十年【咲耶・舜啓】《ジュウネン【サクヤ・シュンケイ】》
間が空いてしまいました。
新章に入る前に、ちょっと休めで日常回を少しばかり。
「つっかれたぁ」
診療所の椅子で大きく伸びをして咲耶は卓に突っ伏した。窓から差し込む光はすでに沈みかけている。開いた窓からは心地よく涼しい風が入り込んでくる。窓の外を見やりながら風に身体を任せると、ふと思い出した。
あの夜から十年だ。
山の怒りが起きた夜に悧羅の鬼火が邸に現れた時には、来たか、と思った。月に一度の診察で宮を訪れた時に新たに華開いた悧羅の右肩の蓮と背中の五つの蕾については聞いていた。それがいつなのかは分からないと言っていたけれど、そう遠くもないだろうと悧羅は笑っていた。
さすがに里全体をそのまま動かす、などと聞いた時は無理だと反対したがそれはいとも簡単に起きた。里自体が地から切り取られ、天空に現れた堅牢な門扉から降りてきた大きな白い雲の手で抱えあげられ迎えられるかのように、この地に降ろされた。
懐かしい、と思ったのは咲耶だけではなかったようだ。咲耶の逑である白詠も子である舜啓も佟悧もそれを感じたようだった。何だろう、という思いもすぐに馴染んだ。里自体が動いたのだから暮らしに変化はなかったが、変わった事といえば、周囲に張り巡らされていた悧羅の結界が解かれた事と、下界と行き来する際にこの地と繋ぐ言の葉を唱えなければならないことぐらいだ。
下界にいた時のような四季はなく年中穏やかな気候なので過ごしやすいのは嬉しかったが、時折は肌で四季を感じたくて降りてしまう。
悧羅も特には禁じてはいないので、多分悧羅自身もそうしているのだと咲耶は思っている。
あの子らしいっちゃあの子らしいよね、と窓から見える宮を眺めて咲耶は小さく笑った。久しぶりに積もる話でもしに行こうか、と思っていると、ただいまぁ、と戸が開けられた。
「おかえりって、ここ家じゃないからね?」
笑いながら戸口に目を向けると舜啓が立っていた。だがその姿を見るとぼろぼろになっている。顔や身体は打ち込まれたのであろう痣や出血、衣も破れ埃まみれだ。
「また、随分とやられたねぇ」
卓から身を起こして頬杖をつくと、うるさいよ、とぶすっとして診療台の上に腰掛ける。腰に差していた刀を引き抜いて横におく舜啓は今年で齢二十三になった。
背丈もすでに咲耶を越して、どちらかと言えば咲耶似の線の細い男になっている。漆黒の髪に漆黒の眼。加えて額の一本角。親である咲耶が言うのも何だけれど、なかなかに見め麗しい。あれほどに悧羅に懐いて幼かった舜啓を思い出すと少しばかり笑顔が漏れた。決して巨躯ではないが二十になったと同時に近衛隊に入隊し、日々鍛えられている。そのためかここ三年の身体つきは見違えるほどに均整が取れてきた。
「だって今日に限って、せっちゃん来てるんだもん。紳の力が入りすぎるんだよ」
咲耶が投げた手拭いを受け取りながら舜啓がぼやく。せっちゃんとは紳と悧羅の長女の媟雅の事だ。舜啓は媟雅が産まれた時から嫁にすると決めている。だが、媟雅にその気がないようでいつも軽くあしらわれてしまうようだ。
「父様以上の男でないと駄目」
そう言う媟雅も十九になるが紳に大刀の扱いを直々に習っている。元より悧羅と紳の子だ。二人の子達は基礎的な事は宮で妲己と紳に教わっている。時折近衛隊の鍛錬に混じって紳に稽古を付けてもらいにくる。その媟雅に舜啓は手が出せない。
「今日はせっちゃんも一緒になって叩くんだもん。これくらいで済んでまだ良かったよ」
「どうせまた媟雅に手出せなかったんでしょ?いつもの事じゃない」
笑いながら傷の手当てを始める咲耶に、仕方ないだろ?、と舜啓が嘆息している。
「将来のお嫁さんに酷いこと出来ないし。傷でもつけたら紳から殺される」
「その前に媟雅が嫁にきてくれるってもなってないけど?諦めたら?」
からかうような咲耶に舜啓が、嫌だよ、と笑う。
「生まれる前から俺のお嫁さんって決めてたんだし。悧羅が俺との約束守ってせっちゃんを産んでくれたんだから。…諦めないならどうにかなるって紳が教えてくれてんだ」
まあそらそうよね、と咲耶は苦笑した。紳と悧羅は長い年月をかけて逑に収まっている。舜啓のような数十年ではまだまだ足りないほどに。今里が安定しているのも、悧羅の力が衰えをしらないのも紳が側にいるからだ。
