十年【子ども達】《ジュウネン【コドモタチ】》
おはようございます。
今日は雨です。
砂と埃に塗れて媟雅と忋抖、啝珈は宮に戻った。幾度と通った玄関の戸ではなく直接中庭に降り立つと縁側に座っている母の姿が見えた。降り立つ直前に母の目の前からふうっと消え去る陰も見えたがすでに姿はない。子ども達を見留めて母が優美な笑みを浮かべる。
「お戻りやし」
柔らかな声音にほっと三人は安堵の息をついた。三人の母は里の要となる長、悧羅だ。幼い頃は良く分からず、ただ優しく美しい母が自慢だったけれど成長するにつれその偉大さが分かってきた。さすがに幼い頃のように飛びついたりはしないけれど、飛びつきたくなる気持ちは母を見ると出てきてしまう。母の側に歩いて寄りながら、ただいま、と言うと立ち上がってそれぞれの衣や顔についた埃や砂を払ってくれる。齢十九になる媟雅や十七になる忋抖と啝珈にとれば少しばかり照れ臭いけれど、慈しみを込めた手で触れられると幼子に戻ったような気がして嬉しくなる。
「大分、気張ってきたようじゃの。怪我はないかえ?」
それぞれの頬に触れながら微笑む悧羅に、大丈夫、と三人が応えると、そうか、と笑みを深くする。痩身だが上背もある悧羅は媟雅や啝珈よりも少しばかり大きく、忋抖よりも少しばかり小さい。この母を護るために三人は日々鍛錬や学びを欠かすことをしないのだ。
「今日は舜啓に相手してもらったんだ。でもねぇ、舜啓ってば姉様相手だと本気出さないから、もうぼっこぼこにされてたよ」
忋抖が笑いながら悧羅に報せると、おやまあ、と悧羅が笑っている。
「舜啓は姉様をお嫁様にするってずっと言ってるもんね。啝珈達には本気でやってくれるけど姉様だと本気出せなくてやられちゃってんの。可哀想」
冷やかすような忋戸と啝珈に悧羅は、そうか、と笑っている。苦笑するしかない媟雅は小さく舌を出して見せた。あまり虐てやるでないよ、と悧羅に言われて、分かってる、と返す。物心ついた時から舜啓は自分の嫁になるのだ、と媟雅に言い続けていた。小さい頃は訳も分からず媟雅もそうなるのだろうと思ってはいたが、大きくなるにつれてそれで良いのかと思うようになった。別に舜啓の事を好いていないわけではないのだけれど、悧羅の腹にいた時から決められていたと聞いては、それは自分の為人を知っての事ではなく、悧羅の娘だから嫁に取りたいのではないかと考えるのだ。そう思えば簡単に言われた通りに嫁に行くわけにもいかない。
父である近衛隊隊長の紳も、母である悧羅も特段押し付けるような事を言わないのが救いだ。
「媟雅の思う通りにすれば良い」
二人にそう言ってもらえて安堵したのは秘密にしている。媟雅にも理想の相手がいる。紳と悧羅の様に唯一無二の相手を探したい。舜啓に、紳以上の男でないと駄目だ、と言ったのもそういう意味だ。強さは二の次で良い。要は相手を慈しみあえるかどうか。そういう相手と共に過ごしたいだけだ。冷やかし続けている弟妹を放っておくことにして、下の三人の弟達は?、と悧羅に尋ねる。
「湯を使っておるよ。皓滓が灶絃、玳絃を入れてくれておる。お前たちも湯を使っておいでやし」
柔らかな微笑みを浮かべたままで優しく言われて媟雅は笑ってしまう。忋抖、と弟に声を掛けると、分かってるよ、と下の弟達が入っている湯殿に向かった。
「じゃあ姉様、啝珈と一緒に入ろうよ。露天で良いよね?支度しとくから」
啝珈が飛びついて媟雅を誘う。いいよ、と媟雅が言うと、やった!、と嬉しそうにぱたぱたと走って行った。十七にもなって姉と湯を使いたがる妹に媟雅は苦笑するしかない。走って行く姿を小さく笑いながら悧羅は見ている。幼子のようだ、と言う悧羅に、甘えん坊はなおらないみたいだね、と媟雅も笑った。
