追憶《ツイオク》
すこし過去のお話が続きます。
大樹に覆われた湖で、悧羅は思い切り水浴びを楽しんでいた。邸から近いこの場所は、知っている者も少なく、静かなものだ。だからこそ、悧羅も人目を気にせず肌をだすことが出来た。
暑い日差しが降り注ぐこんな日は、水に浸かって涼むに限る。水辺りで横になっている妲己に、一緒に入らないか、と聞くが、お戯れを、と睨まれた。濡れるのが嫌なのだろう。悪戯に、水をかけると、主!、と真剣に怒られてしまった。笑いながら、ごめん、と謝ると諦めたように毛繕いをしている。不貞腐れてしまった妲己の側まで行き、隣に座って背中を撫でる。
“主よ、濡れまする”
嫌そうな顔をして妲己が悧羅に苦言を呈した。
「ちゃんと、水は払ったよ」
笑って手を見せられたが、その手がまだ濡れていることに気づき妲己は嘆息した。何を言っても無駄なのだ。
妲己の背中を撫でながら、のどかだ、と悧羅は思った。当代の長が人の里で加虐を行なっているのは知っている。けれど、鬼の里の民にしてみれば別段大きな変化は無かった。長が伴っていく隊士達の数が減って帰ってきても、戦になれば当たり前のことだったし悲しむほどの事でもない。それが、悧羅の父であっても同様だ。父は、長に伴った二度目の人里で術者に狩られた。母は、父の死が受け止められず、身体を壊し三月前に亡くなった。家族と呼べるものが居なくなったのは、それなりに淋しくもあったが、悧羅には妲己が居てくれたので、すぐに慣れた。今は、妲己と二人、気ままに過ごしている。
しばらく妲己の背中を撫でていたが、暑い空気にまた汗ばんできた。大樹に覆われ木陰が多いとはいえ、日差しは届く。じりじりと肌を焼かれて、悧羅はもう一度湖に戻り始めた。
____________その時だった。
「見つけた」
背後から突然声がかかった。咄嗟に肩を隠して水に潜る。振り向くと妲己も立ち上がって、威嚇していた。それに臆することもなく、水辺近くまで歩いて来るのは男だった。
白銀の髪に灰色を呈した眼。額には黒曜石の一本角。その男を、悧羅は見たことがあった。先日の武闘大会で。探した、と悧羅を見ながら男が言う。
探した?なぜ?
訝しんだが、それよりも気になることがある。男の声がかかった時、悧羅は背を向けていた。
まさか、見られてはいないだろうか…。
肩を掴む手に力が入る。
「…探したって、なぜ?」
悧羅の問いに男は笑顔になり、この間の大会だ、と切り出した。ますます意味がわからず首を傾げるしか無い。
「お前さ、俺にわざと負けただろ」
意外な言葉に悧羅は目を見開く。確かにわざと負けたは負けた。あまり目立つことは避けたかったからだ。大会すらも辞したかったが、里の若い鬼は必ず参加しなければならない決まりがあったため、やむ無く出るしか無かった。出たからには、適当なところで負けようと思い、その相手が目の前の男だったのだ。
読まれているとは思わなかった。
「何のこと?」
知らない素振りで聞き返すが、男はにやりと笑う。
「隠したって無駄だよ。だって、お前、全力出してもなかったろ?せいぜい二割三割ってとこだ」
「そんなことないわよ。ただ、貴方が私より強かったから負けた。それだけでしょう?」
悧羅の言葉に、男は手を振って否定する。
「誤魔化しはきかねえって。実際、戦ってんだから。それが分からねえほど俺も馬鹿じゃ無い」
男の言葉に悧羅は溜め息をついた。誤魔化しきれない状況のようだった。ご名答、と男に伝える。
「出来るだけ目立ちたく無いの。出なきゃいけないなら、きりのいいところで負けて帰りたかったのよ」
やっぱり、と男は可笑しそうに笑う。
「それで?目的はその確認なの?だったらもういいかしら?そろそろ上がりたいの」
「そんなわけないだろ?それくらいで探さねえよ」
「じゃぁ、なに?」