「だったら一回くらい媟雅と本気で闘りあってみたらいいじゃない。それなりにいい線いくんでしょ?」
「だから!駄目だって。本気で闘ったらほんとに傷つけちゃう」
「いやさ、本気で闘ってあんたが媟雅に勝ったら媟雅だって少しは考えてくれるかもしれないじゃない?」
手当てを終えて治療道具を片付けながら言う咲耶に、駄目だよ、と舜啓が大きく背伸びをした。どちらにせよ紳以上にならないと考えてももらえないと言われている。例え媟雅に勝ったとしても、まだ舜啓は紳には敵わない。幼い頃から宮に出入りして、舜啓も妲己や紳に稽古はつけてもらっていた。だが力を付ければつける程、紳との差を見せつけられるばかりだ。
「小さい頃はちゃんと俺のお嫁さんになるって言ってくれてたんだけどなぁ。気が変わるのが早いって」
診療台にごろりと横になりながらぼやく舜啓の頭を咲耶は叩いた。そこは寝床じゃない、と言ってみるが舜啓は気にしていないようだ。毎日のことだからいい加減に覚えてほしいものだが、舜啓にとれば改める気がない。幼い頃から咲耶の診療所は舜啓にとって第二の邸だ。咲耶の務めには妹の佟悧と共に日々入り浸っていたし、その咲耶から医術を叩き込まれる学舎でもあった。
「それってまだ媟雅が十歳になる前の話でしょ?あんたが言い続けてたから一種の刷り込みみたいなとこだったんじゃない?」
呆れて言う咲耶に、まあそうなんだけど、と舜啓は寝転がったまま伸びをしている。幼い媟雅は何のことか分からずに、舜啓の嫁になる、と言っていた。宮に行くたびに舜啓が、大きくなったら自分のお嫁さんになるんだよ、と言い続けて遊んでいたから。
「刷り込みでもいいでしょ?嫁に行く先を知っといてくれないと」
成長すれば変わって当然だ、と咲耶が言うが、それにも舜啓は、まあそうなんだけど、と笑っている。正直、媟雅でもなくても舜啓に恋慕する鬼女は多い。言ってしまえば引く手数多だ。その中から選べばいいものを、と言う咲耶に舜啓は嘆息してみせた。
「そうすりゃ楽は楽だよね」
舜啓とて男だ。恋慕されて嬉しくないわけなどない。まあいいか、と思ってしまったこともある。けれど、その都度何かが違うとも感じた。情を交わしていてもそれはついて回る。他の鬼女といる時は極力宮にも行かず過ごすが、媟雅を見ると引き戻される。案外と刷り込まれているのは自分の方かもしれない、と舜啓は苦笑するしかなかった。
「でもせっちゃんがいいんだもん。仕方なくない?一回でもせっちゃんとそういう関係にでもなって、それで違うってお互いなれば俺も納得するしかないけど。何もないまま全否定されてもねぇ」
「…それ、親にいうか?」
笑う咲耶に、隠したって仕方ない、と舜啓は笑う。食べて寝るように他者と情を交わすのは鬼の本分だ。契りを交わす相手を見つけるまではそれを繰り返す。咲耶だって白詠を見つけるまではそうであったし、それを否定しようとも思わない。唯一知っている異質は紳が悧羅を手に入れるまで500年もの間、誰とも情を交わさず悧羅だけを想い続けたことだ。それがどれだけの胆力とどれだけの強い意志であるのかは同じ鬼であるからこそ分かる。
確かに舜啓の言うことも一理ある。そういう関係になれば自分が望む者なのか分かる。けれど、齢十九の媟雅がそれを望むか、と聞かれれば是とは言えないだろう。何より紳がそれを知れば発狂してしまうのが目に見えている。紳と悧羅にとって子ども達は全て愛しい子ども達だが、媟雅だけはまた特別な思いがあるのは否めない。
「まあでも、その内せっちゃんも折れてくれるんじゃないかな、と期待はしてるんだけどね。…折れてくれないと困るんだけど。ところで佟悧は?」
肩を竦めながら起き上がって舜啓が尋ねる。咲耶の診療所に舜啓と四つ違いの妹が揃って邸に戻るのがいつもの日常だ。舜啓が診療所に来る頃にはいるはずの妹の姿がないことに、ようやく気づいた。
「往診に出したっきり帰ってこないのよ。また、何処かで油売ってんじゃないかしらね」
笑う咲耶に、何だ、と舜啓も笑う。一度出たらなかなか戻ってこないのは佟悧の悪い癖だ。咲耶の後を継いで医術を学んでいる佟悧に軽い症状のものなら任せているが、どこをどう間違ったのか一度出すとなかなか戻らない。奔放というか理に小さくまとまらないのは良いことだが、誰に似たのかと思ってしまう。白詠に言わせれば、間違いなく咲耶だ、と笑っているが咲耶自身あそこまでは無かったように感じてしまう。
