後始末《アトシマツ》
遅くなりましたが更新します。
悧羅が紳と子ども達を伴って部屋に入ると、すでに荊軻、枉駕、栄州も揃っていた。待たせたか?、と声をかけながら三人の横を通り過ぎて場に座すと、いいえ、と枉駕が応えた。紳が悧羅の横に座り、子ども達も座すと、重鎮である三人が深く平伏する。
「まずは、昨夜の粛清のお務め、つつがなく済みましたこと心よりお慶び申し上げます。長におかれましては御健勝にあらせられますか?」
荊軻の言葉に悧羅は小さく笑った。身体はどうもない、とだけ言うと三人が顔をあげて居住まいを正した。そうでござろうな、と大きく嘆息する栄州に他の二人も肩を落とす。致し方の無かった事こととはいえ約一万の民の命を自らの手で殺めたのだ。心の傷は深いだろう。ともすれば、まだ刃を振るって相手の肉を斬り裂く感触が手に残っているかもしれない。浴びた夥しい量の返り血の臭いに悩まされているかもしれないのだ。
これまでの粛清のたびにそうであったように。
「長のお心の悼み、いかばかりかと慮ってございます。あまりお心をお痛めになられませぬよう」
その言葉にも悧羅は小さく笑った。そう容易く癒えるはずもないのは皆分かっているだろうが、それでも悧羅を思ってくれている事は痛いほどに伝わる。だが、悧羅が苦しみ続ければこの場にいる皆まで心を痛め続ける。多少の無理はしても早めに飲み込まなければならないだろう。
「少しばかり刻をくれるならば飲み込めよう。其方らも思いつめるでないよ?」
小さく息をつきながら言う悧羅に、御意、と三人が頭を下げた。
「お疲れではございましょうが、長もお気になさっていることと思いますので後始末についてをお話ししておきましょうか」
苦笑しながら言う荊軻に悧羅は頷いて、皆に楽にするように言う。長い話になりそうだ。固くなり過ぎていてはまとまる話もまとまらないだろう。それぞれが楽にする中で悧羅も妲己に身を預けると顔を擦り寄せてきてくれる。妲己も悧羅の心持ちが心配でならないのだ。妲己の好きなようにさせていると、まずは、と荊軻が口を開いた。
「昨夜捕らえた者たちにつきましては数は十と四。それに頭のみの姍寂を合わせまして十と五でございます。すべてあの場に幽閉しております。とはいえ、まだ調べを始めておるわけではございませんので今回の事に関しては何とも申し上げられませぬけれど、皆、茫然自失といったところですね。暴れる者、喚く者などはまだ出てきておりません」
そうか、と悧羅が頷くと、ただ、と枉駕が嘆息する。
「やはり茫然自失とは言いましても、長の御力については衝撃を隠せてはおりませんな。甘く考えておったのだろうから思い出しては震えておる、と言うたがよろしいかもしれませんがね」
捕縛して枉駕と荊軻で幽閉場所に押し込んだのだが抵抗はしないものの皆一様に、何だあれは、と繰り返して呟いていた。鎖に繋いだ枷をはめる間も時折呟いては震える、を繰り返す。長の能力も見抜けぬとは、と枉駕はそれらの姿に嘲笑するのを止められなかった。
「その内、軽薄な真似をしたものよ、と思い知るであろうな」
小さく笑いながら白い髭を撫でて栄州は満足そうに大きく頷いた。そう長い事も持つまいよ、と枉駕が言うと、そうであろうな、と栄州が苦笑する。荊軻と枉駕の手に掛かって詰問という名の拷問を受けるのだ。どんなに自分に自信がある者でもそう長い事理性を保てはしないだろう。
「しばらくは枉駕と私で預かります。新たな事が分かれば朝議でお報せすることになろうかと。一応申し上げておきますがその身のまま帰る、ということはありませんので。宜しゅうございますね、長?」
「妾がならぬと申しても其方らは是と言わぬであろ?任す故好きに致すがよろしかろうよ」
要は生きて陽の目を見せることはない、ということだ。すでに一万の民の命を奪っている。残った者が命乞いをしたとしてそれを見逃してしまえば奪った命も浮かばれない。まして悧羅を弑するという明確な目的をもって集まっていた者たちだ。おいそれと罪を問わずに解放することは出来ないだろう。
