追及《ツイキュウ》
残酷描写があります。
苦手な方はご注意下さい。
とんとん、と石畳を降りる音がして矜焃と荽梘はそれぞれうっすらと目を開けた。周囲に灯りはなく自分たちが何処に収められているかも分からない。身体に当たる岩肌だけがいつも冷たくそして痛かった。身体を動かそうにも両の四肢は岩肌に固定され自由が効かない。能力を使おうとすれば、固定されている輪と鎖から吸い取られてしまう。何よりも悧羅から受けた疵がどんどんと痛んで仕方なかった。幾日こうしているのかはもう分からないが、一定の刻を置いて石畳を降りてくる者たちのことは分かった。
また始まってしまう、と矜焃は近づいてくる衣擦れの音と仄かな灯りが揺れるのを呆っとする目で見やった。衣擦れの音と灯りが自分の数尺前で止まって矜焃は重い頭を僅かに上げた。格子の先から、おや、と穏やかな声が聞こえて思わず大きな体躯が震え出すのを矜焃は止めることができなかった。格子の錠を開けて身を屈めるようにしながら入って来たのは文官長の荊軻と武官隊隊長の枉駕だ。
手に持っていた灯りを手近な所に置いて、二人が矜焃の眼前にまで歩み寄った。お目覚めでしたか、と微笑みを浮かべる荊軻に矜焃の身体がますます大きく震えだす。あまりの震えに歯が鳴り出すのを止める事も出来ない。
「少しは何か話す気になったか?」
震える矜焃を嘲笑しながら枉駕が静かに尋ねる。視線を枉駕に返そうとするが、目の前の荊軻から矜焃は目を離せない。決して巨躯でもなく穏やかに話すこの荊軻が矜焃は恐ろしくて堪らない。全身から冷たい汗が噴き出して荒れ始める息を矜焃は必死に押し殺した。
この場に留められて幾度荊軻に恐ろしい目に遭わされたかわからない。眉根一つ、穏やかな口調も変えずに荊軻は淡々と矜焃に対して粛清という名の拷問を与え続けている。岩肌に留め置かれた矜焃の両の四肢の指はもう無く、両の肘には矢が突き立っている。右目も閉じられているが、それも又荊軻が弓で射抜いたからだ。矢は貫通しそのまま岩肌に縫いつけられてしまっている。鎖が無くとも矜焃はこの場から動けないだろう。
自分の後であったり先であったりではあったが、そう遠くない場所から荽梘の声も聞こえてくるので矜焃と同じような目に遭わされているのは知ることが出来た。枉駕はともかく荊軻は男であろうが女であろうが態度を変えることはしないだろう、と苦痛を受けながら矜焃は感じていた。静かに燃える怒りをもっと静かにぶつけられて、体躯の良い枉駕よりもこの細身の荊軻の方が不気味で仕方ない。視線を外せない矜焃を見ながら、荊軻は笑みを絶やさない。
「お前があんまり虐めるから…。見てみろ、怯えきって話にもならんではないか」
小さく笑いながら言う枉駕に、荊軻は、この程度、と笑っている。
「虐めている内にも入りませんよ。でもまあそうですね。鬼としての能力は全て封じておりますから少しばかりは痛みましょうが。人の子ほどではないでしょう。何より長より強い、長より自分の方が秀出ている、と思っておるようですから、この程度で根を上げられても拍子が抜ける、というものですよ」
「この程度ね」
枉駕が苦笑しながら矜焃の姿を見る。鬼としての能力を封じるどころか全て吸い取るように呪を組み込んでいる鎖だ。巨躯に恵まれた矜焃とは言え、苦痛は想像を絶っするだろう。何より荊軻の射た弓には治癒の力が低くなるように呪が入っている。両の肘と右目からはまだ新しい血が流れ出していた。日頃大きく感情を出す荊軻ではないが故に怒らせてはならんな、と枉駕は心に留めることにした。
「長であれば眉一つ動かされることはございませんよ。この程度で喚き散らすなど底が知れるというものです」