それでも務めはしっかりと果たすから自由にさせている。
「それじゃあ、いつになるか分からないね。俺もさすがに疲れたしちょっと精気でも獲ってから帰るかな」
笑う舜啓に、気をつけなきゃ駄目だよ、と言うと分かっているとでも言うように手を振られた。診療台から降りて刀を腰に差すと、よいしょ、と舜啓が立ち上がった。
「近いうちに若い鬼達の闘技を開くって紳が言ってたんだよね。精気を枯渇させといちゃ駄目だし。ちょっと行ってくるだけだから」
笑う舜啓に、あらそうなの?、と咲耶は驚く。悧羅の代になってから先代まで毎年のように行われていた若い鬼達の能力を推し量る闘技はあまり行われなかった。記憶に新しいのは約200年前に行われた闘技で紳が近衛隊隊長に就いた時が最後だったような気がする。何かあれば悧羅が動く、と言い民達を守るようにしていたからだ。けれどある意味闘技は男女が知り合う場でもある。紳と悧羅の出会いもそこだった。
「珍しいね。久しぶりにそんなのあるんだ。よく悧羅が許したもんだ」
驚き続ける咲耶に舜啓が笑う。
「隊士達の士気を上げるためと強い鬼を出すためだよって紳が悧羅を説き伏せたって言ってたよ?紳は悧羅を護れる鬼を育て上げたいみたいだから。ぶれないよねぇ。ぜぇんぶ悧羅、悧羅。悧羅が一番なんだもん」
「ぶれないだろうね。紳にとっては悧羅が全てだから」
そこは分かる、と舜啓も笑っている。元々舜啓は悧羅を嫁にとるつもりでいたのだから。
「俺が譲ったんだから大事にしてもらわないと困るんだよね」
戸を開けながら、母さんはどうするの?、と聞いてくる。
「佟悧も帰ってこないし、もう少し待ってから久しぶりに悧羅のとこにでも寄っていこうかな、と思ってるよ。あんたは良いの?悧羅も媟雅もいるよ?」
久しぶりに悧羅に会いたいんじゃない?、と聞かれて舜啓は考える。確かにしばらく会っていないし会いたいのは会いたい。舜啓にとっても悧羅は特別だ。幼い頃はただ偉いのだ、としか分からなかったが成長するにつれて悧羅が如何に偉大かが分かった。幼い頃から名前で呼んでいるので今も名前で呼んではいるが、偉大さを知れば知るほど失礼な事をしているのではないかと葛藤した。それを近衛隊に入隊することを悧羅に報せに行った時に伝えてみたのだが、悧羅は笑い飛ばした。
「舜啓は妾の子のようなものじゃ。一時は嫁にとってくれるとも言うてくれておったであろ?今になって長など呼んでくれるでないよ?淋しゅうなってしまうであろ」
艶やかな笑顔で言われて、じゃあ紳もいいのかな?、と尋ねる舜啓に、もちろんだ、と紳も笑った。
「人前では隊長って呼ばなきゃなんないだろうけど。普段の時はいつも通りでいい。変わる方が嫌だしね。お前と佟悧は俺と悧羅の子同然だ。つっても俺らの子ども達も俺たちを名前で呼ぶことなんてないから、お前らすっげえ特別だぞ」
酒を酌み交わしながら当たり前のように言ってくれる二人が嬉しかった。
「何しろ舜啓には悧羅を譲ってもらった恩もあるんでね。譲ってもらっておいて、しかも悧羅がそれが良いって言ってんどから俺に反対なんて出来るわけがない」
「そういえばそうだった」
笑う舜啓の盃に酒を注いでくれながら、それでも悧羅の手を繋いで離さない紳に、どちらにしても敵わなかっただろう、と思ったのは秘密だ。
あの二人を見ていると舜啓自身も倖な気分になる。思い出してそういう間柄に自分も媟雅となりたいものだけれど、と舜啓は小さく息をついた。
「会いたくないわけじゃないけど夜に行ったら邪魔しちゃいそうだしね。今度ひょっこり行くから良いよ。母さんも行くならあんまり長居しちゃ駄目だよ?紳の機嫌が悪くなったら、明日俺にぶつけられるんだからね」
診療所の戸を開けながら言う舜啓に、分かったわよ、と咲耶が手を振った。ほんと頼むからね、と言い置いて戸を閉めた舜啓の背中を見ているとまた小さく笑顔が溢れてしまう。
「ほんとうに大きくなっちゃったのねぇ」
ぽつりと呟いて咲耶も診療所の灯を消した。
何だか強い台風が近づいているみたいですね。
気をつけておきませんと。
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。