「…ここで妾が赦すと言わば、また同じようなことを起こす者たちもおるであろうからの。始めたからには粛々とせねばなるまいな…」
小さく嘆息する悧羅の手を紳がそっと握った。子ども達も振り向いて、母様、と心配そうにし、妲己も少しばかり尾を動かして悧羅の身体に巻きつけた。紳の手を握り返しながら、子ども達に、大事ない、と悧羅は笑って見せると、重鎮達も静かに大きく頷いた。
「それから一万の骸でございますが、勝手な事とは思いましたが焼き払ってございます。その場に置いておくもならず、かといって里の中に持ち帰るも難かしゅうございましたものですから。ご容赦くださいませ」
仕方あるまいて、と悧羅はまた小さく息をついた。里に入れるにしてもどこに置いておくかが問題になる。何より朝になって積まれた骸の山を見て、安寧に目覚めた民達は驚愕し混乱してしまうだけだろう。だが焼き払った、という事は骨も残っていないということだ。
せめて遺骨くらい返してやりたかったけれど、それも無理になってしまった。
「遺骨くらいは返してやりたかったがの…。返されても家族が受け取るか否かは分からぬがな」
少し顔を悲痛で歪めた悧羅の手を更に強く紳が握って、仕方ないよ、と穏やかに笑って見せた。
「多分、悧羅が遺骨や遺体を返したいと思っても、残された者は受け取らないんじゃないかって俺は思うよ?自分たちの知らないところで自分の家族が長を弑そうとしていた、それどころか本気で刃を向けた。それを知ったら悧羅に申し訳なさ過ぎて家族だとも思いたくなくなるんじゃないかな?」
「長に顔向けできない、と悩み苦悩するのは目に見えておりますな。紳様の仰る通りでございましょうや」
そうかも知れぬな、と悧羅も紳の手を握り返した。落ち着いているように見せていても紳は悧羅の手が小さく震えて冷たくなっている事をわかっている。皆には気取られないようにしてはいるが、身体も小さく震えているのだが妲己が包んで隠してくれていた。
「では、この度の一件に携わった者たちの家族にどう報せをどう致すかなのですが…。どう誤魔化しても最後には真の事が分かるでしょう。何より一万の民です。急に姿をくらました、と申すも難しゅうございましょうね」
「真実を報せるしかないのではないか?この度の事に関わった者たちの縁者のことくらい、荊軻殿は調べ終わってあるのであろう?」
当たり前のように栄州が荊軻を見た。確かにそれは最初に佟悧から預かった文書を調べるときに確かめてある。父母が健在なのか、健在でなければ兄弟姉妹がいるのか、もしくはすでに逑を持っているのか。生きて返すことの出来ない者たちを慈しむ者達に悧羅が報せを送りたがるだろうと読んでいたからだ。
「確かめてはおりますが、縁のあるものだけに報せても、他にも親しくしておりました者もおりましょうし。…とは言いましても数が多ございますので…、隠し通すにはかなり難儀するかと思われます」
「確かにな。居なくなった者の縁者に内密に伝えたとて、どこからか疑念の声は上がるだろうさ」
荊軻の言葉に枉駕も同意する。急に一万の民が姿を消せば童であろうとおかしいことに気づくはずだ。これまでの粛清では、不穏な動きがあることを里の民達も聞き及ぶことは出来ていたので、ただ粛清を行ったと下知を下すだけでよかった。けれど、今回はまだ噂話としても上がっていない。話を聞いた事がある、という者も一握りだろう。
「そういうことでございますから、心苦しくはありますが長に下知を下していただくがよろしいかと存じます。彼の者たちの名を出すのはお嫌でございましょう?」
尋ねられて悧羅は黙って頷いた。だれがその中にいたのかなどは縁者さえ知っていればいい。名を広く伝える事で縁者たちが暮らしにくくなるのは悧羅の望むところではないのだ。
「そうでございましょうね。であれば『誅芙蓉』の名の下に長を弑し奉ろうとする者たちが動く前に私共が気づいたため粛清した、と下知をお下しくださいませ」
「…それしかないのであれば妾は構わぬよ。なれど…」
考え込む悧羅に、分かっております、と荊軻は小さく笑った。