ふん、と吐き捨てる様に言って荊軻は右手に鬼火を一つ出してそれを弓と矢に変えた。ぶるり、と震えだす矜焃に一瞥を投げて、それで?、と荊軻が尋ねる。
「何かお話があればお聞きしますが?何もございませんか?」
構えた弓で矜焃の左耳を射抜きながら荊軻は静かに続ける。痛みと恐怖が一気に襲って来て新たに弓を構える荊軻に、ちょっと待ってくれ!、と矜焃はどうにか声を発した。何を?、と言いながら弓を放つ荊軻の矢が右の頬を掠めて背後の岩に突き立った。視線だけで矢を見つめて、新たに冷たい汗が背中を伝った。
「…話す!知っている事は何でも話すから!!」
震える声で絞り出すように言う矜焃に荊軻は弓を構えたままだ。納得のいかない応えであればいつでも射抜く、ということだろう。やれやれ、ようやくか?、と枉駕が苦笑した。
もう少し早く話す気になっていればここまで荊軻を苛立たせることも無かっただろうに。
「では聞くがお前の考えに同調するものは?荽梘との面は通っているのか?」
荊軻の代わりに枉駕が尋ねるが矜焃は荊軻から目を離せずに大きく頷いた。
「ある!…いえ、ありますっ!」
狼狽する矜焃に、詳しいお話を、と荊軻が先を促がす。
「仲間、と呼べるかは分かりません。同じような考えを持つ者たちで集まって鍛錬するようになったと言う方が正しいです。私と同じ考えで鍛錬していた者が数名を連れてきて、その中に荽梘もおりました」
「その連中はいつから集まり始めたのだ?」
「…五年ほど前からです。長という存在に疑念を持つ者が私の元に集まり始めました。私がいち早くそういった疑念を口に出していたからだと思います」
それで?、と弓を下ろさずに荊軻が穏やかに聞く。震えが再び身体を襲って、鳴り出す歯を止められずに矜焃は続ける。
「私はただそれらの者をまとめていたに過ぎません。集まった者たちの中には一本角もおれば二本角もおります。歳の頃は私と同じ程度から若い者と様々です。長の御力が絶大であることは十年前に里をこの地に移されたことでよく分かっているつもりです。ですが、強さというものだけで長というものが決められるのであれば誰であっても良いはずではないですか」
言い終わるや否や矜焃の左足に矢が突き立てられた。痛みと同時に血が流れていくのが分かるが岩肌に縫い止められた身体では膝をつくことさえ許されない。本当に痴れ者ですね、と冷たい荊軻の声がした。
「あなた方は長足る者の資質が何であるのかさえ分からないのですか?強さだけで長が長足りうるとでも?馬鹿馬鹿しすぎてお話にもなりませんね」
もう一度弓を放とうとする荊軻を、まあ待て、と枉駕が留めた。まだ聞かなければならないことがあるのだが、このまま行くと荊軻は矜焃の頭も射抜いてしまうだろう。
「集まる場や数、その者達の素性などは分かっているのか?」
「名と顔くらいは…。集まる場は特段決めておったわけではありませんが、私の居の近くが多ございました。数名集まるとそこから移動して鍛錬をする、という流れがいつのまにか出来ておりました。数…、数も正しくは分かりかねます。そういったことには私は秀出ておりませんので、友に任せておりました。友は私の幼い頃からの知り合いで姍寂と申します」
それに聞けば分かるかと、と矜焃が大きく嘆息する。
「集まる刻や日取りなどは?」
刻…、と矜焃が呆っとする頭を焚きつけた。気を抜けば意識を手放してしまいそうになるがここで意識を飛ばせば確実に頭を射抜かれるのは分かっている。荊軻は必ずそうする、というのはこれまでの事で分かっている。
