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7/20 午前1時頃、記載整備しました。
怒涛の一日が終わった。
清凛は自室の扉を開け、気怠さの命じるままにふらふらと寝台まで近づき、履物も脱がぬまま、ともかく泥のような疲れに押されて、寝台にうつ伏せに寝そべった。勢いのまま体は沈み、背中から押し付けられているような重力を感じる。
(疲れた…)
夏国から周家の主の花嫁として来訪した姫君、明琳。藍色の星のきらめく夜空のような瞳の佳人は、天人の如く俗世からかけ離れた、まるで一瞬にして世俗を忘れ霧の立ち込める仙境へと迷い込んでしまった心地となるかのような、そんな時ところを忘れる程に美しき顔の姫君だった。
その姫君明琳に、ひとまずの居室を案内し、婚礼の披露目に向けて今日明日の段取りを説明する。それがまた一苦労だった。
『…?』
説明のところどころで、明琳ははその美しい顔を少しばかり傾け、美しく細い眉尻を下げて、困ったように微笑する。言葉は聞ける、わかるとのことだったが、それでも明琳の知る世界とこの秋国とでは細かな文化が違うのだろう。物の呼び方、例えば建物のつくり、道具、小物類。それから生活習慣。それらの名詞が通じたり通じなかったりと、ちらほらと不具合が現れる。それを、なんとか通じるようにと平易な言葉で言い換えていくのがなかなか難しい。
(幼い子供に説明するのと同じ苦労かしら…)
とはいえ、明琳はそれで不機嫌になったり、腹を立てたりする様子はない。おっとりとこちらの説明を待っている。そういうところは、いかにも育ちの良い淑女のようで、清凛にとってある意味助かるところである。
(お人柄は穏やかで、感情の起伏が少なそうな方だわ。基本的には機嫌よく微笑まれていて)
言葉に何度もつまづいて、明琳に理解できるように言い換えていくことに、清凛は若干不安を感じないでもなかったが、明琳は大人しく清凛の説明を受け入れる。そのうちに、もしかしたら、清凛が面倒になって説明を端折れば、それはそれで受け入れるかもしれない、と思うようになった。
(それは困るわ…。子規様の奥方様だもの、もっと毅然とされなくては)
(私如き一介の侍女に阿るようでは駄目)
そう呟きかけ、清凛ははっとする。
「私、何様なの…」
(品定めみたいなことを。子規様の奥方様に相応しいとか、相応しくないとか)
(そんなこと、私には口出しする資格はないのに)
(…でも)
(でも)
若様の奥方様なのだ。
本当だったら清凛だったかもしれないのに、明琳こそが、あの周藍の花嫁になるのだ。
(…どうして)
やるせない行き場のない思いが、清凛の胸の奥から湧いてくる。
打ち消しても打ち消しても、かつて夢見た確かな筈だった未来が、清凛こそが花嫁として周藍の隣に並び立ち、朱金の婚礼衣装に皆から祝福される光景が頭を離れない。
けれど現実、周藍の花嫁として明日披露されるのは、あの言葉も満足に話せない、ただ鷹揚に頷くばかりで貴人としての誇り高さを見せない、美しいだけの明琳なのだ。
(醜い。捨てたいのに。どうして。…こんな気持ちなんて)
(私は侍女なのよ。明琳様の、若様の奥方様の、一の侍女になったというのに)
清凛は、寝台にうつ伏せて埋めていた顔を左に傾け、広がった自分の髪を見た。左手を通し、梳いて、その黒髪の先を摘まんだ。
(…)
特別美しい髪という訳ではない。けれども、それなりに手入れもしていて艶のある、清凛の髪。茶味がかってこっくりと黒い髪は、清凛の腰ほどまでも長く、癖なく真っすぐと伸びている。
(この髪…)
(…この髪があれば)
周藍の花嫁ともなる明琳の、紗の下の、男とも見紛う短さの栗色の髪。
それはそれで、明琳の柔らかい雰囲気のままで、可愛らしくはある。人によったら、清凛の黒い髪こそ野暮ったい、冷たいと感じるだろう。
だが一般的には、女性の髪は黒くて艶やかな程美しく、真っすぐに伸びるほど麗しく、淑女に相応しい髪なのだ。清凛の髪のように。
ごちゃ混ぜに散らばったこころの行き場を抱えて、ふと、清凛は思う。
(花嫁に用意された簪。高貴な女性の長い髪のための、紅玉と真珠で花を象った金細工。しやらしゃらと繊細に葉を連ねた銀細工)
(私の長い黒髪。明琳様の短い栗色の髪)
(結うこともできない短さの、明琳様の髪)
(…髪はまたのびる)
明日婚礼の披露を行う明琳と違って、清凛には婚礼の予定などない。周藍の花嫁になるどころか、父の不始末があった今となっては、ひょっとすると結婚の機会など、もうないのかもしれない。
(私は、明琳様の一の侍女。一の侍女なのよ)
(この髪があれば、…)
指の力を緩めていくと、摘ままれた髪はさらさらと少しずつ落ちていく。
しばらくそれを眺めてから、清凛はそっと身を起こした。
寝台脇の小物箪笥から、銀色の鋏を取り出す。
(…どれくらいあれば足りるかしら?)