「母様、王母様がおいでになってた?」
中庭に降りる直前に見た陰が気になって聞くと、先程の、と悧羅がまた縁側に腰を降ろした。
「急ぎのこと?危なくない?」
尋ねる媟雅に、悧羅はゆっくりと首を振って見せた。
「少しばかり霊峰の中腹で妖どもの諍いが絶えぬらしい。急ぎではないが戒めよ、と言うてきただけじゃ。どうにも大国の大妖たるモノが倭に渡ったようでな、均衡が崩れかけておるのであろ。危ううはないで案ずるな」
簡単に言ってる、と媟雅は嘆息する。媟雅達の住まう場は十年前に悧羅がそれまで居を構えていた倭の地上から里ごとここに移した。十にもならない媟雅だったけれど、その時の悧羅の能力に魅せられて身震いしたのを覚えている。ただ能力を使い過ぎると悧羅が疲れて伏せってしまうことが心配だった。あの時も丸一日寝込んだのだ。目を開けてくれるのかと子ども心に泣きたくなったのを思い出す。
「本当に無理しない?大丈夫?」
「大事ない。少しばかり戒めてくるだけじゃて。無理はせぬと約束しようかえ?」
心配する媟雅に悧羅は微笑むばかりだ。でも、と言う媟雅にもう一度悧羅は、大事無い、と言って聞かせる。
「妾が一人で行かぬことは知っておるであろ?父様が許してくれぬのでな。紳がおって妾が無理を出来るとおもうかえ?」
笑って言われて、確かに、と媟雅も肩の力を抜いた。父が共にいくのはいつものことだ。共に行って母に無理をさせるような父ではない。
「でも、行く時は教えてね?心配するから」
「あい分かった。おや?噂をすれば…」
くすくすと笑う悧羅を見ていると媟雅の後ろで、とん、と地に降り立つ音がした。振り向くと父である紳が立っている。お戻りやし、と立ち上がる悧羅に紳は真っ直ぐに歩いて寄り添うと、ただいま、と悧羅の頬に口付けている。媟雅達、二人の子どもにとっては見慣れた光景だ。
「二人してどうしたの?何かあった?媟雅はまだ湯も使ってないじゃない」
笑う紳に王母の話を悧羅がすると、なるほどね、と紳は笑った。媟雅の気持ちを慮ったのだろう。大丈夫だ、と媟雅の頭を撫でる。
「里を移した時に悧羅が寝込んだから、余計に心配になるんだよな。媟雅も忋抖も啝珈も分かる年頃だったから」
うん、と頷く媟雅に紳が笑う。
「あれ以来寝込むなんてことなかったろ?俺が側にいるんだから大丈夫。媟雅が思う様なことにはさせないからね」
うん、と再び頷いていると、良い子だ、と紳が媟雅の頭をくしゃりと混ぜた。それはそうと、と悧羅に紳が向き直る。
「闘技の件、枉駕も乗り気だったよ。荊軻にも了承もらってきた。ただ、出る年頃だけはきちんと示してくれってさ。でないと、うちの下三人も出るって言い出すからって」
「おや、それは宜しゅうことだの。なれど余り無理はさせてくれるな。妾は気が気でならぬ故」
分かってるよ、と悧羅の頬に触れる紳の後ろから、何の話?、と声がかかった。三人で振り向くと濡れた髪を拭きながら忋抖が皓滓、灶絃、玳絃を連れてやってきている。その後ろには啝珈がいて紳を見つけるなり、おかえりなさい!、と飛びついた。
「ただいま。何だよ、啝珈もまだ湯を使ってないのか?」
勢いよく抱きつかれても動じずに啝珈を抱きとめて紳は笑ったが、足元にも父様!、と下の子三人にしがみつかれて少しばかり紳もよろけた。おっと、と言いながらも紳は笑っている。子ども達は紳が怒っているところを見たことがない。いつも優しい父が皆大好きなのだ。
「だって姉様と一緒に入ろうって言うのにぜんぜん来ないんだもん。支度したのに遅いから迎えにきたの」
頬を膨らませる啝珈に媟雅は、ごめんごめん、と謝った。
「で、なんの話してたの?」
