序 3
秋国王の命により夏国王の娘が嫁して来る。婚姻の時期は三月と決まり、彼は所領の屋敷にて、妻を迎えるための準備を進めた。やがて二月、その娘が夏国を立ち秋国王宮白焼宮へ入ることを知らされ、面会のために彼は陽王から再び白焼宮に呼び出された。
未来の妻は、春帝国皇族であることは伏せられるとしても、義理とはいえ夏国王の娘、彼とその娘との婚姻は国と国との間で定められた政略結婚である。彼は水軍の将として武官の準正装で臨み、赤葡萄の織りに襟裾に金糸で蔦の紋様が縁取られた上衣、白の下衣を纏い、くすんだ金にも見える黄褐色の帯を締め、その帯には細い金鎖を飾りに垂らしていた。
案内されたのは前回のように陽王の執務室ではなく、大広間でこそなかったものの、正式な謁見の間の一つであった。扉の向こうには既に、陽王、秋国宰相松宣がおり、少し離れて、夏国第二王子明韻が立ち、一人の娘に付き添っている。
娘は三国外の市井で見つかったとのことであったから、留学経験があり、三国外の事情に明るい明韻が世話を任されているのだろう。この明韻と顔を合わせるのも、彼は久しぶりであった。明韻が数年前に秋国を訪れた際、縁があり、随分と親身に声をかけてもらったことがある。彼は軽く会釈をし、隣の娘に視線を向ける。
娘は薄い藤色の紗を被り、夏国らしく紗の下は淡い水色の衣服のようだった。紗でその顔は見えないが、女性にしてはやや身長が高く、また華奢な体躯であることは見て取れる。
娘の姿を認めた瞬間、どくっと彼の心拍が跳ねた。背筋が居心地悪くざわつき、悪寒にも似たその感触に、彼は思わず、左手で自身の胸を押さえる。
(何だ。何が‥、)
「来たか」
陽王が声をかける。彼は叩頭した。
「陽王陛下の御招聘により、周藍、罷り越しました。夏国王子範依殿には、久方ぶりにお目にかかる。ご健勝のようで何より」
範依とは夏国王子明韻の字であり、成人男子は通常この字をもって呼ばれる。口頭で本名を用いるのは、目上の者が目下の者を呼ぶとき、また家族や友人など親しい者が呼ぶときに限られる。
彼の字は子規であった。
「お言葉いたみ入ります。子規将軍、お久しぶりですね。‥貴殿は、ご壮健で過ごしていましたか」
誰に対しても丁寧な物言いをする、貴公子然とした夏国王子明韻は、彼の顔を眺め、やや困ったように眉端を下げて問いかける。彼の身を案じる明韻の声に、彼は答える言葉もなく、ただ微笑を返した。
陽王が何か言いたげに目を眇める。彼と二人きりであったなら、こいつが壮健な訳がないだろうとか何とか、きっと悪態の一つや二つ聞かされたところだろうが、さすがに秋国宰相と夏国王子が同席する場では陽王も控えたのだろう。かすかな舌打ちの音が聞こえたが、結局何も言及しなかった。
「‥人は揃った。ご紹介いただけるか。夏国王子殿」
「承知いたしました。では‥明琳」
明韻は後ろに立つ娘に声をかける。
「こちらが、件の娘です。既に父|夏国王明理の娘として誓いを立てて参りました。リンと呼ばれていたそうで、あちらでの名にちなみ、名を明琳と得ました。さ、ご挨拶を」
「‥夏国王ノ娘、明琳、デス」
(‥っ!!)
藤色の紗を被った娘がぎこちなく声を発したとき、彼は心臓が止まる思いをした。
(その声は、‥そんな、まさか‥)
「紗をとり顔を見せるように」
陽王が固い声で告げる。夏国王子明韻は頷き、その明韻を見て娘は言われるままに紗を取り、その顔が露わになる。
明るい栗色の髪は短く、男と見まごう程に切られていた。それは三国の名家の女性にはありえない、夫を亡くし世俗を離れたと公言する寡婦か、刑罰の一環として髪を切られた罪人であるかのような短さである。だが、その顔は神がその輪郭を描いたかのように狂いなく精緻に整った美しさを誇り、陶器のような滑らかな白い肌に赤く色づく頬と唇は、花開いたばかりの朝露に濡れた薔薇のように可憐で清楚であった。
そして、何よりもその、星のきらめくような藍色の瞳。
「‥陽梨!! 貴様、これは‥!!」
瞬時に彼は陽王の名を呼び、その胸倉を掴んでいた。どくどくと心臓が音を立てている。あまりの事態に頭ががんがんと割れる程痛く、怒りで視界が赤く染まるようだった。
「なぜ!! どういうことだ! 仕組んだのか貴様!!」
「子規将軍! 陽王陛下に無礼であるぞ、手を下ろしなさい、すぐに!!」
王の胸倉を掴み今にもその首を締めあげようとする彼に、宰相松宣が叫び止めようとする。だが彼は従わない。彼が手を出し怒りをぶちまける相手が、何よりも尊い筈の自国の王であっても、そのような無礼な振る舞いが、彼の命を処することになろうとも、そんな些末なこと、どうでも良かった。
(これは、誰だ。死んだ筈だと。だがこの顔は、この声は、)
(それがどうして!! 妻だなどと!!)