(明琳様の髪は、このくらい…)
(……)
清凛は自分の髪に鋏をあて、放す。また一筋、髪を摘まんで鋏の刃をあて、放す。そしてもう一度、左手で自分の黒く長い髪を摘まみ、耳の下、ほとんど髪の生え際から慎重に鋏の刃を当てた。
鋏の柄を持つ右手を大きく開く。そして閉じる――
――誰かが戸を叩く音がした。
ぱらぱらと刃が切り落とした黒く長い髪が、寝台の白い敷布に散らばる。ほんの少し。一束にもならない、ほんの少しだけ。
それでも清凛はその切り離された髪を食い入るように見つめてしまう。
再び、小さく戸を叩く音が繰り返される。二度、三度。
「はい。今出ます」
ふ、と一呼吸つき、清凛は鋏から手を離し、寝台を降りた。指先にまだ痺れるような感覚が残っている。それを認識しながら、戸の内鍵を外し薄く開いてそこにいる誰かを確認する。
「……。コンニチハ」
「明琳様…いかがされました?」
月が円く満ちるような笑顔を浮かべて立っていたのは、少し前に就寝の挨拶を交わした筈の明琳だった。
「スコシ…、…」
明琳は自分と清凛を交互に指す。いや、お互いを指すというよりは、お互いの口を指している。明琳の白く細い人差し指が、何か祝福を振る舞う小さな呪いの杖のように互いの間をくるくると動き、突然はっと止まった。
「…? …」
「いえ、これは…」
星空のように澄み切った藍色の瞳を瞬かせて、明琳は清凛の短くなった一房の髪を見つめている。
「…、……」
「あの、少し手元が狂ったと言いますか、明琳様が気にするようなことでは。…見苦しくて申し訳ありません」
明琳は唇を引き結んでじっと見つめている。清凛の短くなった髪を見つめ、言い訳するその口元を見つめ、視線は更に上に上がって、清凛の瞳をじっと覗き込んだ。
明琳の訴えかけるような視線に耐え切れず、清凛が身じろぎもできず固まっていると、明琳はふと、薔薇の唇をほころばせ微笑する。
心とろかすような春めいた微笑に清凛が一瞬魅入ってしまううちに、明琳は徐に清凛の腕をとった。
「……」
明琳は自身の両腕で清凛の腕を抱き込むようにしたまま、扉を超えて清凛の部屋に入り、腕を絡ませたまま器用に扉の内鍵を閉める。そしてそのまま、戸惑う清凛を引き連れて寝台へと向かう。
「…、…。イッショ」
明琳はとんとんと寝台を叩いて示した。肩から清凛を押し倒すようにして寝台に上がらせ、布団に押し付けて寝かせようとする。驚きで力が抜けた拍子に清凛が横たわってしまうと、隙を逃さずさっとその上に布団をかける。そして自身もその横に潜り込む。
「明琳様、まさか、ここで寝られると?」
「イッショ。オヤスミナサイ」
とても良い笑顔だった。
「いやいや、そんな訳には…!」
慌てて起き上がろうとした清凛を制し、明琳は人差し指を口元に充てて静かにするように仕草で伝える。清凛があっけにとられているうちに、明琳は寝台の端に出しっぱなしになっていた鋏を取り上げて刃を閉じ、小物箪笥の上に置いて、ふうっと一息で灯りを消した。
「明琳様、何を‥!」
「ヨル。シズカニ。…」
尚も抗う清凛をものともせず、明琳は布団の上から清凛に抱き着く。抱き着き方の加減なのか、清凛にとっては不都合なことに身動きしても布団から脱することができない。そうこうしているうちに、明琳は小さく鼻歌まで歌い出した。
(子守歌? ここで?)
「明琳様、私は、…!!」
「…、…。オヤスミナサイ。セイリン」
明琳の笑顔は崩れなかった。
清凛は、主が花嫁として披露される結婚式の前夜、主と共に一つの寝台で眠ることになった。
お久しぶりです。毎日眠いです。4時間睡眠が続いております。
いろいろ生活リズムが変わりましたが、ようやく今回、少し書くことができました。
引き続き頑張りたいです。先は長いかもですが、何卒宜しくお願いいたします。




