荊軻や悧羅には遠く及ばずとも、だ。
「達楊を落とす事が出来るのであれば、若輩者の一本角や二本角の連中を落とすことくらい容易いのではないか?それに呪だとして、だ。姍寂はまだ生きているだろう?」
「確かに枉駕が言う事もわかります。…ですが例えそうであったとしてもですよ?一万もの鬼を支配下に置けるかどうか…」
考えあぐねる荊軻に、そうか、と枉駕が頷いた。我はよく知らぬが、と前置きして新たに茶を淹れる。
「呪というものは言の葉だけでかけるものなのか?呪符や道具を用いたりはせんのだろうか?」
その言葉にまた荊軻は、はっとさせられる。自分よりも、格上や確実に呪を施したい時などはそういったものを使うことがある。使うことで術者の能力を底上げする代わりに返された時の反動も大きくなるため、あまり使うことを善とはしていないが返されない限り、術者に不利益は生じない。術者自らをその呪の糧とするならば、能力の増幅は望めるだろう。
「…調べてみる価値はありそうですね」
「何かこう分かりやすい物などはないのか?」
考える荊軻に枉駕が尋ねる。呪に掛けられているとして、対象者に何らかの印でもあれば荊軻が解けるだろうと思われた。それに荊軻が首を振る。
「達楊の時のような惑わすだけのものならば容易く解けますが、万が一にも呪符や道具を用いていた場合はそちらから解かねばなりませんね。呪だとして動くならば下手に手出しが出来ません」
「ならばどうする?どこから調べれば良い?」
「術者が 姍寂だと仮定すれば、まずは邸を検めた方がよろしいでしょうね」
なるほどな、と立ち上がる枉駕に荊軻も続く。もしも呪符や道具があるのなら早めに見つけた方が良い。何かしらの物であってもそれらは日を追うごとに力を増すからだ。早々に務めの場を出て姍寂の邸へと向かう。矜焃との幼友達とあって、矜焃の邸から然程遠くない場に姍寂の邸はあった。一度、身を預かる、と伝えに来たのは枉駕であったので迷う事なく邸に着く事が出来た。
戸の前に立って声をかけるが応えがない。
「誰もいないのですか?」
先に立って戸に声をかけている枉駕に荊軻が尋ねると、いや、と枉駕が首を振る。
「先日訪れた時には父母と妹が居た」
「それにしては気配がありませんね。務めに出ているような刻でもないでしょうに」
辺りはまだ夜明け前だ。僅かに白んでいるのはまだ遠く端の方だけ。そうだな、と枉駕も頷き、今度は声だけでなく戸を叩いた。戸が壊れそうな力で叩いてみるがやはり応えがない。
「…おかしいな」
呟いて枉駕は戸に手をかけた。錠もかけられていない戸は、からりと容易く開いた。だが開けた途端に枉駕と荊軻の鼻に、つん、とした臭いがついた。
つい先日も嗅いだ臭いだ。粛清の場で、悧羅が刈り取っていく者たちが放っていた臭いと同じもの。
__________________ 血の臭い_________________。
同時に邸の中から流れ出す異様な気配に枉駕も荊軻も顔をしかめた。
「…なんだ?」
中に入ることも憚かられる様な気配に一瞬枉駕の足が止まる。
「分かりませんね…。ただあまり良いモノでは無さそうです。用心しながら失礼することにしましょう」
これだけの血の臭いだ。中の者たちの命があることはないだろう。
「せめて自害でないことを祈るしかないな」
大きく嘆息する枉駕に、そうですね、と呟いて荊軻は共に邸の中に足を踏み入れた。外とは違い邸の中はまだ暗い。灯りを手にしたい所だが他者の邸ではどこに何があるのかなど勝手も分からない。この異様な空気の中で己の能力を曝け出すことは気が進まないが、仕方ない。荊軻も枉駕も鬼火を出して辺りを照らし出した。
見える範囲内には血の臭いの元となるようなモノは見当たらない。
「どうする?二手に別れるか?」