「亥の刻くらいから集まり始めます。丑の刻には散りますが。日取りは月が丸い形から半分になるまで、としておりました」
なるほど、と荊軻が柔らかに笑った。少しばかりほっとした矜焃に、では、と荊軻の微笑みが深くなる。
「あなたはまだ長に牙を剥こうと思っておりますか?…ああ、遠慮などは結構ですよ。本音で語っていただけないなら無用ですから」
三度ぶるり、と震えだす身体を荊軻は静かに見ている。弓は降ろされているが虚言を言えばすぐに見透かされるだろう。
「牙を剥こうとは思っておりません…。あれほどの力の差を見せつけられたのです。敵うはずもない。…ですが叶うならば手合わせをしていただけるのなら時々は、と願ってしまっております」
なるほど、と息をついたのは枉駕だった。良いことを教えようか、と笑われて矜焃は枉駕に視線を移した。
「あれは長の力の片鱗でも何でもないぞ?ただ童と戯れるかのように遊んでおられただけだ。手合わせなどでもなんでもないのだよ」
は?、という矜焃の頭に鋭い痛みが走った。額に痛みと顔に流れていく生温い血の感触が伝わる。
「もうしばらく頭から血を抜いて冷やしておいた方が良かろうて」
枉駕の顔が間近にあるが何が起こったのかは見えなかった。荊軻の矢だけでも顔が動かせなかったのに、もっと動かせなくなっていることだけは分かる。またあなたは、と荊軻の嘆息が枉駕の後ろから聞こえた。
「いつも一番の楽しみを持っていくのですから。せっかくここまでとっておいた私の立場がなくなってしまったではないですか」
「いやいや。お前は十分に楽しんだだろう?少しばかりは我にも出番をくれねば。我とて怒っておるのだぞ?」
振り向きながら枉駕は矜焃の額に突き立てた脇差から手を離した。頭を岩肌に縫い止められてすでに意識を手放してしまっている矜焃に一瞥を投げて荊軻が弓をしまう。灯りを手に持って、ではあちらへ、と枉駕を促した。二人で格子を出て錠を掛け直してから少しばかり奥に居る荽梘の元へと向かう。奥に進むにつれ暗くなる場に枉駕の鬼火が輝いた。冷たい岩肌に影を落としながら道を進むと、矜焃を封じているものと同じ格子が見えた。錠を外して灯りをおくがそれでも中は見えにくい。枉駕の鬼火が数を増して辺りを照らし出してようやく荽梘の姿が目に映った。
矜焃と同じように両の四肢は輪と鎖で岩肌に繋がれているが、身体に突き立てられた矢の数は遥かに矜焃を凌ぐ。空いている場所は既に首から顔だけ、という状態だ。荊軻にとっても枉駕にとっても矜焃よりも荽梘の方が気に障ったからだ。あれほどの明確な悧羅への殺意。それが私怨からくるものだと知れば余計に癪に障るというものだった。
周囲に枉駕の鬼火が出ても、二人が格子の中に入っても顔を動かさない荽梘に表情一つ変えないまま、荊軻がまた矢を放った。一寸ほど空いていた左の大腿に矢が突き立って荽梘が呻いた。さっさと起きろ、と枉駕の冷たい声にようやくゆっくりと荽梘が顔を上げた。機敏に動きたくとも動けないのだ。身体中に穿たれ突き立ったままの矢からは止まることなく出血し続けている。息をする事さえままならず、小さく速い呼吸を繰り返す荽梘に荊軻と枉駕は、やれやれ、と嘆息した。
「自業自得、本末転倒という言葉はあなたのためにあるようなものですね、荽梘。矜焃からあなた方に面識があり同じような考えを持つ者達をまとめる者もいる、という事は聞けました。何かほかに言いたいことがありますか?」
荽梘を見る荊軻の目は笑ってはいない。矜焃に見せたような穏やかさもどこかへ行ってしまっている。心底の侮蔑の目で見られて荽梘は、ぎりっと歯軋りするしかない。こんな鎖などなければ、荊軻や枉駕など自分の敵ではないのに、と思うと腑が千切れるほどに屈辱だった。
