哀絶《アイゼツ》
やっと、ここまで辿り着きました。
慣例通りの礼をとって、紳は、静かに眼前に座している悧羅を見ていた。夜伽の期間が始まるのは、明日の夜に迫っている。悧羅がどう思っているかは分からない。ただ、黙って紳を見ているだけだ。どれだけの刻が流れたか、それとも紳が長く感じていただけなのか。ふと、悧羅が小さく溜め息をつき、すまぬな、と言う声が聞こえた。その視線は、しっかりと紳と合っている。何に対して謝られているのか、紳には分からなかった。
「英州に押し切られたのであろう。其方には、要らぬ心労をかけてしまう」
それに、いえ、と紳は応える。
「私などより、長におかれましたほうが…」
頭を下げて詫びながら、自分の事を気遣ってくれていると、嬉しくも感じてしまう。
「夜伽の期間は、約一月。その間のみ、耐えてもらえるかえ?」
思いがけない悧羅の言葉に弾かれた様に、紳は顔をあげた。悧羅は夜伽を受け入れると決めていたのだ。
だが、それは、あまりにも…。
恐れながら、と紳は自分の考えを悧羅に告げる。自分如きが、悧羅に触れることは赦されない。言葉を紡いだ紳に、悧羅からの返答はない。出過ぎたか、とも思ったが悧羅を傷つけないためには最善の方法だとも思う。しばらく目を伏せて考え込んでいた悧羅は、そうか、と溜め息混じりに応えた。
「其方が、そう望むのであらば妾に異などない。じゃが、夜伽の礼はかせねばならぬ。何なりと申してみよ」
長の夜伽の相手を務めた場合、褒美が与えられるのが慣例だった。望むものは全て与えられる。今までも、金銀財宝や望む土地、出世など申し出るものが多いと聞いていた。だが、出世したからといって力量がなければすぐに降格になっていたけれど。礼など不要、と紳は言ったが、慣例である、と悧羅も退かない。
望むものが、無いわけではない。出世や金などは、どうでもいい。望んできたものは一つだけだ。だが、これを伝えても、良いものか分からなかった。けれど、千載一遇の機会だ、とも思われた。
考え込む紳を静かに悧羅は見ていた。夜伽の相手の名に紳が上がった時は、心底胆が冷えたが、日が経つに連れ少しずつ落ち着きを取り戻すと、わずかばかり期待している自分がいることに気づいたのだ。
夜伽という名目があれば、紳も否とは言えぬ筈。
忘れ去ろうとしていた感情に心が揺さぶられた。
けれど、礼を取りに来た紳は、思いがけない案を出してきた。
部屋には入るが手は出さない。それでも目を誤魔化すには十分だろう、と。
悧羅には、否ということが出来なかった。期待していた事も気取られてはいけない。やはり、紳の中で、自分にだけは触れたくない思いが続いているのだ。
やはり、妾にだけは…。
つきり、と下腹が引き攣るのが分かる。静かに大きく息を吸うと痛みも幾分かは紛らわすことができそうだった。下腹を抑えていると、恐れながら、と紳の声がした。どうやら、考えがまとまったようだ。
「願いをお伝えする前に、長にお詫びしとうございます。私が今から述べる願いは、長のお心を傷つけてしまうやもしれません。故に、断っていただいてもかまいませぬ」
承知した、と悧羅は頷いた。紳は座している姿勢を正して悧羅を真っ直ぐに見る。膝に置いた拳に力が入って小さく震え出した。
「私の願いは3つございます」
申してみよ、と悧羅は静かに応えた。
「1つ、夜伽の期間の間のみ、名を呼び礼を取らぬ事をお赦し頂きたい」
意外な言葉に、悧羅は小さく首を傾げた。そんなことが褒美になるのかさえ分からないが、許す、と頷く。悧羅の言葉に安堵して息をつき、紳は続ける。
「2つ、…もしも…、もしも長が私と床を共にするのを嫌悪なさらないのであれば…。一度だけ、貴方様に触れさせていただきたく存じます」
これにも又、悧羅は小首を傾げる。もともと、夜伽の相手として選ばれているのだ。別段、許しを与えるものでもない。悧羅からしてみれば、紳の方が拒んでいるように見えていたから。
「其方が、妾に触れることを善とするのであらば、妾に否を申す理などない」
その言葉に紳は安堵の溜息をついたが、すぐに思い直した。悧羅は、紳が自分に触れることが嫌でないなら、と言っているのだ。
やはり、あのことを覚えている。
自分のしたことが、悔やまれてならない。もしも、あの時違う道を辿っていたら、こんなに長い間、悧羅を苦しめることなどなかったのに。唇を噛む紳に、して、3つ目は?、と悧羅が促した。握った拳に力が入り、汗をかいているのが分かる。2つ目の願いの答えで、今も悧羅を傷つけ続けているのを十分すぎるほどに感じている。それでも。
「お恥ずかしい願いでございます。戯言と聞き流していただいても、かまいませぬ」
拳を床につき、僅かに頭を下げる。申してみよ、と静かな声がかかった。大きく息を吸って、紳は目を閉じた。
「私の三つ目の願いは…、長と契りを結びとうございます」
悧羅が息を呑むのが、頭を下げていても紳には伝わった。場の空気も止まったように感じる。
「身の程知らずとは存じております。私などが、長に申し上げてもよい願いでもないことも承知しております」
悧羅は応えない。
「…500年…、あの時よりずっと悔やんでおりました。手を離してしまったのは私です。赦されるはずもない。それでも、貴方様に想いを寄せる事を終いには出来なかったのです。過ぎた刻が戻らぬのならば、せめて、この先一生を貴方様に捧げとうございます」
何が起こっている?
頭を下げて小さく震えながら言葉を紡いだ紳を、悧羅は凝視するしかできない。控えていた妲己だけが、威嚇するように立ち上がっている。
契りたい、だと?
下腹の痛みは徐々に強くなってくる。引き攣れるような痛みを押し殺すと、ただ可笑しくなり、声を上げて笑ってしまうと弾かれたように紳が顔を上げた。それを見やって、必死に笑いを堪える。
「其方が、それを申すのか?」
笑顔とは裏腹の冷たい声が響いた。紳の背中に冷たい汗が流れる。青ざめていく紳の顔が、どんどん滲んでいく。下腹の痛みも、どんどん増していく。長、それは、と言いかけた紳の言葉を悧羅は遮った。
「あの時、妾に穢れていると申した其方が、それを申すのか!」
自分が涙を流していることにさえ悧羅は気づかない。立ちあがろうとしたが、それも叶わなかった。下腹の痛みでそのまま蹲ってしまう。主!、という妲己の声と、長!と呼ぶ紳の声が交錯する。
何故、今になって…。
触れるな、と妲己の声がしたが痛みに悶絶する悧羅には、遠い声に聞こえた。冷え切った身体にふわりと温かいものが触れる。そこで、悧羅の意識は途切れた。
夏の嵐でしょうか?筆者宅周辺は朝から豪雨で、雷の音も凄かったです。
皆さまのお住まいは、晴れでありますように。