荊軻に視線を落としながら尋ねる枉駕に、やめた方がよろしいでしょう、と荊軻は首を振った。そうだな、と枉駕も頷いている。気配の主が何かも分からないのだ。共に動いていた方が何かあった時にも素早く対応できるだろう。倖にも邸は広くはない。土間を照らしながら進むと、ふと荊軻が足を止めた。
「どうした?」
視線を荊軻に投げると、あれは?、と指を指している。指し示された方を見やると土間の一部が盛り上がっていた。何だろうな、と呟きながら枉駕と荊軻はそこまで歩く。近くに寄ると、それは盛り上がりではなく中から何かが出た後のようだ。土は中から押し出されるように両側に広がり穴が見える。そこまで深い穴ではなさそうだが、周囲の暗さも相まって中を伺い知ることが出来ない。穴の中を鬼火で照らすと壺があった。手を入れようとする枉駕を荊軻が制した。
異様な気配はここからする。無闇に手を入れない方がいい。
「…一旦退きましょう。中の事も気にはなりますが、私共の手には余るやもしれません。長と共に参った方が良さそうです」
荊軻の言葉に、今からか?、と枉駕が眉を顰めた。まだ夜明け前だ。ともすれば紳と情を交わしている最中かもしれない。
「枉駕の言いたい事も分かりますが、これは早く収めたほうがよろしいでしょう。…心苦しくはありますが、やむをえません。私共にまで何かあれば、誰が長をお支えできましょうか」
荊軻の言葉に、わかった、と枉駕は立ち上がった。共に玄関の戸を出て宮に向かって翔ける。これほどまでに荊軻が用心するのは珍しい。粗方のことであるならば、長に願い出る事なく枉駕と二人で収めてきた。だが、今回ばかりは違う。得体の知れないモノにまるで怯えてでもいるように前を翔ける荊軻の背中は焦っているように見えた。
言葉を発する事もなく二人は翔けて、不躾だとは思ったが宮の中庭に降り立った。普段の荊軻ならば決してしない行動に、やはり何かに怯えているのだ、と枉駕は確信する。悧羅と紳の自室の前まで歩いて、荊軻が静かに、長、と声をかけた。すぐには応えが無かったが、二度目に、長、と声をかけると中から戸が開かれた。開いた戸から見えたのは軽く寝間着を羽織った紳の姿だ。
「…何かあれば踏み込んでくるとは言ってたけど、本当に踏み込んでくるか?」
苦笑しながら言う紳も荊軻の表情を見て何かを察したようだ。そのまま、ちょっと待ってくれ、と戸を開いたまま中に入ると、まだくったりと寝所に横たわる悧羅に声をかける。
「起きれる?荊軻と枉駕が来てる。あんまり良い報せじゃないみたいだよ」
おや、と苦笑しながら起きあがろうとする悧羅を支えると、びくり、とその身体が震えた。今の今まで慈しんでいたのだ。余韻が残っているのは仕方ないだろう。くすり、と笑って紳は悧羅に口付けてから寝間着と上衣を着せる。一度水を飲ませてから二人で戸の前に行くと縁側に荊軻と枉駕が伏している。二人の前に座して悧羅が顔を上げるようにいうと、静かに二人が顔を上げた。上げられた荊軻の表情に、悧羅は苦笑するよりない。
「其方がそのような顔をするとはの。余程の事であったのだな。如何致した?」
柔らかに問われて荊軻はまだ明らかではないが、と前置きして見たこと感じたことを悧羅に話す。とにかく異様なのだ、という荊軻の言葉に、ふむ、と悧羅が少し考え込んだ。
「まだ邸の中を検めておるわけではございませんので、長にお見せしたくないものも残っておるとは思います。なれど、あれは私共では手に余ると存知ます」
荊軻の報せを聞いて、一つ尋ねるが、と悧羅は口を開いた。
「姍寂の邸や矜焃の邸の近くに辻道はないか?…いや、どちらかと言えば矜焃の邸の近くかの。妾を弑さんとして集まっておったは矜焃の邸の周りであったな」
「辻道…で、ございますか?」
周りを見ながら翔けていたわけではないので、荊軻には覚えがない。枉駕を見ると、同じように首を傾げている。
「分かりかねます。そのような事を気にした事もございませんでしたな」