「まだありそうだな」
苦笑する枉駕に、まったく己を顧みないのですね、と荊軻も呆れてしまう。
「鎖さえなければ自分は我たちに勝てる、とでも夢を見ておるのだろうよ。滑稽なことだ。自分と他者の力の差も分からぬとは、話にもならぬな」
荽梘の腕を縛っている鎖を揺らしながら枉駕が嘲笑する。
「大方、自分の美しさも長と変わらないなどと不届きなことも考えておるのでしょう。この数日でよく分かりましたよ。その性根もさることながら、長と同等であろうなどと…。笑いもでませんね。あの方に比べればどれほどの醜女か。目に入れるのも悍ましいといいますのに…」
嘆息する荊軻に、醜女だと?、と渇いた声がかすかにした。真っ直ぐに荊軻を射るように睨みつける荽梘の目にはまだ怒りが灯っている。そうですよ、と視線を受け止めながら荊軻は吐き捨てるように言った。
「あなたは長が何たるかを知らない。己の欲だけで動き、紳様を欲しがる。あのお二人を見て分かりませんか?誰にもあのお二人の間には入り込めないのですよ。特にあなたのように己が一番秀でている、などと勘違いするような者など目にも入れようとなさらないでしょう」
「私のどこが長に劣っているというのだ!」
渇いた声を精一杯に張り上げるが、同時に喀血してしまう。それを拭う事さえ許されず荽梘は続ける。
「私が先に見つけたんだ。闘技の場で、当時の近衛隊隊長を瞬倒するあの方を。隣に立つのは私であったはずなのに、長の夜伽の相手になど望まぬものに就かされ、運良く長が懐妊したからと契りだと?ふざけるな!長なんてものがいるからそういったことが許されているのなら、長など要らぬ!いや、むしろ長にさえなれば欲しいものは何でも手に入れることができるのだろう?!あの女はたまたま長として産まれたに過ぎないのに、なぜ全てを持っていく権利があるのだ!」
大口を開けて叫ぶ荽梘の口に荊軻の矢が放たれた。かろうじて頭を起こしていた荽梘の顔が正面を向いたまま岩肌に縫い止められる。口内一杯に血が溢れだすが飲み込む事さえできず、荽梘の口から鮮血が流れ出した。続け様に左目と左頬、額まで穿たれて開け放ったままの荽梘の口から叫びが生じる。枉駕も止める事はしなかった。荊軻がやっていなければ枉駕がやっていた事だ。
「あなたは本当に愚かですね」
抑揚のない荊軻の声に初めて荽梘は身が震うのを感じた。動かせない身体がかたかたと震えて何十と突き立った矢が音を立てる。
「長がなんの苦渋もなく今の地位におられるとでも言いたいのですか?あの長がどれほどまでに自らを押し殺して里を、民達を護ってきてくださっているのかも知らないのですか?長であれば何でも手に入れられる!?思い上がるのも大概にしていただきたいですね」
続けて二本の矢が放たれて荽梘の首の左右に突き立った。気道を潰さなかったのは荊軻がまだ言いたいことがあるからで、温情でも何でもない。声を荒げる荊軻に枉駕も少しばかり狼狽する。共に500年、悧羅に仕えているがこれ程までに感情的に怒りを表に出す荊軻を初めて見た。
自分が悧羅に仕え始める前に、何かあったのかもしれない。
そう感じたが今だろうが後だろうが荊軻は話してはくれないだろう。けれど目の前の荊軻は怒りでわなわなと震えている。余程のことなのだろう、と枉駕は自分に言い聞かせた。とりあえず荊軻の隣まで行き弓を降ろさせる。あとは自分がやる、と言うと、申し訳ございません、と荊軻が大きく息をついた。
「…闘技といえば200年前が最後だな。紳様が近衛隊隊長に就かれたのもそこからだ。とすれば、お前の恋慕もそこからか。そこそこに根が深い」
