十年【紳・悧羅】《ジュウネン【シン・リラ】》
おはようございます。
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まったく、と紳は腕の中で微睡む悧羅を見やりながら厚い雲に覆われた空を見上げた。
「開」
呟くように言うと雲の合間から堅牢な門扉が現れる。両に開かれた門には薄紫の結界が揺らいでいる。宙を蹴って中に入ると背後で門が閉じた音が聞こえた。しばらく雲の間を進むと里が見え始めた。すでに宵闇に包まれ、今夜に限って月も出ていない。少しばかり視界が悪い、と紳は自らの鬼火を出して周囲を照らしだす。その光が眩しかったのか、悧羅がうっすらと目を開けた。
「起きた?」
悧羅に視線を落として尋ねる紳の胸に、すまぬ、と悧羅が擦り寄る。悧羅が紳にだけ見せる姿の一つだ。抱き上げる腕に力を込めて、無理しちゃ駄目だって言ったじゃないか、と戒める。
「無理をしたつもりはなかったのだが、妖どもを落ち着かせるために少しばかり惑わしを使うたからかのう。ちと怠い。紳は大事ないかえ?」
自分を省みずに紳を気遣う悧羅に、身体はね、と紳は苦笑する。一瞬悧羅がきょとり、としたけれどすぐに紳が言わんとすることを察したようだ。
「では宮に戻って湯を使わねばな。当てるつもりは無かったのだが…」
小さく笑いながら紳の頬に触れる悧羅に、こら、と紳が嗜めた。あまり触れられるとそこから熱が沸ってしまう。こうなっている時に不用意に触れてくれるな、と幾度も伝えているのに悧羅にはなかなか伝わらない。初めて悧羅が人の子を惑わした時のような感覚はあれ以来無かったが、それでも惑わしを使った後の悧羅に対して、紳が自分を抑えこむには刻がかかる。
当てるつもりが悧羅にはなくても側にいれば当てられるのが当たり前なのだ。あの妖艶な雰囲気の悧羅に抗う術など誰も持ち合わせていないだろう。唯一の倖は子ども達が皆寝静まっていてくれる刻に戻れることくらいだ。思う存分に紳は悧羅を組み敷く事が出来るのだから。
「つっても惑わしを使う必要があったかな?」
「話を聞く気がないようであったからの。致し方あるまいて」
王母に任された妖の戒めに紳と悧羅が向かったのは三日後の夜だ。言われた通りの場に向かうと大国さながらの妖達が諍いを起こしていた。僵尸が数多にいるが道士の姿はなく、どうやら逸れたようだ。加えて大蛇や混沌、邪魅、檮杌、窮奇までいては通常の手立てでは話も出来なかったのだ。まずは、話が出来る様にしておかねば先には進めない。そこで惑わしを使ったのだが、予想に反して効果は絶大だった。
雲の奥の国に入りたいのだ、という妖達に、それはならぬ、といい含め、これ以上の諍いを起こせば滅すると笑うと能力の違いをどうにか分かってくれたようだった。人の子を惑わすのとは異なり妖を惑わすにはそれなりの能力と胆力を要する。紳が共に来てくれていたのは悧羅にとって僥倖だった。そうでなければ里に戻るまで少し休息が必要だっただろう。
「これまでの妖達とは、ちと違うておったの。霊峰に近づかんとするモノも多なってきておる。用心せねばねるまいて」
腕の中で嘆息する悧羅に、最近多いよね、と紳も同意する。里を移して十年。最初の頃は霊峰に近づくモノも諍いを起こすモノもそこまで多くはなかった。王母も悧羅へ諍いを収める任を下すのも少なかったが、この所多くなってきている。王母が直に悧羅に伝えるということは、悧羅でなければ収められないということだ。
結局、悧羅に頼ってしまっている、と紳は少しばかり不安になる。闘技を開くのも悧羅の負担を小さくするためだが、すぐすぐには無理だろう。倖にも悧羅の背にある蓮の蕾はまだ三つ残っている。紳が悧羅と共に行くのは妖を滅した際に出る精気を獲るためでもある。紳が獲った精気であれば悧羅は受け入れてくれるからだ。それ以外では決して獲ることをしない。紳がそれを望んだ、ということもあるが悧羅自身も他から獲ることを善としていないのだ。
元々、精気を獲ることを善としていなかったが、媟雅を身籠ってくれたことで紳の精気だけは受け入れてくれるようになった。その際に民達からもらった大蛇の玉はまだ十分に残っているけれど、出来るだけ使いたくはない。これ以上、子どもが増えるとは紳も考えていないが紳が悧羅を慈しむことをやめない以上、可能性は無いわけではない。…やめようと考えたこともないけれど。いざと言う時のために残しておけるものは残しておいたほうが良いだろう。