応える枉駕に、そうであろうの、と悧羅は苦笑した。目的がなければ通るだけの道に興を持つ者などいないだろう。くすり、と笑って悧羅は立ち上がると草履を履いた。悧羅?、と声をかける紳に振り向いて悧羅は微笑みながら荊軻を指さした。
「これがこれほどまでに怯えるは、この500年無かったのでな。早い方がよろしかろう。まずは矜焃の邸まで案内致せ」
は、と立ち上がる荊軻と枉駕を見ながら、そんな格好で行くの?、と紳だけが納得いかなそうに頬を膨らませている。もう、と言いながらも自分も草履を履くと、ふわり、と悧羅を抱き上げた。自分で翔けられる、と言うのに寝間着が乱れたらどうする、と退いてはくれない。仕方なくそのまま抱かれていることにして、悧羅は荊軻と枉駕に先導を命じた。
は、と二人の声がして一足飛びに翔け始める。その後を追うように紳が悧羅を抱いたまま地を蹴って翔ける。風になびく髪を押さえて前を行く二人の背中を見ていると、少しずつ夜が明けてくる。まだ民達が動き出す刻ではないのが悧羅にとっては僥倖と言えた。心に浮かんだ事がもしも現としてあるのであれば、民達に見せたいものではないからだ。
全力で翔けた荊軻と枉駕の背中を追ったせいで、目当ての矜焃の邸までつくのにはほんの僅かな刻しかかからなかった。地に降り立つと紳が悧羅を降ろす。周りをぐるりと見廻してから悧羅は、姍寂の邸はどちらだ、と尋ねた。
「ここからですと左に二町ほどの所ですな」
ふむ、と考え込みながら悧羅は矜焃の邸の周りを歩き始めた。『誅芙蓉』を掲げた者たちはこの場に集まり鍛錬の場に移動していたと聞いている。とすれば、鍛錬の場に行くまでの道に辻道があるはずなのだが…。
邸の周りをぐるりと廻ってから、遠くない日に粛清を行った道を辿って、悧羅はふと足を止めた。元々辺境の場にある矜焃の邸だが鍛錬の場に行くための道が狭くなり一本道になっている。前には邸が二軒。後ろにも邸が二軒。整えられた道ではなく獣道と言っても良いが、一応は十字の辻道を形作っている。
その中央に歩み寄ってしゃがんで土を触ると、そう遠くない日に掘り出したような柔らかさがある。すん、と臭いを嗅ぐと酸いたような腐臭に混じって微かに血の臭いがした。
ここで間違いは無いようだな。
立ち上がって手に付いた土を払うと、背後から、長?、と枉駕から声をかけられた。振り向いて小さく笑って、だいたいわかった、と伝える。
「姍寂の邸に案内してくりゃるかえ?」
分かったとはどういうことだ、とは皆が思ったがとりあえずは姍寂の邸に向かって歩き始めた。歩いている間も悧羅は周りをきょろきょろと見ている。二町離れているのであれば、この辺りに呪を施したとは考えにくいが、何とも禍々しい気配が漂っている。
これに当てられては理性や自制などきかぬであろうな、と苦笑する悧羅の手を紳が握った。
「…何、この変な感じ…?」
その手を握り返して、気づいたのであれば大事ない、と笑ってみせる。しばらく歩くと、ここです、と荊軻が足を止めた。出るときに戸を閉めていなかったからか、開かれた戸からは血の臭いと禍々しい気配が漂っていた。確かにこれは荊軻の判断が正しかっただろう。無理に踏み込んでいれば悧羅は二人に会うことは二度と叶わなかったかもしれない。なるほどの、と先に進む悧羅の手を紳が離さずについてくる。
背後に立つ荊軻と枉駕に、待っておくか?、と笑うと、とんでもない、と首を振っている。例え敵わなくても、こんなに禍々しい場に悧羅を一人で行かせることなど出来ようはずもない。紳は言わずもがなで付いていくだろう。
「では妾の側を離れるでない。大人しく言うことを聞いてくれればよいがの」
は、と荊軻と枉駕が悧羅の背中に着いた。さて、と中に踏み込んでその暗さにまずは鬼火を出す。無数の悧羅の鬼火が辺りを照らし出して土間を進むと、あれにございます、と荊軻が声をかけた。見やると確かに土が盛り上がっている。側まで行ってしゃがむと穴の中にあるモノを悧羅は取り出した。少し大きめの壺だが、封は中から破られている。壺を検めると表面に呪符であったものが焼け焦げて貼り付いていた。