応えることの出来ない荽梘に、ただ枉駕は話し続けた。
「だがお前は先代の事を知らないのだな。当代の長が就かれるまで、民達がどのような辛酸と苦渋を舐めざるを得なかったのかを知らない。…学びが足りぬのではないか?」
枉駕の声も冷たく響いて荽梘の身体がますます震えだした。枉駕には目を閉じていても昨日の事のように思い出せる。先代の暴挙、荒廃していく里と為す術なく息絶えていく同胞達のうずたかく積まれた屍の山。それはすべて荽梘の様に己の事しか考えていない先代の責だ。
「長が今の里を潤わせてくださるまで、どれほど自分を削られたか分からぬか?お前のような己の事しか考えぬ輩になど誰がついていこうと思うものか」
荽梘に近づきながら枉駕は鬼火の一つを短剣に変える。
「お前ももう少し血を抜いて頭を冷やした方がいいようだ」
言うなり枉駕は荽梘の首に短剣を突き立てた。荊軻が避けた気道の上から差し込まれて急激に荽梘は呼吸が出来なくなる。
「まがりなりにも鬼である以上、この程度では死なんだろう。痛みと苦しさにのたうちまわりながら己を顧みよ」
怒りのこもっていた荽梘の目にはすでに恐怖の色しか映っていない。矜焃にしろ荽梘にしろ長は荊軻と枉駕に任すと言った。ここで二人が息絶えようと、それで善と言うだろう。冷たい一瞥を投げて小さく舌打ちすると、背後で衣擦れの音がした。荊軻が動いたか、と振り向いた枉駕の目に映ったのは悧羅と紳の姿だった。格子を潜って中に入ってくる悧羅に、こんなところにおいでになっては、と荊軻が嗜めている。ちらり、と悧羅が荽梘の姿を見てくすり、と小さく笑った。
「…枉駕はともかくとして荊軻が心配での。これは日頃穏やかな分、歯止めが効かぬようになることもある故」
微笑まれて荊軻も大きく息をはいた。紳も荽梘の姿を見て、うっわぁ、と少しばかりたじろいでいる。
「矜焃の方も通りすがりに見て参ったが、こちらの方が荊軻の気に障ったようだの」
くすくす、と笑われて、面目次第もございません、と荊軻が肩を落としている。それに、良いよ、と悧羅は笑った。
「むしろ思っておったよりも軽い感じであったに。妾のためであろ?礼を言わねばならぬようだ」
ぽんぽん、と荊軻の肩を悧羅が叩くと、私もまだまだでございますね、とようやく荊軻が小さく笑った。十分でしょ、と紳に笑われて荊軻も肩を竦めるしかない。
「して、何故このような場に?」
枉駕が尋ねると、これに少し話があった、と悧羅が荽梘を指さした。
「妾の声は届くであろ?これら二人のことは其方達に任せておるに、妾が手出しはせぬ。これもそのままにする故、少しばかり紳と妾を残してくれぬか?」
荽梘の身体に突き立った矢や刀を示しながら苦笑する悧羅に、御意のままに、と二人が軽く礼を取って格子から出、そのまま矜焃の方へと歩いていった。背中を見送って、さて、と悧羅は荽梘に近づいた。
「あんまり寄ると血がつくよ」
紳が悧羅の手を引いて、ここまでね、と近づく距離を決める。分かった、と笑う悧羅を荽梘の視線が捉えたが、その目には恐怖の色しかない。まだ荊軻にしては甘いほうだがな、と小さく笑って悧羅は、荽梘、と声をかけた。
「話しとうても話せぬだろう。一つだけ其方の間違いを正しにきた故、話だけ聞いておるが良い」
間違い?、と荽梘は声を出したつもりだったが言葉にはならなかった。代わりに口から血が溢れだす。
「其方はたまたま妾が紳を手に入れた、と申したな。先に見つけたのは自分であった、と。200年も前から紳を想うておったに、妾が奪ったと言うた」