「縁者には私と枉駕で直に報せに参ります。…決して自害などせず、長に詫びたい思いがあるのであれば、生きて仕えよ、と申せばよろしいのでしょう?」
荊軻の言葉に悧羅は小さく笑った。よく分かっておるではないか、と微笑む悧羅に、500年もお側におるのですよ?、と荊軻は笑っている。
「とはいえ、一万の民達の縁者を訪ねて廻るのは少しばかり刻がかかるだろうな。その間に何かしら感づいて妙な考えを起こさねばよいが」
心配そうな枉駕に、じゃあ、と忋抖が手を挙げた。
「俺たちにも手伝わせてもらえないかな?姉様と啝珈も一緒に動けば少しは早まるんじゃない?…母様だって早く報せてやりたいはずだしね」
おや、と栄州と荊軻が微笑んだ。確かに子ども達三人が加わってくれれば早く片付くだろう。まして子ども達が悧羅が自害などするなと言っている、と伝えれば民達にも悧羅の思いが強く伝わるはずだ。
願ってもない申し出でございますね、と荊軻が悧羅と紳を見ると、いいよ、と紳が応えている。
「こいつらも悧羅がどういうものを背負っているのか知りたいって言ったんだ。最後まで手伝いたいだろう。荊軻と枉駕の指示で使ってやってくれ」
ね?、と紳が悧羅を覗きこむ。
「紳が許すのであれば妾が何を申すものか。我儘を申せば、妾が直々に参りたいところではあるがの。それをして妾が頭を下げるはならぬでな」
「うん。それは駄目。すごく譲って悧羅が直々に行くのを許せても頭を下げるのは駄目だね。悧羅を弑そうとした者たちの命を奪っていても悧羅が頭を下げちゃいけない。それが最良だったんだから長として堂々と立ってていいんだよ」
頭をぽん、と撫でられて悧羅は苦笑した。長である悧羅が行った事を民達に詫びてしまっては、だれについて行けばいいのか民達も悩んでしまうかもしれない。何を行ったとしても、それに違う道があったにせよ悧羅が選んで動いた。それが一番正しいのだと毅然として立っていなければならない。それが里の要、長である悧羅の務めの一つだ。
「そうであれば御子方のお力をお借りいたしましょう。あの場に同行した隊士達に任せるには荷が重うございましょうからね」
「難儀であろうが頼まれてくりゃれ。なんであれば下知に一文足しても構わぬぞ?二日待って帰ってこなければ粛清されたと思え、との」
提案する悧羅に、それはやめた方がよい、と栄州が制した。
「その間に枉駕殿や荊軻殿、それに御子方が縁者全てを廻れるとは限らぬ。ともすればその日が来れば無為に自害する者がでるやもしれんでな」
そうか、と悧羅は肩を落とした。栄州の言うことは正しいのだろう。では悧羅にできる事はやはり紳の言う通り毅然として感情を押し殺し立っていることだけだ。
今までがそうであったように。
「委細承知した。其方達に任すとしようて」
小さく溜息をつくと、それでいい、と紳が微笑んだ。
「本当は俺も動いた方が良いんだろうけど、今は悧羅を優先させてもらいたい。いいかな?」
荊軻達を見ながら言う紳に、それが一番です、と枉駕が笑っている。それ以上に優先すべきことなどございませんよ、と荊軻が言うと紳は皆に礼を言っている。
「あとは、矜焃と荽梘の亡骸じゃな。父母はもう自害してしもうておるにそれぞれの邸で埋葬してやってたも」
悧羅の願いに荊軻が、小さく頭を下げた。
「すぐすぐとは参りませぬが、必ずや長の仰せの通りにいたします。もうしばらくご辛抱下さいませ」
荊軻としては全ての者から調べを終えるまで矜焃と荽梘の亡骸を埋葬するつもりはない。捕縛した者たちの収監場所は個々にしているが、どちらか二人の亡骸が見えるようにしている。隠し事や虚言をいえばこうなるのだ、という事を刻みつけるためだ。地下のため涼しくはあるが、二人の身体は腐敗が始まっている。肉が腐っていく臭いと、目の前の亡骸の姿を見せる事で心から折っていこうとしているのだ。
無慈悲な真似も程々にするように命じようとして悧羅は思い止まった。ここまで無慈悲な事をしているのだ。今更の事でもあるし、荊軻たちが慈悲をかけないのは全て悧羅のためだからだ。もう一度、任せた、と言うと、承りました、と荊軻が恭しく頭を下げた。