壺の中には乾いたものとまだ新しいものだが血が入っている。やれやれ、と嘆息して立ち上がると悧羅は部屋に通ずる戸を開けた。途端に、血と腐臭が強くなって思わず共にいた三人は顔をしかめた。だが、その場には血は見当たらない。奥にもう一つ戸があるのが見えて悧羅は部屋の中に上がり込む。三人も続いたのを見やって戸の前まで歩くと禍々しさが増したように感じた。
邸の大きさから見てこの先が最後の部屋だろう。ゆっくりと戸を開けると先程までとは違う生々しい血の臭いと腐臭が悧羅達を包んだ。鬼火で照らすと部屋中に血が飛び散って、床だけでなく天井や壁にまで貼り付いている。中には肉片も共に貼り付いていた。
「なんだよ、これ…」
絞りだすような紳の声には応えずに、悧羅は握った手に力を込めた。耳を澄ますと、ぴちゃりぴちゃり、と小さな音がする。血が滴るような音だが、違うことを悧羅は分かっている。血の床に怯むことなく部屋の中を歩いて音の方に進むと黒い陰が見えた。陰は小さく蠢いているがその下に亡骸があることは見てとれた。鬼火で照らされても何ら気にする事もなく、それは蠢いている。
「…もし?」
小さく悧羅が声をかけるが蠢く陰は動かない。もう一度、もし、と声をかける悧羅にようやくそれは動いた。振り向いたそれを見て紳も枉駕も荊軻も驚愕を隠せなかった。
それは犬の頭だったのだ。
大きく開かれた口の周りは血で汚れ、上げられた頭の下には血を流し続ける亡骸がある。
喰っていたのだ。
喰われていた亡骸は然程遠くない刻に殺されたのだろう。時折まだ手の指が痙攣でもするように、びくり、と動いている。それに眉一つ動かさず、悧羅はその場に膝をついて犬の頭と視線を合わせた。
「妾が里の長、悧羅である。其方は姍寂に作られたのかえ?」
穏やかに尋ねる悧羅に、犬はにたりと笑った。口の端から血が滴ってなんとも異様な光景だ。切り落とされたのであろう首からもまだ新しい血が少しずつ流れ出している。
【如何にも】
にたり、と笑ったままで犬が応えた。話すなどとは思っていなかった三人は目を見開いてしまう。
【悧羅という鬼女を狩るために力が欲しいと彼奴が望み、我が作られた。そうか、お前が悧羅か】
話すたびにその口から腐臭と血の臭いが部屋に満ちていく。
【あれの悪意は非常に美味であったのに。戻らぬということは、我の憑き物としての役も終わったのであろうな】
せっかく能力を貸してやったのに、と犬はにたりと笑いを深めた。
「そうさの。すでに捕らえておるに、其方の元には戻らぬであろうな」
嘆息する悧羅に、犬は、構わん、と吐き捨てた。
【彼奴の心はすでに壊しておいたでな。戻ったとして我の役には立たん。好きにするがよいさ】
「…其方はどうするのだ?妾としては里に仇なすのであれば其方を滅せねばならぬ。なれど其方の悔しかろう思いも分からぬではない」
ほう、と犬が目を細めた。目の前の悧羅はその気になれば自分と口を利かずとも滅することができるだけの能力を持っているようだ。だが、自分が悔しいだろうと言う。生かしても良いということか、と犬は笑うしかない。
【我を生かしてお前に何の得があろうか。すでにこの姿だ。どこに行こうと仇なすとは思わんのか?】
甘い奴だな、と嘲笑されて、そうかもしれぬな、と悧羅も薄く笑った。
【我は報酬さえもらえればよい。彼奴が戻らぬのでこの場の物をまずは喰ろうたが、我と彼奴の制約はお前を討ち滅すための能力を与える、というものだ。報酬は彼奴が死んだ時の骸の肉としていたが。お前がここにおるということは願いは成就しておらんのだろう?】
「そういうことになるの。ではどうする?」
