十年【重鎮】《ジュウネン【ジュウチン】》
もう少し骨休め?です。
卓の上に重なった大量の文書の一つ一つに目を通しながら荊軻は淡々と認可の印をしたためた。どれもこれも里の拡張や水路の整備などを申請するものだ。里が移されて十年。人の子の国に居を構えていた時に長である悧羅が里を守る為に張っていた結界が解かれたことで、里を広くしたいのは分かる。何より民達の数が増えてきたのだから、広くする必要があるのだ。
里を移した時には十万だった民の数もこの十年で二十万に迫る勢いだ。手狭になって当然だった。とはいえ、急激に広くするわけにもいかない。穏やかな場であるとはいえ、広くすればそれだけ隊士達の見廻る範囲は大きくなるし、統括する近衛隊隊長の紳や武官隊隊長の枉駕にも負担がかかる。一番負担がかかるのは長である悧羅だ。
結界を解いたとはいえ、民達が精気を獲りに行く際に開く門扉には外界からの妖を入れないための新たな結界を張ってもらっている。礎となるのは荊軻が目をつけていた鬼達の結界術だが、それを強固にするためにその上から悧羅の結界で覆っている。里全体を悧羅が護るよりも悧羅自身への負担は少ないだろうが、悧羅の役目はそれだけではない。この地に近づこうとする妖の排除や威嚇、人の里での妖への粛清などは王母から直々に悧羅へ求められる。隊士達に任せられるものは任せるが、王母直々であれば悧羅にしか出来ない、ということなのだから頼るしかない。
隊士達の今の役目としては里の見廻りと迷い込んだ人の子をそれぞれの里に帰すくらいだ。
「元々そのつもりで妾らを呼び戻したのであろうて」
悧羅は笑っているがそれでは余りにも悧羅への負担が大きい。そう進言してみたけれど、大事ないと一蹴されてしまった。言い出したら荊軻達が何を言っても聞かないのが悧羅だ。唯一、推し通せるのは伴侶である紳の言葉だけだ。悧羅に危害が及ぶ事を善としないのは皆同じだが、自分を慈しむ紳の言葉だけは悧羅を止める事ができる。悧羅が王母から任される妖への対応の際も紳が同伴でなければ駄目だ、と言い出し苦笑する悧羅に是と言わせた。
紳様にしかできないことですけどね、と荊軻は小さく笑ってしまう。
逑になって二十年は経とうかというのに、紳と悧羅の仲睦つまじさは変わらない。いや、変わらないというよりも日毎、年毎に増している。その姿は荊軻達重鎮達もさることながら、民達にも安息を与えてくれている。里に悧羅が降りても側にいる紳は宮にいる時と変わらずに悧羅を慈しむ。当初の頃は戸惑っていた民達も最近では慣れたものだ。むしろ、その姿がないと安心できないとも言う。あの二人のような唯一無二の逑を探すのだ、と言うものも少なくない。特に童達からそういう声があがっている。里に降りた悧羅や紳にもそう言って寄ってくるそうで、二人とも苦笑していた。
とはいえ、里の要となる長とその伴侶が倖の手本となることは喜ばしい。もう少し紳には抑えてほしいものだが、と一度言ったこともある。けれど紳の返答は、
「悧羅が可愛いのが悪い」
だった。本当にもう、と嘆息するしかない荊軻だったけれど、美しく艶やかで何より里で一番の強さを持つ長に対して可愛いなど言うのは紳くらいのものだろう。紳が伴侶となって二十年、悧羅も表情が豊かになってきているし以前のように自分を犠牲にして長たろうとする痛ましい姿は見られなくなった。荊軻にとってはそれが何より喜ばしい。悧羅が一人で支えた500年が決して楽なものではなかった事を知っている。だからこそ、誰よりも倖になってもらいたいという思いを荊軻は抱いていた。
まあ倖であることには違いないとは思っている。里が移って程なくして悧羅は身籠った。それも、再び双子を。里を無事に移したことへの王母からの褒美であったのかもしれない。男児二人が増えてますます賑やかになったけれど、子を望めなくしていた悧羅にとっては何よりの倖だろう。
灶絃、玳絃と名付けられた二人は今八つになる。宮で師に学びながら妲己との手合わせも行なうようになった。
「将来有望だ」
相談役の栄州が目を細めながら言うだけのことはあり闘技において秀でた才を発揮しつつある。それに追い越されまいと上の媟雅、忋抖、啝珈、皓滓も鍛錬や学びに力が入っているという。追い越す追い越さないは別にしても互いに高めあえるのは良いことだ。六人の子らは悧羅と紳の子であるのだから大きな力を秘めていることは間違いがない。けれどそれに慢心することなく鍛錬し姫や若という立場をひけらかすこともせず民達と共に過ごしている。これは紳と悧羅の子を育てる上での規範なのだろう。