不思議に思って聞く悧羅に、まあ、上がれば?、と男が促す。上がるも何も…と、悧羅が戸惑うと、俺は気にしない、と笑っている。
「貴方が気にしなくても、私は気にするの」
責めるように睨むと、男は両手を挙げて少し離れた場所まで移動し、背中を向けた。見ない、と言うことなのだろうが信用が出来ない。妲己、と声をかけると、妲己が男の真正面に立って振り向かないように威圧する。信用ねえなあ、と溜め息混じりな声が聞こえたが、そもそもきちんとした会話をした事も、面識もほぼないのだ。信用など出来るはずもない。妲己が、男を見張っていることを確めて、悧羅も水から上がる。手早く身体に残った水滴を拭き取って衣を身につける。結えていた髪も結直したところで、終わった?と男の声がした。妲己に、振り向いても良いと示されたのだろう。大丈夫だ、と言うと、男は振り返り悧羅の目の前まで歩を進めて来た。そのまま、悧羅をじっと見ている。
なんなのよ、一体。
じろじろと見られて、不快に感じながら悧羅は一歩下がった。下がった分、男が近づく。上から下まで眺めて、男は、うん、と笑った。
「お前、いい女だよな」
唐突な言葉に、は?、と返すしかない悧羅に男は笑ってみせる。
「まあ、要するに一目惚れしてんだ、お前に」
これにもまた、は?、としか答えられない。いやいやいや、と手と顔を一緒に振って否定する。何より、お互いの名も知らない。そういうと、名前?と男も気づいたようだった。
「俺は紳。気ままに、ぶらぶら暮らしてる。お前は?」
聞かれて悧羅も名を告げた。悧羅かぁ、と何度かぶつぶつ言っていたが、綺麗な名前だな、と笑顔を深くした。名前を褒められることなど初めてだったので、些か驚いたが、だからといって気を許すわけでもない。
「じゃあ、改めて。悧羅、俺と契らねえか?」
もう、言葉も出なかった。あまりにも全てが唐突過ぎる。名は知ったが、為人も分からない。そんな男と誰が契るというのだろう。冗談が過ぎる、と悧羅は言うが紳も退かない。
「冗談で言うことかよ。探してたんだよな、強くて美人で華のある女。そしたら、お前に出会った。大会の会場でも、ちらちらお前のこと見てる男はいたからさ。先を越されちゃたまんねえから、必死になって探したの」
そう言うわけで、契ろうぜ、と紳は笑っている。悧羅は半ば唖然としてしまい、開いた口が塞がらなかった。側で聞いている妲己も呆けている。な?、と言われて我にかえった悧羅は勢いよく首を振った。
「なんで?なんか不満?」
不満もなにも…。
納得できないと、紳は言うがそれはこちらの言葉だ。とにかく、と悧羅は切り出す。
「為人も分からないのに、契るなんて無理。女が欲しいなら他をあたってちょうだい」
「他なんて興味ねえよ。俺はお前と契るって決めたんだから」
何という身勝手な言い分だ。それでも、無理だと言う悧羅に、為人が知れればいいんだな?、と紳が食い下がる。なにを言っても引き下がる気がないのだ。
「考える余地はできると思うけど、分からないわ」
諦めたように悧羅が肩を落とすと、十分、と紳は悧羅の手を取って歩きだした。どこに?、と尋ねると、お前の邸、と言う。はあ?、と半ば引きずられながら歩かされて、悧羅はまた訳がわからなくなった。
「為人を知るためなら、一緒に過ごすのが一番だろ?あ、それとも誰かいる?」
歩き出した歩を止めて、紳が振り向いた。そう言うわけではないけれど、と答えて、なぜ正直に言ったのかとすぐに後悔した。
「じゃあ、決まり。あ、こっちでいい?」
強引に話をまとめられて、もう諦めるしかなさそうだった。妲己、と声をかけると先導するように二人の前を妲己が歩き出し、悧羅もため息をついて手を引かれながら歩くしかなかった。
朝の嵐が嘘のようです。暑いくらいの晴天になりましたが、我が家は子どもの友達が来ていて、家の中が嵐です…。