その翌日になって悧羅は下知を下した。紳が悧羅の側を離れたがらないため、近衛隊副官の達楊が下知を持って各里を巡った。
『誅芙蓉の名の下に妾を弑さんとする動きがあったため妾自ら粛清した。その数一万』
下知を聞いた誰もが青ざめて絶句し、中には膝をつく者まで出た。粛清が行われたことにも青ざめたが、驚くべきはその数だ。一万もの民が悧羅を弑するために集まっていたなどと聞かされては、まさか自分の縁者にその様な愚かな事を考えていたものがいるのではないかと震え上がる。何よりも『誅芙蓉』の言葉が恐ろしい。そして皆は思い出す。
あの闘技の場で勝利した矜焃と荽梘の異様なまでの長に向けた敵意と殺意を。
明らかにおかしかった。民達のために自らの身を削って共に苦渋と辛酸を舐めてきてくれた長の姿を知っている者であるならば、あのような願いは決してしない。感謝こそすれ敵意や殺意を抱くなどあり得ないことだ。
どれほどの思いで長が里を支えてくれていたと思っていたのだ?、と民達の胸中に『誅芙蓉』などと愚かな事を言っていた者たちへ向けての軽蔑と侮辱の思いが燻り始めた。本当に愚かな者達がいたものだ、と吐き捨てるように言った声がどの里でも聞かれたが、それ以上は誰も何も言わなかった。いや、言えなかったのだ。
愚か者達が何を考えていたのかなどどうでもいい。
民達の心に次に浮かんだのは粛清を行った長である悧羅の胸中だ。あの優しい長の事だ。例え『誅芙蓉』などという言葉を掲げて自分を弑するために集まっていた者たちだとしても、その命を奪ったことに心を痛めているに違いない。一千、二千の数ではなく一万もの民だ。
民の暮らしあらばこその妾だ、と悧羅は以前言ってくれた。その悧羅が自ら護ってきた民達を殺めたのだ。
そうするしかなかったのだろうな、と誰もが思いを馳せた。今は一万であったとしても気づくのがまだ遅ければ愚か者達の数はますます膨れ上がっていたかもしれない。これで済んで良かったと思うべきだ。思うべきなのだが、どうしてそんな考えを持つ者が出てきたのかという疑念を感じてしまう。
矜焃も荽梘も、鬼足る者強くあるべし、力、強さこそ全てだ、と言い放っていた。それは当たり前のことだ。鬼として生まれ落ちた時から、角の数での能力の差はあれど強くあらねばならない。けれどそれは決して自らのためではないのだ。自分と周りの大切な者を護るため、ひいては長である悧羅を護るために強くあらねばならない。だが、あの二人からはそんな思いは微塵も感じられなかった。ただ己のためだけの強さを求めているように見えた。
きっと集まってい立って者たちも同じ様な考えだったのだろう。
500年前の姿などもう里のどこにもない。十年前には十万だった民の数も悧羅が里をこの地に移してから二十万に迫っている。
若い者たちが増えてあの頃の里の姿、民の思いを知らない者たちからすれば平穏で安泰している里が当たり前のことだろう。
だからなのかもしれない、と民達は愚考する。今がどれほど恵まれているのか知らないから、ここまで潤わせるために悧羅と民達がどれほど耐えてきたのか知らないから簡単に弑して長に成り代わろうという愚行に至ったのではないだろうか?やれやれ、と民達は一様に大きく溜息をついて肩を落とした。
力だけで治めようとするなど、先代と同じだ。それではまた何十万という民の命が無為に奪われるだけ。里は荒廃し食べるものも着る物もなく枯れ果てていくだけだというのに。自分たちが悧羅を慕っているのは命の重さを知ってくれているからだ。悧羅の倖を心から喜ぶことができるのも、どれほどに耐えてきてくれているかを知っているからこそだ。
あまり心を痛めてくれるな、と悧羅に思いを馳せながら民達は散っていく。夜になった時には、今の里がどれほど恵まれているのか自分の子ども達に話す必要があるようだ、と思いながら。だからせめて自分の縁者にそのような愚か者がいないように、と願うしか無かった。