僅かに残った力を振り絞って荽梘の頭が動いた。是、という意味だろう。そこが違う、と悧羅は静かに伝える。
「妾と紳の縁は500年前から続いている。訳あって共におることが出来る様になったは子を授かったからだが、そうでなくとも紳は夜伽の任を解くな、と妾に乞うた。例え子を授からずとも紳は妾の側を離れる事は善とせなんだ。これが何を意味するか其方にわかるかえ?」
返事の代わりに荽梘の咳込む音が響いた。まあ、分からぬとは思うがの、と小さく嘆息する悧羅を紳が引き寄せる。汚れるよ、と自分の腕の中に悧羅を収めた。
「妾は長として子を成すためだけに500年夜伽を繰り返してきた。なれどその間誰からも精気を受け入れてはおらぬ。そして紳もまた妾を手にするまでの500年の間、誰とも情を交わしておらなんだ。なれど其方は違うであろ?一夜限りの情を交わし精気を分け合っておるのであろう?」
どういうことだ、と荽梘は頭の中で思った。鬼が精気を受け入れず、情を交わさないなどあり得ない。紳とて自分ではなくとも情を交わす相手はいるはずだと思っていた。
「500年は其方が思うよりも長い。其方が紳を想うておった年月の倍以上だ。それを耐え抜くのがどれほどのものか其方にわかるかえ?」
聞いた悧羅は苦笑して、分からぬであろうな、と肩を落とした。
「紳は良い男だからの。恋慕する気持ちは分かるえ。なれど、妾から紳を奪わんとするならば、次はない。加減も容赦もせぬ故、それだけは胆に命じや」
柔らかな声だったが否と言わせない何かがあった。笑いを含んだその声に荽梘はまた身体が震え出すのがわかった。
「それもここから出られれば、の話だがの。余程荊軻を沸らせたと見える。なれどまだ甘い方だのう…。元の形を留めておるとは思うておらなんだ」
くすくすと笑う悧羅の声に、荽梘の身体がますます震えた。話はそれだけじゃ、と場を去ろうとする悧羅を紳が止める。俺だって言いたいことあるんだよ?、と腕の中に留め置かれて悧羅は笑う。
「あのな、荽梘。闘技の場でも言ったけど俺にとって悧羅はこの世の全てなんだよ。悧羅に仇なすものは全部俺の敵だから俺だって加減も容赦もしない。500年想い続けてやっと手に入れた女をそう易々と手放すつもりもない。あと一つ言っとくと、俺、悧羅以外抱けないから。誰に何言われても、どんなに迫られてもそういう気持ちになれないんだよ。俺を男として沸らせられるのは悧羅だけなの。そういうわけできっぱり諦めてくれ」
そんな、と哀願するような荽梘の視線に気づいて紳が悧羅に深く口付ける。目を見開く荽梘に、何だったら、と悪戯に笑っている。
「何だったら俺がどうやって悧羅を慈しむか、ここでやって見せようか?」
「やめておくれ。その様な趣向はないであろ?」
悧羅に止められて紳は、残念、と笑っている。
「そんな事をしては紳にしかみせない妾を見せることになってしまうえ?よいのか?」
今度は悧羅から深く口付けて聞くと、そりゃ駄目だった、と紳が大笑いした。その姿を見つめる荽梘の目に涙が浮かんだ。
どうあっても届かないのだ。
例え自分が長になろうとも、悧羅を殺そうとも紳は自分のものにはならない。
ぼろぼろと泣き始める荽梘に紳と悧羅は笑って、共に格子を出た。荊軻、枉駕、と悧羅が呼ぶと先の闇の中から再び二人が現れる。
「お話はおしまいですか?」
冷静さを取り戻した荊軻が穏やかに二人に聞いている。頷く二人に笑う荊軻と枉駕に、あとは好きにしいや、と言い残して悧羅と紳は去っていった。
新章に入ってから一話が長いですね。
申し訳ありません。
それでもお楽しみいただけているなら幸いです。
ありがとうございました。