弟達を呼び戻して濡れた頭を拭いてやりながら忋抖がもう一度尋ねる。闘技が何とか言ってたよね?、と促されて、地獄耳め、と紳が苦笑する。
「若い鬼達で力試しの大会を開こうと思ってさ。自分の実力がどの程度か知るのに丁度いいしね」
「え?そんなのあったの?俺知らなかったよ?昔からあったの?」
きょとんとする忋抖に先代のときは毎年あってたね、と紳が応える。
「悧羅が立ってからは二回かな。悧羅は不要いに民達が傷つくの嫌がるから。何かあれば自分が動くってさせなかったんだよ」
ね?、と聞かれて悧羅は苦笑する。闘技といえど真剣勝負になる。多少の怪我は仕方ないが出来れば民達には傷ついてほしくはないのが本音だ。
「ならどうして母様が許したの?矛盾してない?」
問う忋抖に悧羅は苦笑するしかない。
「悧羅のためだって俺がお願いしたんだよ」
悧羅の代わりに紳が応える。母様のため?、と子ども達は皆きょとりとしてしまう。
「悧羅が無理しちゃうのはみんな知ってるだろ?大きな事は悧羅が動かなきゃならないからね。でもその悧羅を護るのは俺たちでも出来る。特に里も大きくなってきてるし、優秀なやつは隊に引き入れて、四方八方任せられるようにしたいんだ」
ふうん、と啝珈が紳から離れた。
「でもさ、先代までは毎年のようにやってたんでしょ?じゃあ、母様も出たことあるの?長なのに?」
素朴な疑問だったのだろう。考えあぐねるように首を傾げて聞く啝珈に、仕方なかったからの、と悧羅は頷いた。
「妾は次代の長とならねばならぬことを隠しておったに。出らねば不信がられるでの」
「でも母様出ちゃったら瞬殺じゃない?」
媟雅にまで聞かれて悧羅はますます苦笑する。隠しておったというたであろ?、と笑って言う。
「当たった奴が可哀想だよね」
忋抖の言葉に、悪かったな、と紳が苦笑する。父様なの?、と驚く子ども達は次には母様強かった?、と聞いてくる。強いも何も、と紳は推し迫られて、ちょっと落ち着け、と子ども達を嗜めた。
「悧羅、本気なんて出さずに俺に負けたんだよ。酷くない?俺の面目丸潰れだよ」
「…わざと負けたの?母様が?」
目を丸くする啝珈に、悧羅は、目立たぬようにしておきたかったのだ、と笑う。
「見破られるなど思うておらなんだがの。紳には通用せんだったようでな」
小さく笑いながら言う悧羅に、ええ?、と子ども達は不服そうにする。
「そんなんで勝っても父様嬉しくないよねぇ」
皓滓が声を上げると灶絃、玳絃まで、そうだよねぇ、と声を揃えている。悧羅が苦笑していると紳までも、だってさ、と笑ってくる。妲己に助けて欲しいところだが、子ども達が戻ってくる前に咲耶の邸に使いを頼んでしまった。
「仕方なかったのだよ。出らねばならぬならキリの良いところで負けておこうと思うておったでな。たまたま相手が紳であっただけのこと故。誰が相手であろうとそこで帰ろうと思うておったに」
そう責めてくれるでないよ、と小さく笑いながら悧羅は子ども達に頼んだ。でもねぇ、と納得のいかない子ども達に今度は紳が笑い始める。
「だけどそれがあったから俺は悧羅を嫁にとれたんだよ。悪いことばっかりじゃないでしょ?」
そうなの?、と媟雅が目を丸くする。それは初めて聞く話だ。そうだよ?、と紳はいともなげに笑っている。
「悧羅はその頃から秀でて綺麗だったからね。妲己も連れてたから目立つ目立つ。ちらちら悧羅の事見てる奴は多かったね」
「母様だもんね。それは仕方ない」
座った膝に灶絃、玳絃に座られて身動きの取れないまま忋抖が笑っている。だろ?、と紳も同意している。
「じゃあ父様は母様が長だって知ってたの?」
啝珈に聞かれて紳は、いいや、と応える。