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下知を持って各里を巡た達楊から大きな混乱はなかった、と報せを受けた荊軻はひとまず胸を撫で下ろした。多少の混乱はあるのではないかと心配していたのだが、どうやら杞憂に終わった様で安堵する。昨夜に悧羅への報せを終えた後に枉駕と共に粛清に向かったが、重要だと思われるような新たな事は分からなかった。何よりまだ怯えきっていて話にならない、と言う方が正しいだろう。
まあ、仕方がないことですがね、と荊軻は小さく嘆息するよりない。同じ幽閉場所には腐乱を始めた矜焃と荽梘の姿があるのだ。全ての者たちからその姿が見えるように収監しているのだ。臭いも相まって、いつか自分もああなるのだとでも思っているのだろう。
せめて心が壊れる前には少しばかりの情報は吐き出してもらいたい。一番核に近いと思われる姍寂には荊軻が呪を施しているので首だけになってもまだ生き続けている。荊軻が満足するまでは呪を解く気はないし、そう簡単に『死』という安寧を与えてやろうとも思ってはいない。
粛清の場で悧羅に言い放っていた言葉に憤慨したのは枉駕だけではないのだ。荊軻とて同じこと。悧羅に向けて刃を向けた姍寂の首を紳が刎ねていなければ枉駕か荊軻がやっていただろう。
例え悧羅がそれを望まなくても、だ。
だがとにもかくにも今回の件に携わった者たちの縁者の邸を廻らねばならない。今日も枉駕と悧羅の子ども達と分けて回ったが、まだ半分も廻れていない。どこに行っても平伏して、愚か者を出してしまったことを詫びられてしまうので、それなりに刻を要してしまうのだ。枉駕や荊軻にさえそうであるのだから、子ども達に報せを届けられた者たちは申し訳がない、と号泣してしまうらしい。
自分たちのために立ってくれている悧羅の子ども達が粛清の報せをもってくるなど考えもしていなかったことだろう。それでも早めに終わらせなければ宮に留めている佟悧を邸に帰してやることも出来ない。悧羅にとっては子ども同然の佟悧なのだ。確かな安じを得なければ邸に戻すことを善とは言わないだろう。佟悧の身を安じるが故に舜啓までも宮に留められている。
本当は自分の心を整えるだけで精一杯のはずでしょうにね、と息をついて荊軻は深く椅子にもたれかかった。
どんなに刻がかかったとしても粛清の報せを持っていくのは自分の他に枉駕と子ども達でなければならない。悧羅の側近としての二人と子ども達が報せることで、決して自害などするなと悧羅が切に願っていることも伝わるというものだ。一介の隊士達に預けたとしても、言葉の重みが違うだろう。
本当にどこまでいっても民のことしか考えないお方だ。
暗くなった外を窓を通して見やりながら、仄かに揺れる宮の灯りを目にとめる。
もう少しご自分の事も労ってくださればよいものを。
苦笑してしまうが、それが悧羅の在り方なのだとも分かっている。初めて会った時の事が思い出されて荊軻は小さく笑った。
あの時水をもらわなければ荊軻は事切れていただろう。
あの時悧羅の側でその行いを見ていなければ、ここまでの忠誠を誓えていたかも分からない。
一歩踏み込めば事切れれていただろう気怠さの中で見聞きしていた悧羅の行いと言葉。その全てが明君になるだろうことを荊軻は感じざるを得なかったし、そしてそれは間違いでは無かった。
多くの苦渋と辛酸を共に乗り越えて行くたびに、この長を下してくれた天に感謝を伝えてしまっていた。悧羅のためであるならば、どんな非情な真似をするのも荊軻にとれば苦痛ではない。
それでもあの頃よりは悧羅は穏やかでいれるだろう。
どんなに苦しくても悧羅が望むことさえ諦めていた倖が周りにあるのだ。それを与えてくれた紳も悧羅の苦しみを分けて感じてくれているだろう。であればこそ荊軻が案じることなどないのかもしれない。
くすり、と笑って荊軻は粛清に携わった者たちの名が記してある文書を開いた。巡り終わった者たちの名を消していきながら、明日はもう少し進めねば、と自分に言い聞かせた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
切ない話が続きますが、もう少しお付き合いくださいませ。
お楽しみいただけているならば嬉しいです。
ありがとうございました。