悧羅が無理をした時に十分に分け与えてやれるだけの精気を紳はもっておかねばならないのだから。
抱き上げた腕から精気を流し込み始めると、ほうっと安息する悧羅の息が聞こえた。
「いつもすまぬ」
胸に擦り寄る悧羅に苦笑して、いいや、と紳は翔ける速度をあげた。当てられた上に可愛いことまでされてしまっては宮まで持たない。
「これは俺の特権だからね。宮についたらもう少し分けてあげられるから待っててね」
ちょっと疲れさせちゃうけど、と笑う紳に悧羅も笑う。
「それは覚悟しておかねばならぬの。楽しみに待つとしようか」
くすくすと笑う悧羅に、紳は肩を落とす。
「そういうところだって、いっつも言ってるだろ?本当に悧羅は俺を困らせるのが上手いんだから」
嘆息する紳に、良いではないか、と悧羅は笑い続けている。
「それは妾の特権であろ?」
「確かにそうだね。悧羅以外に俺を困らせる事が出来るのはいないかな」
二人で笑いながら話していると宮が見えてくる。翔ける速度を更に速めて紳は中庭に降り立った。宮も寝静まっていたが、磐里と加嬬が控えて待ってくれていた。おかえりなさいませ、と微笑まれて、紳が、ただいま、と返す。
「休んでて良かったのに。何かあったの?」
尋ねる紳に、いいえ、と二人は笑っている。
「御子方も先程まで待っておられたものですから。ご心配なさっておいででしたよ。特に媟雅姫様、啝珈姫様、忋抖若様が。皆様母君第一でございますれば。もう少し能力があれば一緒に行けるのに、と少しばかり悔しく思うておられるようでした」
「それはせんないことをしたの。もう休んでおるのかえ?」
紳の腕の中から悧羅が尋ねると、はい、と笑いを含んだ二人の声が返ってくる。
「明日も鍛錬があるのだから、と媟雅姫様が促されましたもので。朝にご無事のお姿を拝見されれば安じられましょう。湯殿の支度も整えておりますれば、ごゆるりと」
笑いながら礼をとって去っていく女官二人の背中を見送りながら、悧羅は小さく笑った。要は明日の朝には寝所に籠らず子ども達に姿を見せる様に、と言いたかったのだろう。紳を見ると同じように笑っている。悧羅を抱いたまま湯殿に向かいながら、困ったね、と苦笑している。
「出来ればぎりぎりまで抱いときたかったんだけど…。ある程度で収めないと子ども達に叱られそうだ」
「ほんにのう。子どもらには敵わぬて」
一緒になって笑いながら悧羅は紳に抱かれたまま湯殿の中に入った。脱衣場に入って、ようやく悧羅を降ろした紳と共に身体を清めてから湯船に浸かる。白い湯煙が立ち昇るのを眺めていると抱き上げられて紳の膝に座らされた。夫婦になって二十年、すでに当たり前になってしまった紳の行動だ。子ども達がいる時には出来ないが、二人の時は必ず悧羅を抱き上げて膝に乗せてくれる。
「うん、華は大丈夫だね」
共に湯を使うと必ずと言っていいほど紳は悧羅の背中の蓮と蕾を確かめる。寝所でも確かめているのだから、そうそう変わりはしない、と悧羅は笑うが紳にとれば悧羅の精気を知るために大切なことだ。里を移した時に咲いた華は薄紫ではなかった。光の加減かと思っていたが、明るくなって確かめてもそれは虹のように輝いていた。十年経った今でも、朝露が滴りそうなほどに艶やかだ。
それに口付けて、紳は安堵する。人の子の国にいた時よりも能力を行使することが多くなった悧羅の残りの華がいつ開くのか、実を言えば気が気でないのだ。倭の国と違い大国の妖達は個々の能力も強い。中には神格化に近いものもいる。近頃特に霊峰の周囲が騒がしくもあり、悧羅が出なければならないことも多くなった。
「本当にあんまり無理しないでよ?媟雅じゃないけど俺だって心配してるんだからね」
背後から悧羅を抱きしめて精気を送りこみながら紳が嘆息する。紳の胸に身体を預けて、悧羅は、大事ない、と笑って見せた。
「妾には其方がおってくれる故。無理をしとうてもさせぬであろ?灶絃、玳絃を宿しておった時もそうであったではないか」
里を移して一年ほど経った頃に身籠っている事が分かり、紳も悧羅も歓喜した。あと一人二人は望めるならばと思っていたのに、妓姣に診てもらったら、まさかの又双子だと言われて笑うしか無かった。一時的に通いにしていた磐里の娘子である棌絲と秌絲をまた呼び戻すことになったのだが、二人とも倖に満ち溢れた顔をして来てくれた。