紳と悧羅の子で姫様、若様と呼ばれていても民達と何ら変わらないのだ、と二人は子ども達が物心着く前から言い聞かせていた。
その命に優劣などないのだ、と諭していたからこそ子ども達は自分に何が出来るのかを考えて動いている。里の友人達に困っている事などはないか付き合う中で尋ね、子が親に話すようにこんな事を言っていた、と紳や悧羅に話す。子の視点はなかなかに鋭いもので他愛もない会話の中で対処するべき事が見えることもあった。何かと助けられているのだ。こうなってくると栄州が、優秀な鬼が一人でも多く必要なのだ、と言い続けた意味も分かる。
あの二人の御子だからこそだろうけれど、と荊軻が認め終わった文書を巻き取っていると部屋の戸が叩かれた。どうぞ、と返すと枉駕と紳が連れ立って入ってきた。
「お二人で共に来られたのですか?」
席を立って茶を淹れる場に移りながら荊軻は尋ねる。共に持ってきたいものがあった、と言いながら枉駕は椅子に腰掛けている。今朝の朝議の時には何も言っていなかったが?、と思いながら茶を淹れて二人の前の卓に置く。
「邪魔じゃなかったかな?」
出された茶を啜りながら紳が尋ねる。いいえ、と荊軻も自分のためにいれた茶を啜った。正直文書ばかり見ていて飽きていたところだ。二人が来なくても休息をとっていただろう。なら良かった、と笑う紳と裏腹に枉駕は、大丈夫だと言ったでしょうと苦笑している。
「座って文書ばかり見ているんですから。暇ですよ」
「いえ、それが私の務めなのですよ?」
豪快に笑っている枉駕を嗜めるように荊軻が言うが枉駕は、ぬかせ、と笑っている。
「お前の務めは長をお叱りすることであろうが。文書の確かめなど二の次よ」
失礼な、と苦笑する荊軻に紳も苦笑している。悧羅を叱るなど紳にはできない、と以前重鎮達に任せた。基本、叱るのは荊軻の役目になっているので枉駕の言う事もあながち間違いではないのだ。
「ところで何を持ってきたのですか?よもや私を揶揄うためだけにおいでたのではないのでしょう?」
少しばかり嘆息して荊軻は促した。ああ、そうであった、と枉駕が手に持っていた文書を荊軻に差し出す。
「今揶揄っておいて文書ですか。まったく…」
「まあそう拗ねるな」
皮肉を言ってしまう荊軻の背中を枉駕がばしばしと叩いて笑う。俺は何にもいってないからね、と二人の姿を見ながら紳は笑うばかりだ。やれやれ、と文書を開いて目を通し始める。内容は里の若い鬼達を集めて闘技を催したいという旨のもののようだ。
「…闘技…ですか」
呟いた荊軻に枉駕と紳は頷いている。
「何故今になって?私の記憶が正しければ現代の長になられてから闘技が行われたのは二回のみです。長として立たれて100年目と200年前。紳様が当時の近衛隊隊長を瞬倒された時ですね。どちらも栄州殿がどうしてもと仰って長もやむ無くと許されたのですが…」
先代までは毎年行われていた闘技を悧羅は好んでいない。鬼であれば強さが求められるのは当然だが、持ち得る能力で他者を虐げ能力有れば無為に使って地位を求めたり、とあまり望ましくない傾向があったからだ。先代の時はそれが顕著だった。
「鬼たる者強くあらねばならぬがそれは自身と手の届く範囲の大切な者達を護るために使って然るべき。手の届かぬ場は妾がおる」
200年前の闘技終了後に次の闘技を催したい、と申し出た栄州へ悧羅がかけた言葉だ。先代の愚行を知っているからこそ悧羅は身体的な強さだけを求めていない。真の強さは心に在る、と言いその後の闘技に関しては否と思え、との事だった。以来、闘技という言葉を出すことも荊軻達は控えていた。紳が近衛隊隊長に就く少しばかり前の事なので、紳が知らないのは仕方ないにしても枉駕は知っているはずだ。
「今だからこそだ」
首を傾げて訝しむ荊軻に枉駕も笑いを止めて向き直った。
「長が闘技を好まれないのは知っている。けれど今の長は王母に任せられる務めに出られる事も多かろう?それは我ら一介の鬼の能力が長に遠く及ばないからだ」