問う悧羅に、面白い奴だ、と犬は声を上げて笑った。
【お前を殺すために作られた我に道を選ばせるのか?面白い。実に面白い】
「そうは言うても其方が向こうて来たとて、妾に触れることなく滅する事ができるでな。すこしばかり情をかけてもよろしかろう?」
笑う悧羅に、情とな、と犬が笑った。
【ではこうしよう。彼奴の肉はまだ残っておるか?】
頭だけなら、と悧羅が応えると、十分と犬はまたにたりと笑う。
【その肉を我によこせ。それで彼奴との制約は満たされる。その後はお前の眷属とせよ】
意外な申し出に悧羅は、おや、と笑った。
【お前ならば仕えても申し分がない】
「報酬などはないぞ?妾の眷属になると言うことは民達を護るということになるえ?」
悧羅の言葉に、そのようなもの、と犬が吐き捨てた。
【お前の眷属になるだけで十分な報酬だ。お前がそれを望むなら我もこの地の民達に手は出さぬ。悪い話ではないだろう?】
ふむ、と悧羅は考える。確かに力は強大だが眷属など持った事もない。自分自身にどのようなことが起こるのかも分からない。否、と言って滅するのは容易いが、それで良いものかとも悩んでしまう。
「…眷属の話は一度置いておいてもよいか?妾もすぐには決められぬ故。其方がほんに妾の民達に害さぬ、と見せてたも。それまではきちんと祀るが場は移させてもらうに、よろしいか?」
【さもありなん、と言ったところだな。それで良い。だがここを喰らい尽くすまで、持っていくは待て】
にたりと笑った犬に、承知した、と悧羅は頷いて立ち上がると三人を伴って邸の外に出た。終われば出てくるだろう。やれやれ、と嘆息する悧羅に、一体何なの?、と紳が聞いてくる。
「…犬神じゃ。妾を弑するために作ったのであろうの。ここは大国の上じゃて、下界に降りて|蠱毒の知を得たのだろうな」
「姍寂が…、でございますか?」
驚いたように荊軻が尋ねた。それに頷いて悧羅は最初にみた辻道の話をする。
「あそこに埋めて上を通る者達に呪をかけておったのだろう。自分に憑かせたは良いが犬神の能力が大きすぎて姍寂が飲まれたのだろうの。どちらにせよ哀れなことよ。荊軻も枉駕もよく留まった。留まらねば今頃は食い荒らされておったであろうな」
笑う悧羅に、そんなに?、と紳が驚いている。
「良くも悪くも恨みから生み出されたものというは計り知れぬものがあるでな。初めに感じた禍々しさのまま放たれておったなら、民達を喰ろうて力をつけ妾の手にも余ったやもしれぬ。まだ、妾の方が強くあったが故、話もできた。よう見つけてくれた」
荊軻と枉駕に向けて悧羅が言うと、いえ、と二人が頭を下げた。どちらにせよ悧羅の手を煩わせてしまった。
「で、あれをどうするの?」
邸の中を指差して紳が尋ねる。報酬代わりに姍寂の縁者を喰っている音は外まで響いてきている。
「眷属とか、俺は反対だからね!得体が知れなさすぎる!」
まあそうだの、と悧羅は微笑んだ。
「とにもかくにも姍寂の頭を喰らわせねばの。あれが姍寂を喰らわば他者にかけられていた呪も解けよう。そのままその場に留めてしばらく祀る。…ちと王母の考えもきかねばなるまいよ」
眷属など持った事もない悧羅が、果たしてそれをして良いものなのかが分からない。悧羅の側におく事で妲己のような妖に転じるならば良いが逆もあり得る。しばらくは考える刻が欲しかった。
「何にせよ、これでおかしな事の合点はゆく。真が明らかになったというは良い事であろうの」
大きく溜息をつくと悧羅は空を見上げた。夜明け前だった空はもう明るくなっている。里の民達も日々の暮らしを始める頃だ。その前にどうにか手を打てたことを今は喜ぶよりないようだった。
一町:110mくらいです。
二町で220mくらいだと思ってくださいませ。
新たな仲間が出来ますやら?
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。