だがそんな時でも王母からの務めは任される。怠い身体を押し殺して務めに向かう悧羅が見ていられなかったのだろう。産月間近にも現れた王母に紳は嘆願せざるを得なかった。
「せめて床上が出来るまでは王母の能力で収めてほしい」
一介の鬼神如きが王母に申し出るなど生命を取られても仕方ないと覚悟の上だったのだが、意外な事に王母は柔らかく笑っていた。
「お前はほんに私の子を自分よりも大事に思ってくれているのだな」
頭を下げ続ける紳に、王母は二つの褒美をくれた。
「これより娘の疲れがとれるまでは私が出よう。娘が戻るまではそうしておったのだから気に病むことはない」
感謝いたします、と深く礼をとる紳に、もう一つ、と王母は笑った。
「可愛い子らに私の名を与えよう。太元玉女。どれをとっても宜しかろう。少しばかりの護りにもなろうて」
「それはさすがに…」
驚愕する紳に、使うてくれると喜ばしいがな、と産月の近い悧羅の腹を触って王母は変わらない笑みをたたえるばかりだった。
王母が触れてくれたためなのか、さすがに五人目六人目ともなれば悧羅が慣れていたのか、するりと産まれた赤子たちに紳は灶絃、玳絃と名付けた。字までもらうわけにはいかなかったのでそこは変えたが、二人とも王母の音をもらった。
灶絃は白銀の髪に毛先が紫色。瞳の色も灰色の眼に瞳孔が紫だ。玳絃はその逆で紫の髪に毛先が白銀。瞳の色は紫色で瞳孔が灰色だ。二人とも額には黒曜石の一本角を有している。媟雅や皓滓よりも混じったものだ、と紳は喜びにまた満ち溢れながら笑うしか無かった。
その子ども達も随分と手が離れてきた。あんなに小さかったのに妲己の背に乗って駆け回っていた姿はもうなく、自分の足で翔ける事が出来るようになった。子ども達の声で賑やかさが溢れ返る宮は紳にとっても悧羅にとっても倖の場だ。
媟雅を授かっただけでも十分だったのに、と紳は小さく笑った。笑いの揺れが伝わったのか悧羅が、どうした?、と仰ぎ見ている。
「いや、倖だなって思ってね」
「何じゃ、唐突だの?」
そうでもないよ、と紳は悧羅を自分の方に向けて抱え上げた。目の前に悧羅の下腹の疵が映る。大分薄くなってはきているが、やはり引き攣れている部分もある。子ども達と入る時には隠してくれているが、紳と二人の時には悧羅は隠さないでいてくれる。疵痕にそっと口付けてそのまま顔を埋めた紳の頭を悧羅がそっと撫でてくれた。
「…何ぞ、思い出したのかえ?」
「ちょっとね…」
顔を埋めたままの紳に悧羅の柔らかな声が降ってくる。この疵だけは消えることはないだろう。契りの疵痕と同じように。
「…気に病んでくれるでないよ?今ではこれは妾の誇りでもあるのだから」
紳の顔を両手で包んで悧羅が小さく笑っている。抱きしめる腕はそのままに紳が悧羅を振り仰ぐと悧羅は紳に深く口付けた。
「紳がおらねば妾はまだ苦渋の中におったに。紳が妾に愛しまれる倖と子どもらをくれた。紳が全てをくれたのじゃよ」
唇を離した悧羅に艶やかに微笑まれて耐えきれずに紳は悧羅を引き寄せて中に入り込んだ。気持ちも身体の準備も無く入り込まれて悧羅が息を飲む。
「全てをもらってるのは俺も一緒だよ。一番欲しかった悧羅を手に入れて側においてくれると言った。それだけで良かったはずなのに、契りまで交わしてくれて子ども達まで俺にくれた。時々こんなに倖でいいのかなって不安になるくらいにね」
少し動くと甘い声が紳の耳をくすぐってくる。この二十年、幾度となく紳を沸らせてきた声だ。紳だけが聞ける、紳だけが見れる悧羅を強く抱きしめて動きを速める。一度湯殿から出て洗い場に悧羅を横たえると潤んだ目が紳を見上げる。白く細い腕が紳の頬に触れた後に首に巻きついた。
「寝所まで待てぬのかえ?」
乱れた息の中から微笑まれて紳は苦笑した。
「うん、限界かな?」
笑いながら悧羅に口付けると、やれやれ、と苦笑される。
「一回だけ赦してくれる?」
「…どこかで聞いたことのある言葉だの」
くすくすと笑いながら、悧羅は紳を引き寄せて口付ける。
「一度と言わず、何度でも其方のものにしてたもれ」
悧羅の言葉に紳も笑ってしまう。だからそういうとこだよね、と苦笑して紳は思う存分に悧羅を自分のものにすることにした。
お外はひさしぶりに晴れてますが、また夕方から雨のようです。
雨は嫌いじゃないです。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。