「まあそうですね。当然のことですがそれも長が長たる所以でしょう?それと闘技とどのような関わりがあるのです?」
ますます首を傾げる荊軻に、だから、と枉駕は笑う。
「せめて里の守りくらいは案じていただきたいだろう?我らとて歳をとってゆく。闘技自体はこの穏やかな場では必要のないことかも知れんが、行末を見据えたときに有望な若者は隊に引き入れておきたいのだ。長をお護りするには必要なことだろう?」
「それに自分の今の強さを知るってのも良いことだよ?これだけ安寧に暮らせてたら忘れるかも知れないけど、俺達は鬼なんだから。何かあったときに自分と周りを守れるくらいにはなってて欲しいんだよね。…考えるのも嫌なんだけど、もしも悧羅がいなくなった時に慌てず騒がずでいて欲しい。隊士達の士気も上がるだろう。でも一番は優秀な者がいたら引き入れて叩き上げて、部隊を少し分けたいんだよ」
なるほど、と荊軻は頷いた。民達が増え里の拡大を図ろうとしている今だからこそ、確かに必要なことかもしれなかった。里の中心に武官隊も近衛隊も隊舎はある。そこから毎日見廻りに出ているわけだが要は効率が悪いわけだ。隊を少なくとも二つ、三つに分けそれぞれに小隊長を配して置いておけば、隊長職である枉駕と紳の負担も減る。
「それだけじゃない。今の若者達は自らの判断で動くことが少ない。俺や枉駕が直轄しちゃってるから考えなくても指示を待ってしまうんだよ。これじゃあ、何かあった時に自分の考えで動けない。何が最良で何が最悪か考えができなくなってるんだ」
それじゃまずいでしょ、と紳は飲み終わった湯呑みを机に置いた。
「我も紳様も若者達の前途を照らしたいのだ。我らがおらなんでも道を違えることがないように心身ともに鍛えてほしいのだよ」
ばしり、とまた背中を叩かれて荊軻は、痛いですよ、と枉駕を嗜める。二人の言いたいことは分かるしとても重要だとも思う。荊軻の元に新しく文官として入る者も、知識だけあればいいというわけではない。心技体揃って初めて文官も務められる。枉駕が言うようにただ文書に目を通してばかりではないのだ。報せを受けた場に赴き手順を示し、任せられる所まで持っていくのか務めなのだから。しかし二人の言う通り、全て荊軻の指示を仰ぎ自らの力量でどうにかしてみようと思う者が少なくないのは確かだった。
「仰りたいことはわかりましたが…。長が何と仰せになられるかは私には分かりかねますよ?闘技自体お好きな方ではございませんからね」
ちらり、と紳を見ると、心配ない、と手を振っている。
「悧羅には許しもらってるから」
「おや?どうやって説き伏せたのですか?」
頑なに闘技を反していた悧羅が許しているとは荊軻には俄かには信じ難い。簡単だよ、と紳は笑っている。
「ぜんぶ悧羅のためだって言っただけ。あとあんまり無理すると俺と一緒にいれる刻が短くなるかもしれないから勘弁してってお願いしたかな」
悪戯を考えているような笑みで言われて荊軻は思わず笑った。前者だけなら悧羅は頑として許しなど与えなかっただろう。後者の方が余程悧羅には痛手だ。さすがに扱いが手慣れている。
「惚気ですか?」
「惚気だろうな」
苦笑する荊軻と枉駕に紳は、至って真面目だよ、と笑っている。
「本当に失いたくないからってお願いしただけ。聞き分けてくれて良かったけどね」
「…やはり惚気ではないですか」
笑いながら荊軻は巻き取った文書を卓に置いた。悧羅が反じていないなら荊軻に否という道理もない。
「わかりました。ですが準備はお任せして宜しいのでしょう?」
笑ったままの荊軻に、もちろんだ、と二人が首を縦に振る。
「報せを出す時には頼るが良いか?」
「それくらいでしたらお手伝いいたしますよ。年齢の制限はかけておいて下さいませね。でないと皓滓様や灶絃様、玳絃様達まで出ると仰せになりそうですから。あまり童を加えないようにしてください」
確かに、と紳が笑っている。
「あいつら悧羅を護るんだってずっと言ってるから。そんなのがあるって知ったらきっと出るって言い出すね。拗ねるだろうけど、そこは悧羅に任せようかな」
お二人にお任せいたしますよ、と荊軻は微笑んで受け取った文書に許しの印をしたためた。
もう少し骨休め?にお付き合いください。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。