「こんなことが! 許せるか! ‥陽梨!! 何とか言え!!」
鬼気迫る形相の彼に、陽王は息苦しさに顔を顰めつつも、何も言うことはないとばかりに無言であり、抵抗を見せない。その態度がまた、彼の激昂も何もかもが陽王の予想の範囲内であるように思われ、彼の怒りを煽る。かっとなって彼が更に手に力を込めた瞬間、
「-----!! ----?」
その彼の手にそっと白い細い手が重ねられた。
「-----。-----? ----」
明琳と名乗った娘だった。陽王を締め上げる彼の手に、明琳は自分の手を重ね、穏やかな眼差しで何かを呟き、悲しそうに首を横に振る。
そのひんやりした明琳の手に、彼は思わず手の力を緩め、その藍色の双眸を見た。
「-----。------、-----」
「‥喧嘩はいけない。手を放して、お話ししましょう、と言っています」
夏国王子明韻が言う。明琳が小さく頷く。
「-----。----、------」
「手を放して。彼も貴方も、どちらも苦しそうです、と」
明韻もまた、神妙な目で彼を見すえている。彼の手が堪えきれずぶるぶると震える。明琳はその彼の手を、優しく、ゆっくりと撫でた。何度か明琳のその細い手が彼の手を撫でるのを見ているうちに、高ぶった心は収まり、やがて彼は、力なく陽王から手を放した。
放されるままに陽王が床に崩れ込み、何度か激しい咳をして、急に自由になった呼吸を貪る。陽王は宰相松宣に支えられながら身を起こすと、呆然自失した彼の胸倉をふらつきながらも左手で掴み返し、容赦なく一発、右の拳で彼の腹を殴った。
「っ!!」
「‥この馬鹿が」
不意打ちに受け身を取りつつも、彼は近くにあった椅子を巻き込んで転倒する。
「顔を殴らなかったのは慈悲だ。花婿に青あざをつける訳にはいかないからな。‥此度のことはこれで不問。松宣、いいな」
「仕方ありませんな。まさか、これ程までとは思いませんでしたが、‥。子規将軍、ご自分が何をなされたか、わかっておられますか」
普段は彼に好意的であった宰相松宣が、この時とばかりは険しい顔をしている。彼は硬直したまま、それでも何とか頭を働かせる。
他国の人間の目のあるところで、王に対し暴力を振るった。到底許されることではなく、首を差し出しても仕方ない場面である。彼の感情は依然収まらす嵐の如く荒れ狂っているが、彼の理性は何を言うべきか理解していた。
「‥陽王陛下の御慈悲に感謝する」
「不問だ、松宣」
「は‥」
平身低頭して命乞いをしてもおかしくない場面で、彼がようやく吐いた言葉に驚き呆れながらも、松宣は陽王に頷く。陽王は床に倒れ込んだままの彼を見下ろし、つと、夏国王子明韻と明琳に目を遣った。
「客人には恥ずかしい場面を見せた。戯れだ。目を瞑って頂きたい」
「‥陽王陛下が、ご友人に寛容なことはよく理解致しましたよ。まあ、父明王もいろいろと非常識ですから。それに比べればこれくらい。‥子規将軍の人柄は存じております。きっと、看過できない何かがあったのでしょう」
「ご理解いただき、ありがたく。して、明琳姫は」
陽王の問いかけに、明琳は小さく首を傾げる。
「明琳。陽王陛下が、貴女をお気遣い下さっています。-----、-----?」
「-----。-----」
「----。‥少し驚きましたが大丈夫だと。
陽王陛下、子規将軍、明琳は、言葉が少々不自由で。まだきちんとこちらの言葉を話せないのです。ご不便をおかけしますが、ご容赦いただきますよう。聞き取りはある程度できますので」
「話せない、か。では明琳姫が先程から話しているのは、あちらの言葉ということか」
そうですね、と明韻は頷く。明琳は自分の名が出るたびに陽王や明韻の顔を見、そして時々、倒れ込んだままの彼を案じるように視線を送った。
(馬鹿な。そんなことが)
(その藍色の瞳が。その顔が。明琳、だと。そんな。では、これは)
(これは、何の茶番だ!!)
「周藍。いい加減身を起こせ。未来の妻の前だろう」
陽王の言葉に、彼はのろのろと身を起こし、立ち上がった。
「言いたいことはあるだろうがな。以前も言っただろう。私は、仕方なくこうするのだと。進んでするのではないと。わかったな? 夏国からの客人に失礼があってはいけない。
‥明琳姫に何か言うことはあるか?」
陽王に促され、彼は明琳を見た。
何度見ても、その顔かたちは、彼の記憶にある通りだった。懐かしく、愛おしく、狂おしいばかりの娘と同じ。だが目の前で小さく首を傾げて微笑する娘は、彼のそんな思いなどまるで素知らぬように、まるで過去の出来事など忘れてしまったかのように、彼を初めて見る別人であるかのように、無邪気ににこにこと微笑みかけ、希望の詰まった瞳で未来の夫を見つめていた。
(演技なのか。本当なのか。これは本当に別人なのか)
(私の目がおかしいのか。いや。茶番。‥茶番か。それは一体、何のための)
(明琳だと。妻だと。‥そんな訳がない。それなのに)
(それなら、それで。あくまでも、これが明琳だというのなら)
「‥このような場をお目にかけて申し訳なかった。明琳、殿。不肖の身ながら、妻としてお迎えさせていただく」
陽王が、宰相松宣が、夏国王子明韻が、彼を見ている。その中で、彼は言った。一斉の感情を廃したように
平坦な声は、かえって彼の怒りを表していた。それを感じ取り、終始にこやかだった明琳がわずかにその微笑を強張らせる。
彼の心中に、暗い、黒き炎が灯った。