「その時は知らなかったよ。打ちあって、こいつだ!、って思っちゃったんだよね。でも俺が勝っちゃったから試合してる間に悧羅帰っちゃってるしさ。探した探した」
思い出して可笑しくなり紳は声を上げて笑う。よく見つけられたもんだ、と笑う父に子ども達は呆気にとられた。簡単そうにみえるが幾ら里が荒廃しつつあったとはいえ民達はまだ多くいたはずだ。
「なんでそこまでして探したの?」
媟雅の問いに紳は笑って、一目惚れしてたから、と肩を竦めてみせた。それって何年前?、と聞いたのは皓滓だ。いつのまにか悧羅の横に立って手を繋いでいる。
「500年かな?」
はあ?、と子ども達から今度は驚愕の声が上がって紳はますます声をあげて笑っている。父母が逑になったのは媟雅が宿ったのがきっかけだと聞いていた。だとすれば二十年程度のはずなのだ。よもやそんなに長く紳が悧羅を想っていたとは知らなかった。何でそこまで、と呆れたように言う忋抖に紳は指を立てて見せる。
「こんなにいい女ほかにいるか?俺には悧羅がどうしても必要だったんだよ。それだけの事だ」
「それだけって…」
言葉を失う子ども達に、まあ良いであろ、と悧羅が笑った。その500年の間に何があったのかなど知らなくても良いことだ。笑いながら悧羅の頬に触れてくる紳を目で嗜めると、ごめんごめん、と笑いを含んだ詫びが返ってきた。悪いなどと思うておらぬくせに、と思いながら悧羅は闘技の話に戻す。
「して、齢は幾つからにするつもりなのじゃ?」
小さく息をつく悧羅に、こいつら出たがるでしょ?、と紳が媟雅や忋抖、啝珈を指差した。出る!、と手を挙げた忋抖と啝珈を見て、ね?、と紳が苦笑する。
「だから十七が頃合かな?」
「まあ仕方あるまいな」
嘆息する悧羅に、やった!、と忋抖と啝珈が破顔した。その二人に、でも、と紳が釘を刺す。
「本気でやれよ?お前達の力が今どの程度なのか見極めることにもなるし、見習うことも沢山あるだろうから。媟雅もだぞ?もしも舜啓と当たっても手加減してもらえると思うなよ?俺たちの子だからって遠慮する必要はないって前もって報せは出すつもりだからね」
分かった、と頷く三人に、よし!、と紳はまた笑った。僕も出たかったなあ、と言う下の三人に悧羅が、もう少し大きくなってから、と諭すと、はあい、と諦めた返事が返ってきた。良い子じゃ、と皓滓の頭を撫でてから、まだ湯を使っていない三人に湯殿に行くように促した。
「悧羅は?入ったの?」
紳に聞かれて、まだだ、と応えると空いた手を引かれた。
「じゃあ一緒に入れるね」
破顔する紳に悧羅は苦笑する。子ども達も、また始まった、と笑うしかない。悧羅の手を繋いでいる皓滓に忋抖が戻ってくるように言うと悧羅の手を離して忋抖の側に歩いていく。
「見とくからゆっくり入ってきていいよ」
悪戯な笑いを浮かべられて紳は、ばぁか、と笑いながら悧羅の手を引いて湯殿に向かった。
「じゃあ姉様、啝珈達も入ろうよ。もう啝珈べったべたで気持ち悪い」
手を引かれながら媟雅は思う。500年もの長い間、母だけを想い続けた父のことを。どれだけの想いだったのか媟雅にははかりしれない。父母は何も言わないが、きっと互いにしか分からない何かがあったのだろう。今はまだ知れなくともきっといつか話してくれるはずだ。
その時にその想いを理解できるような者になっていたい。
やはり父母のような逑を自分も見つけたいものだ、と妹に手を引かれながら媟雅は思いを馳せた。
秋になってきたのでしょうか?
少しばかり冷え込むようになりました。
皆様もご自愛くださいね。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。